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第4話 殺し屋 Sicario
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しおりを挟むその壮年の男はいつもふらりと居酒屋「スペランツァ」に現れる。
全身黒づくめのスーツ姿にきっちりとネクタイを締めて革靴を履いているが、決して普通のビジネスマンではないと思わせる欝とした雰囲気を纏って――。
そして彼は、革靴を履いていると云うのにまるで黒猫のように音もなく店に入ってきて、黙ってカウンターに陣取る。
言葉少なにバーボンを注文し、しばらく寡黙なままそれを味わった後、来た時と同じように影のように店を出て行く。
この店ではそんな彼のことを『殺し屋』と呼んでいる。
本当に彼の職業がそんな剣呑なものなのかどうかは誰も知らないが、ともかく彼はそんな名前で呼ばれている。
そして今日も彼は、突然店に現れていつものようにバイトの娘――マギカにバーボンをロックで注文するのだ。
「ねえ、殺し屋さん?」
好奇心旺盛なマギカが声をかける。
今まで何度かそんな機会を窺っていた彼女が、ついに我慢しきれずに声をかけた、と云うところである。
殺し屋は、そんな彼女を一瞥するが、その表情には一片の感情の欠片も見えない。
一瞬、マギカは声をかけたことを後悔する。
同じくカウンターでいつもの白ワインを飲んでいた絵描きも、それは同じである。
彼もまた以前から殺し屋の顔は知っていたが、その「人を寄せつけない雰囲気」のために、どこか話しかけるのを躊躇ってしまい、一度も彼と会話をしたことはない。
だからそんなマギカと殺し屋の様子に、絵描きはワイングラスを口に持っていこうとしたところでその手を止めて、彼がどんな反応をするのだろうか、と興味をもってふたりを黙ったまま眺める。
「殺し屋?」
黒づくめの男は怪訝そうに呟く。
「それはおれのことか?」
考えてみればその名はこの店での暗号のようなものである。
男がその呼び名で呼ばれたのは、これが始めてのことであろう。
マギカが慌てて両手をまるで今の言葉を否定するように横に振ると、愛想笑いを浮かべて見せるが、その表情はやや固まっている。
やっちゃった、と、云う内心を露わにして。
物怖じしないマギカにしても、殺し屋のそんな様子には何か不穏なものを感じているようだ。
「ああ、ご、ごめんなさい。……その、名前を知らなかったから」
マギカが云うのへ、しかし、殺し屋はかすかに笑みを返して見せる。
「殺し屋、か……。悪くない」
彼は頷く。
「気に入った。もっともおれは本当の殺し屋ではないし、そんな風に呼ばれるほどには悪人でもないし、強くもないが」
その言葉にマギカはあからさまにほっとした様子を見せる。
一瞬彼女は本当に彼が殺し屋で、そう呼ばれたことで彼が懐から銃でも取り出して、彼女に向けて引き金を引くのではないか、と、そんな風に思ったからだ。
それが現実離れした妄想であることはわかっているが、そんな雰囲気を確かに殺し屋は持っていたのだから。
「おれは――」と、殺し屋。
「そんな様子に見えるのか?」
その問いにマギカは、助けを求めるように絵描きを見る。
おいおい、ぼくに振るのかい? と、迷惑そうな表情を見せた後、絵描きも慣れない作り笑いを浮かべる。
そして『恋人』へ助け舟を出すように、殺し屋に向き直る。
「いつも、その、何と云うか隙がない様子ですし、そんな風に黒づくめなもので、彼女もぼくたちもそう呼んでいたんです。――あ、ぼくは絵描き。『大道芸人の広場』で似顔絵を描いています」
殺し屋は絵描きに目をやって、まるで彼を値踏みするように見つめる。
絵描きも少しばかり緊張する。
確かにマギカが、銃を抜くのでは? と、思ったとしても不思議ではない鋭い目つきである。
