12 / 20
12.お栄の情夫
しおりを挟む
お栄は黄表紙を閉じた。
「なんだぁぁぁ!! こりゃぁッ!」
黄表紙を持った太く黒い右腕を振りかぶりそのまま叩きつけた。
ヒグマのような腕だ。
黄表紙は埃を舞い上げ、反故紙と画のために切り捨てられた生活残滓の中に沈んだ。
細く吊り上がった双眸が、異様に光っていた。
「お栄さん――」
万之介はびっくりして声をかけた。
もう少しその画を見ていたかったのだ。
確かに、本そのものの出来は良くない。
画も彫や刷が雑なため、本来の魅力を出していない気がした。
ただ、この原画自体は相当な絵師が書いたのではないかと持ったのだ。
真っ先に思ったのは師匠の北斎の画だった。
画風が似ているというわけではない。
その画の根本的な部分、書き手の心もち、気構え――
万之介は言葉を上手くひねりだせなかった。
「魂――」
ふっと浮かんだその言葉が口に出ていた。
「おい、てめぇらぁッ、ちょっと出てろっ―― 四半刻かそこらでいい……」
ふぅふぅふぅと荒い息を肩でしながら、お栄は言った。
万之介とさほど変わらぬ高さに目玉がある。大女だ。
細い双眸の中の眼球がゾロリと動き、その場にいる他の三人を舐めるように見ていく。
「未通女でもあるまいによ―― 当てられたか?」
鬼狂はそう言うと、ゆるゆると動いた。
気だるさと優雅さを見せる動作で、黄表紙を拾い上げた。
「当てられた?」
「まあ、害はないのじゃが……」
鬼狂はそう言うと、黄表紙を懐に仕舞った。
そして「では行くか」と言って歩を進めた。
「なんでぇ? 鬼狂よ―― 俺の家だぜ」
「うるせぇ!! オレだって銭は払ってんだろぉ! いいからイケ…… 鉄じじィ! ぐぅぅぅ――」
そう言うと、お栄は真っ黒い石のような拳を振り上げた。
「ダァァ――ッ」
雄叫び。いや雌叫びをあげるお栄。
「アゴぉぉ、て、てめぇ――」
「だっしゃ―ぁぁッ!!」
アゴを突きだし、お栄が叫んだ。
ブンと風を斬る音が響いた。
そして、重い音が長屋を揺らした。
お栄が己の拳を己の帯の下―― 下っ腹のあたりに叩き込んでいたのだ。
拳が腹にグイッとめり込むような一撃だ。
「ぐ、ぎぎぎぎぎぎ、キカネェ、子袋への一撃―― これでもダメかよ…… おい、出ていくしかねぇぞぉ」
地の底で、泥を沸騰させたような声で、お栄は言ったのだ。
「おいッ! 鬼狂、テメェ、その画――」
己の娘のあまりの変化に、北斎は鬼狂を問いただした。
「害はない―― どうだ、お栄よ。ワラワがやるか?」
「いるか! クソ!」
「では、万之介は?」
「テメェでやるんだよ! だから、出てけって言(ゆ)ってんだぁぁ!」
北斎はそのやり取りを聞き「ひひひひひ」と笑いだした。
「そうかい―― てめぇ、出戻りのくせによぉ―― ひひひひひひ」
「うるせぇ、鉄じじィ!」
「ま、四半刻で、始末つけろよ」
「ぐぐぐいぐぐぐぐぐ、イイから行きやがれ!」
北斎と鬼狂は踵を返し、外に向かう。
万之介も今一つ事情が呑み込めぬが、ふたりの後を追った。
戸のところで、北斎が振り返った。
