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6話

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 ローザリンデにとってまともに昼の陽光を浴びるのは何日ぶりだったろうか。
 彼女自身にもよく分からない。

 ただ、屋根裏部屋から呼び出され、大広間にやってきたのだった。
 広間の中央にローザリンデは立たされた。
 そこには、家宰の息子、リカードがいた。

 ローゼリンデの背に嫌な汗が流れた。
 足が震える。

 正面には椅子に座った夫。大領主貴族のファルマッハ侯爵がいる。
 隣にはその妹が座していた。
 ふたりは鋭く、そして蔑むような視線を隠すことなくローゼリンデに向ける。
 肌が突き破れそうなほどに。


 周囲は使用人たちが姿勢を正し整列していた。
 ありえないほどの緊張感に満ちている。
 理由は――
 その理由について、ローゼリンデは心当たりがありすぎだ。
 不義だ。

 まだ少年といってもいいリカードと情を交わしていた。
 孤独と絶望の中にいたとしても、それは夫にとっては裏切りであろうと、ローゼリンデは己だけを責める。
 そんな内面の心を読んだかのように、ファルマッハ侯爵はニヤニヤと彼女を見つめている。

「なんでここに呼ばれたか分かっているようだな。んん~」

 ねめつけるような視線と湿った声。
 死にかけた獲物をいたぶるかのように、侯爵はこの状況を楽しんでいるようだった。

「本当に、お兄様の思いやりを台無しにして! だから教会に、異端審問官に差し出せばよかったのよ!」

 ヒステリックに妹が騒ぎ立てる。

「まあ、まあ、落ち着け。来るよ。異端審問官にはすでに告発状を出している。その前に、離縁の手続きもすんでいるがね」

 ローゼリンデは無言で崩れ落ちそうになる。

「ローゼリンデ!」

 隣に立っていたリカードが彼女を支えた。
 ギュッとローゼリンデの手を握り締める。
 柔らかく細く嫋やかな指をキュッと握った。

「ほほぉぉ、呼び捨てにする間柄かね。これは、反論の機会を与えても無駄なようだな。んん~」

 椅子から身を乗り出し、顎を突きだして侯爵は言った。

「異端審問官が来る前に、いたぶってやろうと思ったが……」

 リカードはローゼリンデの身体を支え、強い視線を侯爵の送る。
 まるで獅子のような眼光だった。少年とは思えないほどの意志の力を感じる。

「私は、ローゼリンデを愛している。アナタの偽りの愛こそ、神のご意志に背く不信心者のものだ。その所業――」

 凛とした声でリカードは言った。
 その声を聞いていると、なぜかローゼリンデの胸の内にあった黒い闇が掻き消えていくようだった。

「あははは、んん~ 使用人の分際で何を言うのかね? 私の所業? 偽りの愛だぁ? 誰がそんなことを証明する」

 ファルマッハ侯爵は部屋の壁沿いに立った使用人をねめつける。
 誰もが無言であった。

「わたしゃ、知ってるよ。このアバズレがっ! 都会の成金の娘が威張り腐って! わたしらを田舎者だとバカにしているに決まってんだ!」
 
 ローゼリンデに食事を運んでいた女使用人が唾を飛ばして言った。
 他の使用人は冷めた目でそれを見ていた。

「お、早いな。もう来たのか」


 鎧戸を開け放った窓から、ひづめの音が流れ込んでくる。
 屋敷の近くまで馬が来たのだ。

 馬の音は止まった。誰かがやってきたのは確かだった。
 大領主の屋敷であるここに馬でやって来れるなど、限られた存在だけだ。
 例えば、異端審問官――

 ローゼリンデは、気がつくとリカードの手を強く握り返していた。
 そして、キッと顔を上げ、紅い瞳を真正面から夫に向けた。
 いや。元夫にだった。

「わたくしは、リカードを愛しております。誰よりも、あなたよりもです。これは神にも恥じることの無い私の中のい真理です」

 それは今までのローゼリンデにはない毅然とした物言いだった。 
 そして、そう言い切る彼女はなによりも美しかった。

 沈黙が大広間を支配していた。
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