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第6話 天使と牧師 Un Angelo e Un Ecclesiastico

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 とある春の日の日曜日――。

 ミサが無事に終わり、人々が三々五々教会を出て町の中に散って行く。
 牧師はそれを見送りながら、また来週、と、彼らに挨拶をし、彼らも牧師に同じように挨拶をする。
 それが毎週の風景である。
 厳しい寒さの季節が過ぎ、まもなくニセアカシアの白い花が広場を彩る季節の到来は、ミサに訪れる人々には、どこかワクワクと心を躍らせる季節でもある。

 しかし牧師は笑顔で挨拶を交わしながらも、内心では決して愉快な気分ではなかった。
 つい先日、大聖堂からやって来た大司教様の使いと名乗る男が、彼と彼の教会について悪い知らせを運んで来たからだった。

 この教会は大聖堂のお膝元である。
 それにも関わらず、この数年間は神父不在であり、それは教会としてはあまり好ましくない状況であった。
 神父不在の理由は明確だ。
 この地に着任した神父たちは大方は大聖堂に勤務することを望んでいて、町の片隅の小さな教会の神父となることは望んでいなかった。

 彼らにも野望があるのだ。
 宗教は、神への思いは、いったいどうしてしまったのだ、と、牧師はいつもそう思っていたのだが、そんな風に考えている者たちは少数派でしかなく、たいていの神父はより大きな教会で、より経験を積み、より権力をを手に入れようと、そんなことを考えているものであった。

 大聖堂からやってきた使いの男は、そんなありふれた話をした後、いずれこの教会は廃されることになるかも知れない、と、そんなことを牧師に報告した。
 そもそも大聖堂のあるこの町に、他に教会を作る必要などなかったのだ、と、彼は淡々と牧師に向かって告げた。
 もちろんそれは牧師の責任ではないのだが、それがさも牧師のせいであるかのように、使いの男は語って見せた。

 牧師は仕方なくそれには同意を示して見せはしたが、毎週日曜日になればこうして町に住む人々はミサに顔を出してくれたし、時には町の人たちのボランティアの協力を得てジプシーたちに食べ物を振舞うことも出来た。

 大聖堂ではそんなことはしてくれない。

 彼らはジプシーたちにはそれほど構っているヒマがないのだろう、と、牧師は思っている。
 それはそれで仕方ないことも理解しているが、だからこそこうした小さな教会での小さな活動が必要なのだ、と、ずっと信じていた。

 そんな牧師であったから、使いの男の語った大司教様の決定事項、と云うのが腑に落ちなかったし、驚いたのであった。
 彼の着任先は保証する、と、使いの男は云っていたが、さりとて、はい、そうですか、と、あっさりと認めるには、牧師はこの地のこの教会に根付き過ぎていたのかも知れない。

 そして、それに加えて――。

 牧師はすでにミサが終わったと云うのに、信者たちの集まる身廊の一番前の席に未だに腰掛けて、一心に祈っている少女に目をやった。

 ふわふわとした金髪の少女。
 彼女はいつもそこでそうして祈っている。
 彼女の祈りは決まっている。
 両親に会わせてください、と、云うそれだけだ。

 まだ十歳かそこらであろうが、少女は数ヶ月前にこの教会の前で行き倒れていたのを、牧師が見つけて保護しているのだった。
 牧師がミサに訪れた最後の人々を見送り、表の扉を閉じて彼女に近づいて行くと、彼女はゆっくりと顔を上げて牧師を見つめて微笑した。

「ねえ、牧師さん。今日はいつもよりたくさん人がいらっしゃいましたね?」
「ああ」と、牧師。
「そうだね。だいぶ気候も良くなって来たから、みんな外に出てみたくなったのだろう」
 少女はその言葉に屈託のない笑顔を見せて、頷いた。



 春がゆっくりと過ぎて行く間、教会には何度か使いの者はやってきた。
 その度に牧師は教会の存続を訴え、廃止された場合の課題を彼に説明し続けた。
 だがその交渉は捗々しく進まず、やがて夏が近づいて来る頃には、牧師は疲れ切ってしまっていた。

 いつの頃からか牧師は酒を飲むようになった。
 最初はちょっとして気分転換のつもりだったそれは、一日にグラス一杯、が、一日にグラス五杯、になり、いつしかワインボトル一本、ついにはほぼ常時酒びたりとなるまでになっていた。

