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26.教科書掲載レベルの江戸の蘭学者たちに俺の講義開始
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現代の日本人で籠に乗ったことのある人がいるか?
と、いうようなことを俺は考えていた。
ぶら下がっている紐に捕まりながら。
結構揺れるので、だんだん気持ちが悪くなってきたんだけど。
俺の尻の下には薄っぺらい座布団があって、足を小さくたたんだ姿勢のまま。
江戸時代の成人男子の平均身長は155センチから158センチといわれている。
女の場合はもっと低い。はっきりって町中の女が「田辺京子」くらいだ。
145センチ前後である。あのエロビッチ眼鏡チビも、江戸に来れば平均身長だ。
まあ、中身まで「アレ」だったら悪夢の世界だ。そんなことはありえないだろうが。
実際、江戸に来てから俺はこっちの女性に接する機会は無かったのだけど。
というか「籠」だ。
江戸時代の人の体格に合わせた籠に、175センチの俺が収納され運ばれているのだ。
はっきり言って、1時間これに乗ったら、どんなことでも白状してしまいそうだ。
現代人の俺にとっては「拷問」と同じだった。
それでも、一八世紀の江戸では最高待遇に近いのであるが。
「無事に届いているよな……」
俺は杉田玄白の私塾である「天真楼塾」で今日講義を行うのだ。
講義に使う資料や道具類は、すでに送ってある。
黒板、チョーク、黒板消し――
ノートと鉛筆類もだ。
地球儀、世界地図、日本地図も送ってある。その他のインパクトのある道具も――
それは、俺の講義までは開封厳禁といってある。
講義自体は何とかできそうな気がしている。
一応、講義に関しては、これでもプロなのだ。小中学生相手の進学塾の塾講師としてだが。
人を教えるということは好きだったし、その技術というかコツも分かっているつもりではあるのだ。
社会科の教員免許も小学校から高校まで持ってはいる。
しかしだ――
今回の講義の相手は、江戸時代、一八世紀を代表するような蘭学者たちなのだ。
誰が来るのかまでは知らない。ただ、教科書掲載レベルのメンバーだろう。
「解体新書」を世に出した蘭学者・杉田玄白の名は絶大だろう。
おまけに俺は「天才・平賀源内が認めた学者」ということになっている。
このふたりが声を掛けて集まる蘭学者たちだ……
田辺京子曰く「うーん、そう言う形で講義ですか…… え? 集まる人ですか? 前野良沢、中川淳庵、桂川甫周辺りは確実でしょうね。当時の一流の蘭学者です。後は、工藤平助。そうです先輩。『赤蝦夷風説考』の人です。そうなると…… 林子平とかも。他に蘭学者では司馬江漢、本多利明あたりも繋がり有りますね」
と、スラスラと人物相関図を語るのだ。人間関係図まで、描きだす。
江戸が専門ではない俺でも名前を聞いたことある人物が大多数。少なくとも歴史に名を残した人物ばかりだ。
中には俺の知らない人物もいる。田辺京子はやはり専門家だった。
これでエロゲスでなければ、本当に田辺京子は頼りになるのであるが。
「しかし、蘭学者はいいとして…… 幕府からの人はなぁ~」
俺は独りごちながら、思考を切り替える。
今日の講義の件は、事前に田沼意次にも話を通してある。
俺の話を聞いて、田沼意次は「うむ、国家のためには、良いことだが…… 蘭学者だけか――」と言ったのだった。
で、今回講義を聞きに来るのは蘭学者だけではなくなってしまった。
幕府の役人も何人か参加することになった。
人脈的には田沼派で「天文方」という技術職の人間だ。暦を作る人。
今でいえば「天文学者」だ。
