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第二話

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この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第二話



 夢なんだと思う。映画に出てくるような古い下町の路地に、魚人の置物がたくさんあったり、赤く髪を染めた小学生か中学生と思っていた女の子が、八歳上のお姉さんだとか、挙げ句の果てには魚人のおっちゃんなる“本物の魚人”が夜中に煙草を吸い、団扇を仰ぎながら涼を取っていて、話しかけてきたと思うと女子高生みたいにナントカフォンを使いこなしたり、自動販売機の秘密を教えてくれたり。これは、きっと、夢。アルバイトを増やしたり、第三の選択への不安や大学卒業の就職まで生活が保てるのかとか、そういう疲れや不安が相まった夢だ。

「マサァあああああああああ!!!起きろぉおおおお!!!」
「うるせえぇえええええ!!!是智ぉぉおおおおお!!!起きとるわぁあああ!!」

 という、お隣さんからのモーニングコールに起こされた。ちなみに、ぼくの名前は【マサ】ではない。【是智《これとも》】でもない。湖径、こ・み・ち、と言う。朝六時二十分のモーニングコールにより、心臓がばくばくしていて、二度寝なんて出来っこない。この山椒魚町河童四丁目三番地にある長屋に越してきて四日目の朝。昨日までの三日間で分かったのは、この辺りに立ち並ぶ古い家屋は、大変“音の通りが良い”という事と、なかなか変……個性的な住人が多いという事だ。

「ぃやさしーいー♪」

 今朝も悠希さんが馬鹿でかい声で唄いながらプランターに水をやっている。路地の狭さは人と人の生活圏が重なっているようで、どこか人生に干渉されるのを認めないといけない距離に思える。古い町の人付き合いは濃いと聞くけれど、物理的な距離も関係するのかもしれない。

「あっ!てんとう虫だあっ!」

 しかし、毎日、悠希さんは元気だな。本当に二十八歳なんだろうか?最近は偽造免許も、お手軽価格で流通していると聞く。もしかすると、その手のお仕事をしていたりする……いや、身長が低いからといって低年齢ではない、と、人を勝手に判断してはいけないと教わったばかりだった。でも、この環「マサァアアアアア!!飯ィィイイイイ!!」九時からアルバイ「うるせぇええええ!今、降りるわぁあああああ!!」を出て「おっ!てんとう虫、もう一匹見付けたぞ!!」から行こう。無理だ。二度寝「是智ぉおおお!!目玉焼きは半熟っつてんだろおおお!!!」理だ。どこか公園のベンチか大学で仮眠を取るしかない。

「それは大変ねえ」

 そうなんすよ、と、遺品整理で持ち込まれた大量の古書を仕分けながら、横目でちらちらと【詩羽《うたは》さん】を盗み見していた。三十本入り百円という質の良くないボールペンを、ふっくらとした唇に当て何かを思案する詩羽さん。何というか、可愛らしくて色っぽい雰囲気を持つ不思議な女性だ。

 そして、人妻。

 髪を耳にかける仕草ですらドキドキするのに、その左手薬指には指輪が輝いているから見る度に落ち込み、ため息が出てしまう。そんな、ぼくの青春。

「でもさ、湖径くん。そういう町は人を観察するには良い場所なんじゃないかな?」
「まあ……観察どころか、いつも視界に入っているというか」

“よろしくな”

 低くドスの聞いた魚人のおっちゃんの声が、頭の後ろで響いた。

「ヒトダケヲ、カンサツシテイタラダメデスネ」
「ん?うん。確かに人だけじゃなくて、町の温かいものを見るのもいいのかも」

 温かいもの、か。人を見て町を見るのではなく、町を形作る人を見る視点は面白いと思う。例え、魚人のおっちゃんであっても町を形作る……いや、魚人のおっちゃんを知っている人が他にいるのか?魚人のおっちゃんって、町の住人なんだろうか。住民票は?そもそも魚類?それとも人類?然るべき研究機関から逃げてきたのだろうか。それでも、あの町の中では常識人だ。じゃあ、どこからが人で、どこからがそうじゃないんだろう。ぼくは片隅でも人として生きている町に住んでいる。
 ふと目の前にある数箱の段ボールに詰められた本が気になった。ご遺族にとって、この本達はどういう意味を持っていたのだろう。どういう想いで、ここに持ち込んだんだろう。故人が好んで収集していた本は小難しい内容だけど、どんな想いを馳せながら読んでいたのか。

