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その47:珊瑚海は燃えているか? 3
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第一次世界大戦で猛威を振るった最も新しい海の兵器システム。
その速度は? 水中で最大で8ノット。浮上して20ノットも出れば破格と行っていい性能だ。
その防御力は? 小さな穴一個が致命傷になりかねない脆弱な船だ。予備浮力も小さい。
潜水艦の恐ろしさ――
それは「発見されない」ということが前提だった。
この前提が成立する限りにおいて最強の兵器システムといっても過言ではない。
戦艦ですら葬り去る恐るべき兵器なのだ。
しかし、S-44はその優位を失おうとしていた。
「聴音員、データを魚雷方位制御システム(TDC)に送れ」
マドロック潜水艦長はしわしわになった帽子を目深にかぶり直し命じた。
「まってください! それは危険です!」
ナンバーワンが強い口調で言った。潜水艦長を見つめる。
聴音データのみで方位を確認し、魚雷を撃ちだすことは理屈の上では可能であった。
しかし、この状況でそれを行うのは危険があるのではないかと思った。
こちらを狙っている敵は1隻とは限らない。更に、上空には敵機の存在が濃厚であった。
無音潜航により、やりすごすのが得策であると思った。
このS-44は第一次世界大戦後に得た、ドイツのUボート技術により建造されたものだ。
当時は、優秀な潜水艦であったろう。しかし、1940年代の水準では決して優れた性能を持った潜水艦とはいえなかった。
特に、船体は経年劣化により、40メートル潜れば、あちらこちらから海水が噴き出す始末だ。
「敵船団に魚雷を撃ちこむ。決定だ」
「しかし」
「構わん、音源に向かって全魚雷を射出する。その後無音潜航に入る」
マドロック潜水艦長は歴戦のサブマリナーであった。
酒癖が悪く、多くの港町のバーで破壊活動を行い「マドロック立入禁止」の張り紙のある店が二桁を超える。
それでも、こと潜水艦戦に関しては、優秀な男と評価してよかった。
付き合いの長い、先任士官(ナンバーワン)にはその意図自体は理解できていた。
こちらから攻撃を仕掛け、混乱を生み出す。その混乱の中で逃げるというものであろう。
このまま、無音潜航で耐えたとして、攻撃もできず敵船団を見失ってしまう。
それならば、敵に攻撃をかけるというのは一つの選択肢ではあった。
理解はできた。しかし、同意できるかどうかは別問題であった。
それを実行するには、このS-44はあまりにも古すぎた。シュガーボート(同クラス潜水艦の愛称)じゃあ無理だ。
(こいつは最新のガトー級じゃないんだ)
魚雷を発射してしまっては、上空の敵機に射点を特定される。
そして、その後は水上艦艇による爆雷の洗礼だ。
せいぜいが40メートル。無理して50メートルのコイツでジャップから逃げ切れるのか。
「魚雷発射後、発射管に、ありったけのゴミを詰めろ。何でも構わん!」
潜水艦長の決意は変わりそうになかった。
(分かりましたよ。まあ、攻撃するのも気分的には悪くないのは事実ですから)
先任士官(ナンバーワン)はある種の諧謔のこもった笑みを浮かべ、口を開いた。
「私の臭くなった下着でも構いませんか? ジャップが飛びつきそうだ――」
「ナンバーワン、それは上等な餌だな、おい」
「2か月履きっぱなしだったやつです」
「いいねぇ」
ニィィッと牙を見せるような笑みを浮かべ、マドロック潜水艦長は言った。
「目標、敵輸送船団―― 聴音、方位確認 145―045 距離4500 深度調定。魚雷方位制御システム(TDC)解析(ソリューション)」
「了解、TDC入力」
TDC操作員により諸元が入力され、解析が開始される。
旧式潜水艦の中で唯一、新品ともいえる兵器。それが魚雷方位制御システム(TDC)だった。日本の潜水艦に装備されている九二式魚雷方位盤の性能を確実に上回るものだ。
1942年時点では最高水準のアナログコンピュータともいえるものだ。
Mk1にあった不具合を完全に修正したMk3の信頼性は非常に高い。魚雷の信頼性は最低であったが、S-44が搭載している魚雷が旧型であることが今となっては幸いであった。性能は今一つだが、信頼性は高い。そして、商船攻撃であればそれで十分であった。
