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第7話 聖夜 Notte Sacra

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 何かの気配がした。
 マギカの愛撫に身を任せていた絵描きが、つと目を上げて半地下の部屋の入り口に目をやり、そこに人影あることに気づいた。

 純白の、純潔の小柄な人影。

 天使であった。

 彼女はいつものように屈託のない笑顔を浮かべて、そこに佇んでいた。
 まるで空中から湧き出たかのように、何の気配もなかったそこに彼女は突然現れた。

 絵描きは慌てて、マギカに合図をする。
 マギカもそれに気づき、毛布を胸の上までたくし上げると、天使に目をやる。
 その時マギカの表情が微妙に変化していることに、絵描きは気づいた。
 何かその純白の少女を恐れているかのような表情だ、と、彼は思った。

 だがそれよりも、純粋無垢な少女である天使に、自分とマギカの情事の現場を見せていることに、絵描きは単純に狼狽していた。

「て、天使、さん……」

 彼は内心のそんな思いを隠そうともせずに、いかにもイタズラを見つかった子供のように、決まり悪そうな顔をして少女を見つめた。

「どうして、こ、ここに?」

 改めて考えてみれば、天使はどうやってここにやって来たのだろうか?
 ここに来るには「スペランツァ」のカウンターを通らなければならない。
 いかがわしい居酒屋である「スペランツァ」に天使がひとりで訪れ、マスターの許可をもらってこの半地下の秘密のアトリエに入って来たとは、到底思えなかった。

 だったら、何処から? どうやって?

 その絵描きの疑問には天使は答えなかった。
 ただ、微笑を浮かべたまま、絵描きとマギカを見つめているだけだった。
 ランプで揺れる炎に照らされた天使は、可愛らしい天使そのものであったが、しかし、彼女がマギカに目をやった時、何か得体の知れない感情がその瞳に去来したように見えたのは、絵描きの錯覚だっただろうか。

 天使は手近にあった椅子を引寄せると、それにちょこんと腰掛けた。

「ごめんなさい、絵描きさん」と、天使。
「せっかくのところ、お邪魔してしまって」

 とても少女とは思えない言葉であった。
 絵描きはかすかに背筋に何か冷たいものが走ったような気がして、身を固くする。

「と、云うより……仕方ない人たちね」
 彼女は首を左右に振って、そんな感想を述べた。
「申し訳ないんだけど、服を着てもらえるかしら? 向こうを向いているから」
 そう云って、視線を逸らす。

「時間はかからないでしょ? ただ『そう思えば』いいんだから」

 意味深な台詞。

 それがどう云う意味なのか絵描きにはわからなかった。
 彼は首を傾げて、救いを求めるように自分の背中に顔を埋めて横たわっているマギカに目をやった。
 マギカは、何故かため息混じりに「そうだね」と、呟く。
 その意味も絵描きにはわからなかった。



「迎えに来たのよ、絵描きさん」

 身支度を整えた絵描きを見て、天使はそう云って微笑む。
 それからベッドの前で手持ち無沙汰にしていた彼の手をつかむと、彼の言葉を待たずにその半地下のアトリエの出口に向かって歩き出した。
 彼は慌てて、二、三歩たたらを踏むように足を踏み出した後、立ち止まる。
 天使が、どうしたの? と、云うように振り返った。

「おい、天使さん、どうしたんだ? どこへ行くんだ?」
 絵描きが訊ねる。
「行くべきところ」
「行くべきところ?」
 天使はただ「そうよ」と、ひと言答えた。

「ちょっと待ってくれ。君の云っている『行くべきところ』と云うのが、それが何処かはわからないけど……」

 絵描きはマギカを振り返った。
 悲しげな表情でベッドに座っているマギカがそこにいた。

「ぼくだけなのか? マギカは?」
 天使はゆっくりと首を振る。
「彼女は……ダメよ」
「ダメ、って? どう云う意味だい?」
「ダメなのよ!」

 天使が突き放すように云う。
 それは普段の天使とは思えない厳しい口調だった。
 理由がわからない。
 マギカはダメ、とは、どう云う意味なのだろうか?
 絵描きには自分の手を握っている天使の手が、かすかに震えているように思えた。

「天使さん。説明してくれないか?」

 彼は天使を説得するような口調で訊ねた。
 何を説得しようとしているのかは、自分でもわからない。
 だがきっちりと話を聞かなければならない、と、そう思った。
 そして絵描きがもっと天使の話を聞こうと、すこしだけ前屈みになって天使と視線を合わせようとした時――。

 やあ、と、気軽な声が聞こえた。

 視線を上げるとそこに黒づくめの男が立っていた。
 僧衣を着た彼。
 牧師、だった。

 彼もまた天使と同じように、突然そこに現れていた。

「牧師さん……、どうしてここに?」

 どうして、と云うよりは、どうやって、と訊ねた方がよかっただろうか?