「人の心って、世界より広いな……」

 国外には出た事はないし、そもそもパスポートすら持ってない。地図で見る世界にはもう飽きたのに飛び出す勇気がない。

 一冊一冊、丁寧にめくり奥付きの書名と著者名、出版社名を書き取っていると、突然、そいつが顔を出した。本と本の間に挟み隠されていた『真夏の団地妻、昼下がりのポールダンス』なる官能小説。全く、男ってやつは………、

「あの詩羽さん、個人的に買取りた…………」
「湖径くん、何か言った?」
「いえ……」

 男は馬鹿だ。金銭的余裕が無いというのに色欲に惑わされる。ぐっと拳を握り、奥歯を噛み、更に天井より向こうの空を見上げるつもりで上を向いているのに、薄らと頬を伝う涙が止まらない。

「詩羽さんッ!個人的にっ、買取りたい本が……ッ、ありますッッ!!」
「うん?ええ、いいわよ?」
「帳簿はっ!ぼくが書いておくので、決して……ッ、見ないで…………ッッ」

 男は!男ってやつは、本当に、馬鹿だ!

 本の検品が終わり、退勤三十分前なのにも関わらず、詩羽さんが「今日は上がっていいわよ。午後から授業でしょう?」と穏やかに言う。少し躊躇い、考えを伝えようとしても声が出ないぼくの代わりに「ちゃんと十二時まで出勤簿付けておくから、大丈夫だよ」と、大好きな笑顔で肩を叩いてくれた。

 指輪輝く、左手でな。

 子どもの頃から電車やレールからする機械油の匂いが好きだけど、駅の混雑は嫌いだ。こんな細いホームの上ですら人は争うから大嫌いだ。急行待ち、二番ホーム。ぼくは列に並び、斜め左前のサラリーマンのおじさんと静かな戦争を開戦させていた。何かを確認するふりをして留まり、少しずつ列へ入ろうとするおじさん。図々しいにも程がある。割り込み防衛戦線にぼくは左脚を送り込み、列に入れないようガードをしていた。側から見れば、さぞ可笑しな姿勢をしているのだろう。しかし、これはぼくの、並んでいる皆の権利を守る為、ついては世界の秩序を守る戦いでもあるのだ!

「おじさん!割り込みは良くないですよ!ちゃんと後ろにまわってください!」

 無言で火花散らす戦場で、そうハッキリと言葉に出来る人が羨ましい。

「先輩、駄目ですよ!ちゃんと言わなきゃ!」
「面目無い。だけど、無視する人もいるから、なかなか」
「正拳突き入れればいいじゃないですか」
「それはやめようか、石井さん」

 夏だから半袖に短めのズボンを履いているものの、マフラーを首に撒く彼女は大学の後輩にあたる【石井さん】という子だ。実は彼女とは少しだけ面倒な関係であったりする。学内の活動に『読書部』というものがあり、石井さんとの出会いはそこだ。読書部とは、何故、著者がその文章・単語を使うに至ったのか、執筆年の時代背景や当時の常識的な道徳、流行の哲学、著者の生活環境における心理状態を想像し、より理解を深くしていく……等、勝手に執筆者のあれこれを丸裸にしてやろうという活動。ぼくが物書きで、こんな事をされたら酷く恥ずかしいまでだが、これが当時の“人や世の中を形作る実験や体験”をしているような思考で楽しんでいた。

「先輩が“読書サークル”に来ないから、みんな寂しがってますよー」
「そう。“サークル”になったんだ」

 組織というものは興味深く、軍隊並みの強い縛りがなければ、目的の反対側に嬉々として向かう人間が出てくる傾向がある。その者に同調する者が出れば派閥を形成していき、どこかで組織は統率が取りにくくなり、そして、組織の目的が破綻する。

「サークルになりましたが読書は楽しく、また語り合うのも楽しい!それでいいじゃないですか?」
「それって、友達と出来るよね?サークルとしてまで集まる必要は無いよね?」
「だからこそ!こうやって先輩に声を掛けているんですよ!部に復帰できるよう!」
「もう面倒ごとはごめんなんだよ」