魚雷方位制御システム(TDC)では、目標の速度、方位データを入力することで、目標の未来位置を計算。魚雷の射進角を自動設定できた。理屈の上では、潜望鏡による視認がなくとも魚雷攻撃が可能となっている。
「位置特定(プロット) 解析終了」
ジャイロによる直進性を担保された魚雷という兵器。それは、当時最も複雑なフィードバックシステムを持った機械装置であった。史実の日本が誘導ロケット「奮竜」を大戦末期に実用寸前までこぎつけることができたのも、この魚雷の複雑なシステムのノウハウを持っていたからだ。
「ファイヤ」
マドロック潜水艦長の声が響いた。
4本の魚雷が圧搾空気に押し出され、海中に射出された。
設定されたデータに従い、射進角に合わせ自動的に舵をとる。
扇状に広がり、敵を包み込むように直進する海中の凶悪な暴力。
頭部に数百キログラムの高性能炸薬が仕込まれた刺客だった。
命中ラインに乗ってしまえば、対策不能の必殺の兵器。それが魚雷だ。
「いつまでも、この海を勝手に出来ると思うなよ、ジャップ」
ドロドロと煮えたぎる様な艦内の空気の中に、敵への呪詛の言葉も放たれたのであった。
◇◇◇◇◇◇
「敵位置、船首方向。距離…… 2000」
艦底にいる聴音班からの報告が伝声管を通り、ブリッジに響いた。
「まあ、そんなものか……」
目深にかぶった帽子の奥から、妙に鋭い目を光らせその男は言った。
風祭少佐。予備役から復帰した男であった。
見た目では年齢の特定が難しい風貌をしている。
少佐の定年が50歳であるから50を下回ることは無いと思われたが、では一体幾つなのかと問われると難しいものがあった。
下手をすると70歳近い老人かと思えば、50歳よりも若いのではないかと思わせるような顔を見せるときもあった。
要するに年齢不詳の得体のしれない雰囲気を持った男であるということだ。
「どうだね? 主計」
唐突に自分が呼びかけられたことに気付き、中根主計中尉は一瞬反応が遅れた。
「積極的に攻撃すべきです!」
とにかく、攻撃、攻撃、攻撃、攻撃だ。
攻撃する意思をみせればいいのだ。
サーチ&デストロイ、見敵必殺――
海軍とはそういうものだろう?
海軍という組織にいささか失望を感じつつあった、彼のすれっからしの精神は、そのような言葉をアウトプットしていた。
彼が、都内の伝統ある大学の商学部から短期現役を志願したのは、単純な海軍に対する憧れからだった。
いや、正直に言えば、軍隊に行くなら陸軍よりも海軍の方がマシであろうという根拠のない思い込みからだった。
実際、それが根拠のない思い込みであったことは、すでに分かっていた。
日本人が作り上げた軍隊という意味で、海軍もまた天国などではなかった。
特に、兵にとっては、陸軍以上の地獄ではないかという思いもあった。
まだ、自分はマシなのだと――
少なくとも、後弾は飛んでこない。
「この艦の爆雷は、いくつだね?」
まるで買い物する際の、値段を聞くような口調で風祭艦長は訊いてきた。
「定数通り、20です」
主計士官として、一応数は把握している。
この特設砲艦に搭載されている爆雷は八八式改一という、昭和初期に開発されたものだった。
骨董品というほどではないが、最大深度調定が45メートルだ。彼自身、実戦での効果に対し少し疑問を感じていた。
軍に入る前から軍艦マニア的なところがあった彼は、兵器のカタログスペックに関し独特の視点を持っていた。
ジェーン年鑑を読むのが趣味だったような男なのだ。
(アメリカの潜水艦は100メートル以上潜れるんじゃないかな)
どこかで読んだことがある不確かな敵に対する情報を脳から漁っていた。
上空では複葉の水上機が、8の字を描くように飛んでいた。
(あれは、零式水上観測機か……)
中根主計中尉はその機体名を特定する。
ただ旋回しているだけなのだが、その機動は素人目にも見事なものであると思えた。
その旋回の交点に潜水艦がいるというのであろう。
それは先ほどの聴音員の報告からかなりずれた位置にあると思われた。
そもそも、艦首から30度は右方向になる。
聴音員には悪いが、この船の聴音データを信じるよりは、航空機の情報を信じた方がいいような気がした。
海軍という組織は、どこか変なところがあった。
聴音という任務が最重要となる、駆逐艦や自分たちのような小艦艇に配属される兵の素質は今一つだった。
最も成績が優秀な兵が戦艦や空母に配属される。
戦艦の聴音員に、最優秀の人間を配置してどうするというのか?
