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その52:珊瑚海は燃えているか? 8
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スロットルを限界まで叩きつけた。
1000馬力近い出力を発揮する栄12エンジンが唸りを上げた。
古溝飛曹長は獰猛な笑みを口元に浮かべていた。
その前方視界、キャノピーの向こう側には200機を超える艦上機の群れがいた。
彼は一瞬だけ後方を振り返る。彼の列機はきちんと追従してきた。
対気速度は250ノットを超えている。そして、ジリジリと速度を上げていた。
やや、降下気味に突っ込む。零戦21型の翼がビーンと唸りを上げ始めた。
操縦桿が重いがどうでもよかった。機銃をぶっ放して突き抜けるそれだけを考えていた。
とにかく、こちらは3機しかいない。出来るのは、この編隊を切り刻んでバラバラにすることくらいだ。
護衛についている戦闘機を爆撃機から引きはがす。まず、それを考えた。
そのために、遮二無二に突っ込んでいく。
古溝飛曹長は、4年前に海軍を辞める決意をしていた。当時の上官とソリが合わなかったのだ。
見た目と裏腹に、合理性を重んじる彼は、ゴリゴリの精神主義者であった上官、つまり航空隊司令と相いれない存在だった。
ただ、海軍と時代が彼を手放さなかった。
彼は、本土への転任となり教官配置。そして、今回の作戦直前で機動部隊への配属となった。
「ほう、気骨があるな」
彼は感心の声を上げた。
爆撃機にへばりついた戦闘機は、その位置から動こうとしなかった。
敵戦闘機が迫ってくる中、突っかかってくることがないのは大したものだった。
畢竟――
戦闘機とは、敵の爆撃機を撃墜するのが目的の兵器だ。戦闘機をいくら撃墜したところで、爆撃機を落とせないのでは、何の意味もない。
逆に言えば、護衛戦闘機の究極的な目的は、味方爆撃機を落とさせないことだ。
これについても、敵戦闘機を落とすのは手段であって、決して目的ではない。
自分たちが突っ込んでいく相手は、微動だにせず爆撃機を守るべく、空間を占拠している。
なまなかな精神力で出来る物ではなかった。
本当はこちらに気付いていないのではないか。そのような疑念すら浮かんでくる。
しかし、曲がりなりにも空母に離着艦できる操縦士がそのような間抜けなわけがなかった。
「あくまでも、爆撃機を守るってことか……」
古溝飛曹長は、スロットルレバーの機銃発射釦に指をかけた。
「敵機! 上!」
雨音のような雑音に混じり、列機の声が聞こえた。
佐久間二飛曹の声だった。
機内無線機の通話スイッチを入れっぱなしにしていたのが幸いした。
彼はフットバーを蹴飛ばし、機体を滑らせた。
鼻先から焦げ臭い匂いがするくらいの至近を曳光弾が通りぬけていく。
灼熱化したアイスキャンデーのような弾丸の雨が集束していく。
黒に近い青い機体が吹っ飛ぶように降下していった。
グラマンF4Fワイルドキャット。
武骨な山猫だった。
追いかける気もなかったし、物理的に追いつくこともできなかった。
F4Fが本気で急降下したら、初期段階を除き、追尾するのは困難だった。
古溝飛曹長は機体を立て直すと、軸線を敵編隊に向けた。ドーントレス編隊だった。
零戦とドーントレスの空間に、別のF4Fが割り込んでくる。こちらに機首を向ける。やはり数が圧倒的過ぎる。周りは全て敵だった。
撃つしかない。
とにかく、撃ちまくって敵を擾乱する。
真正面からの撃ちあいだった。
構わなかった。機銃発射釦を押しっぱなしにして突っ込んでいく。
7.7ミリと20ミリの火箭と、12.7ミリの火箭が交差する。
ガガガアンッ――
連続した破壊音。機体のどこかに機銃弾を食らったのだ。
「佐久間!」
