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第三章 魔女の町
1.トーブテの間
しおりを挟む落ちる。落ちる。――落ちる。
「うわあああああッ!」
光の中を、ミンネは頭から落ちていった。
底が見えない。
手足をばたつかせ、せめて頭を上にしようと試みる。
息ができない。
(……死ぬのか。私は)
ふっと頭に浮かんだ言葉を、ミンネは全力で振り払った。
(死んでたまるか!)
死ねない。
絶対に死ねない。
ここでは死ねない。
淡い光が、ふいに強くなり、ミンネは目をぎゅっと閉じる。
とたんに、身体はふわりと浮き、落下が止まった。
最後に拳ひとつ分ほどの高さから、落ちるような感覚があった。
ぽすん、と音がして、身体が少しだけ跳ねる。
恐る恐る、目を開けた。
そこには――
「え? ちょ、待って、なに? 誰?」
魔女が、いた。
リノだ。
闇の色をした髪と瞳。
火竜の皮は身に着けていないが、辺りはトーブテの紋章であふれている。
間違いない、やはり、魔女だ。
部屋の中も明るく、窓の向こうも明るい。
島とはまったく別の場所にいるのだ、と身体で感じた。
「魔女よ! すまない、どうしても待つことができず、追ってきてしまった」
「……誰?」
得体の知れないものを見る目で、リノはミンネを見ている。
その理由を、ハッとミンネは思いだした。
「あぁ、そうか。夢でのことは、覚えていないのだった」
ミンネは両手を胸の高さに上げ、危害は加えない、と動作で示した。
「え? ちょっと、なんの話?」
「夢であなたに会っている。あなたの名は、リノだ」
リノはパチパチとまばたきをした。
「……嘘でしょ?」
そう言って、リノはミンネを上から下までじっくりと見た。
ミンネを見たリノは、たしか「魔女にしか見えない」と言っていた。今も同じように思ったのだろうか。
「私を、覚えているのか?」
「覚えてるっていうか……」
それから、今度は下から上まで見た。
驚いたり、途方に暮れたり。
ひとしきり様々な表情を入れ替えてから、リノはおそるおそる、ミンネに尋ねた。
「もしかして……あなた、ミンネって名前だったり、する? えぇと、蒼の国から、来た?」
ミンネは笑顔で大きくうなずく。
「覚えていてくれたのか! よかった。そう、ミンネだ。話が早くて助かる」
マジで、と言ってリノは頭を抱えた。
信じられない、意味わかんないんだけど、あり得ない、と一通りブツブツ言った後、パッと顔を上げる。
「ちょっと時間をちょうだい。……とりあえず、靴ぬいでもらっていい? 日本の家って、家の中では靴を脱ぐの。靴。その、靴」
言われた通りに自分の靴に手を触れる。
見れば、リノは裸足である。
トトリでは、寝台以外で靴をはいたまま過ごすものだが、魔女の街では違うらしい。
そもそも、今ミンネがいるのも寝台の上である。
「なるほど。これは礼を失した。魔女の文化には、敬意をもって対応させてもらいたい。こうしたことが他にもあれば、遠慮なく指摘してくれ」
リノは、ガサガサと紙のようなものを広げた。
そして「そこに靴置いて」と言った。高価な紙に靴をおくのは気が引けたが、これも文化の違いなのだろう。
「あー、えぇと、弓も、矢もダメ。あずからせて」
「……石刀はいいか? 護身用だ」
「ダメ。日本には銃刀法ってものがあるの。刃物を持ち歩くのは禁止」
リノは、白い壁をトン、と押した。
壁が浮き、扉のように開く。
どうやら物置のようだ。
ミンネが、靴と、弓と矢筒、さらに石刀を渡すと、それらをまとめて内部にしまう。
「魔女の技術は、素晴らしいな」
「いや、そもそも魔女じゃないし。どっちかっていうと、ミンネのほうが魔女っぽいと思うけど」
臼山で会った時と同じことを言って、パタン、とリノはまた簡単に扉をしめた。
物置は壁と区別がつかなくなる。
蒼の国で、文化の中心たるトトリ村で生まれ育ったミンネにとって、これほどかけ離れて高度な文化に触れたことは初めてのことだ。
「トーブテ……いや、心臓の紋章にこれほど囲まれている住まいが、魔女の住まいでなくて、なんだというのだ」
「心臓って……いや、心臓っていえば心臓だけど、これ、おしゃれだからね? ファッション。魔女の証とかじゃないから。ほんと。そっちの方が、よっぽど魔女っぽいよ」
夢でのことは覚えていなくても、リノの言っていることは一貫していた。
――私は魔女じゃない。
これは魔女の証じゃない。トーブテじゃなくてハート。真っ黒な服を着ている方が魔女に見える。