「絵描き、か。――別におれのことは殺し屋で構わない。そもそもこの町に流れ着いた者たちに本名など無意味だろうし」
「そうですね」
絵描きは頷いて見せる。
それからカウンターの中のマギカを差して、彼女はマギカ、と呼ばれています、と、紹介する。
「魔女と絵描き。面白い組み合わせだな」
殺し屋は何が面白かったのか、くっくっ、と、笑って見せる。
「おまえたちも、希望、を求めてこの店にいるクチか?」
彼はふたりを代わりばんこに眺めて、訊ねる。
「希望? そうですね。そうかも知れません。いや、そうだったかも知れません」
絵描きはそう答える。
殺し屋の問いの意味がよくわからなかったからだ。
「そうだった、か。つまりは今はそうでもないのか……」
彼は、なるほど、と云うように、頷く。
「まだ希望を求めているのは、おれくらいのものかも知れないな」
彼は自嘲的にかすかな笑みを浮かべる。
「殺し屋さんの希望って、何?」
マギカが、相変わらずの無謀なほどの好奇心を剥き出しにして、目を輝かせる。
こんな雰囲気の中でよく無神経にそんなことを訊ねられるものだな、と、絵描きは舌を巻かずにはいられない。
どう考えても、あまり楽しいことではなさそうだとわかるだろうに、と、絵描きは思う。
殺し屋はロックグラスの中の氷をじっと見つめる。
何かに思いを馳せるようにして。
沈黙が続く。
それから彼は絞り出すように、こんな台詞を口にする。
「世の中には不思議なことがあるものなんだが……」
殺し屋は徐に懐に手を入れると、一葉の写真を取り出した。
彼は少しの間、それをじっと見つめた後、カウンターに置いた。
絵描きとマギカはその写真を覗き込む。
特に変わった写真ではない。
そこはこの町の外れにある教会の前で撮られた写真であり、そこには殺し屋が笑顔で写っていた。
なるほど、殺し屋は笑うとこんなにも幸せそうなんだ、と、絵描きもマギカもそう思った。
その笑顔はまるで家族写真で見せる父親の表情である。
だが――。
その写真は彼一人だけの写真だった。
「どう思う?」
殺し屋はふたりに訊ねた。
「どう、って――」
マギカは首を傾げて見せる。
「これって、殺し屋さんでしょ? いつも仏頂面をしているけど、この写真の笑顔はなかなか素敵だよ」
「そうか」
が、絵描きはその写真に何か違和感を感じて、じっとそれを見つめていた。
何か、おかしい。それが何だかわからないが、どうにも収まりの悪い違和感がこの写真にはある、と、そう思った。
その絵描きの様子に殺し屋は気づいたようだ。
「あんたは何か気づいたようだな」
「ええ。いえ、気づいたと云っていいのかどうか……」
「え? 何? 教えてよ、絵描きさん」と、マギカ。
「いや、ぼくにもよくわからないんだが」
そう云ってさらにじっと写真を見つめる。
やがて、何かに思い当たったように頷くと、絵描きは殺し屋に向き直った。
「あの、不自然ですね、やっぱり。――何だか、ほら、この写真、殺し屋さんの左側が不自然に空いている、と、云うか……」
その絵描きの言葉にマギカがもう一度写真を見た。
「ん~? なるほど。云われてみればそうかもね。まるで殺し屋さんの左側に他にも人が写っていた方が自然な気がする。収まりが悪い写真、だね。確かに」
それを聞くと殺し屋はふたりに満足そうに頷いた。
「さすがは絵描きさんだ。構図、と云うのか? そう云うことには敏感らしい。その通りだ」
「どう云う意味、ですか?」
「つまり、だ」と、殺し屋。
「ここには他にも人が写っていた。……そのはずだった」
「人が写っていた、はず?」
「そうだ。ここにはおれの妻と娘が写っていた」
殺し屋は云いながら、写真を手に取ってじっと見つめた。
その双眸には何とも理解しがたい彼の感情が浮かんでいるように見えた。
「話を聞くかね?」
彼は云った。
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