彼の視界の中に、真っ赤な炎に包まれた零戦を捉える。2番機の佐久間二飛曹であった。
炎の塊となり、礫のように落下していった。
「ぬおぉぉぉ!!」
古溝飛曹長は、操縦桿を目いっぱい引く。機体が急角度で上昇を開始する。
太平洋の空で零戦だけが可能な、上昇だった。追従できる敵機はこの空には存在しない。
失速寸前まで機体を引っ張り上げ、そこで、フットバーを蹴飛ばす、機体が崩れるように姿勢を変える。
上昇からの反転降下――
古溝飛曹長は、狂ったように叫びながら、機銃発射釦を押し続けた。
◇◇◇◇◇◇
「護衛戦闘機隊、敵機と接触。戦闘に入りました」
電探情報を元に誘導された戦闘機隊からの連絡だった。
この情報を得た、第一航空艦隊司令部の反応は様々だった。
不安の色を隠そうとしなかったのは南雲司令官であった。
「源田参謀――」
第一航空艦隊司令、南雲中将はまるで、預言者の言葉を待つ信徒のような目で源田中佐を見つめていた。
古武士のような風貌と、水雷戦の権威として、その豪胆さを評価された男の姿はそこになかった。
それは、どのような有能な人間であっても、人の能力には限界があることを示していた。
ある局面で極めて有能な人間でも、別の局面では全くの役立たずになってしまうことがあるということだった。
南雲司令官は決して無能ではない。そして、航空戦も経験している。
少なくとも、現状の帝国海軍の中ででは、水準以上の機動部隊指揮官といえた。
そもそも、機動部隊の指揮を経験した人間の数が圧倒的に少なかったが。
その彼にしても、いや、航空戦を知っている彼であるからこそ、先手を取られたこの現状の危険性が分かったのだ。
「ここを乗り切れば、我々の勝ちです――」
鷹のような相貌で真正面から、南雲中将を見つめていた。
そこには、彼が多くの敵を作る原因となっている、過剰な自信というものが見えていた。
だが、この局面では彼の自信は、可能性を示す、輝くクモの糸に見えた。
しかしだ――
南雲司令官は、この作戦の意味を考える。
仮に、ここを乗り切り、敵空母撃滅に成功したとしよう。
それでも、今の事態を考えれば、大勝利ではあるだろう。
ただ、その結果、機動部隊が攻撃力を失ってしまった場合どうなるのか?
ポートモレスビーにはまだ有力な航空戦力が残っている。
地上基地との戦闘で、幾分被害を受けていると言っても、その存在は、上陸部隊を乗せた船団にとっては脅威以外の何ものでもない。
(分かっているのか源田参謀は――)
「ずいぶん、強気だが―― 航空参謀」
草鹿参謀長が、あまりにも自信過剰に見える源田をたしなめるように口を開いた。
すでに、第一航空艦隊は、蒼龍を失い、加賀は戦線離脱している。
こちらは、敵空母に位置を露呈しているにもかかわらず、いまだに敵空母の所在を掴めない。
更に、ポートモレスビー上陸を控え、敵基地の撃滅も必須事項となっているのだ。
もはや、作戦は破たんしているのではないか。草鹿参謀長はそのような思考に行きついていた。
当初からのこの作戦が、有効なシンプルさに欠けると草鹿参謀長は感じていた。
第一航空艦隊に担わせる目的が多すぎるのだ。
その不満が、ここにきて一気に噴き出たようであった。
彼は、運よくここを切り抜けたならば、即時反転し、離脱すべきだと考えていた。
今の状態はあまりに危険すぎる。
「二式艦上偵察機より入電! 『ワレ、敵艦隊発見。空母ラシキ物ヲ含ム』です!」
それは、すでに沈んだ蒼龍に搭載されていた最新鋭機だった。
雷撃を受けたときにはすでに発艦しており、喪失を免れていた。
本来艦爆として開発され、「彗星」と名付けられることになる艦上爆撃機。
その偵察機型であった。
零戦21型を上回る550キロ以上の高速艦上機だった。
1942年時点で、これ以上の速度の艦上機は日米ともに存在しない。
