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5.描きてぇモノを描く。それが絵師だ
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またしても炎天下の中を歩く万之介であった。
なるべく影のあるところを歩く。
打ち水している所などに来ると、確かにスッと空気は涼やかになる。
しかし、彼の胸中は涼やかどころではなかったのだ。
(女でありながら、あの画―― 天賦の才なのか……)
万之介は先ほど出会い、別れた北斎の娘のことを思う。
女でありながら「画」以外を切り捨てた生き様だ。
江戸女の間では、細眉が流行っている。
毛抜きで抜き、眉を整えているのだ。
それをあざ笑うかのような太い眉。
そして、あの何でも噛み砕きそうな巨大なアゴ。
刃のような視線を放つ細く鋭い目。
決して「美麗」であるとは言えない顔の造作だ。
それなのに、初対面の時に万之介が感じた「魅力」――
それは、己の「画」に対する「自負」であったのだろうかと思う。
あのような「化物」がいる世界。
その中で、己は「画」に矜持を持って生きることができるのか?
そのような問いが、万之介の胸の内に生じていた。
そして、それはトゲとなり、胸の奥深くに刺さっていた。
「決着を付けねばならぬな――」
額から滴る汗をぬぐうこともなく、万之介はつぶやく。
北斎に遭う。
そう決めたからには遭う。
そして己が「画帳」を見せ、弟子入りを願う。
それで、ダメというなら、それは「ダメなのだ」と踏ん切りもつくだろう。
お栄の画は完全に万之介の画にかけたモノを打ち砕いた。
信じていた己が才――
技術――
矜持――
意地――
そして夢か――
そのようなモノを、粉々にするほどの衝撃を与えられたのだ。
(お栄殿が二五とし、あと七年―― 己は追いつけるのか? 何をすれば追いつけるのだ?)
そんなことを思いながら、万之介は歩く。
武士に嫌気がさし、日雇いとして糊口をしのぐ日々。
独学で絵を描き続け、文も書いた――
淫猥で下卑た女の上げる喜びの声、交合の様を筆にまかせ文として書き連ねたのだ。
画だけではないのだ。劣情を催すものであれば、それは文でも構わない。
「文か…… 劣情を催す文―― それもありか」
絵師と戯作を描く人間は別々である。
しかし、それを同じ人間が描いたらどうであるのか?
(文―― 文と画…… それであればどうなのか?)
例が無いわけではない。
北斎は「喜能会之故真通」の中でタコと海女が交合している春画の中で、自らその台詞も書いていた。
万之介はその淫靡さ、妖艶さ、「怪異と交わる人」というモノに衝撃を受け、憧れを持ったのだ。
タコの触手が女の肌に食い込み、股を責める。その責めの言葉を吐きなら、海女を凌辱する。
女は怪異に犯されながらも、身の内に生じる快楽に堕ちていく――
(ああ、俺は好きなのだ―― 淫猥で淫靡で淫乱で淫らで妖艶で下卑たことを想念するのが好きなのだ――)
そして、万之介は、その思いに行きつく。
何やら、胸のつかえが取れた様な気がした。
それしかないのだ。描くしかない。
画でもよい。
文でもよい。
己の好きなモノを描き続けるしかないではないか。
例え、お上に取り締まられようと、それしかないのだから。
男のマラを立て、女の慕々を濡らすモノ。
己は、そのことだけを日が昇り沈むまで始終考えることが出来るのだと、万之介は思う。
寝ているとき、飯を食うとき、厠で用を足すとき――
それ以外の時の全てを「猥褻で猥雑なるモノ」に捧げることが出来るのだ。
それを思い続けること。
好きであることならば、負けぬと思った。
浪人・不栗万之助――
齢一八にして無垢(童貞)――
彼もある種の狂気と言っていいモノに憑りつかれた男であった。
◇◇◇◇◇◇
陽は西に傾き始めていたが、まだ空気は夏の熱気を孕んでいた。
熱で揺らぐ空気の中で、その男は立っていた。
頭髪の少なくなったチビた髷をした男だった。
老人というにはまだ早いかもしれない年齢。
なによりも、その身に纏った異様な精気が、年齢というものを意識させなかった。
人気のない小塚原の刑場で、ただ腐った骸を見つめていたのだ。
磔となり、晒されている死体だった。
夏の熱気の中で、肉が腐り、蕩け落ちている。
カラスが啄んだのであろう。
ところどころ、肉が削げ落ち、白い骨が露わとなっている。
現世に、悪夢のような地獄を見せつけるかのような光景だった。