兵器システムとしての役割よりも、「格式」という物が優先されるためだろうと思っていた。
だから、彼はこの特設砲艦「第二天福丸」の聴音データをあまり信用していなかった。
(艦長はどうする気だろう?)
まるで他人事のように中根主計中尉は、風祭艦長を見た。
彼は、小さな、椅子に腰かけたまま動かない。
「爆雷の深度調定は20メートル、45メートルだったな? 主計」
「はい、そうです」
攻撃するにしても深度を決定しなければならない。
どちらか片方に設定するような状況ではないと思った。
両方の深度とりあえず投下する。それしかないだろうと、中根主計中尉は思った。
「哨戒機との通信はできるのかね?」
「難しいですね―― 事前になんの打ち合わせもしてません」
「そうか――」
すっと一呼吸おいて、彼は命じた。
潜水艦の潜航場所について、この艦の聴音員のデータを信じたものだった。
その場所に向かって進む特設砲艦。
速度は8ノット。最大16ノットは出るが、それでは雑音で聴音ができなくなる。
「射出音確認! 魚雷! 敵魚雷を撃ってきました!」
ブリッジの中にどよめきが走った。
その中でも風祭艦長は平然としていた。
豪胆というよりは、状況認識ができていないのではないかと思った。
中根主計中尉の上官に対する評価はかなり厳しかった。
上空では零式水上観測機が海面に向かって降下していた。
機銃掃射をしているのだろうか?
盛んに降下と上昇を繰り返し、射撃を行っているようであった。
それは、敵を攻撃するというより、魚雷発射で暴露した敵位置を教えるための行動に見えた。
そして、その位置はこの艦の聴音員が、特定した位置に近かった。
「突っ込め、最大線速! 絶対に仕留めろ!」
ざわついていたブリッジの空気がビシッと締まる様な声だった。
風祭艦長の声が響いていた。
中根主計中尉はその声を聴き、これから自分が本当に戦争に参加するのだと思った。
なぜだかは分からなかったが。
◇◇◇◇◇◇
「撃ちやがった!」
零観―― 零式水上観測機の操縦席で、神田飛曹長は声を上げた。
「魚雷! 雷跡4―― 味方船団に向かってます」
乱暴なまでに電鍵を叩きながら、藤田一飛が怒鳴るように伝えた。
伝声管無しでも聞こえてくるような声だ。
神田飛曹長は反射的にフットバーを蹴飛ばしていた。機体をターンさせ、雷跡の根元―― つまり発射点に向け、機体を突っ込ませる。
瑞星エンジンの唸りが風切音に混じる。
失策だった――
こんなことなら、爆弾を捨てるんじゃなかった――
今さらながらに自分のバカさ加減に腹がたった。
敵にわざわざ、航空機がいることを知らせ、おまけに攻撃手段も失っているのだ。
緩降下というには、角度の深い降下を行い、機銃の発射釦を押し続ける。
機首から細い火箭が伸び、海面にポツポツとした飛沫が上がる。
7.7ミリ機銃で攻撃したところでどうにかなるものではなかった。
ただ、この攻撃で、味方の特設砲艦とやらが、こっちに向かってくればいい。
チラリと視線を走らせた。軍艦というより、貨物船のような船が直進してくるのが見えた。
それなりに大きな船だ。3000トンクラスか? 下手な駆逐艦よりは大型の船だった。
ただ、その速度はお世辞にも速いということはできなかった。
深い青い色をした海面に真っ白な航跡を引きながら、4本の魚雷は進んでいた。
上手く回避してくれることを願うだけだった。
船団の方は進路を変更しているようには見えない。神経が炙られるような焦燥を感じる。
しかし――
神田飛曹長に出来ることは緩降下と上昇を繰り返し、銃撃をすることだけだった。
彼はただひたすらにその行為を行っていた。
彼は思う。贖罪というにはあまりにもバカバカしい行為であると――
