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17.若き北斎の勝負
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「まあ、まだ若けぇときの話さぁ―― しかし、よぉ、最初は怖じ気が走ったぜぇ」
「五〇〇年? 鬼狂様は、五〇〇年以上生きているというのですか?」
不栗万之助は、師匠である北斎の言葉を反芻するかのような問いを投げかけた。
「ああ、そう本人は言ってたぜ」
北斎はそう言ってポリポリと薄くなっている頭をかいた。
自分で口にしつつも、それについては「信じようが信じまいがどうでもいい」といった口調だ。
「そうですか……」
あの妖しく美麗な童女の姿をした鬼狂だ。
もし彼女が五〇〇年というのであれば、それはそうなのであろうと思うしかなかった。
万之介は黙って師匠の言葉を待った。
「そこで画を描いた」
北斎が口を開く。ポツリとこぼれるような言葉だ。
「画を…… ですか。師匠が」
「ああ、鬼狂を描いたんだよ。この俺がよ――」
北斎の言葉は時を遡る。
鬼狂との出会い、あの廃寺の中に戻っていくのであった。
◇◇◇◇◇◇
「ふむ、絵師か……」
北斎の前に立った童女。
童女を形容するに「妖艶」という言葉で表すのはどうなのか?
言葉は不便だ―― 北斎は思う。
ただ、その童女はただの童女ではなかったのだ。
長く黒い下し髪をした童女はスッと目を細め北斎を見やる。
美しい顔――
あまりにも美しすぎるのだ北斎は背中に寒気すら感じていた。
「五〇〇年も、ここで封印されてるってぇ? オメェさん、なんだい? 化外、妖怪の類なのかい?」
北斎の言葉に、鬼狂は「ふむ」と考え込むように細い顎に手を当てた。
埃まみれで汚れきった廃寺の中で、その手がやけに白く見えたのを北斎は憶えている。
「はて、何と説明すればよいかのぉ~ 『鬼』じゃろうな―― おそらくは」
「鬼? アンタ『鬼』かい?」
「その言葉がワラワに一番近いということじゃ」
北斎はジッと鬼狂を見つめた。
己が眸子に映る姿と「鬼」という言葉を頭の中ですり合わせていたのだ。
そこに怖れが無かったかといえば、嘘になる。
しかし、それよりも興味が優った。
鬼狂は北斎の頭の中にある鬼というモノの形とは全く違っていた。
この女が己を「鬼」と言ったこと疑う気は微塵もなかった。
要するに「化外」の物であり「妖怪」の類であると北斎は思う。
北斎は怖れながらも「面白い」と思っていたのだった。
「それを聞いて逃げぬのじゃな」
「逃げれば、見逃してくれるのかい?」
北斎の言いように、鬼狂は笑みを浮かべた。
「人を捕え喰らおうとは思わぬよ」
「そうかい。そりゃ、ありがてぇな。ひひひひ」
鬼狂は起こりもみせず、スッと歩み出した。
下卑た笑みを顔に貼り付けた北斎の前を通り過ぎた。
そして、北斎が入ってきた方へ歩いて行った。
北斎のその後をついて行った。
「ワラワは出られぬのじゃ。ここからは」
鬼狂は立ち止まると、振り向きそこに、北斎がいるのが当然という感じで話しかけた。
「出られない?」
「封印じゃ―― 真言の封印、何重にも仕掛けておるわ。法越めが……」
スッと鬼狂が開いている戸口に手を伸ばした。
その瞬間だった、その場に火花が飛び散り、雷槌のような音が響いた。
戸口に向かって差し出した鬼狂の手が、背中の方へと弾かれていた。
人の関節ではあり得ないような曲がりようで肩から先が背中を向いていた。