「よぉ、アゴぉ、オメェの『ワ印』に何が足らねェかよく考えてやれよ。ぎひひひひひ」
「バカ野郎ぉぉぉ!! 死にやがれ!」
ブンッと唸りを上げて水飲み用の碗が吹っ飛んできた。
そのまま、戸口近くの積載物の中にめり込んだ。
◇◇◇◇◇◇
「蕎麦でも食うか」
北斎が言った。
彼は蕎麦が大好物だった。
浅草界隈には屋台だけでなく、店として開業している蕎麦屋もあった。
そこでは、酒なども提供する、居酒屋のようになっていたモノもある。
「屋台でいいだろ」
「はい、北斎先生」
「まあ、よいか――」
北斎は酒を飲まない。蕎麦が喰えればよかった。
だから、屋台で十分だったのだ。
万之介たちは、屋台の蕎麦屋でそばを注文する。
「はいよ! かけ三つ」
屋台の蕎麦屋の親爺が切れのいい言葉を返す。
蕎麦屋をやるために必要な道具が無駄なく配置されている屋台。
竈から道具を入れる引き出し、水桶まで無駄なく作られていた。
客引き用の風鈴が涼やかな音を立てた。
客は万之介たち三人だけだった。
手際の良い、流れるような動きで蕎麦の湯を切り、碗に盛り汁を注ぐ
「旨そうじゃねぇか」
北斎はたまらぬという感じでいった。
そして蕎麦が出来あがった。
「お栄さんは、なんで――」
万之介はここまで誰もお栄のことを口に出さぬのを不思議に思っていた。
そしてとうとう自分から切り出してしまった。
鬼狂が特になにもしないということは、危険はないということだろう。
ただ、いつものお栄と違った様子――
先ほどまでのお栄の行動を思い返す。
よく考えてみた。
(いや…… それほどは行動は違わないか。ただ、いきなり外へ出ろと言っただけか…‥)
普段から伝法な口調に、女とは思えぬほどの粗っぽさ。突飛な行動。
それでいて「北斎ですらどうか?」と、思わせるような精緻極まりない画を描くのだ。
「なぜ、外に行けといったのでしょうか」
結局、万之介は疑問を最後まで口にしていた。
北斎はじろりと弟子の万之介を見やり黙って蕎麦を手繰った。
鬼狂も気だるそうに、箸を口に運んでいた。
北斎がズズッと汁を飲み、碗を店の親爺に返した。
「ああ、両国のよぉ――」
「両国?」
なぜ、いきなり両国の話になるのか?
万之介は訝しむような顔となる。
「両国の四ツ目屋だ」
「はぁ……」
万之介にはそれがどのような店なのか分からなかった。
「出戻りのアゴの癖に、いっとう前に角細工を買ってきやがったぜ」
「ほ~う。良いモノでは三両はするのではないか?」
最後に蕎麦を食べ終わった鬼狂が会話に加わった。
「いや、もっとするかもしれねぇ」
「物を見たのか北斎よ」
「使った後、放り出して転がってたぜ――」
「凄まじきよのぉ―― さすがお栄か……」
「まあ、その後、画でも描いててそのまま寝ちまったんだろうぜ」
北斎が「ひひひひひ」と下卑た笑い声を上げた。
この笑い声だけは、万之介もなかなか馴染めない。
「黒れぇ、大根が転がってるんじゃねェかと思ったぜぇ」
万之介は会話に加われずポカンとしているしかなかった。
(なんの話をしているのだ?)