◇◇◇◇◇◇
第三天福丸が爆雷を射出する。後部甲板にある「K」の形をした射出機が火薬の力で250キログラム近い爆雷を撃ちだしていた。
放物線を描き、着水。毎秒3メートルの速度で沈降する。
爆雷の搭載数は20発。これは敵潜水艦攻撃を本気でやる気があるのか疑わしい数であった。
せめて、複数の対潜艦艇で、包囲できればと中根主計中尉は思った。
しかし、それは無い物ねだりだった。
爆雷を搭載している艦は他にもあったが、連携しての攻撃という訓練をしたことがない。
おそらく単艦での攻撃しか選択肢のとりようがなかったのだ。
盛大な水柱が上がる。これが敵潜水艦の墓標になってくれればいいと思った。
水柱は3本。投下された爆雷は5個だ。おそらく20メートルに調定された爆雷が爆発したのだろう。
しばらくの間が空いて、2本の水柱が上がった。
海面が沸騰したようにグツグツと泡立っている。150キロ近い高性能炸薬が海中を引っ掻き回していることは確かだった。
「海面の様子はどうだ――」
風祭艦長が静かに言った。なんの気負いもない言葉に思えた。そして、期待もなかったのかもしれない。
「重油! 浮遊物確認! 敵潜撃破です」
見張り員からの報告がブリッジに上がってくる。
「欺瞞だろう」
莫迦にしたような口調で風祭艦長は言った。その年齢不詳の顔にはどのような表情も浮かんでいなかった。
◇◇◇◇◇◇
「ナンバーワンのパンツ射出!」
爆雷が続けざまに落ちる中、発射管にぶち込められたゴミが圧搾空気で発射された。
その中には腐ったような臭いを発していた先任士官(ナンバーワン)の下着も混じっていた。
この機に乗じ、何枚もの男の臭いがたっぷり染み込んだパンツが発射管から射出されていた。
(バカバカしい。いや、戦争とは斯くのごときバカバカしいものなのかもしれないな)
日本海軍からの爆雷攻撃はS-44の船体を震わせ、老朽化した船殻からは水が噴き出していた。何箇所もだった。
ただ、今のところ、それほど深刻なダメージはなかった。
ぼろ屑と木栓で、浸水箇所はなんとかできそうだった。そもそも、この艦の浸水は日常茶飯事なのだ。乗員も慣れっこだ。
「そろそろか?」
腕時計を見つめたマドロック潜水艦艦長が言った。
その言葉を言い終わって、数秒後だった。
衝撃音が船体を叩いていた。
それは確実に2回続いていた。続けて、断続的な爆発音が響く――
「魚雷。命中音2。命中」
本来であれば、喜びを爆発させるべき戦果だ。しかし、その報告は静かに行われた。
沈黙と熱気が支配する艦内。そこに静かな歓喜が加わろうとしていた。
1942年6月7日――
珊瑚海に黒い炎が舞い上がった――
その速度は? 水中で最大で8ノット。浮上して20ノットも出れば破格と行っていい性能だ。
その防御力は? 小さな穴一個が致命傷になりかねない脆弱な船だ。予備浮力も小さい。
潜水艦の恐ろしさ――
それは「発見されない」ということが前提だった。
この前提が成立する限りにおいて最強の兵器システムといっても過言ではない。
戦艦ですら葬り去る恐るべき兵器なのだ。
しかし、S-44はその優位を失おうとしていた。
「聴音員、データを魚雷方位制御システム(TDC)に送れ」
マドロック潜水艦長はしわしわになった帽子を目深にかぶり直し命じた。
「まってください! それは危険です!」
ナンバーワンが強い口調で言った。潜水艦長を見つめる。
聴音データのみで方位を確認し、魚雷を撃ちだすことは理屈の上では可能であった。
しかし、この状況でそれを行うのは危険があるのではないかと思った。
こちらを狙っている敵は1隻とは限らない。更に、上空には敵機の存在が濃厚であった。
無音潜航により、やりすごすのが得策であると思った。