 牧師はゆったりとした仕種で数歩、天使と絵描きに歩み寄ると、にっこりと笑顔を作り、それから絵描きの肩越しにマギカを見た。
 笑顔――しかしそれは、何処か皮肉っぽい笑顔だ。
 何かを企んでいるような「嫌な」笑顔だ、と、絵描きは思った。

 絵描きの心に浮かんだそんな思いを知ってか知らずか、牧師はさりげなく、何もおかしなことなど起こっていないかのように、ごくごく自然に再び視線を絵描きに戻す。
 それから今度はマギカの画が描かれたキャンバスを見つけると、それに歩み寄りしげしげとその画を眺める。
 ふむ、なかなかなものだね、絵描きさん、と、彼は頷いて見せた。

「ねえ、絵描きさん。君はこうやって油絵も描くことが出来るんだねえ。『大道芸人の広場』のしがない似顔絵描きにしておくのは勿体ないな」
「は、はあ……」
 何を云っているんだ? 
「ところで、だ」
 話変わって、と、でも云うように牧師は真顔になると、徐に視線を天使の幼い顔に移した。
 天使が身構えるように緊張した。

「なあ、天使」と、牧師。
「おまえはひどいことをするもんだね」

 その言葉に天使が牧師を見上げる。
 睨みつける。
 その視線には何とも云えない敵意が漲っていた。

「ひどい、ですって?」
「ああ、そうだよ。ひどいじゃないか」
「聞き捨てならないわね」
「おいおい、惚けるのはよくないな。おまえの悪い癖だ」

 牧師の天使にかける言葉は、妙に馴れ馴れしい。
 いや、馴れ馴れしい、と云うよりは、むしろ憎々しげと云った方が正確であっただろうか。

 それほどにその言葉は敵意に満ちていた。
 天使が彼に向ける敵意と同じように――。

「だって、そうだろう、天使? 若い恋人たちを引き離すなんて、それがひどいことじゃなくて、何なんだ? 私にはとても真似が出来ないよ」

 そう天使に告げる牧師の表情には、まるで天使をバカにしているような皮肉めいた笑顔が貼りついている。

「どうして来たの?」
 天使が牧師の言葉を無視して訊ねた。
 いちいち牧師の態度を気にするつもり等ない、とでも云いたげな挑戦的な様子である。
 牧師の方もそれは予想通りだったのか、別に天使の態度に対してどうと云う反応をするでもなく、言葉を続けた。

「お勤めだよ。これが私のお勤めだからね」
「不要だわ、牧師さん。あなたは消えなさい」
「そう云う訳にはいかない」
 牧師は首を振った。
 そして彼は絵描きに目をやった。

 絵描きが不安そうな表情で彼を見返す。
 いったい、何が起きているんだ? と、云う思いをその目に浮かべて。

「ふむ」と、牧師。
「その表情を見る限り……、君はまだ気づいていないんだね、絵描きさん?」

 気づいてない?

 その言葉が何を意味するのか、絵描きにはわからなかった。
 彼はどう反応して良いかわからずに、無言で牧師を見つめる他なかった。

「君は――」と、牧師が続ける。
「真実を知りたくはないかい?」

 その言葉に天使が慌てて絵描きの前で、手を大きく横に広げた。
 まるで彼を邪悪な者から護るかのように。
 その手を牧師はゆったりと振り払う。

「どきたまえ、天使」
「ダメよ」

 天使はさらに絵描きと牧師の間に割って入ろうとした。
 それを牧師は無造作に突き飛ばした。
 とても幼い少女に大の大人がやるべきことではない、やってはいけない行為であった。

 絵描きは思わず、あっ、と声を上げ、反射的に届かない手を伸ばした。
 小さな天使の体が壁際まで飛んだ。
 彼女は背中をしたたか壁に打ちつけ、そのままその場に崩れ落ちそうになる。

「おい、何をするんだ?」

 絵描きが血相を変えて天使に走り寄ろうとするところへ、牧師がその腕をぐいっと掴んで、自分に引寄せた。
 絵描きは、驚いた表情で牧師を凝視する。
 牧師が笑った。

「よく私の顔を見てごらん」
「?」

 何を云ってるんだ、牧師は?
 絵描きは訝しげな表情で牧師の顔を見る。

 そして――。

 次の瞬間、牧師の額にぱっくりと傷口が浮かび上がり、鮮血が滴り落ちた。
 額、と云うよりは、頭が半分吹き飛んでしまったような誰が見てもそれとわかる致命傷を負った牧師の顔が、絵描きの眼前にあった。
 不自然なのは、それでも牧師の顔に笑顔が浮かんでいたことであったが。

 絵描きは息を飲む。
 喉の奥からくぐもった悲鳴が発せられた。

 その反応を血まみれの牧師は満足そうに眺めて、くすくすと笑い声を立てた。

「わかったかい?」と、牧師。
「見えるだろう? これが真実だ」

 牧師は淡々と、絵描きにそう告げたのだった。
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