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第8話 希望 Speranza

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     【希望 Speranza】


 からん、と、扉のカウベルが音を立てた。
 居酒屋「スペランツァ」をひとりできりもりしている初老のマスターは、その音にグラスを磨いていた手を止めた。

 店に入って来たのは若い二人の娘だ。
 どうやら観光客らしい。
 この季節に観光に来るのも珍しいものだ、と、彼は思った。

「ふう、寒い、寒い。聞いてはいたけど、ここって本当に冬は寒いよね」
 ダウンジャケットにしっかりとマフラーを巻いた髪の短い娘が、手袋をした手をこすりながら、もうひとりの娘に喋りかけた。
「うん、そうね」
 メガネをかけた長いストレート髪の娘が頷いた。
「雪は滅多に降らないらしいけど、寒さだけは格別だってこの本にも書いてあったし」
 彼女はガイドブックを示して見せる。
「何か、あったかいものでも飲まないと、凍えて死んじゃいそうだよ」
 ふたりは手近なテーブル席についた。

「すみません、マスター、何か温かい飲み物をいただけますか?」

「コーヒー、レモネード? 酒の方がいいかな?」
 マスターは仏頂面のまま、訊ねた。

「う~ん、と……」
 娘たちは顔を見合わせる。
 それから、ふたりで目配せをして見せた。
「やっぱり、お酒かな? あったかいお酒なんてありますか、マスター?」

 マスターは少し考える素振りを見せる。
 それから、うん、と頷いた。
「温かい酒か……。黒ビールをホットにしてスパイスと黒砂糖を入れたもの、とか、赤ワインをホットにしてオレンジ、シナモンあたりを入れたものか、そんなところかな」

「ホットビールにホットワイン?」
 長い髪の娘が不思議そうに首を傾げた。
「美味しいの?」
「飲んでみればわかるさ」
「ふーん。でも私、赤ワインより白ワインが好きなんだけど……」
「酒は色の濃いものの方が体を温めてくれる。だからホットにするには赤ワインだ」
「へ~、そうなんだ。ホットビールも黒って云うのはそう云う理由なの?」
「ああ」
 マスターが嬉しそうに頷いた。
「そうか。それじゃ、あたしはホットビールにしよっかな」
 ショートヘアの娘。
「じゃ、私はワインで」
 長い髪の娘。
 マスターは、わかった、と、云いながら、それらを準備すると、カウンターに置いた。
「ウチはこの通りひとりなんで、セルフで頼むよ」
「はいはい」
 ショートヘアの娘が身軽に立ち上がるとそれらをテーブルに運ぼうとして立ち止まった。

「あれ?」
 彼女はカウンターの奥の棚にひっそりと置いてあった人形に目をやった。


 イーゼルの前に座った絵描き。
 ヴァイオリンを抱えた老人。
 アラベスクをしているバレリーナ。
 箒にまたがった魔女。
 ダークスーツに身を固めた男――まるで殺し屋のようだ。
 風船を持った道化師。
 天使。
 牧師。
 

「わあ。可愛い人形ですね」
 彼女が思わず声に出す。
 長い髪の娘もそれを覗き込んで、手を合わせてにっこりと笑った。

 マスターはその人形たちを一瞥する。

「ああ、それか――」と、マスター。
「それもウチのお客さんなんだよ」
「お客さん?」
「そうさ。お客さんだ。もっとも実際に会ったことはないんだが」
「会ったことはない?」
 意味がわからない、と云うようにふたりの娘は顔を見合わせる。
「そうだ。会ったことはないんだがね」
 それから彼は絵描きの人形を手に取った。

「この絵描きも、そっちにあるフィドル弾きも踊り子も道化師も、もともとはそこの広場――『大道芸人の広場』の大道芸人だったんだよ。いつの頃からかいなくなってしまったけれども」
「大道芸人?」
「ああ。お客さんたちはこの真冬にここに来たから出会うことはないだろうけれども、春めいて来ると何処からかこの広場にやってきるのが大道芸人だ。春のニセアカシアの花見の時、夏の祭りの時、秋の収穫祭の時……冬が来るまではこの広場はそんな連中で賑わっているのさ」
「そうなんですか?」
「そう云えば、ガイドブックにもそんなこと、書いてあったかも――」
「大道芸人って冬には見れないんですか?」
 マスターは首を振った。
「冬は寒くてお客もいないし、彼らは冬眠するか、渡り鳥のように南に行くか、ともかくこの町からは消えちまう」
「へえ、残念だなぁ」
 心底残念そうに、ショートヘアの娘が頬を膨らませて見せた。

「そっちの魔女は、夏祭りのヒロインだったんだよ。とても素敵な娘なんだ」
「そうなんだ」

 ふたりの娘は何を考えているのか、しばらくその人形たちを黙ってじっと見つめていた。
 マスターはそんな様子を口許に笑みを浮かべて眺めている。

 やがて――。

「お嬢さんたち、お酒が冷めるよ」

 その言葉に娘たちは、ああ、と、我に返ったように返事をすると、テーブルに座ってホットビールとホットワインで乾杯をする。
 最初、どんな味なのかな、と、不安そうにしていたが、一口飲むと、満面に笑みを湛えて見せた。

「マスター、これ、美味しい!」
「どうやって作ったんですか? レシピ、教えてもらえますか?」

 そんなふたりの声に、マスターは満足そうな笑顔を見せて、頷いた。
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