このS-44は第一次世界大戦後に得た、ドイツのUボート技術により建造されたものだ。
当時は、優秀な潜水艦であったろう。しかし、1940年代の水準では決して優れた性能を持った潜水艦とはいえなかった。
特に、船体は経年劣化により、40メートル潜れば、あちらこちらから海水が噴き出す始末だ。
「敵船団に魚雷を撃ちこむ。決定だ」
「しかし」
「構わん、音源に向かって全魚雷を射出する。その後無音潜航に入る」
マドロック潜水艦長は歴戦のサブマリナーであった。
酒癖が悪く、多くの港町のバーで破壊活動を行い「マドロック立入禁止」の張り紙のある店が二桁を超える。
それでも、こと潜水艦戦に関しては、優秀な男と評価してよかった。
付き合いの長い、先任士官(ナンバーワン)にはその意図自体は理解できていた。
こちらから攻撃を仕掛け、混乱を生み出す。その混乱の中で逃げるというものであろう。
このまま、無音潜航で耐えたとして、攻撃もできず敵船団を見失ってしまう。
それならば、敵に攻撃をかけるというのは一つの選択肢ではあった。
理解はできた。しかし、同意できるかどうかは別問題であった。
それを実行するには、このS-44はあまりにも古すぎた。シュガーボート(同クラス潜水艦の愛称)じゃあ無理だ。
(こいつは最新のガトー級じゃないんだ)
魚雷を発射してしまっては、上空の敵機に射点を特定される。
そして、その後は水上艦艇による爆雷の洗礼だ。
せいぜいが40メートル。無理して50メートルのコイツでジャップから逃げ切れるのか。
「魚雷発射後、発射管に、ありったけのゴミを詰めろ。何でも構わん!」
潜水艦長の決意は変わりそうになかった。
(分かりましたよ。まあ、攻撃するのも気分的には悪くないのは事実ですから)
先任士官(ナンバーワン)はある種の諧謔のこもった笑みを浮かべ、口を開いた。
「私の臭くなった下着でも構いませんか? ジャップが飛びつきそうだ――」
「ナンバーワン、それは上等な餌だな、おい」
「2か月履きっぱなしだったやつです」
「いいねぇ」
ニィィッと牙を見せるような笑みを浮かべ、マドロック潜水艦長は言った。
「目標、敵輸送船団―― 聴音、方位確認 145―045 距離4500 深度調定。魚雷方位制御システム(TDC)解析(ソリューション)」
「了解、TDC入力」
TDC操作員により諸元が入力され、解析が開始される。
旧式潜水艦の中で唯一、新品ともいえる兵器。それが魚雷方位制御システム(TDC)だった。日本の潜水艦に装備されている九二式魚雷方位盤の性能を確実に上回るものだ。
1942年時点では最高水準のアナログコンピュータともいえるものだ。
Mk1にあった不具合を完全に修正したMk3の信頼性は非常に高い。魚雷の信頼性は最低であったが、S-44が搭載している魚雷が旧型であることが今となっては幸いであった。性能は今一つだが、信頼性は高い。そして、商船攻撃であればそれで十分であった。
魚雷方位制御システム(TDC)では、目標の速度、方位データを入力することで、目標の未来位置を計算。魚雷の射進角を自動設定できた。理屈の上では、潜望鏡による視認がなくとも魚雷攻撃が可能となっている。
「位置特定(プロット) 解析終了」
ジャイロによる直進性を担保された魚雷という兵器。それは、当時最も複雑なフィードバックシステムを持った機械装置であった。史実の日本が誘導ロケット「奮竜」を大戦末期に実用寸前までこぎつけることができたのも、この魚雷の複雑なシステムのノウハウを持っていたからだ。
「ファイヤ」
マドロック潜水艦長の声が響いた。
4本の魚雷が圧搾空気に押し出され、海中に射出された。
設定されたデータに従い、射進角に合わせ自動的に舵をとる。
