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第7話 聖夜 Notte Sacra

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 天使が云う。

「彼が……牧師さんが云ったことは本当だし、あなたが見たものはすべて真実よ、絵描きさん」

「わからない。どういうことだ? 確かにそう云われてぼくは見た。彼らの姿を。たぶん、彼らの真実の姿を。けれども、まだわからない。あれは本当に真実なのか? 君はそれを知っているのか? 教えてくれ、天使さん」

 天使は絵描きの視線を真正面から受け取る。
 彼女の瞳は美しいブルーだ。

「あなたたちはどこで暮らしているの?」
「え?」
「思い出して、絵描きさん」

 どこで暮らしているのか、と云う天使の問い。
 絵描きにはその答えがわからない。
 自分がどこで暮らしているのか、が、わからない。
 かすかな呻き声を上げて、絵描きは自分の体を両腕で抱きしめる。

 そうだ。ぼくは何処で暮らしているのだ?

「あなたたちはいつ眠っているの?」

 天使は続ける。

 そうだ。ぼくはいつ眠っているのだ?
 そもそも眠っているのか?
 食事はどうしていた?

 あの店――「スペランツァ」では確かにマギカの作ってくれたブルスケッタを食べたし、白ワインも飲んでいたけれども、それ以外には何処でどうしていたのだ?

「あなたたちは……いるべきところにいなければならない」
「いるべきところ?」
「さっき、私があなたを連れて行こうとしたところ。あなたが行くべきところ」
「行くべきところ? それは何処だ?」

 天使はその問いには答えずに、ただ目を伏せる。
 それから重々しく口を開く。

「……絵描きさんは不思議な力を持っている」

 不思議な力? 何だ、それは?

「あなたの絵は赤ん坊を……『あなたの子供』の息を吹き返すことが出来た」
「ぼくの子供?」

 それは何のことだ?

「気づいてなかったのね」と、天使。
「地下で出会った女性――あなたの好きだった人が抱いていた子供のことよ。あの赤ん坊はあなたの子供。あの女の人はあなたの子供を身ごもっていたのよ。彼女がそれを知った日。病院で妊娠を告げられた日。……だからあなたが本当はなりたかった画家への道をあきらめて、大道芸人として、ただの似顔絵描きとして暮らしていることに彼女は不安になって、悔しくなって、それであなたに向かって花瓶を振り上げた。そして――」

 彼女は、そこで言葉を切る。
 瞬間、静寂がそこに満ちる。
 ランプの光が揺らいだ。

「そして、あなたを殺した」

 ふっと天使が笑う。
 何ともやりきれない、とでも云うように。

「他の人も」
 天使はさらに続ける。
「さっきあなたが見たとおり。フィドル弾きさんと踊り子さんは水に落ちて死んだ」
「殺し屋さんは心の病で入院していたけれど、そのまま回復することもなく、存在しない奥さんと娘さんを思いながら病院で死んだ。いなかった家族を妄想した思いだけが町に残った」
「道化師さんは子供の風船をとってあげるために高い木に登り、足を滑らせてそのまま転落して死んだ」

 先ほど彼が見た通りだ。
 彼らが「スペランツァ」で語った通りだ。

 それでも残った思いが――希望=スペランツァ。

「みんな死んでいた、のか?」

 確信しているにも関わらず、何かにすがるような思いで、絵描きはもう一度その疑問を口にする。

「そうよ」

 天使は消え入るような声で、しかし、明確に絵描きの疑問を肯定する。

 絵描きはもう一度、マギカを見る。
 マギカは先ほどの首吊り死体ではなく、今までどおりの姿でベッドに腰掛けて俯いている。
 その姿に絵描きは、ほっとする。
 もうマギカのあんな姿を見たくはなかったのだから。

「この町は特別な町――」

 天使は絵描きを抱きしめていた手をほどく。
 それから立ち上がると、両手を腰のあたりで組んで、絵描きに背を向ける。

「この町は彷徨う魂が集まってくる吹き溜まり。だけどみんな自分が死んだことには気づいていない。例えばあなたと会話した人、似顔絵を注文したお客さん、彼らはみんな彷徨っている魂。だからあなたの目に映っていた広場の人たちの半分は生きているけれど、あなたと触れ合った残りの半分はすでにこの世の人ではない」

 みんな、死んでいる――。

「マスターは少しだけ彷徨える魂を感じることが出来るのよ。だから、あんな風にみんなに場所を提供してくれた。彷徨える魂が『スペランツァ』の奥まったあそこに集まって来ていることをおぼろげに知っていた。……けれど、彼にははっきりとあなたや他の人たちが見えている訳ではないから、無愛想に見えた。実は彼はあなたたちが思っているよりは、よっぽど愛想が良い人なのよ。意外でしょ?」

 天使は笑う。
 今の、この重苦しい雰囲気を少しでも紛らわそう、とでも云うように。

 しかし絵描きは笑えない。
 笑えるはずもない。
 天使もそんなことは百も承知であったのだろうが、彼女はそうしないではいられなかったのだろう。

「あなたに救われた人たちは、もう上に行った。旅立って行った」
「救われた人たち?」
「ええ。そうよ。フィドル弾きさんと踊り子さんも、殺し屋さんも、道化師さんも、あなたに描いてもらった自分たちを見て救われたのよ。あなたの子供が息を吹き返したように、みんな幸せな思いを胸に、上に旅立ったの」
「ぼくの絵?」
「そう。あなたの絵。あなたの不思議な力」

 不思議な力? そんなものが自分にあるのだろうか……?
 天使は、ええ、もちろんよ、と、云うように微笑する。

「だからつまり、あなたは知らなかったけれども、あなたは神様のお手伝いをした、と云うことなのよ、絵描きさん」
「ぼくが神様の手伝いをした? ぼくの絵は役に立ったのか……」
 天使の言葉に少しだけ絵描きの心が軽くなる。

 そうか。自分は人々の役に立っていたのか、と。

「そして、マギカさんのこと」と、天使。

「マギカ?」

 絵描きはベッドに腰掛けたままの恋人に目をやる。
 そうだ。自分は彼女の画を描いたのだ。
 ならば、彼女も……。

「彼女もあなたの画になった。とっても素晴らしい画になった。けれども」

 天使はマギカに冷たい視線を送る。

「でも、マギカさんは上にはいけない」

「え?」

 絵描きは、どう云うことなのか、と、天使を見る。
 天使の表情は固く、冷たく、無感情で、それはさながらマギカを人として見ている目ではない。
 まるで何か「そこにあってはいけないもの」でも見るような、そんな眼差しである。
 
「彼女は、マギカさんは……自分に乱暴した男たちをその部屋に転がっていた斧で殴り殺した。そして最後に自ら首をくくった。どう云うことかわかる、絵描きさん? 彼女は知っていたのよ。自分が死んでいることを――」

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