「骨が折れた―― ふむ…… やはり無理じゃ」
そう言って、鬼狂は片方の腕で、もう一方の手をゴリゴリと元の位置に戻していく。
北斎は言葉を失いその様子を見ているだけだった。
「まあ、そういうことじゃ。帰るなら帰ってよいのじゃが……」
北斎はここから出る気でいた。
すでに目的の画を見た。そして、化外の鬼とも出会えた。
中々、出来る経験ではないだろうということは北斎にも分かっていた。
「鉄蔵とゆぅたか」
「ああ、そうだが」
「絵師とゆぅたな」
「ああ、絵師だ」
北斎はそう言うと鬼狂の次の言葉を待った。
しかし、鬼狂は何も言わなかった。
「まあ―― よいか…… 去ね。用は済んだであろう」
北斎は立ち止まり、出ていくのを止めていた。
そのような言い方をされては、出て行けるものではなかったのだ。
「絵師だとなんだってんだい?」
北斎はねめつける様な視線で鬼狂を見た。
相手が化外であるとか、鬼であるなど関係なかった。
絵師であること――
まるで、それを認めぬような口ぶり、鬼狂の言葉の中にあった「挑発」の匂いに北斎は敏感に反応していのだ。
「気にせずともよいのじゃ」
「気にしねぇわけにゃぁいかねぇぜ。おい」
外の陽光が流れ込む場で、ふたりは無言で対峙していた。
最初に口を開いたのは鬼狂だった。
「ワラワを描けるか?」
「はぁ?」
唐突な問い。
北斎は、その理由を聞くことも忘れ、鬼狂の姿を見つめる。
その脳裏に妖しく美麗な姿を焼き付けていく。絵筆などなくとも、頭の中で画を創ること難しくはない。
しかし――
描くうちにその姿が揺らいでいるかのような感覚に陥る。
童女の姿見をしているが、童女ではない。
人の姿をしているが人ではない。
まるで、幾つもの存在、姿が同時に重なり合い、揺らいでいるかのような感覚だ。
「ぬぅ――」
北斎は肺の腑から絞り出すような声を上げていた。
そして、気が付くと額に流れるような汗をかいていた。目に汗が流れ込んでくる。
それは、決して暑さのためだけではなかった。
「無理をゆぅて悪かったの」
そんな北斎の様子を見て、鬼狂はため息をつくように言った。
「待てよ…… 描けねェとは言ってねぇぜ」
北斎の口からその言葉が出た。
なぜ鬼狂が己の姿見を画けといったのか。その理由などどうでもよくなっていた。
この化外の女―― 鬼か――
それを描いてみたいと北斎は思ったのだ。
「ほう――」
感心したような声を鬼狂があげた。
「紙がねェ―― 道具も大したものを持ってきているわけじゃねぇ」
北斎は言った。画帳があるし、筆もある。
しかし、それだけでは足らないのだ。
今持っているものでは鬼狂を描き切れるものではない。
北斎はそう思った。
「また来る」
北斎はそう言って、その廃寺を出たのだった。
◇◇◇◇◇◇
「それで師匠は」
「戻ったよ。道具を人揃えと、紙をしこたま持ってよ」
北斎は、ふっと視線を万之介から外した。
その視線がどこか遠くを見ているかのようであった。
「でもよ―― 描けねぇんだよ。いいかい? 頭で描いちまえば、後は指が勝手に動く、画ってのはそう言うもんだと思っていた」
北斎はサラリと言ってのけたが、万之介はまだその境地にすら達していない。
「戻ってから、宿でよ、何度も描いたが、ダメだったぜ。頭の中の画が揺らぎやがるんだ。まるで、揺らいだ湖面に映った仮の姿を見てるようだったぜ」
北斎の言わんとしていること。
それが万之介にも分かる様な気がした。
あの鬼狂の姿だ――
万之介も鬼狂を想い、その画を描いたことが無いではない。
