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プロローグ Prologo

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 その古びた木枠窓の硝子を通して、石造りのテルミニ駅の尖塔が見えている。
 古めかしく物々しく、また厳しいその鉄道駅がいつ建てられたものかはわからないが、少なくとも彼が子供の頃にはすでにそこにあって、そしてその頃からそれは今と変わらぬ容貌であったことを彼はかすかに記憶している。

 彼、その古びた木枠窓のある居酒屋――バルのマスターである彼は、疲れ切った様子で開店の準備をしながら、そんなことを考えている。

 日増しに濃くなっていく冬の気配に、体の節々が痛んでもいたし、何よりも夏の間はそれほど苦にならなかったいつも通りの開店準備の作業が億劫で仕方がない。
 彼は準備の最後に店の玄関である木の扉を開くと、薄汚れた看板を玄関の横に置いて扉にかかっていた札を「閉店」から「開店」に切り替える。
 目を上げた彼の前にあるのは、テルミニ駅の駅前広場――。

 通称「大道芸人の広場」。

 その名の通り、気候の良い季節には大道芸人やら似顔絵描きやら、それこそ得体の知れない客引きやらが集まり、また彼らに群がる物見遊山の暇人、観光客、それらの懐を目あてに集まるスリ、物乞いのジプシーたち、そんな有象無象でごった返すのがその広場のいつもの光景であるのだが、さすがにこの季節にはそんな連中もあまり見えない。

 町はそろそろ冬の景色に様変わりしつつある。
 北風が石畳を過ぎ、街路樹はすでにほとんど丸裸になっている。
 そんな寂しい風景とは裏腹に、広場に面した店々はクリスマスの飾りつけなどを始めているようだ。

 それに気づいたマスターは、クリスマス、などと云うものがあったことを、その時初めて思い出す。
 彼は店内の木製の椅子やテーブルを整えながら、そう云えば、クリスマスになれば少しは客が増えるかも知れない、と、そんなことを考えるが、店の内装にクリスマス飾りを取り入れたり、クリスマス用の新メニューでも作ってみようか、などとはまったく考えもしていない。

 所詮、その程度の商売っ気のない男である。

 三十路の声を聞いた頃に始めたこの店、居酒屋「スペランツァ」を初老から老人になろうとしている今まで続けて来れたのは、それこそ奇跡のようなものであったのだが、それにさえ彼が気づいているかどうかも疑問である。
 希望スペランツァと云う店の名が、彼のその酷く鬱屈した性格とかけ離れていたために、あるいは神様が皮肉を込めて商売を続けさせてくれたのかも知れないが、そんなことは今の彼には興味がないし、たぶん金輪際興味は持たないのだろう。


 テルミニ駅前広場――「大道芸人の広場」の石畳から少し入った路地裏。
 そこにひっそりと佇むように息づくカウンターと粗末なテーブル席がふたつあるだけの小さな居酒屋「スペランツァ」――。

 そのささやかな店が満席になる日が来ることは、きっと永遠にないのだろう。

 

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