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第十話「恋と後遺症」

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この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第十話「恋と後遺症」

 魚人作家というものを、ご存知だろうか。その名の通り〝魚人《ぎょじん》〟をモチーフに作品を生み出す作家の事であるが、知らなくても全く問題はない。今、初めて、ぼくも知った。なので、この小説の読者も所見だと思う。だから、全く問題はない。

 悠希《ゆうき》さんと亜希《あき》さんのおばあちゃんは、その魚人作家だったそうだ。元々、趣味程度に絵を描く方だったらしいが、ある日突然〝魚人〟をモチーフにした作品を作り始める。

「ま。相当、変人扱いされてたよなー」
「でし」
「だけど、私達は好きだったよ」

 悠希さんと亜希さんが小さな頃、この山椒魚町の長屋を訪ねると楽しそうに〝魚人作品〟を創るおばあちゃんがいた。また、二人の為に魚人の絵本を描き、読み聞かせてくれたらしい。子どもにとって、上半身が魚で、下半身が人間の脚である奇怪な生き物は大爆笑必至だっただろう。

「この魚人って、何なんで」
「さあ? でも、私も湖径も会っている」

 読者受けしそうだからと安易に考えられた、この物語の創造物。または、ぼくと悠希さんには見えた何らかの象徴。或いは何となく接しやすいおっさんで、限りなく人間に違い、

「神様」

「神様……? でも、いつも〝七福神の一人が鯛を抱えたビール〟と煙草を吸って、女子高生みたいにスマホを操ってま」
「神様が娯楽や嗜好品を嗜んじゃ駄目なのかよー? 哲学者ぁ?」

 世界には重要そうで、そうでもないものが思い付きで創られ存在し、社会に必要なものとして後から意味を持ち、成り立っている事がある。創られた後に意味が付けられ、働きを成すようになったもの……という産物だ。最初から大切な意味を持つものだけが重要なものではないという事は、ままある。

「さて、そろそろご飯かなあ」

 屋根の上に立ち、朝陽に輝く悠希さんの赤い髪が、少し格好良いなんて思ってしまった。ところで、ぼくの〝坂道26°とやすし問題〟の話は、どこ行った?

〝手前ェのケツは手前ェで拭け〟

〝世の中には知らなくてもいい事がある〟

 【古書どぜう堂】の脚立に乗り「こちらの本ですか?」と一冊を持って降りた。手渡した老齢の女性が優しく表紙を撫で、ページをめくり涙する。表紙はくすみ、擦れ、紙は痛んでいて、時間の経った紙の匂いがする小説『あゝ、恋しひひとは熟れた人妻』。その本は明治文学と言われるものだが……もう少しタイトルはどうにかならなかったのだろうか。なんでもおばあさんの初恋の人が熱心に読んでいた本なんだという。随分と探し回っていたようだが、そのタイトルを熱心に読んじゃう初恋の人って……。いや、人様の趣向をどうこう言ってはいけない。本に【古書どぜう堂】の紙を丁寧に包み、紙袋に入れて渡して「ありがとうございました」と言うと、涙を流して口許を抑えたままのおばあさんの代わりに、付き添っていたぼくの母くらいの年齢の方に頭を下げられた。

「詩羽《うたは》さん。初恋の人は……どうしたんでしょうね」
「あの年齢の方だから、どうしようもない恋もあったでしょう」

 詩羽さんが言った〝どうしようもない恋〟とは、何を指すのか。戦争、家柄、病気による死別。そして、ぼくの本棚に増えていく〝人妻的なアレやこれや、略奪なんちゃら的なアレ〟の類いかもしれない。もし、あのおばあさんに、ぼくらの生きる時代には無い悲しみだと聞いて、今は幸せで良い時代かと問われると、ぼくは答えに詰まってしまう。

「湖径《こみち》くん?何か、良い事があった?」
「え………?いや、今日も昨日の続き、ですけど……」
「そーお?」

 急に詩羽さんは何を言い出すんだろう。第三の選択戦線、ギリギリの節約生活塹壕戦で何とか生きている指揮官兼兵士のぼくに良い事なんて……、

 あった!! あったわ!! すごい良いことあったよっ!!!

