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第1話 絵描き Dipintore

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「ねえ、あなたはずっとこのままでいるの?」

 彼女は抑揚のない声でそんなことを云っている。
 それがどう云う意味なのかは、絵描きにはわからない。
 ただ、その言葉が「楽しい」ニュアンスでないことだけはわかる。
 彼女は彼を非難しているのだ。
 身に憶えはない。
 彼女に何をした訳でもないし、だから恨まれることも非難されることもないはずだ。
 だが、彼女はそんな言葉を彼に投げつける。

「このまま? それはどう云う意味?」

 絵描きは彼女に訊ねる。
 彼女は冷たい目で彼を睨みつけた後、窓の向こうに目をやる。

 窓の向こうにあるのは市庁舎の建物だ。
 古い建物である。
 古い、と云うよりは歴史的な遺産と云っても良い建物で、何百年、あるいは、千年近い昔に建てられたものだと、絵描きは以前聞いたことがある。

 そもそもこの旧市街はそんな町だ。
 歴史と現代が混じり合っている町だ。
 だからこの町に来たのだ、と、そんなことを思い出す。

 遠い故郷の国を離れて、一生、この芸術品で出来たような町で過ごすことが、彼の目的だったはずなのだ。
 ここで芸術に触れて、美術に触れて、そんな町で暮らす人々に触れて、そして一生を終えよう、と、そんなつもりでこの町を訪れたのだ。
 けれども、現実はそうでもない。
 夢と現実のギャップはどうしようもない。
 それはありふれた話でしかない。
 だからそれを嘆くこともなければ、喜ぶ必要はもちろんない。
 ただ、日々を過ごしている。似顔絵描きとして――。

「君はもしかすると……」と、絵描き。
「ぼくのこんな生活、似顔絵描きの生活を非難しているのか?」

 彼女は窓の外を見つめたまま答えない。
 答える気など毛頭ない、と、彼女の横顔は彼にそう告げている。

「そうなのか?」

 彼女はゆっくりとこちらを見る。
 長い赤茶色の髪をかき上げる。
 彼女の表情には疲労と、あきらめと、苦痛と、悲しみと……、そんなものたちをごった煮にしたような奇妙な感情が見て取れる。

 絵描きは半ば無意識に床に置いてあったスケッチブックを手にとり、ペン立てから鉛筆をとると、そんな彼女の表情を白いページに描き始める。
 彼女は無表情で絵描きを見つめる。

 それから――。

 自分の太腿をこぶしで叩く。
 その仕種に絵描きは描く手を止め、驚いたように彼女を見る。
 彼女は涙を流している。
 再び、鉛筆を動かし始めると、彼女は突然、彼に向かって罵詈雑言を吐き出す。

「どうしたんだ?」

「あなたは、どうしてそうなの? 私はあなたにとって、何なの?」

「ぼくにとって――?」

 絵描きは考える。
 何も浮かばない。
 彼はすまなそうな顔を彼女に向けるが、その表情が彼女にはどう見えたのか、彼女は彼の顔を見るなり、手近にあった花瓶を手にする。

「あなたなんて…、あなたなんて、死んじゃえばいいんだ!」

 彼女は叫ぶと、彼に向かって花瓶を振り下ろした。

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