「北斎先生ですか――」
「はぁ? なんでぇ…… おめぇは」
一瞬だけ骸から目を離し、北斎は言った。
そして、再びその視線は骸に戻る。
「不栗万之助と申します。先生の門下に―― ぜひ弟子に」
「ふぅん、弟子か…… 画を見せてみな」
万之介は懐から画帳を取り出した。
そして、北斎に渡した。
まるで割れ鐘のように己の脈動が頭に響く。
パラパラとめくって、北斎はそれをスッと万之介に返した。
「いいぜぇ、構わんよ。好きにすりゃいい」
「えッ?」
やけにあっさりした物であった。
「ただ、俺はなにもしねェ、ああしろ、こうしろ、筆の運びがどうとか、人の描き方がどうとか言う気はねぇよ」
「それは……」
「画なんて、手取り足取り教せぇて出来るもんじゃねぇんだよ」
北斎は静かに、気だるそうにそう言った。
「まあ、いい―― そろそろ、帰ろうと思っていた――」
そう言って、北斎は歩きはじめた。
万之介も後を追う。気だるそうな態度とは裏腹に足の運びは妙に速かった。
「オメェは、侍かい?」
「いえ、もう辞めました」
「そうかい」
江戸の身分制度――
徳川の世が長く続く中で、そのタガもかなり緩んでいた。
形骸化としたとまでは言えないまでも、ガチガチに固められたものでもなくなっている。
北斎とも交流のあった戯作者である曲亭馬琴も武士階級の出身だった。
絵師の中にも食い詰めた武士はいた。
金の世――
経済の体制の変化が、武士という存在の立脚点を危うくしていたのだ。
突きつめて行けば、万之介が武士でなくなったもの、そのような時代の流れの中のひとつの事例であった。
すでに時代はそこまで来ていた。
つまり、万之介が「侍を辞めた」と言ったのはそれほど異様なことではなかった。
「あ~ なんだ、オメェよぉ」
「ま、万之介です。先生」
「めんどくせぇ『まんすけ』でいいかぁ」
「ハイ、先生」
北斎と話をしてているのだ。
しかも、弟子入りまで認められた。
万之介にとって、それは一生涯忘れることのできぬ最高の瞬間でもあった。
「『画』ってなんだい? まんすけよぉ」
天下の葛飾北斎が問うてきた。
万之介はそれを「試し」ではないかと思った。
「それは…… 画とは……」
思いはある。目で見てそれを心に浮かべ描く。
描きたいとモノを描くのだ。
「聞き方が悪かったな―― オメェにとっての『画』ってなんだ?」
「私にとっての画ですか」
「そうさ。オメェにとってだ」
「か、描きたいものがあります」
「ほうぉ、なんでぇ、それは」
北斎は「ほうぉ」と意外そうに万之介を見やった。
それは茫洋としていながらも、深いところに刃を持った視線だった。
「負けたくないのです」
「負けなくないか―― 『画』でかい?」
「少し、違います」
「ふぅん」
万之介は言うか言うまいか迷う。しかし、その思いは本当であり、口に出して恥ずべきものではなかった。
「春画―― 淫乱で淫靡で猥雑で猥褻で、男が見たら己がマラを扱かずにはおれぬモノ。女が見れば、淫道から淫液を垂れ流し、指遊びの誘惑に誘うもの。そういったモノを描きたいのです。そして、その淫靡さ淫乱さで負けたくないのです」
北斎は万之介の顔をジッと見て、そして吹きだした。
「莫迦か、てめぇは―― 『ワ印』かい? そいつはご禁制だぜぇ」
「しかし、出回っています。北斎先生も――」
「運がよかっただけだ…… おりゃ、運がいいんだよ」
ポツリと北斎が言った。
「享保の世に、始まった禁制だがよ。お上も緩くなったり、キツくなったりだぜぇ。昨日は許されていた『画』が、今日は手鎖。同じような画を描いても、アイツはお咎めなし、コッチは手鎖で、財産没収―― そんなもんだぜ」
北斎の言葉を万之介はジッと聞いていた。
万之介もそのことは薄っすらと分かっている。
すでに一〇年以上前のことではあるが、寛政の世では多くの絵師、版元が手鎖となったのだ。
その結果、歌川一門は、春画から一切手を引いている。
この改革を行った松平定信は、ガチガチの儒教信者であり、武道にも優れていた。
起倒流柔術を学び、その師から「弟子の中で三指に入る」と言わせしめた存在だ。
その彼は「卑猥」、「下品」なことが大嫌いであり、改革では徹底的な弾圧が実施された。
出版物だけでなく「夫婦の子作りの体位」についても「茶臼禁止」立札を立てようとした男である。
さすがに、これは部下に止められたが。
このような時代を経て、今は比較的、緩い時代には入っている。