扇状に広がり、敵を包み込むように直進する海中の凶悪な暴力。
頭部に数百キログラムの高性能炸薬が仕込まれた刺客だった。
命中ラインに乗ってしまえば、対策不能の必殺の兵器。それが魚雷だ。
「いつまでも、この海を勝手に出来ると思うなよ、ジャップ」
ドロドロと煮えたぎる様な艦内の空気の中に、敵への呪詛の言葉も放たれたのであった。
◇◇◇◇◇◇
「敵位置、船首方向。距離…… 2000」
艦底にいる聴音班からの報告が伝声管を通り、ブリッジに響いた。
「まあ、そんなものか……」
目深にかぶった帽子の奥から、妙に鋭い目を光らせその男は言った。
風祭少佐。予備役から復帰した男であった。
見た目では年齢の特定が難しい風貌をしている。
少佐の定年が50歳であるから50を下回ることは無いと思われたが、では一体幾つなのかと問われると難しいものがあった。
下手をすると70歳近い老人かと思えば、50歳よりも若いのではないかと思わせるような顔を見せるときもあった。
要するに年齢不詳の得体のしれない雰囲気を持った男であるということだ。
「どうだね? 主計」
唐突に自分が呼びかけられたことに気付き、中根主計中尉は一瞬反応が遅れた。
「積極的に攻撃すべきです!」
とにかく、攻撃、攻撃、攻撃、攻撃だ。
攻撃する意思をみせればいいのだ。
サーチ&デストロイ、見敵必殺――
海軍とはそういうものだろう?
海軍という組織にいささか失望を感じつつあった、彼のすれっからしの精神は、そのような言葉をアウトプットしていた。
彼が、都内の伝統ある大学の商学部から短期現役を志願したのは、単純な海軍に対する憧れからだった。
いや、正直に言えば、軍隊に行くなら陸軍よりも海軍の方がマシであろうという根拠のない思い込みからだった。
実際、それが根拠のない思い込みであったことは、すでに分かっていた。
日本人が作り上げた軍隊という意味で、海軍もまた天国などではなかった。
特に、兵にとっては、陸軍以上の地獄ではないかという思いもあった。
まだ、自分はマシなのだと――
少なくとも、後弾は飛んでこない。
「この艦の爆雷は、いくつだね?」
まるで買い物する際の、値段を聞くような口調で風祭艦長は訊いてきた。
「定数通り、20です」
主計士官として、一応数は把握している。
この特設砲艦に搭載されている爆雷は八八式改一という、昭和初期に開発されたものだった。
骨董品というほどではないが、最大深度調定が45メートルだ。彼自身、実戦での効果に対し少し疑問を感じていた。
軍に入る前から軍艦マニア的なところがあった彼は、兵器のカタログスペックに関し独特の視点を持っていた。
ジェーン年鑑を読むのが趣味だったような男なのだ。
(アメリカの潜水艦は100メートル以上潜れるんじゃないかな)
どこかで読んだことがある不確かな敵に対する情報を脳から漁っていた。
上空では複葉の水上機が、8の字を描くように飛んでいた。
(あれは、零式水上観測機か……)
中根主計中尉はその機体名を特定する。
ただ旋回しているだけなのだが、その機動は素人目にも見事なものであると思えた。
その旋回の交点に潜水艦がいるというのであろう。
それは先ほどの聴音員の報告からかなりずれた位置にあると思われた。
そもそも、艦首から30度は右方向になる。
聴音員には悪いが、この船の聴音データを信じるよりは、航空機の情報を信じた方がいいような気がした。
海軍という組織は、どこか変なところがあった。
聴音という任務が最重要となる、駆逐艦や自分たちのような小艦艇に配属される兵の素質は今一つだった。
最も成績が優秀な兵が戦艦や空母に配属される。
戦艦の聴音員に、最優秀の人間を配置してどうするというのか?