まあ、一八世紀の天文学であれば対応可能だろう。
中学校の理科レベルの知識でもこの江戸では最先端科学に変わる。
そして、蝦夷地調査のメンバーや関係者も参加することになった。
これは、もうバリバリの田沼派たちだ。選抜されたメンバーなのだ。
現代から戻ってくると、必ず田沼意次には会うことにしている。
二一世紀と江戸時代をつなぐトンネルの江戸側の出口は田沼の江戸屋敷なのだ。
老中・田沼意次という存在が権力を握り続けてないと、江戸の改革など絶対にできない。
多忙な老中職(本来は月番制でそれほど忙しくないはず)の中、俺と田沼意次は常に情報は共有しているつもりだ。
で、今回は講義用の道具、機材の他に四輪バギーを一台持ってきた。
おかげで、最大積載量三五〇キログラムのリヤカー二台が満載だった。
それを俺は、電動アシスト自転車で引っ張ってやってくるのだ。一里(約四キロメートル)の道のりを。
俺は中古で走行距離の少ない国産を買った。
江戸で試運転して、蝦夷地で使えそうなら持って行けばいいと思っている。
船外機、無線機の方はまだ俺の家に届いていない。
田沼意次は四輪バギーを見て――
「これが、二三〇年後の機巧の馬か!」
「土岐殿、動かせぬのか? 人が乗れるのだろう」
と、すごく食いついてきていた。
この人は基本的に新しいモノとか、珍しいモノが好きなのだ。
現代から持ってきた「カップめん」は、相変わらず気に入っているようだし。
俺は四輪バギーについては「講義が終わったら試しに走らせますので」と言っておいた。
田沼意次も納得している。
四輪バギーは五〇ccエンジンで日本では公道で走ることができないものだ。
半分、おもちゃの扱いであるが、八馬力のエンジンを搭載した機動力は何かの役に立つのではないかと思う。
「しかし、なんでこんなに忙しいんだ……」
今の俺は、現代と江戸を行ったり来たりして、本当に忙しいのだ。
動けば動くほど、やることが、次から次へと出てくるような状況だ。
以前からの懸案事項である現代での「小判の現金化」もまだ本格的な動きに入れない。
早くなんとかしないと、現代からの仕入が出来なくなってしまう。
現代の物を江戸で売る商売は上手くいっている。
ただ、これを江戸時代の中だけでクルクル回しているだけでは、富は増えないのだ。
長崎貿易、ロシアとの北方貿易―― そして、その先も見据えないといけない。
その意味でいくと、結構今日の講義もかなり重要なのだ。
最初に思っていた以上に、今後の展開に影響を及ぼす可能性がある。
俺は籠の中の紐を握りしめ、窮屈な箱の中でひたすら「天真楼塾」に到着することを待った。
一刻も早く。体が痛くなりそうだった。つーか、もう痛い。膝が痛い。腰が痛い。
でもって、頭はもっと痛いのだけど。
◇◇◇◇◇◇
「これが世界地図です―― 最新のものです」
俺は黒板に世界地図を貼った。正確に言えばマグネットで留めたのだ。
「おお!! これが――」
どよめきが起きる。
三〇人ほどが、俺の講義を聞いているのだ。
だから、俺の方からは「博物学者の土岐航です」と名乗ったが、受講者は誰が誰やら分からんのだ。
この中には教科書に載るような歴史的人物が何人かいるはずだ。
しかし、よく分からない。
当時の肖像画を一応見てはいるけど、それで分かるものじゃない。
総髪の鋭い眼のおじさんが「前野良沢」かなとか見当をつけるくらいだ。
この人は「阿蘭陀の化物」と殿さまに褒められたほどの、オランダ語に通じた蘭学者だ。
語学のことになったら、とても出ないが敵わない。ただ、対応策は用意している――
「いったいこれをどこで? 長崎ですか?」
四〇歳くらいの男が訊いてきた。誰だろう?
