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第2話 フィドル弾きと踊り子 Violinista e Ballerina

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 居酒屋「スペランツァ」にはその名の通り「希望」を求めてやってくる人々がいる。
 本人たちはそうとは思っていないかも知れないし、あるいは、そんなことに気づいていないのかも知れないが、明らかに彼らは藁にもすがるような思いで「希望」を求めてそこにやってくる。

 店のマスターはそんな人々に存外冷たい。

 絵描きはいつもそう思う。

 マスターは無口で、無愛想で、客ともほとんど口を利かない。
 ただ黙って注文された品を客の前に提供するだけの、そんな商売っ気のない男でしかない。
 そのためなのか、そんな人々の話は客同士で聞き合い、慰め合うのがこの店での慣わしであったのだが、しかし、所詮は酔っ払いたちのこと、それはその場だけで消えてしまう虚しいだけの会話でしかないのも確かなことである。
 もしかしたらマスターはそれを知っていて、そんな人々に冷たく接するのではないか、と、そんな風に考えるのは穿ち過ぎなのだろうか。

 そして、今日も絵描きはカウンターにへばりついて、店で一番安い白ワインを飲みながら、そしてブルスケッタ(ニンニク風味の焼きパン)を齧りながら、奥のテーブルについたふたりの客と、虚しい会話をすることになる。

 ふたりの客。

 額が禿げ上がって薄くなった白髪の老人――その右手には指が三本しか残っていない――と、頬に大きな傷痕のある女性――たぶん、三十歳を越え、あるいは、四十歳に届いているように見えるが――のふたり組。

 ここらでは『フィドル弾き』と『踊り子』と呼ばれている「大道芸人の広場」の常連である。

 その名の通り、フィドル弾きが三本指で器用にボウを握ってヴァイオリンで音楽を奏で、踊り子がそれにあわせて、その年齢にしては軽快にバレエを踊ってみせる。
 それだけの大道芸人である。

 噂によれば、フィドル弾きはかつては世界中を演奏旅行で周っていたような高名な演奏家だったらしいし、踊り子もかつてはパリのオペラ座の舞台に立ったこともある、と云うことであるが、いずれにしてもそれは噂でしかない。
 誰もそれを見た者はいないし、けれどそれが嘘だと云える者もいない。
 ただ、箔をつけるために眉唾な噂が横行するのも横行させるのも、「大道芸人の広場」の大道芸人にはよくあることだ、と云うそれだけである。

 そしてそんな噂を、その本人たちが自ら信じ込んでしまうことも、よくあることではあったが――。
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