ただ、そのような「風紀を乱す画」がご禁制であることは変わりはしなかった。
「『ワ印」で負けたくねぇかよ…… ひひひひひひ。いいじゃねぇか。悪くねェよ」
「そうですか。先生」
「ま、オメエさんの行く道は良くて「手鎖」、悪くすりゃ入牢だぜぇ、ひひひひひひひ」
「それは――」
北斎は面白いモノを聞いたとばかりに、笑った。
そして、すっと真顔になった。
「しかしよ、正しい。お上がどう考えるか知らねェが、オメエの考えは正しいさ。描きてぇモノを描く。それが絵師だ。見たまんまを描く、客の欲しい画を描く―― それもいいさ。だが、本当は、己の身の内に有る何か―― それを紙の上にぶちまけること。それが『画』だ―― その意味じゃ、おりゃ、まだまだ『画』が描けてねぇんだよ」
天下の北斎が「画が描けていない」と言った。
万之介は聞き違えかと思った。
「磔見てたのも、人を描(かき)てぇからだ。人ってなんだ? おい? あの肉を毟れば骨がある。その塊が人なのか? わからねぇよ――」
北斎は一体なにを見ようとし何を描きたいと思っているのか。
万之介の理解の外、遥か高みでの苦悩であること以外は分からなかった。
「人を描きてぇ。なあ、人ってやつはなんだい? いったいよぉ」
それは、画に憑りつかれ、画に狂った男の言葉であった。
万之介の中、どこを探してもその答えなどあるはずが無かった。
◇◇◇◇◇◇
「鉄じじィ、客だぜ。おお、オメェも一緒かい」
反故紙や、色々なゴミを除けて、座れる場所が出来ていた。
そこに、お栄とチョコンと小さなモノが座っていた。
「また、来たのかい―― ありゃ、売らねぇよ。金をいくら詰まれてもな」
北斎はそう言いながら、座敷に上がり座った。
万之介も、その後に続く。
「よう、弟子になれたのかい? くそジジィの弟子なんかなってもろくな事ねェと思うがな」
ニッと笑って、お栄が言った。
その笑みは人を惹きつける魅力のある笑みだった。
顔の造作ではない「美」であり「力」がお栄にはあった。
そして、万之介は、お栄の対面に坐している存在を見て息を飲んだ。
それは、まるで巫女のような長いおろし髪をした女であった。
いや、女というよりは「童女」だ。
大柄なお栄の近くにいるせいで、余計にちんまりと見える。
寒気がした――
すでに夕刻ではあったが、夏の熱気はまだ残っている。
それなのに、万之介は背中に氷柱を叩き込まれたかのような寒気を感じていた。
恐怖ではなかった。
しかし、それに近い感情。無理やり言葉にすれば「畏怖」が近かったかもしれない。
その童女を見て、万之介が感じていたモノ。
美麗であった。
黒々し艶のある長い髪。
そして、黒水晶で細工されたかのような瞳。
肌の色は、陽に当たったことが無いかのように白く透き通っていた。
黒地に炎のような文様の着物を遊女のだらしなく着ている。
前が大きく開き、微かに膨らんでいる胸が見えそうである。
白い肌をした肩まで見えそうだった。
まるで、そこに居ながら、幻のような印象を与える童女だった。
「鉄蔵―― あまり我儘をゆぅてワラワを困らすな」
その声は美麗であったが、決して童女のものではない。
いや――
(人の声か? 化外、怪異の――)
心の芯を痺れさせるような響きを持った声だ。
「じゃあよぉ。ありゃなんだい? あの髑髏―― あれは何なんだい、教せぇてくれるのかい?」
北斎の言葉を受け、童女に見える美女が、すっと視線を上げた。
「なあ、鬼狂―― どうだい?」
北斎が言葉を続けた。
キキョウ―― その名の響きが万之介の耳の残った。
鬼喰らい師・鬼狂と、その「さね舐り」となる万之介。
その出会いであった。
なるべく影のあるところを歩く。
打ち水している所などに来ると、確かにスッと空気は涼やかになる。
しかし、彼の胸中は涼やかどころではなかったのだ。
(女でありながら、あの画―― 天賦の才なのか……)
万之介は先ほど出会い、別れた北斎の娘のことを思う。
女でありながら「画」以外を切り捨てた生き様だ。
江戸女の間では、細眉が流行っている。
毛抜きで抜き、眉を整えているのだ。
それをあざ笑うかのような太い眉。
そして、あの何でも噛み砕きそうな巨大なアゴ。
刃のような視線を放つ細く鋭い目。
決して「美麗」であるとは言えない顔の造作だ。
それなのに、初対面の時に万之介が感じた「魅力」――
それは、己の「画」に対する「自負」であったのだろうかと思う。
あのような「化物」がいる世界。
その中で、己は「画」に矜持を持って生きることができるのか?