「おう、鉄蔵」
「なんだ鬼狂」
「弟子が、訳の分からぬという顔をしておるぞ。本に無垢じゃ――」
鬼狂は、いつの間にか煙管を取り出していた。
それを口に咥え「ニィ」と妖艶な笑みを浮かべ、万之介を見やるのだった。
「ひひひ、張形、男形、男茎だよぉ。女の慕々に突っ込むもんだ」
「え―― お栄さんが?」
「旦那を虚仮にして、おん出て、今は男がいねぇんだろうよ」
つまり、お栄はあの絵を見て、欲情したということだ。
そして、その情欲をどうにかするために「出て行け」と言ったのだ。
万之介はやっと状況を理解した。
張形を使って昂ぶった肉を慰める気であったのだ。
「出戻った後、しばらく男はいたんだがなぁ―― あいつに付き合い切れる男もそれほどいねぇだろうよ。ひひひひひ」
唸りを上げ己の腹に叩き込んだ拳。
とても女の放ったとは思えぬ一撃。
それも、肉の疼きを鎮めるためであったのかと、万之介は合点する。
「万之介はやらぬぞ―― 鉄蔵」
鬼狂が言った。その言葉になぜか万之介は凄まじい程に気が昂ぶった。
一瞬で、鉄まらとなり、下帯をグイグイと突き上げてくる。
「ひひひ、確かにコイツの鉄まらならよぉぉ。しかし、化物の大女のアゴだぜぇ、気性もああだ。万之介の方が――」
自分の娘を卑下した言葉だった。
実の父とはあまりに酷い言葉だ。
確かに、大女で色黒。
クマの様な太い手足に、あの大アゴだ。
見た目は万之介でも世辞は言えない。
しかし――
「お、お栄さんは、魅力はあります」
「ほぉ…… アイツの良さが分かるかい……」
一転して北斎が優しげな声で言った。
「ほぉ、まあオヌシの女を見る目―― それは確かじゃ。だが――」
鬼狂がスッと目を細め、万之介をみやる。
「ワシとどっちが良い?」
「鬼狂様です」
即答だった。
それは、ちょっと比べものにならぬのではないかと万之介は思った。
「ま、正直な奴だぜ。ひひひひ」
北斎も苦笑を上げ、そしてスッと真剣な顔となった。
稀代の天才絵師。画に何もかも賭けた男の顔だった。
「で、あの画だ―― ありゃ、なんだい?」
「どの流派かも分からぬか?」
質問を質問で返す鬼狂だった。
北斎はまばらな無精ひげの顎をポリポリかいた。
「これはってのはねぇな―― ただ」
「だだ、なんじゃ」
「似ちゃいねぇが…… こう根っこの部分だな。それに思い当たる男がいないではない」
「誰じゃ?」
鬼狂はポンと、煙管の灰を落として言った。
「こっちが先じゃねぇかぃ?」
「ん、先とは」
「アレは、なんだってことだよぉ」
「この黄表紙か」
懐から黄表紙を出す鬼狂。
北斎は無言で手を出した。
鬼狂はスッと渡す。
再び丁をめくり、ジッと画を見る北斎。
「変だぜ―― アゴはあれでも、絵師だ俺にゃ及ばねぇが、国で五指には入ろうってもんだぜ」
「ほう、そうか」
「ワ印なんざ、山のように描いている。交合なんざガキの頃から見飽きているぜ。それが、ああだ」
北斎は刃のような目を鬼狂に向けていた。
鬼狂はその視線を真正面からただ、見つめていた。
不意に、朱色の唇が動いた。
「あれは、未通女に鬼を宿らせる画よ――」
「テメェ! 鬼狂ぉぉ!」
「落ちつけ、鉄蔵――」
静かに氷の様な言葉を鬼狂は口にした。
そして、再び唇が動きだす。
「出戻りのお栄に鬼は宿らぬ。ただ、画の持つ淫気の残り香にやられただけじゃ。問題はない」
「淫気に? だから、ああか?」
「そうじゃな。女であり、優れた絵師であることが仇となったようじゃ」
