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第七話「天に与えられし痛み《ちから》と、痛みを使うための ちから」

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この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第七話「天に与えられし痛み《ちから》と、痛みを使うための ちから」

 山椒魚町《さんしょううお》四丁目河童三番地から駅へ向かう路地は、人の生活圏、生活の匂いが濃いほどに細く狭く、世界と繋がりを持つ路地や道路に出るほど広くなる。駅舎前が一番広いが、それでもバスが乗り付けるロータリーなどは無い。長屋から駅まで一緒に歩く事になった葵《あおい》さんと目にする町は新鮮で、葵さんもぼくも、電柱に、家の壁に、水道管やガス管、アスファルトから伸びた小さな雑草をキョロキョロと見る癖が同じだった。

「びっくりですね。まさか、私と似た歩き方をする人がいたとは」
「ぼく達、似た者なのかもしれませんね」

 あまり意識などしていなかった。ただ、葵さんが〝発見〟を見付ける為にキョロキョロとすると聞いて、なるほど、と思ったのだ。ぼくも子どもの頃から道の片隅に、ぼくや世界を変える〝発見〟を探していたからだ。似た癖を持つ、葵さんはストックしている画材が少なくなったから、買い出しに行くらしい。たくさんのぼくにはない〝発見〟をしてきた彼女は、どんな絵を描くのだろう。これから、どんな絵が描きたいのだろう。

「チャンスと財力と権力と軍事力があれば、地球をキャンバスにしたいですね」
「はは、それはまた大きな夢ですね」

 もう少しで叶いそうなんですけれど。

 ん?今、葵さんは何と言った?

 ぼくの聴力にはやや懸念があるものの、聞き間違いでなければ〝叶いそう〟と言わなかったか。地球をキャンバスにしたいだなんて夢は、独裁者どころでは無い絶大な力を持つ者でなければ……。

「いたたっ。昨日より痛みが酷くなってるな」
「腱鞘炎とかですか?」

「いや、左手の紋章が騒ぎ出していて……多分、龍の巣が近くで呼んでいるんです」

 葵さん! 人は土から離れて生きてはいけないんですよ!

 では、私は2番ホームなので、と、長い髪を風に揺らしながら、階段を上っていく。四十秒で葵さんのイメージは崩れ、三分間待った電車が到着した時に理解した。

「ああ。中二病を拗らせた……のか」

 似た者同士、そうぼくは口にした。それは、ぼくにも闇への扉を開かせる紋章が額にあるからだ。中学生の頃に目覚めてしまった力が、この宇宙の光を焼き払い、闇でこの星を飲むなどという事があれば、葵さんの夢を壊してしまう。どうか、そうならないよう祈る。

 電車に乗りアルバイト先に着くと、そこは修羅場だった。いや、正確には驚愕の事実と嫉妬の念で、ぼくの心が修羅に堕ちた。アルバイト先である古書店【古書どぜう堂】には、いつも通り開店準備をする憧れの女性・詩羽《うたは》さんがいた。だが、そこにもう一人、微風の声を持つ官能小説家、空《そら》さんもいたのである。そして、エプロンの紐を結びながらしていた和やか会話は、世間話から最悪の話題へと舵を切り、渓谷を進む小型船 湖径《こみち》号の船頭が、詩羽さんと空さんがはめている指輪のデザインが同じであると発見する。船頭が「見てはいけない!目を逸らせ!」と叫んだのだが、すでに時は遅し。ローレライの魔女に惹かれた船の如く、心が激流の断崖へ突っ込んでいた。

 本作品の作者、鬼なり!鬼畜なり!

「お二人がご夫婦だなんて、びっくりだなーあ↑↑↑」
「私もよ。まさか湖径くんの家が、主人の仕事場と同じ長屋だったなんて」
「湖(業務用エアコンと循環の為の扇風機の音)なんだ」

 相変わらず、空さんの声は聞き取れないが、何故、売れっ子作家が山椒魚町四丁目のボロい長屋にいるのか疑問が払拭された。あの長屋は仕事部屋として日中、執筆活動をし、生活拠点は別に構えている。確かに、夫が目を血走らせて官能小説を書いている姿など見たくは無いだろうし、妻に男の妄想と願望なんてものを垂れ流す姿も覗かれたくないだろう。

「元々、私は主人の担当編集でね。作風も、文体も、人柄も素敵だと惹かれたの」
「それは(外で駄々をこねる子ども)惚気だよ(自転車のベル)径くん」

 やっぱり、空さんの言っている事はよく分からないが、どうやら詩羽さんは官能小説を扱っている出版社に勤めていた事があり、なんなら携わっていた。勿論、それらに理解もある。仕事として関わっていく内に惹かれた……のが、どうして……!どうして、空さんなんだっ!?この微風の声を持つ作家が、何故、詩羽さんの心を射る事が出来たのか分からない。いつも何を言っているのかも分からない。何故、皆に慕われるのかも分からない!

「え、えと、どどどうして、今日は空さんが、こここここっここに……?」
「あ!湖径くんは初めてか!」

 ここのオーナーでもあるのよ、この人。

 まさかの雇用主!

 空さんは本屋さんという〝場所〟を人間としての力を育み、また人と人が出会い、交流する場だと考えているらしい。このような場所が少なくなる昨今、少しでも何か出来ないかと、古書どぜう堂と別の本屋さんが一店舗、その他、私設図書館も運営しているのだという。三つも運営するなんて、相当、お金が掛かるだろう。本当は空さんの笑顔の下は仄暗く濁っていて、酷く臭うお金を使っていそうだという感情を、ぼくの作り笑顔に押し隠して、話を聞いていると〝印税や講演料等の収入から捻出していて、この活動への賛同者も多いから成り立っている〟、〝生活は楽ではないけれど、私には苦労をさせないのよ〟、〝本当に主人の人柄のお陰、周りの皆様に感謝だわ〝との事だ。

 自身の苦労をいとわず!
 詩羽さんにも無理強いをせず!
 あんた、官能小説の作風とえらい違うな!

 やはり、こういう人に詩羽さんのような素敵な人が惹かれるのだろうか。しかし、待て。そういえば『団地妻』シリーズや『悩まし、人妻のくちびる』シリーズのモデルって、どことなく………いや、ぼくでも分かる、この二人の仲の良さは…………、

「ぼっ、ぼくも微力ながら力になれればと思いますっ!買います!作品!いっぱい買います!」

 作中の〝人妻〟に惹かれる理由が分かった。あの〝人妻〟のモデルは、ぼくの大好きな人だからだ……。

 恋焦がれる哀れみと、現実の痛み!

 作品を読む事でしか、愛しい人に見せる詩羽さんに近付けないという哀しみ。詩羽さん……空さんには、あんな感じで甘えているんですね………ふ~ん、ほう。

 それは!それで!色々助かる!(?)

 買う、読む、アルバイトで詩羽さんと会う、話す、想像する、至す(?)。別に後ろめたくは無いさ。ぼくだって健全な男の子だもん。それで補完される作中の素晴らしい〝人妻〟の姿。悲しくないか?だって? いいや、全く悲しくないね。平和に、静かに、波を立てず、本棚の中で永遠に補完し、保管できる詩羽さんが………。

「湖径くんっっ!?目から血が出てない!?」
「大丈夫です。血という名の涙、涙という名の体内に蓄積出来ない感情です」

 最後の講義に向けて、駅から大学までの学生通りを虚ろに歩く。自覚症状があるくらいに虚ろ。たかが、これしきの悲しみに頭を垂直にして歩く事が出来ない。左、左に頭が傾いている。やはり水平感覚もおかしい。果たして、こんな防御力で第三の選択戦線を歩み始め、この先に待つであろう数多の辛い事に耐えられるのだろうか。夏季の休み前、この時期になれば学生は少なく、通りの牛丼屋さんやラーメン屋さん、古着屋にレコードショップと楽器屋、ゲームセンターも閑散としている。ただ、路地裏では前期講習ノートのコピーを密売している勤勉な学生と見せ掛けた悪人に、あまり講義に出ず、遊びまくっていた〝ザ・大学生〟と、仕方無くアルバイトに勤しむしかなかった〝真面目学生〟が、悪人の餌食となる。

 これが社会の仕組み、縮図の極!

た、た、た、た、た、た、た

 軽く跳ねる足音は石井さんだ。構内に入る前に見付かってしまうとは、しっかりとメタ◯ギア・◯リッドをプレイしてスニーキングを予習しておくべきだった。また昨日のような何かをされる前に振り返っておく。面倒だから……。

 振り返り、確実にぼくは石井さんだと、彼女はぼくだと確認出来た。



 活発な彼女の小さな体が、ぼくの横を通り抜けていく。

 急に蝉が酷く五月蝿い。

 駅から山椒魚町四丁目に繋がる横断歩道で、通り過ぎる車と赤い歩行者信号を見ていた。今日は午後から蝉が五月蝿くて、酷く、寒い。低空飛行で頭の上を飛ぶ飛行機の音が鼓膜の奥で響く。こんな住宅密集地を飛行路に選ぶ、山椒魚町の周りを囲む高いビルやマンションの上を飛ぶより、何かあった時のコストとかいうやつが安いからだろうか。

「昨日から急に飛び始めたなあ」

 台所で一杯の水を飲み、西陽で焼けた二階の畳に倒れた。ずるずると這って窓を開けると、あの不器用な玄関戸の音。そして、いつもの馬鹿でかい「ぃやさしーぃ~♪」から始まる唄声。悠希さんの家の前に置かれた植物や盆栽に水をやり始めたのだ。悠希さんの音階と絶妙に不協和音で奏でられる葵さんの激しいピアノのバッキング。

「ぃいっやっさあっ、しぃいい~ッッ♪」

 もう一段階大きくなる悠希さんの声量に、やはり〝譲り合い〟という精神は無いんだと知る。昨日、石井さんと話が被った時も……いや、石井さんも譲らなかったな。今日、どうして彼女は、ぼくに声を掛けなかったんだろう。

「石井さんから離れるように仕向けていたのは、ぼくだろ」

 この期に及んで彼女の事が気になるなんて、ちゃんちゃらおかしな話だ。気分を変える為に河童浴場へと向かう事にした。古いたばこ屋さんとお地蔵さんの祠がある路地まで出て、空を見上げる。

「まあ!こんばんは。湖径さん」
「あ、絵深《えみ》さん。こんばんは、お帰りなさい」

 その場で目を閉じて微笑む絵深さん。何だろう?と顔を伺う為に近付いていくと、目が開けられ「いつ聞いても良い言葉です!」と人差し指が立てられた。

「何がですか?」
「何がですか?とは?」

 小首を傾げる絵深さんの〝概念タイム〟。何がですかとは、この場合〝何が、いつ聞いても良い言葉なのですか?〟の省略であり、やはり、どう考え捻じっても、

「何がですか?とは、何がですか?」なのだ。

 うーん、と、少し得意げな笑顔で「では、私とお話をしましょう! 人を知るのには、お話をするのが一番だと空さんも仰っていました!」と言って長屋のか細い路地へと歩いていく。くるりと振り返り「そこでお待ち下さい。Bitte warten Sie, wir werden in Kürze für Sie bereit sein!!」と腕を〝ハの字〟にして、ぴょこぴょこと歩いていった。

 少し不思議なやり取りは、路地一本分間違えたような会話だ。

 絵深さんと二人並び、河童浴場までの路地を歩いていた。古びた街灯が〝そろそろ仕事か〟と、ぽつり、ぽつり、と灯っていく。腕を〝ハの字〟に広げて、ぴょこぴょこと歩く絵深さんだけれど、〝いつ聞いても良い言葉です!〟の答え合わせが始まらない。

「あの…? さっき仰っていたのって、どういう意味ですか?」
「わたくし、湖径さんに何か言いましたか?」
「ええと……言ったような、言っていないような………?」
「困りましたっ。何を言ったのか、わたくし、覚え…猫ですよっ!」

 話の途中で、ぱたたたっと軽く走り、街灯も、夜空に向かう空の光も届かない道端にいた猫を屈んで撫でだす。絵深さんは人間と話すように「これから、ご飯ですか?ご飯を探されている最中でしたか?」と、猫と「ほう!それは大変です!」なんて会話をする。

「ゴロゴロ……わあ、にゃあ、ふしゅっ」
「そうでしたか! それは失礼致しました!」

 彼女は猫と話せるのだろうか。動物が好きな人は都合良く人間の言葉を合わせたりするけれど、この猫の表情や動きと鳴き方を見ていると、あながち適当に合わせているようには見えなかった。

「最低労働賃金と時間外労働の問題、GDPデフレーターにラスパイレス指数は向かない! 確かに由々しき問題です」

 いや、適当に脳内補完しているかもしれない。

「絵深さん、この猫って飼い猫ですか? 首輪とかは?」
「お家はあるようですよ。遊び終わったあと、集会も終わったので見回りをして、帰る途中なんだそうです」
「じゃあ、家族が待っているんですね」

「そうです! それです!」

 ぽんっと手を叩き、思い出しました!と満面の笑みを見せる山椒魚町四丁目が不釣り合いな美女。再び、河童浴場まで歩き出して「わたくしが言いたかったのは〝お帰りなさい〟という言葉についてです」と答え合わせが始まる。夜が紺を連れてくるから、絵深さんの顔をよく見たいのに、数少ない街灯も上手く照らしてくれない。

「湖径さんは、わたくしに〝お帰りなさい〟と仰いました」
「言い……ましたが、それが何か?」
「〝お帰りなさい〟は迎える人、迎えられる人がいる素敵な言葉です」

 そうでないと成立しない言葉の一つではあるが、一人でも成立させる人間もいるという事を知らないのだろうか。きっと、絵深さんはそれを知ると驚き、どんな人なのかと問い詰め、困ったぼくは〝名前を湖径と言うぼくです〟と白状しなければならなくなる。玄関を開けて〝ただいま〟と言い、ぼろぼろのスニーカーを脱いで廊下に足を置いた時に〝お帰りなさい〟という、ぼく。

 帰宅人、迎え人、一人二役!

「この世界はたくさんの家族や友人、恋人で成り立っています」
「まあ……そうですね」
「一人として他人はいない」
「いや、他人の方が圧倒的に多いと思いますよ」

 分かりませんよ! みんな、みんな、どこかで繋がっているかもしれません!

……………………………………………………

この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第七話、おわる。
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