しかし、画けなかった。
どうにも思い描くその姿がひとつのところに留まらないのだ。
童女の姿でありながら、この上なく妖艶な女に思える――
いや、やはり童女の姿であることは間違いないのだと、思い直す。
その繰り返しだ。
画にする以前の問題として、描きはじめるということができないのだ。
それは単に己の技量の問題であると万之介は思っていたのだ。
しかし、それは己よりも数段上の技量を持つ若き日の北斎にしても同じであった。
「しかし、描いたのですか? 師匠は」
「ああ、描いたよ」
北斎はあっさりと言った。
そして、言葉を更に続けた。
「あの、廃寺で飲まず食わず、何日描き続けたか―― 分からねェがよ。とにかく描いたよ。俺りゃ、描いたんだよ」
北斎は再びその視線を万之介に向けた。
ほの暗い闇の底から、刃のような眼光で万之介を見つめるのであった。
◇◇◇◇◇◇
「どうだい? これでよぉ」
北斎は描き上げた画を鬼狂に示した。
「鉄蔵の目には、ワラワはこう見えるか――」
鬼狂はジッと画を見つめ「ほう」と感心したような声を上げていた。
それは、普通の人間が見たら何を書いてあるのか分からないモノであっただろう。
複数の視点を統合し、ひとつの画にするという技術――
六〇年以上未来に開発される「キュビスム」という画法に似ているがそれとも違っていた。
視点という空間の中に位置だけではなく、それ以外の尺度、時間――
それさえも内包し、一枚の紙の中に叩き込んだようなものだった。
鬼狂という存在――
北斎が感じ、その心で捉えた現身を、筆によりそこで再現していたのだった。
「鬼狂よぉ」
落ち窪んだどす黒い色に包まれた眼を北斎は鬼狂に向けた。
その身は窶れ「どちらが鬼か?」と問われれば、問われたモノの全てが「北斎が鬼だ」と言うだろう。
幽鬼のような姿となり、北斎はその画を描き上げていたのだった。
「その画、どうするんだい?」
その北斎が鬼狂に初めて問うたのだ。
鬼狂が己の現身を描けといった意味について、初めて問うた。
「勝負じゃ」
「勝負?」
「あの、画と、鉄蔵―― ヌシの画との勝負じゃ」
鬼狂は、呪詛によりこの廃寺に封印されている。
そして、その呪詛の元になっているのが、あの奥に掛けられた絵だった。
鬼を喰らう女の画――
そして、その周囲で髑髏の器で宴を行う者たち。
そのような画だ。
見るだけで魂を吸い取られてしまいかねないような絵だった。
「あの絵が呪詛……」
北斎は呻くように言った。
「そうじゃ、もしヌシの画が、あの呪詛の画を騙せるなら―― ワラワはここから出られるのじゃがな」
さほど期待をしているというような風では無く鬼狂は言った。
「おい? どういうことだ」
「この画を呪詛の画がワラワと勘違いすれば、呪詛はこの画に向かうだろうよ」
「ああ?」
「ワラワの存在、その本質までここの中に有るならば、呪詛の方向が曲がるやもれぬの――」
「俺の画が、本物なら、呪詛がそっち向かうってことかい?」
「まあ、そう言う言い方もできるか……」
鬼狂は北斎を首肯した。
ただ、北斎にとってそれは「生死を賭けた試しを今からやる」と言われたも同然だった。
「さて、行くか―― ワラワが出られれば、鉄蔵の勝ちじゃな」
そう言って、鬼狂は開いた戸口に向かって行った。
「待てよ! 鬼狂! おい! てめぇ! 最初に何で言わねェ!」
北斎は叫んでいた。そして鬼狂の後を追う。
廃寺の腐った床板を避けながらだった。
鬼狂の方は、そんなことは関係ないかのように滑る様に歩んでいく。