「でぇじょうぶなんだろうな? アゴはぁ」
「問題なぞないわ。この鬼狂が保証するわ」
スッと北斎の周辺にあった怖いモノが消えた。
「ま、それならいいか。股倉に角細工突っ込んで気をやりゃすむってことか」
「そうじゃ」
「で、こっちの番だがな……」
北斎は問われる前に、鬼狂の求めている答えを口にしようとした。
「どうにも、あれだ―― 似てるといやぁ、似てるって話だぜ」
「よい。それで」
「善の野郎の画に似ている――」
「善?」
「善次郎。ワ印の時の号は―― 色々だ。俺もくれてやった号がある」
「今、その男はどこじゃ」
「さあな…… しらねぇよ」
「そうか――」
「善次郎はよ…… アゴの情夫だった……」
北斎は言った。
ふわりと風が吹く。
リンと、そばの屋台の風鈴が鳴った。
■参考文献
江戸の料理と食生活 原田信夫編
「なんだぁぁぁ!! こりゃぁッ!」
黄表紙を持った太く黒い右腕を振りかぶりそのまま叩きつけた。
ヒグマのような腕だ。
黄表紙は埃を舞い上げ、反故紙と画のために切り捨てられた生活残滓の中に沈んだ。
細く吊り上がった双眸が、異様に光っていた。
「お栄さん――」
万之介はびっくりして声をかけた。
もう少しその画を見ていたかったのだ。
確かに、本そのものの出来は良くない。
画も彫や刷が雑なため、本来の魅力を出していない気がした。
ただ、この原画自体は相当な絵師が書いたのではないかと持ったのだ。
真っ先に思ったのは師匠の北斎の画だった。
画風が似ているというわけではない。
その画の根本的な部分、書き手の心もち、気構え――
万之介は言葉を上手くひねりだせなかった。
「魂――」
ふっと浮かんだその言葉が口に出ていた。
「おい、てめぇらぁッ、ちょっと出てろっ―― 四半刻かそこらでいい……」
ふぅふぅふぅと荒い息を肩でしながら、お栄は言った。
万之介とさほど変わらぬ高さに目玉がある。大女だ。
細い双眸の中の眼球がゾロリと動き、その場にいる他の三人を舐めるように見ていく。
「未通女でもあるまいによ―― 当てられたか?」
鬼狂はそう言うと、ゆるゆると動いた。
気だるさと優雅さを見せる動作で、黄表紙を拾い上げた。
「当てられた?」
「まあ、害はないのじゃが……」
鬼狂はそう言うと、黄表紙を懐に仕舞った。
そして「では行くか」と言って歩を進めた。
「なんでぇ? 鬼狂よ―― 俺の家だぜ」
「うるせぇ!! オレだって銭は払ってんだろぉ! いいからイケ…… 鉄じじィ! ぐぅぅぅ――」
そう言うと、お栄は真っ黒い石のような拳を振り上げた。
「ダァァ――ッ」
雄叫び。いや雌叫びをあげるお栄。
「アゴぉぉ、て、てめぇ――」
「だっしゃ―ぁぁッ!!」
アゴを突きだし、お栄が叫んだ。
ブンと風を斬る音が響いた。
そして、重い音が長屋を揺らした。
お栄が己の拳を己の帯の下―― 下っ腹のあたりに叩き込んでいたのだ。
拳が腹にグイッとめり込むような一撃だ。
「ぐ、ぎぎぎぎぎぎ、キカネェ、子袋への一撃―― これでもダメかよ…… おい、出ていくしかねぇぞぉ」
地の底で、泥を沸騰させたような声で、お栄は言ったのだ。
「おいッ! 鬼狂、テメェ、その画――」
己の娘のあまりの変化に、北斎は鬼狂を問いただした。
「害はない―― どうだ、お栄よ。ワラワがやるか?」
「いるか! クソ!」
「では、万之介は?」
「テメェでやるんだよ! だから、出てけって言(ゆ)ってんだぁぁ!」