「え、貴方は?」
「中川淳庵と申します」
「ああ、解体新書の――」
解体新書を出版に貢献した中心人物の一人だった。
江戸時代屈指の蘭学者だ。
俺の言葉に中川淳庵「いやぁそれほどでもないんですけどね」的な表情を一瞬浮かべる。
「長崎のとある場所ですよ――」
「ほう……」
それで半分くらい納得したような声を上げた。
世界地図自体は、日本に入って来ていないわけではない。
ただ、蘭学者といえど、そうそう目に出来るモノではないのだ。
「日本がここです。で、オランダがここ。この一帯がヨーロッパになります」
ざわ… ざわ… ざわ… ――と空気が揺れた。
「ぬぅ…… 日本がそれほどまでに小さいとは―― その地図に過ちは?」
「貴方は?」
「本多利明と申す」
「ああ―― はい」
蝦夷地調査団に最上徳内を推薦した算学者にして経世(経済)学者だ。
蝦夷地には行くわけではないが、その関係者だ。
田沼意次以上に先鋭的な開国論者というか富国強兵論者みたいになるのだが、この時期はどうなのだ?
「間違いは無かろう―― もし間違っているなら、オランダは日本に来れないだろう」
野太い声。とてもじゃないが学者の声に聞こえない。
「むう、工藤殿がそう言うのなら……」
工藤殿…… もしかして、工藤平助か?
「赤蝦夷風説考」を書き、蝦夷地開発を推進するきっかけを作る蘭学者だ。
ただ、今回はもう田沼政権ではその動きに出ている。
ただ、その未来の実績ゆえに、蝦夷地調査のメンバーに推挙されていたはずだった。
「とにかく、これが世界です。そして、世界は丸い。球なわけです」
俺は風呂敷を外して地球儀を見せた。
これも日本初というわけではないが、かなり珍しいことは確かだ。
「地球が球であることは、確かに理にかなっておりますが…… あらためて見ると不思議でございますな」
「ふむ、なぜに反対側の人間が落ちぬのか…… 謎にござるな」
地球が丸いことは、一八世紀における日本の知識人の間ではもう一般的な常識になりつつある。
実際、大坂の麻田剛立という天文学者などの一派は、ケプラーの第三法則や、地動説も受け入れつつあったのだ。
ここにいる江戸の天文方の役人がどの程度の理解度なのかはよく分からないが。
「地球というのは、巨大な星なのです。天空にある月も星、太陽も星。夜空の星は遠くにあるため、小さく見えているだけです」
俺の説明にポカーンとする者もいれば、必死に何かを書きとめる者もいた。
ジッとタダ俺を値踏みするように見ている者も何人かいる。
「詳しい説明は省きますが、巨大な物は、モノを引きつける力が強くなるのです。これを引力といいます。それゆえ、丸い大地でも人は落ちないのです」
俺は黒板に大雑把な図を書いて説明する。
まあ、この辺りは深入りしてもしょうがないのだ。
「問題は、そこではなく―― これです。こんどは日本の地図ですが……」
俺は黒板に日本地図を貼った。
これこそ、日本人がまだ目にしたことのない正確な日本地図だ。
八代将軍吉宗の前は、各藩が作った地図を適当につなぎ合わせたのが日本地図だった。
さすがに、これではだめだろうということで、吉宗が、山などの境目となる部分の境界線をきちんと決めた地図を作る様に指示。
それで、幾分まともな地図ができてくるが、それでも今から見れば相当雑な地図だ。
「ここが長崎。で、ここが蝦夷地。で、江戸はここです」
俺はポンポンと説明する。
で、ここからが本番だ。
「日本の周囲は全部海なわけです。で、オランダが長崎で貿易をしている――」
「来る気になれば、どこでも行けるということか――」
ポツリとつぶやくような声が聞こえた。
俺は、発言の主を探すが、分からなかった。
下手につついて流れを止めるより、話を先に行かせるべきと俺は判断する。
「長崎だけではなく、来る気になればどこでも来られるわけです。で―― 大神君・徳川家康公の時代には、ポルトガルやイギリスなど他のヨーロッパの国も来ていたわけです。それが、三代目将軍、家光公の時代に、オランダ一国とだけ交易をするようになったのですが……」
俺はここに集まったメンバーをみやる。
蘭学者たちがほとんどだ。
そして、これから俺が言うことは、なんというか蘭学に全てを賭けている者にとってあまりいい話ではないのだ。
「玄白殿―― そもそも、オランダの学問をやっている理由はなぜですか?」