 牧師の酒量が増えるに従い、人々は教会に集まらなくなった。
 酔いどれ牧師の説法にありがたみがあると思うほど、町の人々は盲目的に宗教にのめりこんでいる訳でもなく、祈りたい時には多少の時間をかけても大聖堂に行けば良いのだと割り切って、結果としてこの教会を訪れることがなくなって行った。
 大聖堂は決して貧乏人に門戸を開かない訳ではなく、彼らが大聖堂でなくこの教会を選んでいたのは、単純に近くて便利だったからに他ならない。
 牧師はそんなことにもあまり気づいていなかったのだ。

 そんな風に牧師の酒が増え、日がな一日酩酊状態でいることで、少女は彼に放っておかれることが多くなった。
 まともな食事が与えられることもなくなって来たおかげで、彼女は見る見る痩せ細って行った。
 それでも少女はその教会から出ることは出来なかった。
 他に行くところもなかったのだから。
 夏が近づいて来た頃には、ついには一日まったく食事を与えられなくなり、少女はぼんやりとした表情で朝から晩まで祈り続けるだけになっていた。

 そして、ある日。

 教会の入り口で座り込んでいた彼女の前を、買い物帰りらしい老女が行き過ぎた。
 その買い物荷物から顔を出していたバゲットを目にした時、少女の空腹は限界を超えていた。
 少女はその老女に走り寄り、彼女を押し倒した。
 老女の悲鳴が上がり、周辺の人々が振り返った。
 少女は何も云わずに老女からバゲットをひったくると、そのままそれを抱えて一目散に教会の中に駆け込んだ。

 周囲の人々は何が起こったのか、よくわからなかったのだろう。
 ただ、老女が倒れているのを見つけて、すぐに救急車が呼ばれた。
 だが誰一人、少女が老女の持っていたバゲットを盗んで行ったことには気づいていないようであった。

 少女はそれを神の思し召しだと、そう信じた。

 それから何度も少女は「盗み」を働いた。
 彼女が狙うのは弱者であった。
 彼女自身が弱者であり、だから自分と同等な相手かそれ以下の相手を狙い、また、やり方も少しずつ巧妙になって行った。
 彼女はそうして半年の間、食いつないでいた。
 牧師は常にアルコール漬けになり、いつもぼんやりとして虚ろな目をしているばかりだったから、少女がそんなことをしていることにはまったく気づいていなかった。



 やがて冬がやって来た。
 その日もいつものように少女は牧師の目を盗んで教会を抜け出すと、商店街の裏通りにじっと蹲って「獲物」を待っていた。
 すでにその頃には彼女の盗みの技は子供のそれではなく、いっぱしの盗賊のそれであった。
 相手を見定め、隙をついて、場合によっては相手に怪我をさせたとしても、それはそれで神の思し召しのためには仕方がないことだ、と、勝手にそう思うようになっていた。

 そしてその日、少女は若い母親につれられた自分と同い年くらいの娘に目をつけた。
 娘はフルーツやパンがはいったバスケットを持って、母親と手を繋いでにこやかに歩いていた。
 その笑顔が少女を苛立たせた。
 自分には両親がいない。
 だからそんな風に笑いあって町を歩いた記憶もない。
 おまけにいつもこんなに空腹である、と云うのに、何故、あの娘はあんな風に楽しそうに笑っているのだ、と、そう思った。

 少女は素早くふたりの背後に回り、そっと母娘を追って行く。
 そして母親がふと娘の手を離して、ショーウインドウの中の何かに気をとられた瞬間、少女はその娘に襲い掛かった。

 強引にバスケットをひったくる。
 娘は一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 その隙をついて少女は一目散に走り去る。
 だが、母親がすぐにそれに気づいた。
 母親が叫ぶ声が聞こえた。
 そんなことは織り込み済みだ、と、少女は幼い頭で考えていた。
 逃走経路は決まっている。
 彼女は手近な路地に駆けこみ、勝手知ったる迷路のような裏通りを走り抜ける。
 多少、遠回りをしながらも、少女はいつものように町の中を通り過ぎ、やがて、教会の横にある塀の穴を抜けて教会の前の広場に辿り着いた。
 後ろを振り返って見たが、誰かが追って来る様子はなかった。

 彼女は安心したように吐息をつくと、教会に入って行った。

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