この情報が司令部の空気を変えた。南雲司令長官の顔色が目に見えて変わった。
「さあ、敵空母を見つけました。次は、我々が攻撃し、奴らを海の藻屑にすればいいのです」
源田参謀の過剰なまでの自信にあふれた言葉が、赤城の司令室に響いた。
まるで、芝居ががったセリフだと、草鹿参謀長は思った。
しかし、状況がこの男の言うとおりになりつつあるのも認めざるを得なかった。
珊瑚海の空は刻一刻とその色を変えていた。
◇◇◇◇◇◇
「戦闘機に構うな、爆撃機だ。いいか、奴らを空母に近づけるな」
雑音交じりの音であったが、その声は聞こえた。
岩本一飛曹は、そのような指示をわざわざしなければいけない、現状を不安に思った。
岩本徹三一飛曹。日中戦争からの歴戦の搭乗員だった。彼は瑞鶴戦闘機隊の第3小隊を率い、珊瑚海の空を飛んでいた。
以前から、無線電話の改善を要望していた彼であったが、こんなことを指示しなければいけないのは情けないことだとも思った。
しかし、現実に第一航空艦隊の搭乗員の技量は全般的に落ちていると思っていた。
ベテランは疲労が重なり、また補充された未熟練搭乗員の技量は危なっかしいものがあった。
岡嶋大尉からの指示はその意味でも、妥当といえば妥当なものであった。
実際に、戦闘機に飛びかかっていく、奴が後を絶たないのだ。
彼は空戦に対し、凄まじく冷めた。現実感覚を有した男であった。
戦争とは自分が生き残り、1機でも多くの敵を殺すことだと割り切っていた。
生かしておいてはダメだ。生きのこれば、敵は学習し手ごわくなる。
よって、彼は弱った敵こそ、叩き落す目標と決めていた。
同僚からは「それはあまりにずるくないか?」と言われたが、気にすることもなかった「では、そいつを生かして帰してなんの得があるのだ?」と彼は言った。
同僚は黙ってしまった。誰かが、やれねばならいのだ。だから、俺がやる。落下傘降下しようが、不時着しようが、息の根を止める。それが自分の使命だと思っている。
そして、空母戦であるならば、敵爆撃機、攻撃機を第一目標にするのは当然だった。
すでに、敵情報は入ってきている。
戦爆連合200機以上。
こちらは、赤城、飛龍、翔鶴、瑞鶴の4空母から戦闘機100余機だ。
おそらく、戦闘機の数で言えば、互角かそれ以上ではないかと思う。
「あれか……」
岩本一飛曹は青い空にゴマのような黒点を見つけていた。
中隊長機がバンクを振り、大きく迂回する。太陽を背にしての攻撃を行う気だろう。
まあ、敵がそう簡単に許してくれるかどうかは分からないが。
彼の明晰で冷めた頭脳は、すでに自身の戦闘プランを組み立てていた。
「突っ込むのは最初だけでいい――」
誰に言うともなく、独りきりの操縦席の中でつぶやく。
この機数での戦闘である。乱戦になるのは必定だった。
彼は、一度突っ込んだら、空域から離れ、防衛線を突破してきた攻撃機を狙うことに決めていた。
独断であるが、誰かがやるべきことであった。
「全軍突撃せよ――」
思いのほか明瞭な声が響いた。
岩本一飛曹は叩きつけるようにスロットルを操作した。
零戦の栄12型が軛を外されたかのように唸りを上げる。機体が軋むような加速で背もたれに押し付けられた。
第一航空艦隊、100機を超える零戦が、狩を開始した。
◇◇◇◇◇◇
戦闘開始後30分は経過しただろうか。
岩本一飛曹は残弾と燃料を確認する。燃料に余裕があったが、すでに20ミリ弾は尽きていた。
「いい飛行機ではあると思うが、戦闘機としては問題ありだ――」
彼は零戦に対する率直な感想をつぶやいた。
彼自身、零戦は「良い飛行機」だと思っていたが「良い戦闘機」とは言い難い部分があると感じていた。
なによりも、20ミリ機銃の弾数の少なさは致命的であると思っていた。
1門55発の機銃弾を撃ち尽くしてしまうと、零戦の攻撃力は、一世代前の九六戦並みになってしまう。