俺は、この中では一番よく知っている杉田玄白に話しかけた。
人間的に、話しかけやすい感じもあるのだ。
「医学ということで言うならば――」
玄白は慎重に言葉を選ぶようにかのように話し始めた。
「わが国には無い知見を多く持っているからですな――」
なるほど、慎重な言い方だった。
この慎重さが寛政の改革の期間も、蘭学を絶やさせなかった手腕なのかと俺は思った。
「では、我が国にない、オランダにもない知見が多く入ってくれば、更に医学は進みますな。どうです?」
「そのような言い方もできましょうな」
俺の問いかけにも慎重に答える杉田玄白。
「日本に無い、オランダにもない。そのような知見がどこにあるのですかな?」
鋭い視線でこっちを見ている男が言った。
なんとなく、肖像画から名前が浮かんでくる。
「前野良沢殿ですか……」
「左様であるが――」
彼は「ほう、俺のことを知っているのか」という感じで言った。
前野良沢は「解体新書」翻訳では最も貢献した人間である。
しかし、その名前は実は表にあまり出てきていないのだ。
しかし、この一八世紀の江戸において語学においては最高の蘭学者と言える存在だ。
さらに、この時期は他の言語にまで研究の手を伸ばしていたはずなのだ。
「良沢殿ならご存知でしょう。ヨーロッパには数多くの国があること」
「然り――」
「オランダの知見だけでなく、あらゆる国の知見を集めれば、より医学は進みませんか?」
「ぬうッ……」
オランダ語の堪能なこの学者とあまり長く話しているとボロが出る可能性もある。
俺は、素早く話題を切り替えるのだ。本題に入る。
「今、ヨーロッパの国の力関係―― それはオランダからイギリスに移りつつあります」
俺の言葉に大きなどよめきが起きたのだった。
と、いうようなことを俺は考えていた。
ぶら下がっている紐に捕まりながら。
結構揺れるので、だんだん気持ちが悪くなってきたんだけど。
俺の尻の下には薄っぺらい座布団があって、足を小さくたたんだ姿勢のまま。
江戸時代の成人男子の平均身長は155センチから158センチといわれている。
女の場合はもっと低い。はっきりって町中の女が「田辺京子」くらいだ。
145センチ前後である。あのエロビッチ眼鏡チビも、江戸に来れば平均身長だ。
まあ、中身まで「アレ」だったら悪夢の世界だ。そんなことはありえないだろうが。
実際、江戸に来てから俺はこっちの女性に接する機会は無かったのだけど。
というか「籠」だ。
江戸時代の人の体格に合わせた籠に、175センチの俺が収納され運ばれているのだ。
はっきり言って、1時間これに乗ったら、どんなことでも白状してしまいそうだ。
現代人の俺にとっては「拷問」と同じだった。
それでも、一八世紀の江戸では最高待遇に近いのであるが。
「無事に届いているよな……」
俺は杉田玄白の私塾である「天真楼塾」で今日講義を行うのだ。
講義に使う資料や道具類は、すでに送ってある。
黒板、チョーク、黒板消し――
ノートと鉛筆類もだ。
地球儀、世界地図、日本地図も送ってある。その他のインパクトのある道具も――
それは、俺の講義までは開封厳禁といってある。
講義自体は何とかできそうな気がしている。
一応、講義に関しては、これでもプロなのだ。小中学生相手の進学塾の塾講師としてだが。
人を教えるということは好きだったし、その技術というかコツも分かっているつもりではあるのだ。
社会科の教員免許も小学校から高校まで持ってはいる。
しかしだ――
今回の講義の相手は、江戸時代、一八世紀を代表するような蘭学者たちなのだ。
誰が来るのかまでは知らない。ただ、教科書掲載レベルのメンバーだろう。
「解体新書」を世に出した蘭学者・杉田玄白の名は絶大だろう。
おまけに俺は「天才・平賀源内が認めた学者」ということになっている。
このふたりが声を掛けて集まる蘭学者たちだ……
田辺京子曰く「うーん、そう言う形で講義ですか…… え? 集まる人ですか? 前野良沢、中川淳庵、桂川甫周辺りは確実でしょうね。当時の一流の蘭学者です。後は、工藤平助。そうです先輩。『赤蝦夷風説考』の人です。そうなると…… 林子平とかも。他に蘭学者では司馬江漢、本多利明あたりも繋がり有りますね」
と、スラスラと人物相関図を語るのだ。人間関係図まで、描きだす。
江戸が専門ではない俺でも名前を聞いたことある人物が大多数。少なくとも歴史に名を残した人物ばかりだ。