「鉄蔵よ、最初にゆぅたら、勝負せなんだか?」
「なんだと…… くそ!!」
「まあ、ワラワがここを出れずとも、オヌシの身がどうこうなることはなかろう」
鬼狂は戸口の前で立ち止まると、北斎を待ち、そう言ったのだった。
北斎にとっては、そのようなことは慮外であった。
己の身を案じてのことではない、絵師としての「生死」の問題だった。
「なあ、よぉ―― 鬼狂」
北斎の声で、鬼狂が寸前で立ち止まった。
「なんじゃ」
「ダメなら、もう一回描くぜ―― いいか、勝つまで描くぜぇ――」
「ふふ、頼もしい絵師じゃ」
鬼狂はスッと投げるようにその身を外に躍らせたのだった。
そして、トンと地を足で踏む。
クルリと身をひるがえし、戸口で呆けたように鬼狂を見つめている北斎を見やった。
「ほう…… やるのぉ、鉄蔵。オヌシの勝ちじゃ」
勝った――
その日、若き日の北斎は呪詛に勝利したのだった。
◇◇◇◇◇◇
「それからよ、俺と鬼狂の付き合いは――」
鬼に憑かれた女のさねを吸って、鬼を祓う。
祓われた鬼は女の淫道から這い出ててくるのだ。
そして、鬼狂はそれを喰らう。
「鬼狂様が鬼を喰らうのは――」
「ああ、見たぜ―― ま、俺はもう無垢じゃなかったからよぉ、鬼狂のさねを吸ったことはねぇがな。ひひひひひひ」
万之介が鬼狂と仕事をする前は、適当にそこらの男で無垢(童貞)の者を雇い、仕事をやらせたらしい。
しかし、あの様な現場の中で、さねを吸い、舐ることが出来る者などそうそういなかったのだ。
その場合、鬼狂自身が、己が身体の中で「淫鬼」を浄化せねばならなかった。
「鬼狂も、助かっているんだろう―― さねを吸われ、舐られねぇと、喰らった淫鬼に当てられて、しばらくは動けなくなるらしいからな」
「それは、聞いております」
万之介は言った。
あの鬼祓いを見た後に、鬼狂の最上の慕々を開き、さねを舐り、吸う――
それが出来るのは己でだけであるだと思った。
「でよ―― 会ったのかい?」
北斎は不意に問うてきた。
「会った?」
「鬼狂の敵―― 鬼狂を封印した者―― 鬼狂をこの現世に呼びだした者だよ―― そいつに会ったのかいって訊いているのさ」
万之介は口をむすんだまま、師匠である北斎を見つめていた。
北斎は言う者に万之介は出会っていた。
育った淫鬼が、女剣士の身を破り、この世にあり得ぬ者を転生させていたこと。
そして、それを成した者が、鬼狂の敵であること。
万之介は知っていた。
「法越――」
ぽつりと北斎が言った。
「会っています」
万之介は師匠の言葉に応えていた。
「五〇〇年? 鬼狂様は、五〇〇年以上生きているというのですか?」
不栗万之助は、師匠である北斎の言葉を反芻するかのような問いを投げかけた。
「ああ、そう本人は言ってたぜ」
北斎はそう言ってポリポリと薄くなっている頭をかいた。
自分で口にしつつも、それについては「信じようが信じまいがどうでもいい」といった口調だ。
「そうですか……」
あの妖しく美麗な童女の姿をした鬼狂だ。
もし彼女が五〇〇年というのであれば、それはそうなのであろうと思うしかなかった。
万之介は黙って師匠の言葉を待った。
「そこで画を描いた」
北斎が口を開く。ポツリとこぼれるような言葉だ。
「画を…… ですか。師匠が」
「ああ、鬼狂を描いたんだよ。この俺がよ――」
北斎の言葉は時を遡る。
鬼狂との出会い、あの廃寺の中に戻っていくのであった。
◇◇◇◇◇◇
「ふむ、絵師か……」
北斎の前に立った童女。
童女を形容するに「妖艶」という言葉で表すのはどうなのか?