そのような問いが、万之介の胸の内に生じていた。
そして、それはトゲとなり、胸の奥深くに刺さっていた。
「決着を付けねばならぬな――」
額から滴る汗をぬぐうこともなく、万之介はつぶやく。
北斎に遭う。
そう決めたからには遭う。
そして己が「画帳」を見せ、弟子入りを願う。
それで、ダメというなら、それは「ダメなのだ」と踏ん切りもつくだろう。
お栄の画は完全に万之介の画にかけたモノを打ち砕いた。
信じていた己が才――
技術――
矜持――
意地――
そして夢か――
そのようなモノを、粉々にするほどの衝撃を与えられたのだ。
(お栄殿が二五とし、あと七年―― 己は追いつけるのか? 何をすれば追いつけるのだ?)
そんなことを思いながら、万之介は歩く。
武士に嫌気がさし、日雇いとして糊口をしのぐ日々。
独学で絵を描き続け、文も書いた――
淫猥で下卑た女の上げる喜びの声、交合の様を筆にまかせ文として書き連ねたのだ。
画だけではないのだ。劣情を催すものであれば、それは文でも構わない。
「文か…… 劣情を催す文―― それもありか」
絵師と戯作を描く人間は別々である。
しかし、それを同じ人間が描いたらどうであるのか?
(文―― 文と画…… それであればどうなのか?)
例が無いわけではない。
北斎は「喜能会之故真通」の中でタコと海女が交合している春画の中で、自らその台詞も書いていた。
万之介はその淫靡さ、妖艶さ、「怪異と交わる人」というモノに衝撃を受け、憧れを持ったのだ。
タコの触手が女の肌に食い込み、股を責める。その責めの言葉を吐きなら、海女を凌辱する。
女は怪異に犯されながらも、身の内に生じる快楽に堕ちていく――
(ああ、俺は好きなのだ―― 淫猥で淫靡で淫乱で淫らで妖艶で下卑たことを想念するのが好きなのだ――)
そして、万之介は、その思いに行きつく。
何やら、胸のつかえが取れた様な気がした。
それしかないのだ。描くしかない。
画でもよい。
文でもよい。
己の好きなモノを描き続けるしかないではないか。
例え、お上に取り締まられようと、それしかないのだから。
男のマラを立て、女の慕々を濡らすモノ。
己は、そのことだけを日が昇り沈むまで始終考えることが出来るのだと、万之介は思う。
寝ているとき、飯を食うとき、厠で用を足すとき――
それ以外の時の全てを「猥褻で猥雑なるモノ」に捧げることが出来るのだ。
それを思い続けること。
好きであることならば、負けぬと思った。
浪人・不栗万之助――
齢一八にして無垢(童貞)――
彼もある種の狂気と言っていいモノに憑りつかれた男であった。
◇◇◇◇◇◇
陽は西に傾き始めていたが、まだ空気は夏の熱気を孕んでいた。
熱で揺らぐ空気の中で、その男は立っていた。
頭髪の少なくなったチビた髷をした男だった。
老人というにはまだ早いかもしれない年齢。
なによりも、その身に纏った異様な精気が、年齢というものを意識させなかった。
人気のない小塚原の刑場で、ただ腐った骸を見つめていたのだ。
磔となり、晒されている死体だった。
夏の熱気の中で、肉が腐り、蕩け落ちている。
カラスが啄んだのであろう。
ところどころ、肉が削げ落ち、白い骨が露わとなっている。
現世に、悪夢のような地獄を見せつけるかのような光景だった。
「北斎先生ですか――」
「はぁ? なんでぇ…… おめぇは」
一瞬だけ骸から目を離し、北斎は言った。
そして、再びその視線は骸に戻る。
「不栗万之助と申します。先生の門下に―― ぜひ弟子に」
「ふぅん、弟子か…… 画を見せてみな」
万之介は懐から画帳を取り出した。
そして、北斎に渡した。
まるで割れ鐘のように己の脈動が頭に響く。
パラパラとめくって、北斎はそれをスッと万之介に返した。
「いいぜぇ、構わんよ。好きにすりゃいい」
「えッ?」
やけにあっさりした物であった。