中には俺の知らない人物もいる。田辺京子はやはり専門家だった。
これでエロゲスでなければ、本当に田辺京子は頼りになるのであるが。
「しかし、蘭学者はいいとして…… 幕府からの人はなぁ~」
俺は独りごちながら、思考を切り替える。
今日の講義の件は、事前に田沼意次にも話を通してある。
俺の話を聞いて、田沼意次は「うむ、国家のためには、良いことだが…… 蘭学者だけか――」と言ったのだった。
で、今回講義を聞きに来るのは蘭学者だけではなくなってしまった。
幕府の役人も何人か参加することになった。
人脈的には田沼派で「天文方」という技術職の人間だ。暦を作る人。
今でいえば「天文学者」だ。
まあ、一八世紀の天文学であれば対応可能だろう。
中学校の理科レベルの知識でもこの江戸では最先端科学に変わる。
そして、蝦夷地調査のメンバーや関係者も参加することになった。
これは、もうバリバリの田沼派たちだ。選抜されたメンバーなのだ。
現代から戻ってくると、必ず田沼意次には会うことにしている。
二一世紀と江戸時代をつなぐトンネルの江戸側の出口は田沼の江戸屋敷なのだ。
老中・田沼意次という存在が権力を握り続けてないと、江戸の改革など絶対にできない。
多忙な老中職(本来は月番制でそれほど忙しくないはず)の中、俺と田沼意次は常に情報は共有しているつもりだ。
で、今回は講義用の道具、機材の他に四輪バギーを一台持ってきた。
おかげで、最大積載量三五〇キログラムのリヤカー二台が満載だった。
それを俺は、電動アシスト自転車で引っ張ってやってくるのだ。一里(約四キロメートル)の道のりを。
俺は中古で走行距離の少ない国産を買った。
江戸で試運転して、蝦夷地で使えそうなら持って行けばいいと思っている。
船外機、無線機の方はまだ俺の家に届いていない。
田沼意次は四輪バギーを見て――
「これが、二三〇年後の機巧の馬か!」
「土岐殿、動かせぬのか? 人が乗れるのだろう」
と、すごく食いついてきていた。
この人は基本的に新しいモノとか、珍しいモノが好きなのだ。
現代から持ってきた「カップめん」は、相変わらず気に入っているようだし。
俺は四輪バギーについては「講義が終わったら試しに走らせますので」と言っておいた。
田沼意次も納得している。
四輪バギーは五〇ccエンジンで日本では公道で走ることができないものだ。
半分、おもちゃの扱いであるが、八馬力のエンジンを搭載した機動力は何かの役に立つのではないかと思う。
「しかし、なんでこんなに忙しいんだ……」
今の俺は、現代と江戸を行ったり来たりして、本当に忙しいのだ。
動けば動くほど、やることが、次から次へと出てくるような状況だ。
以前からの懸案事項である現代での「小判の現金化」もまだ本格的な動きに入れない。
早くなんとかしないと、現代からの仕入が出来なくなってしまう。
現代の物を江戸で売る商売は上手くいっている。
ただ、これを江戸時代の中だけでクルクル回しているだけでは、富は増えないのだ。
長崎貿易、ロシアとの北方貿易―― そして、その先も見据えないといけない。
その意味でいくと、結構今日の講義もかなり重要なのだ。
最初に思っていた以上に、今後の展開に影響を及ぼす可能性がある。
俺は籠の中の紐を握りしめ、窮屈な箱の中でひたすら「天真楼塾」に到着することを待った。
一刻も早く。体が痛くなりそうだった。つーか、もう痛い。膝が痛い。腰が痛い。
でもって、頭はもっと痛いのだけど。
◇◇◇◇◇◇
「これが世界地図です―― 最新のものです」
俺は黒板に世界地図を貼った。正確に言えばマグネットで留めたのだ。
「おお!! これが――」
どよめきが起きる。
三〇人ほどが、俺の講義を聞いているのだ。
だから、俺の方からは「博物学者の土岐航です」と名乗ったが、受講者は誰が誰やら分からんのだ。
この中には教科書に載るような歴史的人物が何人かいるはずだ。
しかし、よく分からない。
当時の肖像画を一応見てはいるけど、それで分かるものじゃない。
総髪の鋭い眼のおじさんが「前野良沢」かなとか見当をつけるくらいだ。
この人は「阿蘭陀の化物」と殿さまに褒められたほどの、オランダ語に通じた蘭学者だ。
語学のことになったら、とても出ないが敵わない。ただ、対応策は用意している――
「いったいこれをどこで? 長崎ですか?」
四〇歳くらいの男が訊いてきた。誰だろう?