ほぼ、同じ内容だ。
「で……なにしに来たの?」
「どこから話せばいい?」
ミンネは、リノの黒い瞳を見つめた。
覚えているのか、いないのか。
臼山で話したことを、どこから繰り返せばいいかがわからない。
「えぇと、たぶんだけど、蒼の国が、危ないんだよね? 竜が怒って、季節が変わらなくなるから」
リノは、ひと言ひと言を確認するように、ミンネに尋ねた。
事の概要は、覚えているらしい。
「そうだ。蒼の国を救うには、魔女の力が必要だ。……力を貸してくれ。宝玉がほしい。もちろん、必要な代償はなんであろうと払うつもりだ」
「ちょっと待って。順番に。ちゃんと確認したい」
前のめりになるミンネを、リノはてのひらを身体の前で開いて止めた。
「私の父が治める村は――」
「トトリ村」
「そう、そうだ。私は長の娘、ミンネだ」
リノは、うんうん、とうなずいた。
「了解。続けて」
「蒼の国の北部の図だ。トトリ村と西の端を接しているのが――」
「ドラド村。北の海を渡ってやってきた、小麦色の髪と、ちょびヒゲの、ヘビみたい目をした男がリーダー、だよね? で、ちょー悪い奴ヤツ」
「よく言ってくれた。ありがとう。魔女よ。ダーナムは、卑劣で欲深い男だ」
感動のあまり、ミンネはリノの肩をポン、と叩いた。この世にドラドの非道を知る者がいる。そう思うだけで心が励まされた。
「ミンネのお兄さんが、火竜の子を殺したって、濡れ衣を着せたんだよね? ミンネは、それに、骨を壺に入れる時に気づいた。……矢じりがあったから」
なにもかも、リノはこちらの事情を知っている。
ミンネは再び「そこまでわかっているのであれば、証を授けてくれ、魔女よ」と頼んだ。
「待って。確認したいから、続けてほしいの」
リノは、再び話の先をうながした。
気持ちは焦るが、ミンネはすべてを話すことを決めた。
魔女のことだ。なにをするにも正しい手順が必要なのだろう。
ミンネは、ドラドとの境で見たことを話した。
「で、責任を取れって言ってきたんだよね? 領土をよこせって」
「楠の森のほとんどすべてを奪われそうになっている」
「で、ミンネに生贄になれって言った。でも、ミンネはうまいこと理由をつけて、竜との絆を取り戻すために、魔女に頼んで、絆を結ぶために必要な宝玉を手に入れるために、魔女のいる山に入った」
「まさしく、その通りだ」
さすがは魔女だ。まったくなにもかもを見通していたらしい。
「そこまでは、私も知ってる。ママに――」
「ママ?」
聞き覚えのない単語だ。
「えぇと、私の、母親。今のなし。忘れて」
「ママ殿か」
「ややこしいな、もう。いいよ。それで。とにかく、私は今の話を知ってるっていうだけ。でも、そっから先はわかんない。たぶんうまくいくと思うんだけど……」
リノの表情は、ひどく険しい。
まるで百年も生きた老女のように深く眉間にシワを寄せている。
「宝玉が要るのだ」
「だから、私は魔女じゃないし、宝玉も持ってない」
また、これだ。
――私は魔女じゃない。
いつもここで話が中断される。
「時間がない。あなたと駆け引きをしている場合ではないのだ」
ここに来て、ややミンネの表情も険しくなる。
「私もあんまり時間ないの。一時には家を出なきゃ」
リノは壁にかかった丸いものを指さした。時刻を示すもののようだ。
「ジュクか?」
「そう、それ。夏期講習」
「ジュウイチマンナナセンエン」
「そう。それ。……っていうか、私、夢でそんな話した?」
「していた。それゆえ、休めないと。しかし、臼山で会った時、あなたは『明日は休みだ』と言っていたぞ。『明後日はシューギョーシキで、午後からカキコーシュー』だと」
ミンネの顔を見て、リノは「めっちゃリアル」と言って苦笑した。
「終業式は今日。これから塾なの。ほんと、悪いんだけど、力になれそうにない」
リノの否定は、魔女の駆け引きなのだと思っていた。いや、思いたかったのかもしれない。
だが残念なことに、嘘を言っているようには見えなかった。
プツ、と希望の糸が、途切れた音が聞こえたような気がした。
ミンネは、宝玉を手に入れること失敗したのだ。
この結果がわかっていたならば、臼山を抜け出し、トトリ村に走る道もあったのではないか。
(いや、無理だ。どちらにせよ、私の足では間に合わなかった)
しかし、後悔は波のように押し寄せてくる。
情けない。
ミンネはぎゅっと目をつむり、叫びだしそうな気持を必死でこらえた。
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