アムネジア戦線

中七七三

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02.記憶を喪いし者

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「手帳だと……」
 
 都々木中尉は、一人呟く。
 その傷が作り出した直線的な文字を見た。
 鋭い刃物で皮膚を浅く切り、墨のようなものを傷口に流し込んだのかもしれない。
 雑な彫り物といっていいような代物だった。
 
(自分がやったのか?)
 
 記憶が無い。
 この傷文字を書いたのは自分であるのか、それとも他人であるのかその筆跡では判定できない。

 都々木中尉は己が記憶に明確な疑念を抱いた。
 反射的に装備品を確認する。

 三八式歩兵銃はある。
 銃弾もあった。
 他に持っているのは――
 自分の身の回りを探る。背嚢があった。
 将校が所持するはずの拳銃や軍刀などはない。
 そもそも、持っていたのか、失ったのかすら分からないのであるが。
 
(手帳は……)
 
 彼は軍服を探った。胸の内ポケットに硬質な何かがあった。
 軍人手帳だった。彼はそれを取り出した。
 帝国陸軍に所属する者であれば、必ず所有するものだ。
 中には所属部隊や、経歴、階級、氏名などが書かれているはずだ。
 
 都々木中尉は表紙をめくった。
 頁の上隅が折られているのに気づいたが、まず順番にめくった。
 
「部隊名は…… 知らん」
 
 所属情報の書かれている頁を確認した。
 夜光以外の光の無い世界で、中尉は必死に目を凝らした。
 部隊名以外は、自分の記憶と違いは無い。
 都々木永司は、師範学校を卒業し、小学校教諭となった。
 予備士官学校を経て少尉として任官、大陸で中尉に昇進している。
 
(自分の手帳であることは間違いなさそうだ)
 
 中尉はそのことを確認し終えると、頁をめくる。
 
(ん? 数字? なんだ…… あ、日付か?)
 
 その頁には日付らしき数字が連続で並んでいた。
 ところどころ、日付に丸がついている。
 意味は分からない。考えても分かりそうに無い。
 中尉はその頁をざっと見て、先の頁をめくる。
 
 手帳の上隅の角が小さく折られているところ。その最初の頁を爪先で開く。
 
『【極秘】陸軍中尉・都々木永司は私である。発作が起こると捷和十五年以降の記憶が消える』
 
(なんだ?)
 
 都々木中尉は、その文章をジッと見つめる。真っ赤な文字で大きく書かれている。
 鼓動が早くなる。天地が入れ替わったかのように平衡感覚が揺らぐ。
 視界がぐにゃりと歪んでくる。息を止め、音が響くほどに唾を飲み込んでいた。
 その頁にはそれだけが書かれていた。
 
(どういうことだ?)
 
 中尉は慌てて、頁をめくった。
 
 『現在は捷和十九年。日付は二頁から記載。最新日が最後尾。場所はフィリピン・レイテ島』
 
 捷和十九年の部分は横に十六年、十七年、十八年が×で記されている。
 年が変わる度に書き換えていたのだろうか?
 
(今は捷和十九年だと?)
 
 それは都々木中尉の記憶より四年は未来のことであった。
 
(ここがフィリピンだというのか?)
 
 中尉は自分の世界の底が抜け、奈落へと落下している気分となる。
 
(なぜだ?)
 
 都々木中尉は混乱する。自分はシナ大陸にいたはずだと。
 生々しい国民党政府軍との戦闘の記憶がよみがえる。
 ライセンス生産されたストーグプラン社の「八一ミリ迫撃砲」の炸裂音がまだ耳元で生々しく響いている気がしている。
 チェッコ機銃の軽快な音――
 巻き上がる戦塵――
 国民党軍の銅鑼の音、兵たちの叫び声――
 
 都々木中尉は自分の記憶の欠損を意識できない。
 しかし、記憶が無い事を意識しようとすること自体が無理だった。
 無いものを意識することなどできない。
 であれば、今は捷和十九年であり、ここはフィリピンなのか。
 
 都々木中尉は震える指先で、頁をめくった。何が書いてあるのか、恐ろしくなってくる。
 しかし、めくらずにはいられない。確認せずにはいられない。
 
『捷和十六年十二月八日、日米開戦。捷和十九年八月、フィリピン決戦』
 
 都々木中尉を口元を押さえた。反射的にうめき声が出るのを押さえたのだ。
 それは、想定していたことではあった。
 大陸での事変が、日米の緊張を招いていたのは記憶にある事実だ。
 しかし、実際に戦争になるとは思ってはいなかった。
 
 国力差が二十倍ともいわれるアメリカと戦争をして勝てるのか?
 無謀な戦争ではないのか?
 それこそ、自分の教え子である小学生でも、高学年なら答えが出てきそうな話だ。
 すくなくとも、そんな戦争は誰も望んでいなかった――
 そして、都々木中尉は自分にとって、重大なことに気づく。
 
(となれば、ここはやはり戦場か……)
 
 彼は三八式歩兵銃をすばやく構えた。照準の凹に夜の闇を重ねる。
 闇は遠近感を失い、べっとりとした漆黒を網膜に貼り付ける。
 銃口を旋回させ、周囲を見るが何かを発見できることはなかった。
 ただ、虫の音だけが響く。
 
(何をやっているんだ俺は)
 
 都々木中尉は呼吸を整え、再び手帳を手に取る。
 折り目のついた頁を開き、先の頁を確認した。
 とにかく現状に関する情報材が欲しかった。
 中途半端な情報材を得たことで、謎は更に多くなっている。
 
 なぜ、自分は記憶を失っているのか。発作とは?
 なぜ、自分のような者がなぜ戦場にいるのか?
 なぜ、単独行動をしているのか?
 
 謎が頭の中を回転し続ける。
 彼は頁を見やる。ジッと目を凝らし文字を読む。
 
『私は陸軍より逃亡中である』
 
 後頭部を鈍器で叩かれたような衝撃だ。
 脱走兵――
 銃殺――
 非国民――
 戦場において、最悪の状況であると思ったが、状況は更に最悪であった。
 
 記憶を失った都々木中尉は陸軍から逃亡中であった。
 まだ、理由は不明だった。
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