北斎はそのやり取りを聞き「ひひひひひ」と笑いだした。
「そうかい―― てめぇ、出戻りのくせによぉ―― ひひひひひひ」
「うるせぇ、鉄じじィ!」
「ま、四半刻で、始末つけろよ」
「ぐぐぐいぐぐぐぐぐ、イイから行きやがれ!」
北斎と鬼狂は踵を返し、外に向かう。
万之介も今一つ事情が呑み込めぬが、ふたりの後を追った。
戸のところで、北斎が振り返った。
「よぉ、アゴぉ、オメェの『ワ印』に何が足らねェかよく考えてやれよ。ぎひひひひひ」
「バカ野郎ぉぉぉ!! 死にやがれ!」
ブンッと唸りを上げて水飲み用の碗が吹っ飛んできた。
そのまま、戸口近くの積載物の中にめり込んだ。
◇◇◇◇◇◇
「蕎麦でも食うか」
北斎が言った。
彼は蕎麦が大好物だった。
浅草界隈には屋台だけでなく、店として開業している蕎麦屋もあった。
そこでは、酒なども提供する、居酒屋のようになっていたモノもある。
「屋台でいいだろ」
「はい、北斎先生」
「まあ、よいか――」
北斎は酒を飲まない。蕎麦が喰えればよかった。
だから、屋台で十分だったのだ。
万之介たちは、屋台の蕎麦屋でそばを注文する。
「はいよ! かけ三つ」
屋台の蕎麦屋の親爺が切れのいい言葉を返す。
蕎麦屋をやるために必要な道具が無駄なく配置されている屋台。
竈から道具を入れる引き出し、水桶まで無駄なく作られていた。
客引き用の風鈴が涼やかな音を立てた。
客は万之介たち三人だけだった。
手際の良い、流れるような動きで蕎麦の湯を切り、碗に盛り汁を注ぐ
「旨そうじゃねぇか」
北斎はたまらぬという感じでいった。
そして蕎麦が出来あがった。
「お栄さんは、なんで――」
万之介はここまで誰もお栄のことを口に出さぬのを不思議に思っていた。
そしてとうとう自分から切り出してしまった。
鬼狂が特になにもしないということは、危険はないということだろう。
ただ、いつものお栄と違った様子――
先ほどまでのお栄の行動を思い返す。
よく考えてみた。
(いや…… それほどは行動は違わないか。ただ、いきなり外へ出ろと言っただけか…‥)
普段から伝法な口調に、女とは思えぬほどの粗っぽさ。突飛な行動。
それでいて「北斎ですらどうか?」と、思わせるような精緻極まりない画を描くのだ。
「なぜ、外に行けといったのでしょうか」
結局、万之介は疑問を最後まで口にしていた。
北斎はじろりと弟子の万之介を見やり黙って蕎麦を手繰った。
鬼狂も気だるそうに、箸を口に運んでいた。
北斎がズズッと汁を飲み、碗を店の親爺に返した。
「ああ、両国のよぉ――」
「両国?」
なぜ、いきなり両国の話になるのか?
万之介は訝しむような顔となる。
「両国の四ツ目屋だ」
「はぁ……」
万之介にはそれがどのような店なのか分からなかった。
「出戻りのアゴの癖に、いっとう前に角細工を買ってきやがったぜ」
「ほ~う。良いモノでは三両はするのではないか?」
最後に蕎麦を食べ終わった鬼狂が会話に加わった。
「いや、もっとするかもしれねぇ」
「物を見たのか北斎よ」
「使った後、放り出して転がってたぜ――」
「凄まじきよのぉ―― さすがお栄か……」
「まあ、その後、画でも描いててそのまま寝ちまったんだろうぜ」
北斎が「ひひひひひ」と下卑た笑い声を上げた。
この笑い声だけは、万之介もなかなか馴染めない。
「黒れぇ、大根が転がってるんじゃねェかと思ったぜぇ」
万之介は会話に加われずポカンとしているしかなかった。
(なんの話をしているのだ?)