零戦の戦闘における、火力は実質的に九六戦に毛の生えたような物だと思っていた。
7.7ミリで敵を落とせないことは無い。しかし、それは熟練者の岩本一飛曹にしてから、非常に手間のかかり、危険な作業だった。
彼は、この空で4機目となる獲物を追いかけつつ、それを思った。
被弾しながらも、こちらの空母を目指して飛んできている。アメリカ軍が精神力の無いへなちょこだという奴は、一度、零戦の後ろに乗せて空戦を体験させてやりたいと思っている。奴らは強い。侮れないどころの話じゃない。
今は、こちらの数も練度も敵を上回っている。しかし、これがいつまで続くのか。彼は日々の戦いの中で、アメリカの底知れぬ不気味さを感じていた。
だからこそ、落とせる敵は確実に落とす。
彼の零戦が軽快な音を立て、7.7ミリ機銃を発射する。ドーントレスの主翼付け根に集束した弾丸がバチバチと火花を上げるのが見えた。
やがて、うっすらと煙を吐いて、高度を落とすドーントレス。爆弾を放棄した。
それでも、彼は攻撃を止めない。
一人でも多くの敵パイロットを殺すことが自分の役目であると信じていた。
7.7ミリが操縦員を傷つけたようだった。
ガックリと機首を落とし、そのまま海に突っ込んでいく。
弱々しい飛沫を上げ海面に激突した。
彼は機体を立て直し、失った高度を上げていく。周囲を見張った。
すでに、この空域での戦闘は終息しつつあった。
敵編隊はバラバラとなり、組織だって飛行を行っている機体は皆無に思えた。
すでに、残弾も尽きかけている。
「帰還するか――」
彼は無線電話で補給のため帰還する旨を伝えた。
とくに、返事はなかったが、構わなかった。
彼の零戦は翼を翻すと、母艦へと機首を向けた。
「サイダーでも飲むか……」
彼は慎重にサイダーの栓を抜いて、炭酸を逃がす。
そして、一気に飲んだ。
サイダーは、乾いたのどに気持ちよく流れ込んできた。
1000馬力近い出力を発揮する栄12エンジンが唸りを上げた。
古溝飛曹長は獰猛な笑みを口元に浮かべていた。
その前方視界、キャノピーの向こう側には200機を超える艦上機の群れがいた。
彼は一瞬だけ後方を振り返る。彼の列機はきちんと追従してきた。
対気速度は250ノットを超えている。そして、ジリジリと速度を上げていた。
やや、降下気味に突っ込む。零戦21型の翼がビーンと唸りを上げ始めた。
操縦桿が重いがどうでもよかった。機銃をぶっ放して突き抜けるそれだけを考えていた。
とにかく、こちらは3機しかいない。出来るのは、この編隊を切り刻んでバラバラにすることくらいだ。
護衛についている戦闘機を爆撃機から引きはがす。まず、それを考えた。
そのために、遮二無二に突っ込んでいく。
古溝飛曹長は、4年前に海軍を辞める決意をしていた。当時の上官とソリが合わなかったのだ。
見た目と裏腹に、合理性を重んじる彼は、ゴリゴリの精神主義者であった上官、つまり航空隊司令と相いれない存在だった。
ただ、海軍と時代が彼を手放さなかった。
彼は、本土への転任となり教官配置。そして、今回の作戦直前で機動部隊への配属となった。
「ほう、気骨があるな」
彼は感心の声を上げた。
爆撃機にへばりついた戦闘機は、その位置から動こうとしなかった。
敵戦闘機が迫ってくる中、突っかかってくることがないのは大したものだった。
畢竟――
戦闘機とは、敵の爆撃機を撃墜するのが目的の兵器だ。戦闘機をいくら撃墜したところで、爆撃機を落とせないのでは、何の意味もない。
逆に言えば、護衛戦闘機の究極的な目的は、味方爆撃機を落とさせないことだ。
これについても、敵戦闘機を落とすのは手段であって、決して目的ではない。
自分たちが突っ込んでいく相手は、微動だにせず爆撃機を守るべく、空間を占拠している。
なまなかな精神力で出来る物ではなかった。
本当はこちらに気付いていないのではないか。そのような疑念すら浮かんでくる。
しかし、曲がりなりにも空母に離着艦できる操縦士がそのような間抜けなわけがなかった。
「あくまでも、爆撃機を守るってことか……」
古溝飛曹長は、スロットルレバーの機銃発射釦に指をかけた。
「敵機! 上!」
雨音のような雑音に混じり、列機の声が聞こえた。
佐久間二飛曹の声だった。
機内無線機の通話スイッチを入れっぱなしにしていたのが幸いした。
彼はフットバーを蹴飛ばし、機体を滑らせた。
鼻先から焦げ臭い匂いがするくらいの至近を曳光弾が通りぬけていく。
灼熱化したアイスキャンデーのような弾丸の雨が集束していく。
黒に近い青い機体が吹っ飛ぶように降下していった。
グラマンF4Fワイルドキャット。
武骨な山猫だった。
追いかける気もなかったし、物理的に追いつくこともできなかった。
F4Fが本気で急降下したら、初期段階を除き、追尾するのは困難だった。
古溝飛曹長は機体を立て直すと、軸線を敵編隊に向けた。ドーントレス編隊だった。
零戦とドーントレスの空間に、別のF4Fが割り込んでくる。こちらに機首を向ける。やはり数が圧倒的過ぎる。周りは全て敵だった。
撃つしかない。
とにかく、撃ちまくって敵を擾乱する。
真正面からの撃ちあいだった。
構わなかった。機銃発射釦を押しっぱなしにして突っ込んでいく。
7.7ミリと20ミリの火箭と、12.7ミリの火箭が交差する。
ガガガアンッ――
連続した破壊音。機体のどこかに機銃弾を食らったのだ。
「佐久間!」
彼の視界の中に、真っ赤な炎に包まれた零戦を捉える。2番機の佐久間二飛曹であった。
炎の塊となり、礫のように落下していった。
「ぬおぉぉぉ!!」
古溝飛曹長は、操縦桿を目いっぱい引く。機体が急角度で上昇を開始する。
太平洋の空で零戦だけが可能な、上昇だった。追従できる敵機はこの空には存在しない。
失速寸前まで機体を引っ張り上げ、そこで、フットバーを蹴飛ばす、機体が崩れるように姿勢を変える。
上昇からの反転降下――
古溝飛曹長は、狂ったように叫びながら、機銃発射釦を押し続けた。
◇◇◇◇◇◇
「護衛戦闘機隊、敵機と接触。戦闘に入りました」
電探情報を元に誘導された戦闘機隊からの連絡だった。
この情報を得た、第一航空艦隊司令部の反応は様々だった。
不安の色を隠そうとしなかったのは南雲司令官であった。
「源田参謀――」
第一航空艦隊司令、南雲中将はまるで、預言者の言葉を待つ信徒のような目で源田中佐を見つめていた。
古武士のような風貌と、水雷戦の権威として、その豪胆さを評価された男の姿はそこになかった。
それは、どのような有能な人間であっても、人の能力には限界があることを示していた。
ある局面で極めて有能な人間でも、別の局面では全くの役立たずになってしまうことがあるということだった。
南雲司令官は決して無能ではない。そして、航空戦も経験している。
少なくとも、現状の帝国海軍の中ででは、水準以上の機動部隊指揮官といえた。
そもそも、機動部隊の指揮を経験した人間の数が圧倒的に少なかったが。
その彼にしても、いや、航空戦を知っている彼であるからこそ、先手を取られたこの現状の危険性が分かったのだ。
「ここを乗り切れば、我々の勝ちです――」
鷹のような相貌で真正面から、南雲中将を見つめていた。
そこには、彼が多くの敵を作る原因となっている、過剰な自信というものが見えていた。
だが、この局面では彼の自信は、可能性を示す、輝くクモの糸に見えた。
しかしだ――
南雲司令官は、この作戦の意味を考える。
仮に、ここを乗り切り、敵空母撃滅に成功したとしよう。
それでも、今の事態を考えれば、大勝利ではあるだろう。
ただ、その結果、機動部隊が攻撃力を失ってしまった場合どうなるのか?
ポートモレスビーにはまだ有力な航空戦力が残っている。
地上基地との戦闘で、幾分被害を受けていると言っても、その存在は、上陸部隊を乗せた船団にとっては脅威以外の何ものでもない。
(分かっているのか源田参謀は――)
「ずいぶん、強気だが―― 航空参謀」
草鹿参謀長が、あまりにも自信過剰に見える源田をたしなめるように口を開いた。
すでに、第一航空艦隊は、蒼龍を失い、加賀は戦線離脱している。
こちらは、敵空母に位置を露呈しているにもかかわらず、いまだに敵空母の所在を掴めない。
更に、ポートモレスビー上陸を控え、敵基地の撃滅も必須事項となっているのだ。
もはや、作戦は破たんしているのではないか。草鹿参謀長はそのような思考に行きついていた。
当初からのこの作戦が、有効なシンプルさに欠けると草鹿参謀長は感じていた。
第一航空艦隊に担わせる目的が多すぎるのだ。
その不満が、ここにきて一気に噴き出たようであった。
彼は、運よくここを切り抜けたならば、即時反転し、離脱すべきだと考えていた。
今の状態はあまりに危険すぎる。
「二式艦上偵察機より入電! 『ワレ、敵艦隊発見。空母ラシキ物ヲ含ム』です!」
それは、すでに沈んだ蒼龍に搭載されていた最新鋭機だった。
雷撃を受けたときにはすでに発艦しており、喪失を免れていた。
本来艦爆として開発され、「彗星」と名付けられることになる艦上爆撃機。
その偵察機型であった。
零戦21型を上回る550キロ以上の高速艦上機だった。
1942年時点で、これ以上の速度の艦上機は日米ともに存在しない。
この情報が司令部の空気を変えた。南雲司令長官の顔色が目に見えて変わった。
「さあ、敵空母を見つけました。次は、我々が攻撃し、奴らを海の藻屑にすればいいのです」
源田参謀の過剰なまでの自信にあふれた言葉が、赤城の司令室に響いた。
まるで、芝居ががったセリフだと、草鹿参謀長は思った。
しかし、状況がこの男の言うとおりになりつつあるのも認めざるを得なかった。
珊瑚海の空は刻一刻とその色を変えていた。
◇◇◇◇◇◇
「戦闘機に構うな、爆撃機だ。いいか、奴らを空母に近づけるな」
雑音交じりの音であったが、その声は聞こえた。
岩本一飛曹は、そのような指示をわざわざしなければいけない、現状を不安に思った。
岩本徹三一飛曹。日中戦争からの歴戦の搭乗員だった。彼は瑞鶴戦闘機隊の第3小隊を率い、珊瑚海の空を飛んでいた。
以前から、無線電話の改善を要望していた彼であったが、こんなことを指示しなければいけないのは情けないことだとも思った。
しかし、現実に第一航空艦隊の搭乗員の技量は全般的に落ちていると思っていた。
ベテランは疲労が重なり、また補充された未熟練搭乗員の技量は危なっかしいものがあった。
岡嶋大尉からの指示はその意味でも、妥当といえば妥当なものであった。
実際に、戦闘機に飛びかかっていく、奴が後を絶たないのだ。
彼は空戦に対し、凄まじく冷めた。現実感覚を有した男であった。
戦争とは自分が生き残り、1機でも多くの敵を殺すことだと割り切っていた。
生かしておいてはダメだ。生きのこれば、敵は学習し手ごわくなる。
よって、彼は弱った敵こそ、叩き落す目標と決めていた。
同僚からは「それはあまりにずるくないか?」と言われたが、気にすることもなかった「では、そいつを生かして帰してなんの得があるのだ?」と彼は言った。
同僚は黙ってしまった。誰かが、やれねばならいのだ。だから、俺がやる。落下傘降下しようが、不時着しようが、息の根を止める。それが自分の使命だと思っている。
そして、空母戦であるならば、敵爆撃機、攻撃機を第一目標にするのは当然だった。