「え、貴方は?」
「中川淳庵と申します」
「ああ、解体新書の――」
解体新書を出版に貢献した中心人物の一人だった。
江戸時代屈指の蘭学者だ。
俺の言葉に中川淳庵「いやぁそれほどでもないんですけどね」的な表情を一瞬浮かべる。
「長崎のとある場所ですよ――」
「ほう……」
それで半分くらい納得したような声を上げた。
世界地図自体は、日本に入って来ていないわけではない。
ただ、蘭学者といえど、そうそう目に出来るモノではないのだ。
「日本がここです。で、オランダがここ。この一帯がヨーロッパになります」
ざわ… ざわ… ざわ… ――と空気が揺れた。
「ぬぅ…… 日本がそれほどまでに小さいとは―― その地図に過ちは?」
「貴方は?」
「本多利明と申す」
「ああ―― はい」
蝦夷地調査団に最上徳内を推薦した算学者にして経世(経済)学者だ。
蝦夷地には行くわけではないが、その関係者だ。
田沼意次以上に先鋭的な開国論者というか富国強兵論者みたいになるのだが、この時期はどうなのだ?
「間違いは無かろう―― もし間違っているなら、オランダは日本に来れないだろう」
野太い声。とてもじゃないが学者の声に聞こえない。
「むう、工藤殿がそう言うのなら……」
工藤殿…… もしかして、工藤平助か?
「赤蝦夷風説考」を書き、蝦夷地開発を推進するきっかけを作る蘭学者だ。
ただ、今回はもう田沼政権ではその動きに出ている。
ただ、その未来の実績ゆえに、蝦夷地調査のメンバーに推挙されていたはずだった。
「とにかく、これが世界です。そして、世界は丸い。球なわけです」
俺は風呂敷を外して地球儀を見せた。
これも日本初というわけではないが、かなり珍しいことは確かだ。
「地球が球であることは、確かに理にかなっておりますが…… あらためて見ると不思議でございますな」
「ふむ、なぜに反対側の人間が落ちぬのか…… 謎にござるな」
地球が丸いことは、一八世紀における日本の知識人の間ではもう一般的な常識になりつつある。
実際、大坂の麻田剛立という天文学者などの一派は、ケプラーの第三法則や、地動説も受け入れつつあったのだ。
ここにいる江戸の天文方の役人がどの程度の理解度なのかはよく分からないが。
「地球というのは、巨大な星なのです。天空にある月も星、太陽も星。夜空の星は遠くにあるため、小さく見えているだけです」
俺の説明にポカーンとする者もいれば、必死に何かを書きとめる者もいた。
ジッとタダ俺を値踏みするように見ている者も何人かいる。
「詳しい説明は省きますが、巨大な物は、モノを引きつける力が強くなるのです。これを引力といいます。それゆえ、丸い大地でも人は落ちないのです」
俺は黒板に大雑把な図を書いて説明する。
まあ、この辺りは深入りしてもしょうがないのだ。
「問題は、そこではなく―― これです。こんどは日本の地図ですが……」
俺は黒板に日本地図を貼った。
これこそ、日本人がまだ目にしたことのない正確な日本地図だ。
八代将軍吉宗の前は、各藩が作った地図を適当につなぎ合わせたのが日本地図だった。
さすがに、これではだめだろうということで、吉宗が、山などの境目となる部分の境界線をきちんと決めた地図を作る様に指示。
それで、幾分まともな地図ができてくるが、それでも今から見れば相当雑な地図だ。
「ここが長崎。で、ここが蝦夷地。で、江戸はここです」
俺はポンポンと説明する。
で、ここからが本番だ。
「日本の周囲は全部海なわけです。で、オランダが長崎で貿易をしている――」
