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第3話 魔女 Maga

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 夕闇が迫っていた。
 冬の日は短く、旧市街の石造りの町には、丘の上の古代遺跡のくっきりとした影が長く伸びている。

「そろそろ、帰ろうか?」

 絵描きが左腕にしがみついたままのマギカに声をかけた。
 彼女は残念そうな表情で、絵描きを見上げる。

「うん。もっともっと、一緒に遊んでいたいけど……」
「明日も、明後日も、ぼくはヒマ人だよ」

 絵描きの言葉にマギカは、くすっ、と笑い声を上げる。

「そうだったっけね。でも、あたしはこれでもバイトしてるから、そんなにヒマじゃないんだよ」
「ああ、そうだね。今日はバイトは?」
「お休み。だからヒマ人につきあってあげたんじゃない。感謝してね。明日は『スペランツァ』にいるよ」
 どちらかと云えばつきあったのは自分の方だと思うが、と、云う言葉を絵描きは口には出さなかった。
「じゃ、また『スペランツァ』に行くよ」
「うん。そうして」

 そしてマギカは、陽気に笑う。
 本当によく笑う娘だ、と、絵描きは思う。
 ただ、笑いすぎるような気がする。それはどこか彼を不安にさせた。その笑顔が何処か不安定なものに見えるのだ。

「あ、それから」と、マギカ。
「あの、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん。あのさ、あの……私をモデルに絵を描いてくれないかな?」
「絵? 似顔絵か?」
「ううん。ちゃんとした肖像画がいいな。それも油絵がいい。――出来るなら、だけど」

 肖像画、か、と、絵描きは視線を宙に彷徨わせる。

「まあ、正直なところ、あんまり描いたことがないんだ。特に最近は」

 似顔絵描きになってからは、と、内心で自嘲気味にそう答える。

「そうなの? でも描けるんでしょ?」
「一応、勉強はしているからね」
「ヌードでも?」
「君の、か?」
「うん」

 何故か期待しているような目をするマギカ。
 絵描きは首を振る。

「着衣で頼むよ」
「頼んでるのはあたしなんだけど」

 クライアントがせっかくヌードで、って云ってるのにな、と、呟く。

「まあ、着衣でもいいけどさ。それじゃ、決まり。油絵でね」 
「わかったよ。……ただ、アトリエがないな」
「アトリエ?」
「油絵で本格的に肖像画を描くとなると、短時間でさくさく、と云う訳には行かないからね。ある程度の期間、使えるアトリエがないと――」
「ふーん、アトリエか……」

 マギカは腕を組んで、う~ん、と、唸り声を上げる。
 それから、あ、そうだ、と、独りごちると、またいつもの笑顔を絵描きに向ける。

「いいところがあるよ」
「いいところ?」
「うん。お店の――『スペランツァ』の裏に、半地下の倉庫があるんだよね。マスターが普段使わないものを置いている場所なんだけど。そこでどうかな?」
「半地下? 暗いんじゃないか?」
「だってさ、あの、何ちゃら云う『光の画家』とかが描いた絵で、斜めから光が入ってきてるのがあるじゃない? あんな感じになると思うよ」
「中途半端な知識だな。それって、フェルメールのことか?」

 まいったな、と、絵描きは頭をかいた。

「よしてくれよ。そんな偉大な画家を引き合いに出すのは。それに彼の絵は、ちゃんとした窓からの光だし、綿密な計算の上に描かれているんだから、おこがましくて真似するのだって恥ずかしい」
「大丈夫だよ、絵描きさんなら。あたしが保証する」

 安請け合いも甚だしい。

「ね? ダメ? マスターにはあたしからお願いするから」

 本気なのか、と、絵描きはマギカをじっと見つめた。
 彼女は、もちろん、と、彼を見つめ返す。

「……わかったよ」
「ほんと?」
「ああ」
「やったぁ。嬉しい。実は今の若々しくて美しいあたしを記録に残しておきたかったんだよね」
「若々しくて、美しい、か……」
「ん? 何か異存があるの?」
「いや、そんなことはないさ」
「だから、ヌード」
「それはダメだ。と云うより、なぜヌードになりたがるんだ?」
「ちぇっ。せっかく友達になったお礼に見せてあげようと思ったのに」

 マギカは心底残念そうである。
 最近の女子大生ってのは、みんなこんな感じなんだろうか、と、絵描きは肩をすくめて苦笑せざるを得なかった。

「勘違いしているみたいだけど」と、絵描き。
「画家がモデルを見る目と云うのは、ヌードだろうが、着衣だろうが、リンゴだろうが、山だろうが、同じなんだよ。その造形を写しとるんだから。君の云う『お礼』にはならないな。お礼だったら別ので頼むよ」
「ふーん、モデルはただの『物』でしかない、ってこと?」
「そうだ」

 しかし絵描きの言葉にマギカはゆっくりと首を振る。

「それは違うと思うな」
「違う?」
「だって云ってたじゃない? 絵描きさんは描く相手に『愛情』をもって接するんでしょ?」 

 なるほど、さっき自分でそんなことを云ったっけ、と、絵描き。

「そうか。そうだったな」
「そうだよ。だからヌードの方が『愛情』を注ぎやすいかな、って」
「『愛情』を注ぐのに、ヌードでも着衣でも同じだよ。やっぱりちゃんと通じてないような気がするけども、まあ、いいさ。ともかく引き受けた。マスターに話をしておいてくれるんだな?」
「うん、任せといて」

 マギカは胸を、どん、と叩いて、笑って見せた。
 本当に嬉しそうに。
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