兵器システムとしての役割よりも、「格式」という物が優先されるためだろうと思っていた。
だから、彼はこの特設砲艦「第二天福丸」の聴音データをあまり信用していなかった。
(艦長はどうする気だろう?)
まるで他人事のように中根主計中尉は、風祭艦長を見た。
彼は、小さな、椅子に腰かけたまま動かない。
「爆雷の深度調定は20メートル、45メートルだったな? 主計」
「はい、そうです」
攻撃するにしても深度を決定しなければならない。
どちらか片方に設定するような状況ではないと思った。
両方の深度とりあえず投下する。それしかないだろうと、中根主計中尉は思った。
「哨戒機との通信はできるのかね?」
「難しいですね―― 事前になんの打ち合わせもしてません」
「そうか――」
すっと一呼吸おいて、彼は命じた。
潜水艦の潜航場所について、この艦の聴音員のデータを信じたものだった。
その場所に向かって進む特設砲艦。
速度は8ノット。最大16ノットは出るが、それでは雑音で聴音ができなくなる。
「射出音確認! 魚雷! 敵魚雷を撃ってきました!」
ブリッジの中にどよめきが走った。
その中でも風祭艦長は平然としていた。
豪胆というよりは、状況認識ができていないのではないかと思った。
中根主計中尉の上官に対する評価はかなり厳しかった。
上空では零式水上観測機が海面に向かって降下していた。
機銃掃射をしているのだろうか?
盛んに降下と上昇を繰り返し、射撃を行っているようであった。
それは、敵を攻撃するというより、魚雷発射で暴露した敵位置を教えるための行動に見えた。
そして、その位置はこの艦の聴音員が、特定した位置に近かった。
「突っ込め、最大線速! 絶対に仕留めろ!」
ざわついていたブリッジの空気がビシッと締まる様な声だった。
風祭艦長の声が響いていた。
中根主計中尉はその声を聴き、これから自分が本当に戦争に参加するのだと思った。
なぜだかは分からなかったが。
◇◇◇◇◇◇
「撃ちやがった!」
零観―― 零式水上観測機の操縦席で、神田飛曹長は声を上げた。
「魚雷! 雷跡4―― 味方船団に向かってます」
乱暴なまでに電鍵を叩きながら、藤田一飛が怒鳴るように伝えた。
伝声管無しでも聞こえてくるような声だ。
神田飛曹長は反射的にフットバーを蹴飛ばしていた。機体をターンさせ、雷跡の根元―― つまり発射点に向け、機体を突っ込ませる。
瑞星エンジンの唸りが風切音に混じる。
失策だった――
こんなことなら、爆弾を捨てるんじゃなかった――
今さらながらに自分のバカさ加減に腹がたった。
敵にわざわざ、航空機がいることを知らせ、おまけに攻撃手段も失っているのだ。
緩降下というには、角度の深い降下を行い、機銃の発射釦を押し続ける。
機首から細い火箭が伸び、海面にポツポツとした飛沫が上がる。
7.7ミリ機銃で攻撃したところでどうにかなるものではなかった。
ただ、この攻撃で、味方の特設砲艦とやらが、こっちに向かってくればいい。
チラリと視線を走らせた。軍艦というより、貨物船のような船が直進してくるのが見えた。
それなりに大きな船だ。3000トンクラスか? 下手な駆逐艦よりは大型の船だった。
ただ、その速度はお世辞にも速いということはできなかった。