言葉は不便だ―― 北斎は思う。
ただ、その童女はただの童女ではなかったのだ。
長く黒い下し髪をした童女はスッと目を細め北斎を見やる。
美しい顔――
あまりにも美しすぎるのだ北斎は背中に寒気すら感じていた。
「五〇〇年も、ここで封印されてるってぇ? オメェさん、なんだい? 化外、妖怪の類なのかい?」
北斎の言葉に、鬼狂は「ふむ」と考え込むように細い顎に手を当てた。
埃まみれで汚れきった廃寺の中で、その手がやけに白く見えたのを北斎は憶えている。
「はて、何と説明すればよいかのぉ~ 『鬼』じゃろうな―― おそらくは」
「鬼? アンタ『鬼』かい?」
「その言葉がワラワに一番近いということじゃ」
北斎はジッと鬼狂を見つめた。
己が眸子に映る姿と「鬼」という言葉を頭の中ですり合わせていたのだ。
そこに怖れが無かったかといえば、嘘になる。
しかし、それよりも興味が優った。
鬼狂は北斎の頭の中にある鬼というモノの形とは全く違っていた。
この女が己を「鬼」と言ったこと疑う気は微塵もなかった。
要するに「化外」の物であり「妖怪」の類であると北斎は思う。
北斎は怖れながらも「面白い」と思っていたのだった。
「それを聞いて逃げぬのじゃな」
「逃げれば、見逃してくれるのかい?」
北斎の言いように、鬼狂は笑みを浮かべた。
「人を捕え喰らおうとは思わぬよ」
「そうかい。そりゃ、ありがてぇな。ひひひひ」
鬼狂は起こりもみせず、スッと歩み出した。
下卑た笑みを顔に貼り付けた北斎の前を通り過ぎた。
そして、北斎が入ってきた方へ歩いて行った。
北斎のその後をついて行った。
「ワラワは出られぬのじゃ。ここからは」
鬼狂は立ち止まると、振り向きそこに、北斎がいるのが当然という感じで話しかけた。
「出られない?」
「封印じゃ―― 真言の封印、何重にも仕掛けておるわ。法越めが……」
スッと鬼狂が開いている戸口に手を伸ばした。
その瞬間だった、その場に火花が飛び散り、雷槌のような音が響いた。
戸口に向かって差し出した鬼狂の手が、背中の方へと弾かれていた。
人の関節ではあり得ないような曲がりようで肩から先が背中を向いていた。
「骨が折れた―― ふむ…… やはり無理じゃ」
そう言って、鬼狂は片方の腕で、もう一方の手をゴリゴリと元の位置に戻していく。
北斎は言葉を失いその様子を見ているだけだった。
「まあ、そういうことじゃ。帰るなら帰ってよいのじゃが……」
北斎はここから出る気でいた。
すでに目的の画を見た。そして、化外の鬼とも出会えた。
中々、出来る経験ではないだろうということは北斎にも分かっていた。
「鉄蔵とゆぅたか」
「ああ、そうだが」
「絵師とゆぅたな」
「ああ、絵師だ」
北斎はそう言うと鬼狂の次の言葉を待った。
しかし、鬼狂は何も言わなかった。
「まあ―― よいか…… 去ね。用は済んだであろう」
北斎は立ち止まり、出ていくのを止めていた。
そのような言い方をされては、出て行けるものではなかったのだ。
「絵師だとなんだってんだい?」
北斎はねめつける様な視線で鬼狂を見た。
相手が化外であるとか、鬼であるなど関係なかった。
絵師であること――
まるで、それを認めぬような口ぶり、鬼狂の言葉の中にあった「挑発」の匂いに北斎は敏感に反応していのだ。
「気にせずともよいのじゃ」
「気にしねぇわけにゃぁいかねぇぜ。おい」
外の陽光が流れ込む場で、ふたりは無言で対峙していた。
最初に口を開いたのは鬼狂だった。
「ワラワを描けるか?」
「はぁ?」
唐突な問い。
北斎は、その理由を聞くことも忘れ、鬼狂の姿を見つめる。
その脳裏に妖しく美麗な姿を焼き付けていく。絵筆などなくとも、頭の中で画を創ること難しくはない。
しかし――
描くうちにその姿が揺らいでいるかのような感覚に陥る。
童女の姿見をしているが、童女ではない。
人の姿をしているが人ではない。
まるで、幾つもの存在、姿が同時に重なり合い、揺らいでいるかのような感覚だ。
「ぬぅ――」