「ただ、俺はなにもしねェ、ああしろ、こうしろ、筆の運びがどうとか、人の描き方がどうとか言う気はねぇよ」
「それは……」
「画なんて、手取り足取り教せぇて出来るもんじゃねぇんだよ」
北斎は静かに、気だるそうにそう言った。
「まあ、いい―― そろそろ、帰ろうと思っていた――」
そう言って、北斎は歩きはじめた。
万之介も後を追う。気だるそうな態度とは裏腹に足の運びは妙に速かった。
「オメェは、侍かい?」
「いえ、もう辞めました」
「そうかい」
江戸の身分制度――
徳川の世が長く続く中で、そのタガもかなり緩んでいた。
形骸化としたとまでは言えないまでも、ガチガチに固められたものでもなくなっている。
北斎とも交流のあった戯作者である曲亭馬琴も武士階級の出身だった。
絵師の中にも食い詰めた武士はいた。
金の世――
経済の体制の変化が、武士という存在の立脚点を危うくしていたのだ。
突きつめて行けば、万之介が武士でなくなったもの、そのような時代の流れの中のひとつの事例であった。
すでに時代はそこまで来ていた。
つまり、万之介が「侍を辞めた」と言ったのはそれほど異様なことではなかった。
「あ~ なんだ、オメェよぉ」
「ま、万之介です。先生」
「めんどくせぇ『まんすけ』でいいかぁ」
「ハイ、先生」
北斎と話をしてているのだ。
しかも、弟子入りまで認められた。
万之介にとって、それは一生涯忘れることのできぬ最高の瞬間でもあった。
「『画』ってなんだい? まんすけよぉ」
天下の葛飾北斎が問うてきた。
万之介はそれを「試し」ではないかと思った。
「それは…… 画とは……」
思いはある。目で見てそれを心に浮かべ描く。
描きたいとモノを描くのだ。
「聞き方が悪かったな―― オメェにとっての『画』ってなんだ?」
「私にとっての画ですか」
「そうさ。オメェにとってだ」
「か、描きたいものがあります」
「ほうぉ、なんでぇ、それは」
北斎は「ほうぉ」と意外そうに万之介を見やった。
それは茫洋としていながらも、深いところに刃を持った視線だった。
「負けたくないのです」
「負けなくないか―― 『画』でかい?」
「少し、違います」
「ふぅん」
万之介は言うか言うまいか迷う。しかし、その思いは本当であり、口に出して恥ずべきものではなかった。
「春画―― 淫乱で淫靡で猥雑で猥褻で、男が見たら己がマラを扱かずにはおれぬモノ。女が見れば、淫道から淫液を垂れ流し、指遊びの誘惑に誘うもの。そういったモノを描きたいのです。そして、その淫靡さ淫乱さで負けたくないのです」
北斎は万之介の顔をジッと見て、そして吹きだした。
「莫迦か、てめぇは―― 『ワ印』かい? そいつはご禁制だぜぇ」
「しかし、出回っています。北斎先生も――」
「運がよかっただけだ…… おりゃ、運がいいんだよ」
ポツリと北斎が言った。
「享保の世に、始まった禁制だがよ。お上も緩くなったり、キツくなったりだぜぇ。昨日は許されていた『画』が、今日は手鎖。同じような画を描いても、アイツはお咎めなし、コッチは手鎖で、財産没収―― そんなもんだぜ」
北斎の言葉を万之介はジッと聞いていた。
万之介もそのことは薄っすらと分かっている。
すでに一〇年以上前のことではあるが、寛政の世では多くの絵師、版元が手鎖となったのだ。
その結果、歌川一門は、春画から一切手を引いている。
この改革を行った松平定信は、ガチガチの儒教信者であり、武道にも優れていた。
起倒流柔術を学び、その師から「弟子の中で三指に入る」と言わせしめた存在だ。
その彼は「卑猥」、「下品」なことが大嫌いであり、改革では徹底的な弾圧が実施された。
出版物だけでなく「夫婦の子作りの体位」についても「茶臼禁止」立札を立てようとした男である。
さすがに、これは部下に止められたが。