 きっと、詩羽さんは石井さんとの出来事を見抜いているのだ。さすが〝人妻〟だ。私は酸いも甘いも知っているのよ?的な洞察力か、もしくは、私もそれなりに大人な事を経験してきているのよね?的な雰囲気を感じ取ったのかもしれない(*湖径の妄想により誇張してお送りしております)

「あー………………いや。何というか」
「うん」
「ぼくに好意を持ってくれている後輩が……いえ、ぼくもその子の事が好きなんです」
「うん」

 その人と手を繋いで、たくさん話をしたんです。

「でも、互いに〝好き〟とか〝付き合おう〟とかは言っていなくて……もしかしたら、一時の出来事だったのかもしれません」
「そんな事は無いと思うなあ。湖径くんだもの。私がその子なら君の良い所から目が離せない」

 あ゛あ゛っ、あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!

 これが〝人妻の包容力〟というやつだろうか。官能小説で表現されている男性の生理現象の実用性に合わせただけの破壊力とは訳が違う。○クとは違うのだよ!ザ○とは!くらい違う!! 今の湖径が〝おとな湖径〟で良かった。〝こども湖径〟なら分からなかった魅力だ。いや、待て……詩羽さん………?今の御言葉って、詩羽さんと空さん、詩羽さんとぼく。もし出会うタイミングが違えば、ぼくにもチャンスがあったかもって事ですか!? しかも遠回しに〝湖径くんの事が好き〟と言ってませんかっ!?

「その子が羨ましいなあ」

 そんな余裕のある表情で笑わないで下さい。詩羽さん、あなたはご自身の〝人妻力〟に気付いていない。その破壊力に目の前が、ぱちぱちっと光って真っ暗になっ………、

 ひぐらしが鳴く校庭だった。子どもの頃のぼくが目の前に立っていて、何故だか空ばかりを眺めている。校門の方から友達が呼んでいるのに見向きもせず、空を眺め続けているのだ。ほら、早く行かないと置いていかれるぞ、なんて声をかけても、ぼくの声と子どものぼくがいる世界は違うようで、声は虚しく響くだけ。きっと空さんが発する微風の声が、ぼくには届いていないと知った時、こんな気持ちになるのかもしれない。二匹のトンボが顔の前を抜けたから、それを目で追いかけた。その先にあったのは、びかびかと輝く星。一番星だ。綺麗だなあ。町に午後五時半のチャイムが鳴る。そろそろ帰らなきゃいけない時間だ。みんな……、あれ?みんな?

 みんな、どこ?



「知らない天井だ」

 暗闇から浮かび上がると澄んだ薄暮の空も輝く星も無く、少し灰色がかった天井が、ぼくと空の間で邪魔をしていた。思わず口にした〝知らない天井だ〟は某ヒットアニメの有名な台詞だが、意識して使った訳ではないのでセーフだろう。

「うおい、覚めたか?」

 声に視線を移すと、そこには赤い髪の………悠希さんが下世話な話題ばかりを取り上げる週刊誌を片手にパイプ椅子に座って、不機嫌そうにこちらを見ていた。現実は青い髪と赤い瞳をした儚げな女の子じゃないのか。白いブラウスが似合う女の子じゃないんだな。陽だまりを探しておいでって言わなくともいいのか。いつも悠希さんは革パンだもんな。清楚な服とか似合わなさそうだし。それに、この話は決して汎用人型決戦兵器人造人間の出る幕がある作品では無いから、青くて赤い瞳じゃなくてもいいのか。

「ここ、病院で」
「詩羽さんから連絡が来たんだよ」
「どうして、こんな所にぼ」
「鼻血なら分かる。目からも血を出すって、お前どうなってんの?」

 湖径の血の出し方って、ギャ◯マンガ◯和みたいでウケる!ヤベェ! とケラケラ笑われる。ああ、恥ずかしい。詩羽さんの〝人妻力〟にやられて倒れたのだろう。笑い涙を拭った悠希さんが、ぼくの上に週刊誌を投げ「倒れた、ぷふっ……原因、くくくくっ。ちょっとふっ、疲れと寝不足だとよ」と笑いを堪えながら腕を組んで、大きく一度、ため息をした。脚を組み替え、少し下を向いて、また短く息を吐いた後、片目を細めて上目で見てくる。

「もう一点、湖径が倒れた大きな原因がある」
「何で」
「冷静に聞け、哲学者。感情を乱さなければ、受け入れられる」





 今朝、私が後頭部を狙ったドロップキックが脳震盪を起こしてたんだって! すっげー危ないらしいよ! 脳震盪って! 脳震盪を甘く見るなって医者に怒られた!! くっ、くくっ!ぷはっ、ウケる!

「悠希さん、一度、屋根から落ちたらいいんで」
「たはーっ、面目無い無い♪」

 ぼくの感情が振り切れた時に出る無感情の声に反省しているのかいないのか、昭和のおじさまのような謝罪をする。本当にこの人は……、

バンッ!!!!!!!!!!

「「うおっ!!!びっくりしたっ!!!!!」」
「せんぱいっっ!!!!」

 ドアを勢いよく開けた石井さんが、ぼくに駆け寄り手を強く握ると「大丈夫ですか!?痛くないですか!?何か飲み物を買ってきましょうか!!?昨晩、わたし達キスをしたんですよ!!!後遺症とか残ったりしないんですか!!?そのまま夜の街の大人な恋人同士が入るお宿でしっぽりしたんですよ!!!!わたしの事覚えていますか!?わたしの初めても、あられもない姿もあなたのものですよ!!!痛みとかはありませんか!!???もうわたし達は恋人を超えて永遠の存在ですね!!!!付き添いが必要なら、わたしにお任せ下さい!どこまでも付き添いますよっ!!!!そうだっ!!もう!このまま結婚すれば、永遠に付き添えますねっ!!!!明日にでも婚姻届を出しに行きましょう!!!!!」と、ヒップホップ界隈MC顔負けの早口で情報戦を繰り広げてきた。優しい言葉と寄り添い、そこに虚偽の情報を織り交ぜて相手を錯乱させ、思考を手中に納める。それは某国の特殊機関がよくやっていた手口だよ、石井さん。

「石井さん、落ち着こう。それと記憶と精神的には、しっっっかりしているから心理操作もやめようか」
「……むぅ。さすが先輩ですね」

 いや、石井さん。今のは手口が雑過ぎて誰も引っ掛からないと思う……。

「いやはや、お若いですなあ。お姉さん、照れちゃう」
「先輩にイタズラとか!何もしてませんよねっ!?」
「小童に?いやあ、こいつじゃ私の相手にならんよ、小娘」
「せせせせ先輩はっ!(きっと)すっ、凄いんですよっ!!?(願望)」

 んー?ナニがどう凄いのかなあ?お嬢さん? 説明出来るならしてごらん?
 うっ、うるさいですね! こ、子どもじゃないんだから逆に説明しなくても分かりますよね!?

 ……と、MCバトル顔負けの捲し立てるパンチラインで、額と額をぶつけて睨み合う二人。あっ、なるほど! 完全に理解した! こんな時にこれがあるんだな! このスイッチが!!

 カチカチカチカチカチカチ!!!!

 看護師さーん! なんか喧嘩してる! よく分からない!! 意味が分からない!!助けて!!!

 その後、二度の再検査と診察により、特に入院の必要が無いという事で無事に帰宅となった。ぼくの財政事情を知る空さんが医療費を払ってくれて「労(救急車の音)のだ(エレベーターが到着したチャイム)」と言ったので、頭を下げて感謝をする。ただ、何を言っていたのかは分からなかった。

 山椒魚町四丁目三番地の祠と古いたばこ屋さんの前では、葵さんと絵深さんが待っていてくれて〝お帰りなさい〟という素敵な言葉が迎えてくれた。ぼくにはまだ帰る所があるんだ……これも、決して機動◯士ガ◯ダムの名台詞から引用したとかでは無い。

「お帰りなさい、湖径さん。そちらは?」
「ああ、こちら等身大だっこちゃん人間で有名な後輩の石井さんです」

 初めまして、葵と申します。よろしくお願いします、石井さん。と、深々と頭を下げる葵さんに対して、最初は怪訝な表情をしていた石井さんも「よろしくお願いします。〝先輩のっ後輩っ〟である石井です」と笑顔でいる……が、もちろん目は臨戦態勢だ。

「どうして、先輩の周りは女性ばかりなんですかっ?」
「どうして……と言われても。ここが一番家賃安かっただけで………」
「〝親からの仕送り切られて泣く泣く引っ越した貧乏学生だけど、引っ越した先の長屋は美女ばかりだから別の意味で息子は大変だった件〟ですかっ?」
「んー……うん。うん? なにそれ? どゆこと?」

 ここでヲトブソラは、一度ペンを置いた。眼鏡を外し、眉間を摘み執筆の疲れを隠さない。彼はこの作品を書き始めて、しばらくしてから湖径の周りには女性が多いと気付いたのだ。それと色々と鈍い湖径くんには、その手の話に出てくる展開になったとしても〝そんなタイトルは付けないかな。石井さん、ごめんなさい〟と時計を見る。午前二時十九分。あくびをひとつして、身体を伸ばすと、また眼鏡を掛け原稿に向かう。その目には創作者としての光があった。いつものように、そっとキーボードに手を添えるヲトブソラ、作者の姿である。

「さて、彼らの続きを書こう」

 物書きの孤独な夜は、これからだった。



 山椒魚町の夜は、亜希さんが夕飯を作ってくれていて「疲れているだろうから、ゆっくり食べて休みなさいね」と、家にまで届けてくれた。かたっと玄関の床板に置かれるお盆と「頭を狙っ……打っているんだ。そのお嬢さんと頭を激しく揺らすような事はするなよーっ」と手をピストルの形にして、ぼくらを「ばーん♪」と言って撃つ仕草をする悠希さん。がらっがらがら、がたっと不器用にレールの上を走る戸に消える瞬間「ごめん、二人とも。湖径、ごめんなさい」と赤い髪で目元の隠れた悠希さんが謝ってくれた。急に、素直。悪い予感というか悪寒もする。

 電気を点けようか迷う薄暮の二階。六畳一間のテーブルに置かれた夜ご飯、ふたり分。山椒魚町四丁目河童三番地のみんなは、いつの間にぼくが倒れ病院に行き、入院はせず帰宅すると知り、石井さんにも連絡が行ったのだろう。この長屋は生活圏と人間が近い分、隣り合わせどころか、常に関わり合って生きている。

「先輩?いただきますしませんか?」
「あ……うん。そうしようか」

 〝いただきます〟

 石井さんが病院に駆けつけたのは、詩羽さんが悠希さんに連絡をして、悠希さんから絵深さんに、絵深さんから石井さんに……という連絡網があったかららしい。病院で見た悠希さんとの犬猿っぷりは「前にお邪魔した時、先輩の家で悠希さんがくつろいでいたので………先輩と、そーいう関係なのかなと思っていてですね」と勘違いしての事みたいだ。後、石井さんは悠希さんの事が〝何となく苦手〟と、しゅんとなる。どうしてだろうね。ぼくらは、この世界で近くに人間がいないと寂しくて寒いと震えるのに訳もなく嫌う時がある。

「でも、あの人は悪い人じ……」

 ここに引っ越してきて悠希さんにされた様々な事が、最新型の最上位グレードモデルのパソコンより速い処理速度で鮮明に一本の動画として出力され再生される。

「でも、あの人は〝根〟は悪い人じゃないと思う。根はね? 根は、だよ? うん、根、はね……?そう思うって、思うよ?」
「先輩がそう言っても横柄な態度が多いのが、どうしても……」

「それはそう! あっ、いや、でも愛嬌……みないなもの、かもね。多分。多分、だよ?多分、そうじゃないかなあって、思う! 思うってだけね!」

 思い返してみると悠希さんとの記憶はひどいもばかりではなく、彼女の馬鹿騒ぎで辛い日だったはずが楽しく終わった日になっているものも多い。ぼくがしてきた勉強に親は理解を示さず、それを嫌ってきた。ぼくに農家を継ぐ意思が全くないと知ると、援助を打ち切るという兵糧攻めを始めた。それも分かる気がする。そう感情的になるのも分かる。ぼくの人生は誰の力で守られていたのか、その人生を守る対価は何だったのか。親に対し、自分の人生を自分の意思で生きるのだと言ったからには、ぼくがぼくの人生を守らなければいけない。それに少しずつ気付いていく、その過程に悠希さんがいる……気がする。

「そういえば、もっもっもっ、先輩、もぐ、もぐ、ごくん。そろそろ、ああ、美味しい!」
「石井さん。食べながら喋らない」

 ボッと赤くなり、気が緩み過ぎていた事と食事の仕方を恥じて、小さくもじもじとする彼女。意外な所が抜けていると知って、今更ながら可愛らしいと思ってしまった。小動物みたいに、こぷぷぷっ、と麦茶を飲み、彼女が再び背筋を伸ばす。

「先輩っ、そろそろ就職活動とか始める時期、ですねっ」

 いつも活発ながらも可愛らしく、元気でいて、笑顔で、清潔感溢れる石井さん。

 そうだね、就職活動。そんな時期か。全く忘れていたよ。

 ぼくの人生は大丈夫かな。目先の事ばかりに追われて、こんな感じで人生を歩んでいて……大丈夫かなっ?

……………………………………………………

この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第十話、おわる。
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