北斎は肺の腑から絞り出すような声を上げていた。
そして、気が付くと額に流れるような汗をかいていた。目に汗が流れ込んでくる。
それは、決して暑さのためだけではなかった。
「無理をゆぅて悪かったの」
そんな北斎の様子を見て、鬼狂はため息をつくように言った。
「待てよ…… 描けねェとは言ってねぇぜ」
北斎の口からその言葉が出た。
なぜ鬼狂が己の姿見を画けといったのか。その理由などどうでもよくなっていた。
この化外の女―― 鬼か――
それを描いてみたいと北斎は思ったのだ。
「ほう――」
感心したような声を鬼狂があげた。
「紙がねェ―― 道具も大したものを持ってきているわけじゃねぇ」
北斎は言った。画帳があるし、筆もある。
しかし、それだけでは足らないのだ。
今持っているものでは鬼狂を描き切れるものではない。
北斎はそう思った。
「また来る」
北斎はそう言って、その廃寺を出たのだった。
◇◇◇◇◇◇
「それで師匠は」
「戻ったよ。道具を人揃えと、紙をしこたま持ってよ」
北斎は、ふっと視線を万之介から外した。
その視線がどこか遠くを見ているかのようであった。
「でもよ―― 描けねぇんだよ。いいかい? 頭で描いちまえば、後は指が勝手に動く、画ってのはそう言うもんだと思っていた」
北斎はサラリと言ってのけたが、万之介はまだその境地にすら達していない。
「戻ってから、宿でよ、何度も描いたが、ダメだったぜ。頭の中の画が揺らぎやがるんだ。まるで、揺らいだ湖面に映った仮の姿を見てるようだったぜ」
北斎の言わんとしていること。
それが万之介にも分かる様な気がした。
あの鬼狂の姿だ――
万之介も鬼狂を想い、その画を描いたことが無いではない。
しかし、画けなかった。
どうにも思い描くその姿がひとつのところに留まらないのだ。
童女の姿でありながら、この上なく妖艶な女に思える――
いや、やはり童女の姿であることは間違いないのだと、思い直す。
その繰り返しだ。
画にする以前の問題として、描きはじめるということができないのだ。
それは単に己の技量の問題であると万之介は思っていたのだ。
しかし、それは己よりも数段上の技量を持つ若き日の北斎にしても同じであった。
「しかし、描いたのですか? 師匠は」
「ああ、描いたよ」
北斎はあっさりと言った。
そして、言葉を更に続けた。
「あの、廃寺で飲まず食わず、何日描き続けたか―― 分からねェがよ。とにかく描いたよ。俺りゃ、描いたんだよ」
北斎は再びその視線を万之介に向けた。
ほの暗い闇の底から、刃のような眼光で万之介を見つめるのであった。
◇◇◇◇◇◇
「どうだい? これでよぉ」
北斎は描き上げた画を鬼狂に示した。
「鉄蔵の目には、ワラワはこう見えるか――」
鬼狂はジッと画を見つめ「ほう」と感心したような声を上げていた。
それは、普通の人間が見たら何を書いてあるのか分からないモノであっただろう。
複数の視点を統合し、ひとつの画にするという技術――
六〇年以上未来に開発される「キュビスム」という画法に似ているがそれとも違っていた。
視点という空間の中に位置だけではなく、それ以外の尺度、時間――
それさえも内包し、一枚の紙の中に叩き込んだようなものだった。
鬼狂という存在――
北斎が感じ、その心で捉えた現身を、筆によりそこで再現していたのだった。
「鬼狂よぉ」
落ち窪んだどす黒い色に包まれた眼を北斎は鬼狂に向けた。
その身は窶れ「どちらが鬼か?」と問われれば、問われたモノの全てが「北斎が鬼だ」と言うだろう。
幽鬼のような姿となり、北斎はその画を描き上げていたのだった。
「その画、どうするんだい?」
その北斎が鬼狂に初めて問うたのだ。
鬼狂が己の現身を描けといった意味について、初めて問うた。
「勝負じゃ」
「勝負?」
「あの、画と、鉄蔵―― ヌシの画との勝負じゃ」
鬼狂は、呪詛によりこの廃寺に封印されている。
そして、その呪詛の元になっているのが、あの奥に掛けられた絵だった。