すでに、敵情報は入ってきている。
戦爆連合200機以上。
こちらは、赤城、飛龍、翔鶴、瑞鶴の4空母から戦闘機100余機だ。
おそらく、戦闘機の数で言えば、互角かそれ以上ではないかと思う。
「あれか……」
岩本一飛曹は青い空にゴマのような黒点を見つけていた。
中隊長機がバンクを振り、大きく迂回する。太陽を背にしての攻撃を行う気だろう。
まあ、敵がそう簡単に許してくれるかどうかは分からないが。
彼の明晰で冷めた頭脳は、すでに自身の戦闘プランを組み立てていた。
「突っ込むのは最初だけでいい――」
誰に言うともなく、独りきりの操縦席の中でつぶやく。
この機数での戦闘である。乱戦になるのは必定だった。
彼は、一度突っ込んだら、空域から離れ、防衛線を突破してきた攻撃機を狙うことに決めていた。
独断であるが、誰かがやるべきことであった。
「全軍突撃せよ――」
思いのほか明瞭な声が響いた。
岩本一飛曹は叩きつけるようにスロットルを操作した。
零戦の栄12型が軛を外されたかのように唸りを上げる。機体が軋むような加速で背もたれに押し付けられた。
第一航空艦隊、100機を超える零戦が、狩を開始した。
◇◇◇◇◇◇
戦闘開始後30分は経過しただろうか。
岩本一飛曹は残弾と燃料を確認する。燃料に余裕があったが、すでに20ミリ弾は尽きていた。
「いい飛行機ではあると思うが、戦闘機としては問題ありだ――」
彼は零戦に対する率直な感想をつぶやいた。
彼自身、零戦は「良い飛行機」だと思っていたが「良い戦闘機」とは言い難い部分があると感じていた。
なによりも、20ミリ機銃の弾数の少なさは致命的であると思っていた。
1門55発の機銃弾を撃ち尽くしてしまうと、零戦の攻撃力は、一世代前の九六戦並みになってしまう。
零戦の戦闘における、火力は実質的に九六戦に毛の生えたような物だと思っていた。
7.7ミリで敵を落とせないことは無い。しかし、それは熟練者の岩本一飛曹にしてから、非常に手間のかかり、危険な作業だった。
彼は、この空で4機目となる獲物を追いかけつつ、それを思った。
被弾しながらも、こちらの空母を目指して飛んできている。アメリカ軍が精神力の無いへなちょこだという奴は、一度、零戦の後ろに乗せて空戦を体験させてやりたいと思っている。奴らは強い。侮れないどころの話じゃない。
今は、こちらの数も練度も敵を上回っている。しかし、これがいつまで続くのか。彼は日々の戦いの中で、アメリカの底知れぬ不気味さを感じていた。
だからこそ、落とせる敵は確実に落とす。
彼の零戦が軽快な音を立て、7.7ミリ機銃を発射する。ドーントレスの主翼付け根に集束した弾丸がバチバチと火花を上げるのが見えた。
やがて、うっすらと煙を吐いて、高度を落とすドーントレス。爆弾を放棄した。
それでも、彼は攻撃を止めない。
一人でも多くの敵パイロットを殺すことが自分の役目であると信じていた。
7.7ミリが操縦員を傷つけたようだった。
ガックリと機首を落とし、そのまま海に突っ込んでいく。
弱々しい飛沫を上げ海面に激突した。
彼は機体を立て直し、失った高度を上げていく。周囲を見張った。
すでに、この空域での戦闘は終息しつつあった。
敵編隊はバラバラとなり、組織だって飛行を行っている機体は皆無に思えた。
すでに、残弾も尽きかけている。
「帰還するか――」
彼は無線電話で補給のため帰還する旨を伝えた。
とくに、返事はなかったが、構わなかった。
彼の零戦は翼を翻すと、母艦へと機首を向けた。
「サイダーでも飲むか……」
彼は慎重にサイダーの栓を抜いて、炭酸を逃がす。