このような時代を経て、今は比較的、緩い時代には入っている。
ただ、そのような「風紀を乱す画」がご禁制であることは変わりはしなかった。
「『ワ印」で負けたくねぇかよ…… ひひひひひひ。いいじゃねぇか。悪くねェよ」
「そうですか。先生」
「ま、オメエさんの行く道は良くて「手鎖」、悪くすりゃ入牢だぜぇ、ひひひひひひひ」
「それは――」
北斎は面白いモノを聞いたとばかりに、笑った。
そして、すっと真顔になった。
「しかしよ、正しい。お上がどう考えるか知らねェが、オメエの考えは正しいさ。描きてぇモノを描く。それが絵師だ。見たまんまを描く、客の欲しい画を描く―― それもいいさ。だが、本当は、己の身の内に有る何か―― それを紙の上にぶちまけること。それが『画』だ―― その意味じゃ、おりゃ、まだまだ『画』が描けてねぇんだよ」
天下の北斎が「画が描けていない」と言った。
万之介は聞き違えかと思った。
「磔見てたのも、人を描(かき)てぇからだ。人ってなんだ? おい? あの肉を毟れば骨がある。その塊が人なのか? わからねぇよ――」
北斎は一体なにを見ようとし何を描きたいと思っているのか。
万之介の理解の外、遥か高みでの苦悩であること以外は分からなかった。
「人を描きてぇ。なあ、人ってやつはなんだい? いったいよぉ」
それは、画に憑りつかれ、画に狂った男の言葉であった。
万之介の中、どこを探してもその答えなどあるはずが無かった。
◇◇◇◇◇◇
「鉄じじィ、客だぜ。おお、オメェも一緒かい」
反故紙や、色々なゴミを除けて、座れる場所が出来ていた。
そこに、お栄とチョコンと小さなモノが座っていた。
「また、来たのかい―― ありゃ、売らねぇよ。金をいくら詰まれてもな」
北斎はそう言いながら、座敷に上がり座った。
万之介も、その後に続く。
「よう、弟子になれたのかい? くそジジィの弟子なんかなってもろくな事ねェと思うがな」
ニッと笑って、お栄が言った。
その笑みは人を惹きつける魅力のある笑みだった。
顔の造作ではない「美」であり「力」がお栄にはあった。
そして、万之介は、お栄の対面に坐している存在を見て息を飲んだ。
それは、まるで巫女のような長いおろし髪をした女であった。
いや、女というよりは「童女」だ。
大柄なお栄の近くにいるせいで、余計にちんまりと見える。
寒気がした――
すでに夕刻ではあったが、夏の熱気はまだ残っている。
それなのに、万之介は背中に氷柱を叩き込まれたかのような寒気を感じていた。
恐怖ではなかった。
しかし、それに近い感情。無理やり言葉にすれば「畏怖」が近かったかもしれない。
その童女を見て、万之介が感じていたモノ。
美麗であった。
黒々し艶のある長い髪。
そして、黒水晶で細工されたかのような瞳。
肌の色は、陽に当たったことが無いかのように白く透き通っていた。
黒地に炎のような文様の着物を遊女のだらしなく着ている。
前が大きく開き、微かに膨らんでいる胸が見えそうである。
白い肌をした肩まで見えそうだった。
まるで、そこに居ながら、幻のような印象を与える童女だった。
「鉄蔵―― あまり我儘をゆぅてワラワを困らすな」
その声は美麗であったが、決して童女のものではない。
いや――
(人の声か? 化外、怪異の――)
心の芯を痺れさせるような響きを持った声だ。
「じゃあよぉ。ありゃなんだい? あの髑髏―― あれは何なんだい、教せぇてくれるのかい?」
北斎の言葉を受け、童女に見える美女が、すっと視線を上げた。
「なあ、鬼狂―― どうだい?」
北斎が言葉を続けた。
キキョウ―― その名の響きが万之介の耳の残った。
鬼喰らい師・鬼狂と、その「さね舐り」となる万之介。
その出会いであった。
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