 ぼくは部活崩壊に際して、政治的なというか人間関係のやり取りで疲れてしまった。目標を掲げ、集まり、活動をする為の決まりを守れない奴が、良好な人間関係を破壊していく。未だ、その思考と意味が理解出来ずに苦しんでいる。崩壊を止められなかった事実にも苦しんでいる。彼らの解像度にまで思考が深められず、苦しんでいる。人を困らせて楽しい、その感覚が分からず、苦しんでいる。

「先輩っ、わたしの正拳突き。見てみます?」
「いや、別に見なくてもいいかな。石井さん」

 山椒魚町河童三丁目付近まで帰ってくると、やはり“個々の生活”の匂いが混ざり、コミュニティの団結が強いと感じるから不思議だ。お地蔵さんとたばこ屋さんの角を曲がり三番地に入ると、あの馬鹿でかい歌声と今日は叩き弾くピアノの音が聴こえてきた。

「こんにち」
「おー、おかえりぃ。小童」

 ぼくは悠希さんを見た目で判断した大馬鹿者だ。だから、何とでもお呼び下さい……。

「あの……このピアノって、どち」
「葵さんだよう。すっげえ、ソウルフルだよなあ?」
「ソウルフル……音楽をやってい」
「葵さんは絵描きさんなんだよ~♪」

 絵描きの【[[rb:葵 > あおい]]さん】が、どうして、こんな激しいピアノを弾いているのかという疑問が浮かび終わる前に「制作に行き詰まった時とか、〆切に間に合った時の歓喜で弾くらしい」と教えてくれた。

「なあ?ところで、小童ァ?元気ないけど、どした?」
「別に、そんな事はな」

「もしかして、彼女と(自主規制)しようとしたけど(自主規制)が上手く(自主規制)て微妙な空気になって(自主規制)とでも言われたあ?」

「じょ……じょ、じょじょ、女性がっ、そんな事を言うべ」

 今、湖径が言おうとしている事はさあ、本当に私の事を考えての言葉かい?

 悠希さんの言葉が重く鋭い刃物で、みぞおちの辺りを突いた感じがして、改めて、言おうとした言葉をぶつぶつと復唱してみる。少し俯くぼくの姿を横目で見ながら不敵に口許を歪ませ、指でピストルの形を作って「ばーんっ」と、また、ぼくは撃たれた。

「んーっ、今日のプレイも良い音だった!」

 長屋の二階を見上げる悠希さんの満足げな顔に、ピアノの音が止まっていると気付くと、三番地の生活音に入れ替わり、頭のなかで響き始めた。

「人間は完璧じゃあないんだよ」

 ふっと呟かれた言葉。そして、元気出せって、おらあっ、と入れられるローキックに「痛いですよ、それ!」と抗議したのだけど「私は痛くないから大丈夫だっ」と笑うのだ。本当に、この人は……と眉を顰めていると、からからがらっからがたんっ、と不器用な音を立てて、玄関戸が開き「おは……こんにちは」と長い髪の女性が出てくる。

「葵さん、今日もイイ演奏だったヨ☆」
「ありがとうございます……そちらは?」
「湖径ぃ、声くらいは掛けとけっつっただろお?」

 ぺこぺことしながら名前と三日前に越してきた事、学生である事を伝え、何度か挨拶に訪ねたのだけど不在だった旨も併せた。

「お二人さん。今夜は暇かい?」
「暇ですけど、鬼ごっこならしませんよ」
「ぼくも暇ですけど、えっ?いつも鬼ごっことかして」
「ヨシ。風呂に行ったら、ウチでご飯を食べよーぜー」

 河童浴場の“男人”の暖簾をくぐり、ここも開くのが不器用な引き戸を開けて、ぼろぼろのスニーカーを靴箱に入れた。女性の番台さんが「いらっしゃーい、お疲れ様~」と声をかけてくれるから、ついホッとして五百円を渡し「お風呂いただきます」と挨拶をする。ザ・下町だな、と浸っていると、

「悠希!リコーダーなんか、お風呂にいらんのよっ!!」

 そう番台さんが反対側にいる悠希さんに叱られている。彼女は何をしているんだろう。温泉やスーパー銭湯、そして、ここ河童浴場。子どもから思春期を経て、男性として二十歳になったぼくが、今日ほど男湯と女湯の壁が“高いもの”だと感じた事はなかった。それがいやらしい理由ではないというのも、何だか悲しかった。

 お風呂に、リコーダー、か。
 ………うん。よく分からない。

……………………………………………………

この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第二話、おわる
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