そして、一気に飲んだ。
サイダーは、乾いたのどに気持ちよく流れ込んできた。
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歴史・時代
1929年に起こった世界恐慌。
日本はこの影響で不況に陥るが、大々的な植民地の開発や産業の重工業化によっていち早く不況から抜け出した。この功績を受け犬養毅首相は国民から熱烈に支持されていた。そして彼は社会改革と並行して秘密裏に軍備の拡張を開始していた。
激動の昭和時代。
皇国の行く末は旭日が輝く朝だろうか?
それとも47の星が照らす夜だろうか?
趣味の範囲で書いているので違うところもあると思います。
こんなことがあったらいいな程度で見ていただくと幸いです
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小沢機動部隊
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歴史・時代
1941年4月10日に世界初の本格的な機動部隊である第1航空艦隊の司令長官が任命された。
名は小沢治三郎。
年功序列で任命予定だった南雲忠一中将は”自分には不適任”として望んで第2艦隊司令長官に就いた。
ただ時局は引き返すことが出来ないほど悪化しており、小沢は戦いに身を投じていくことになる。
毎度同じようにこんなことがあったらなという願望を書き綴ったものです。
楽しんで頂ければ幸いです!
蒼海の碧血録
三笠 陣
歴史・時代
一九四二年六月、ミッドウェー海戦において日本海軍は赤城、加賀、蒼龍を失うという大敗を喫した。
そして、その二ヶ月後の八月、アメリカ軍海兵隊が南太平洋ガダルカナル島へと上陸し、日米の新たな死闘の幕が切って落とされた。
熾烈なるガダルカナル攻防戦に、ついに日本海軍はある決断を下す。
戦艦大和。
日本海軍最強の戦艦が今、ガダルカナルへと向けて出撃する。
だが、対するアメリカ海軍もまたガダルカナルの日本軍飛行場を破壊すべく、最新鋭戦艦を出撃させていた。
ここに、ついに日米最強戦艦同士による砲撃戦の火蓋が切られることとなる。
(本作は「小説家になろう」様にて連載中の「蒼海決戦」シリーズを加筆修正したものです。予め、ご承知おき下さい。)
※表紙画像は、筆者が呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)にて撮影したものです。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
旧陸軍の天才?に転生したので大東亜戦争に勝ちます
竹本田重朗
ファンタジー
転生石原閣下による大東亜戦争必勝論
東亜連邦を志した同志達よ、ごきげんようである。どうやら、私は旧陸軍の石原莞爾に転生してしまったらしい。これは神の思し召しなのかもしれない。どうであれ、現代日本のような没落を回避するために粉骨砕身で働こうじゃないか。東亜の同志と手を取り合って真なる独立を掴み取るまで…
※超注意書き※
1.政治的な主張をする目的は一切ありません
2.そのため政治的な要素は「濁す」又は「省略」することがあります
3.あくまでもフィクションのファンタジーの非現実です
4.そこら中に無茶苦茶が含まれています
5.現実的に存在する如何なる国家や地域、団体、人物と関係ありません
6.カクヨムとマルチ投稿
以上をご理解の上でお読みください
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