「来る気になれば、どこでも行けるということか――」
ポツリとつぶやくような声が聞こえた。
俺は、発言の主を探すが、分からなかった。
下手につついて流れを止めるより、話を先に行かせるべきと俺は判断する。
「長崎だけではなく、来る気になればどこでも来られるわけです。で―― 大神君・徳川家康公の時代には、ポルトガルやイギリスなど他のヨーロッパの国も来ていたわけです。それが、三代目将軍、家光公の時代に、オランダ一国とだけ交易をするようになったのですが……」
俺はここに集まったメンバーをみやる。
蘭学者たちがほとんどだ。
そして、これから俺が言うことは、なんというか蘭学に全てを賭けている者にとってあまりいい話ではないのだ。
「玄白殿―― そもそも、オランダの学問をやっている理由はなぜですか?」
俺は、この中では一番よく知っている杉田玄白に話しかけた。
人間的に、話しかけやすい感じもあるのだ。
「医学ということで言うならば――」
玄白は慎重に言葉を選ぶようにかのように話し始めた。
「わが国には無い知見を多く持っているからですな――」
なるほど、慎重な言い方だった。
この慎重さが寛政の改革の期間も、蘭学を絶やさせなかった手腕なのかと俺は思った。
「では、我が国にない、オランダにもない知見が多く入ってくれば、更に医学は進みますな。どうです?」
「そのような言い方もできましょうな」
俺の問いかけにも慎重に答える杉田玄白。
「日本に無い、オランダにもない。そのような知見がどこにあるのですかな?」
鋭い視線でこっちを見ている男が言った。
なんとなく、肖像画から名前が浮かんでくる。
「前野良沢殿ですか……」
「左様であるが――」
彼は「ほう、俺のことを知っているのか」という感じで言った。
前野良沢は「解体新書」翻訳では最も貢献した人間である。
しかし、その名前は実は表にあまり出てきていないのだ。
しかし、この一八世紀の江戸において語学においては最高の蘭学者と言える存在だ。
さらに、この時期は他の言語にまで研究の手を伸ばしていたはずなのだ。
「良沢殿ならご存知でしょう。ヨーロッパには数多くの国があること」
「然り――」
「オランダの知見だけでなく、あらゆる国の知見を集めれば、より医学は進みませんか?」
「ぬうッ……」
オランダ語の堪能なこの学者とあまり長く話しているとボロが出る可能性もある。
俺は、素早く話題を切り替えるのだ。本題に入る。
「今、ヨーロッパの国の力関係―― それはオランダからイギリスに移りつつあります」
俺の言葉に大きなどよめきが起きたのだった。
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突如、現代日本の少年のノートにこのような落書きが成された。少年はいたずらと思いつつ、ノートに冗談で返信を書き込むと、また相手から書き込みが成される。
なんとノートに書き込んだ人物は日露戦争中だということだったのだ!
ずっと冗談と思っている少年は、日露戦争の経緯を書き込んだ結果、相手から今後の日本について助言を求められる。こうして少年による思わぬ歴史改変がはじまったのだった。
※地名、話し方など全て現代基準で記載しています。違和感があることと思いますが、なるべく分かりやすくをテーマとしているため、ご了承ください。
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