鬼を喰らう女の画――
そして、その周囲で髑髏の器で宴を行う者たち。
そのような画だ。
見るだけで魂を吸い取られてしまいかねないような絵だった。
「あの絵が呪詛……」
北斎は呻くように言った。
「そうじゃ、もしヌシの画が、あの呪詛の画を騙せるなら―― ワラワはここから出られるのじゃがな」
さほど期待をしているというような風では無く鬼狂は言った。
「おい? どういうことだ」
「この画を呪詛の画がワラワと勘違いすれば、呪詛はこの画に向かうだろうよ」
「ああ?」
「ワラワの存在、その本質までここの中に有るならば、呪詛の方向が曲がるやもれぬの――」
「俺の画が、本物なら、呪詛がそっち向かうってことかい?」
「まあ、そう言う言い方もできるか……」
鬼狂は北斎を首肯した。
ただ、北斎にとってそれは「生死を賭けた試しを今からやる」と言われたも同然だった。
「さて、行くか―― ワラワが出られれば、鉄蔵の勝ちじゃな」
そう言って、鬼狂は開いた戸口に向かって行った。
「待てよ! 鬼狂! おい! てめぇ! 最初に何で言わねェ!」
北斎は叫んでいた。そして鬼狂の後を追う。
廃寺の腐った床板を避けながらだった。
鬼狂の方は、そんなことは関係ないかのように滑る様に歩んでいく。
「鉄蔵よ、最初にゆぅたら、勝負せなんだか?」
「なんだと…… くそ!!」
「まあ、ワラワがここを出れずとも、オヌシの身がどうこうなることはなかろう」
鬼狂は戸口の前で立ち止まると、北斎を待ち、そう言ったのだった。
北斎にとっては、そのようなことは慮外であった。
己の身を案じてのことではない、絵師としての「生死」の問題だった。
「なあ、よぉ―― 鬼狂」
北斎の声で、鬼狂が寸前で立ち止まった。
「なんじゃ」
「ダメなら、もう一回描くぜ―― いいか、勝つまで描くぜぇ――」
「ふふ、頼もしい絵師じゃ」
鬼狂はスッと投げるようにその身を外に躍らせたのだった。
そして、トンと地を足で踏む。
クルリと身をひるがえし、戸口で呆けたように鬼狂を見つめている北斎を見やった。
「ほう…… やるのぉ、鉄蔵。オヌシの勝ちじゃ」
勝った――
その日、若き日の北斎は呪詛に勝利したのだった。
◇◇◇◇◇◇
「それからよ、俺と鬼狂の付き合いは――」
鬼に憑かれた女のさねを吸って、鬼を祓う。
祓われた鬼は女の淫道から這い出ててくるのだ。
そして、鬼狂はそれを喰らう。
「鬼狂様が鬼を喰らうのは――」
「ああ、見たぜ―― ま、俺はもう無垢じゃなかったからよぉ、鬼狂のさねを吸ったことはねぇがな。ひひひひひひ」
万之介が鬼狂と仕事をする前は、適当にそこらの男で無垢(童貞)の者を雇い、仕事をやらせたらしい。
しかし、あの様な現場の中で、さねを吸い、舐ることが出来る者などそうそういなかったのだ。
その場合、鬼狂自身が、己が身体の中で「淫鬼」を浄化せねばならなかった。
「鬼狂も、助かっているんだろう―― さねを吸われ、舐られねぇと、喰らった淫鬼に当てられて、しばらくは動けなくなるらしいからな」
「それは、聞いております」
万之介は言った。
あの鬼祓いを見た後に、鬼狂の最上の慕々を開き、さねを舐り、吸う――
それが出来るのは己でだけであるだと思った。
「でよ―― 会ったのかい?」
北斎は不意に問うてきた。
「会った?」
「鬼狂の敵―― 鬼狂を封印した者―― 鬼狂をこの現世に呼びだした者だよ―― そいつに会ったのかいって訊いているのさ」
万之介は口をむすんだまま、師匠である北斎を見つめていた。
北斎は言う者に万之介は出会っていた。
育った淫鬼が、女剣士の身を破り、この世にあり得ぬ者を転生させていたこと。
そして、それを成した者が、鬼狂の敵であること。
万之介は知っていた。
「法越――」
ぽつりと北斎が言った。
「会っています」
万之介は師匠の言葉に応えていた。
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