深い青い色をした海面に真っ白な航跡を引きながら、4本の魚雷は進んでいた。
上手く回避してくれることを願うだけだった。
船団の方は進路を変更しているようには見えない。神経が炙られるような焦燥を感じる。
しかし――
神田飛曹長に出来ることは緩降下と上昇を繰り返し、銃撃をすることだけだった。
彼はただひたすらにその行為を行っていた。
彼は思う。贖罪というにはあまりにもバカバカしい行為であると――
◇◇◇◇◇◇
第三天福丸が爆雷を射出する。後部甲板にある「K」の形をした射出機が火薬の力で250キログラム近い爆雷を撃ちだしていた。
放物線を描き、着水。毎秒3メートルの速度で沈降する。
爆雷の搭載数は20発。これは敵潜水艦攻撃を本気でやる気があるのか疑わしい数であった。
せめて、複数の対潜艦艇で、包囲できればと中根主計中尉は思った。
しかし、それは無い物ねだりだった。
爆雷を搭載している艦は他にもあったが、連携しての攻撃という訓練をしたことがない。
おそらく単艦での攻撃しか選択肢のとりようがなかったのだ。
盛大な水柱が上がる。これが敵潜水艦の墓標になってくれればいいと思った。
水柱は3本。投下された爆雷は5個だ。おそらく20メートルに調定された爆雷が爆発したのだろう。
しばらくの間が空いて、2本の水柱が上がった。
海面が沸騰したようにグツグツと泡立っている。150キロ近い高性能炸薬が海中を引っ掻き回していることは確かだった。
「海面の様子はどうだ――」
風祭艦長が静かに言った。なんの気負いもない言葉に思えた。そして、期待もなかったのかもしれない。
「重油! 浮遊物確認! 敵潜撃破です」
見張り員からの報告がブリッジに上がってくる。
「欺瞞だろう」
莫迦にしたような口調で風祭艦長は言った。その年齢不詳の顔にはどのような表情も浮かんでいなかった。
◇◇◇◇◇◇
「ナンバーワンのパンツ射出!」
爆雷が続けざまに落ちる中、発射管にぶち込められたゴミが圧搾空気で発射された。
その中には腐ったような臭いを発していた先任士官(ナンバーワン)の下着も混じっていた。
この機に乗じ、何枚もの男の臭いがたっぷり染み込んだパンツが発射管から射出されていた。
(バカバカしい。いや、戦争とは斯くのごときバカバカしいものなのかもしれないな)
日本海軍からの爆雷攻撃はS-44の船体を震わせ、老朽化した船殻からは水が噴き出していた。何箇所もだった。
ただ、今のところ、それほど深刻なダメージはなかった。
ぼろ屑と木栓で、浸水箇所はなんとかできそうだった。そもそも、この艦の浸水は日常茶飯事なのだ。乗員も慣れっこだ。
「そろそろか?」
腕時計を見つめたマドロック潜水艦艦長が言った。
その言葉を言い終わって、数秒後だった。
衝撃音が船体を叩いていた。
それは確実に2回続いていた。続けて、断続的な爆発音が響く――
「魚雷。命中音2。命中」
本来であれば、喜びを爆発させるべき戦果だ。しかし、その報告は静かに行われた。
沈黙と熱気が支配する艦内。そこに静かな歓喜が加わろうとしていた。
1942年6月7日――
珊瑚海に黒い炎が舞い上がった――
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