「おう、鉄蔵」
「なんだ鬼狂」
「弟子が、訳の分からぬという顔をしておるぞ。本に無垢じゃ――」
鬼狂は、いつの間にか煙管を取り出していた。
それを口に咥え「ニィ」と妖艶な笑みを浮かべ、万之介を見やるのだった。
「ひひひ、張形、男形、男茎だよぉ。女の慕々に突っ込むもんだ」
「え―― お栄さんが?」
「旦那を虚仮にして、おん出て、今は男がいねぇんだろうよ」
つまり、お栄はあの絵を見て、欲情したということだ。
そして、その情欲をどうにかするために「出て行け」と言ったのだ。
万之介はやっと状況を理解した。
張形を使って昂ぶった肉を慰める気であったのだ。
「出戻った後、しばらく男はいたんだがなぁ―― あいつに付き合い切れる男もそれほどいねぇだろうよ。ひひひひひ」
唸りを上げ己の腹に叩き込んだ拳。
とても女の放ったとは思えぬ一撃。
それも、肉の疼きを鎮めるためであったのかと、万之介は合点する。
「万之介はやらぬぞ―― 鉄蔵」
鬼狂が言った。その言葉になぜか万之介は凄まじい程に気が昂ぶった。
一瞬で、鉄まらとなり、下帯をグイグイと突き上げてくる。
「ひひひ、確かにコイツの鉄まらならよぉぉ。しかし、化物の大女のアゴだぜぇ、気性もああだ。万之介の方が――」
自分の娘を卑下した言葉だった。
実の父とはあまりに酷い言葉だ。
確かに、大女で色黒。
クマの様な太い手足に、あの大アゴだ。
見た目は万之介でも世辞は言えない。
しかし――
「お、お栄さんは、魅力はあります」
「ほぉ…… アイツの良さが分かるかい……」
一転して北斎が優しげな声で言った。
「ほぉ、まあオヌシの女を見る目―― それは確かじゃ。だが――」
鬼狂がスッと目を細め、万之介をみやる。
「ワシとどっちが良い?」
「鬼狂様です」
即答だった。
それは、ちょっと比べものにならぬのではないかと万之介は思った。
「ま、正直な奴だぜ。ひひひひ」
北斎も苦笑を上げ、そしてスッと真剣な顔となった。
稀代の天才絵師。画に何もかも賭けた男の顔だった。
「で、あの画だ―― ありゃ、なんだい?」
「どの流派かも分からぬか?」
質問を質問で返す鬼狂だった。
北斎はまばらな無精ひげの顎をポリポリかいた。
「これはってのはねぇな―― ただ」
「だだ、なんじゃ」
「似ちゃいねぇが…… こう根っこの部分だな。それに思い当たる男がいないではない」
「誰じゃ?」
鬼狂はポンと、煙管の灰を落として言った。
「こっちが先じゃねぇかぃ?」
「ん、先とは」
「アレは、なんだってことだよぉ」
「この黄表紙か」
懐から黄表紙を出す鬼狂。
北斎は無言で手を出した。
鬼狂はスッと渡す。
再び丁をめくり、ジッと画を見る北斎。
「変だぜ―― アゴはあれでも、絵師だ俺にゃ及ばねぇが、国で五指には入ろうってもんだぜ」
「ほう、そうか」
「ワ印なんざ、山のように描いている。交合なんざガキの頃から見飽きているぜ。それが、ああだ」
北斎は刃のような目を鬼狂に向けていた。
鬼狂はその視線を真正面からただ、見つめていた。
不意に、朱色の唇が動いた。
「あれは、未通女に鬼を宿らせる画よ――」
「テメェ! 鬼狂ぉぉ!」
「落ちつけ、鉄蔵――」
静かに氷の様な言葉を鬼狂は口にした。
そして、再び唇が動きだす。
「出戻りのお栄に鬼は宿らぬ。ただ、画の持つ淫気の残り香にやられただけじゃ。問題はない」
「淫気に? だから、ああか?」
「そうじゃな。女であり、優れた絵師であることが仇となったようじゃ」
「でぇじょうぶなんだろうな? アゴはぁ」
「問題なぞないわ。この鬼狂が保証するわ」
スッと北斎の周辺にあった怖いモノが消えた。
「ま、それならいいか。股倉に角細工突っ込んで気をやりゃすむってことか」
「そうじゃ」
「で、こっちの番だがな……」
北斎は問われる前に、鬼狂の求めている答えを口にしようとした。
「どうにも、あれだ―― 似てるといやぁ、似てるって話だぜ」
「よい。それで」
「善の野郎の画に似ている――」
「善?」
「善次郎。ワ印の時の号は―― 色々だ。俺もくれてやった号がある」
「今、その男はどこじゃ」
「さあな…… しらねぇよ」
「そうか――」
「善次郎はよ…… アゴの情夫だった……」
北斎は言った。
ふわりと風が吹く。
リンと、そばの屋台の風鈴が鳴った。
■参考文献
江戸の料理と食生活 原田信夫編
0
お気に入りに追加
163
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。




今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる