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君といる夜は、めまいを感じる。第二夜、
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君といる夜は、めまいを感じる。
第二夜、
相変わらず、眠れない夜が続いていて、今日も寝不足のまま高校へ行く。ただ、だらだらと眠たいだけの毎日は七月に入り、窓ガラスに隔てられた向こう側は真夏日、三十度を超えているらしい。そんな熱から、まだ冷めていた昨夜、ヨルが「また悩み事か?少年」と聞くから驚いた。どうして、きみはぼくの事が分かるのだろう。「……まあ、そうだね。悩み………だな」と答えると「そんな顔をするくらいなら話だけでも聞こう」と美しい動作で隣に座った。
ぼくは高校に入り、少しずつ大きくなる“学校に行く意味が分からない”という事と、高校を辞めたいと考えているという事を打ち明けた。それなのにきみは「ふふっ、そうか」とだけ言って、それ以上は何も言わず、ただ微笑む。
……本当にヨルは“話を聞くだけ”だったのだ。
ぼくが、この高校に進んだ理由は“いい高校だから”という安直な考えで、頑張ればどうにかなる位置に自分が立っていたから頑張った。幸か不幸か試験に通り、何となく毎日登校する事になって、何となく毎日授業を受ける事に意味を見出せないという状態に陥っている。大量の時間を消費する投資だというのに、それに対してのリターンを理解していない。今日も教室の一番前にある壁面に、ずらずらと並べられる象形文字が上手く読み取れないのは、教わっていない言語に頭が揺れるからだ。
ヨルと出会った日から日付が変わると、家から外に出るようになっていた。眠れぬ夜に部屋で過ごせば息が詰まるし、頭の中を駆け回るあいつに苛まれるだけの時間を過ごす。実に無意味。外に出ると誰もいない町にひとり。だから、世界征服をした気にでもなれれば楽しいのかもしれないが、誰もいないなら征服にもならないから達成感はすぐに冷める。本当に無意味。コンビニに行くと大声で話す同世代のヤツらを見かけて、声をかけようかと様子を伺ってもみた。だけど、彼らの会話がくだらなすぎて仲良くやれそうにないからやめた。ぼくの人生において無意味だからだ。
そして、結局、ヨルのいる公園へと向かう。
今夜も色白い美しい顔はベンチに座っていて、白いまつ毛の流し目に見つけられた。そして、「ふふっ、毎晩求められるとは嬉しいものだな」と紛らわしい言い回しをされるのだ。そんな、きみに軽蔑の目を向けながら、その左右非対称の笑みを浮かべる顔に見惚れていた。知的でいて繊細、少し荒いようにも思える直線的な言葉選びや少し掠れた声に震え、淡々と話す口調と毅然とした態度に魅了される。色白で細く、壊れそうにも強く存在する儚い美しさに、胸が締め付けられる。なんだか、夜に家から抜け出す理由が変わってきているような気がするけらど………これは、これでいいか。
ガラスの向こうの三十度を超える外気を想像して目を閉じ、今日を少し越えた夜に残っている大気の熱を想像した。その暗い大気の中にヨルの姿を思い浮かべようとするも、真っ白な影だけが現れて、あの美しい顔が思い出せない。頭の中に言葉で言い表せない感情が駆け回り、きみまでもがいない。本当につまらない人間だな、ぼくは。求める物は手の内に入れられず、教わる事だけしか手に入れられない。腕を伸ばし、あくびをして、目を開いた。
「そんなに俺の授業がつまらんか?」
ヨルが笑っている。こんなに大きく口を開けて笑うのを見るのは初めてだった。ぼくが授業中に先生が横に立っているとは知らず、大きなあくびをしたら叱られたと話しただけでこれだ。
「本当に学校……辞めようかな」
「ふふっ」
「何も言わないんだね」
「わたしに何を言えと?」
そう……ぼくはヨルから何を言われたいんだよ。結局『辞めないほうがいい』とでも言われて、思いとどまる理由を作って欲しいだけだろ。それも全部、見透かしているから、きみは余裕のある表情で小さく笑うんだろうね。
「ふふっ、少年が選び進んだ道だ。辞めるのも、また選んだ道、とでも言っておこうか」
やっぱり見透かされている。だから、ぼくが生理現象であるあくびをしただけで叱られるという不条理を持ってして訴えても、軽くあしらわれ………ちょっと待てよ。どうして、ぼくは叱られたのだろうか?どう考えても先生が言った事はおかしい。道理がいかない。その事をきみに話すと、きみは前のめり気味に食い付いた。
「おかしいとは“何”が、“どう”おかしい?」
ぼくを叱る時に先生は『そんなに俺の授業がつまらんか』と言って叱った。つまり、その理屈を当てはめると、先生が授業中にするあくびは“生徒に教えるのがつまらない”と言っている事になる。先生は許されて、ぼくのあくびは許されない。それらを思うと世の中に溢れる“やってはいけないの線引き”が、大半の大人の都合によって出来ているように思うのだ。
「籠で飼われていると思い込んでいた少年が、自由に飛べるのだと気付いたらしい」
「どういう意味?」
ふんっ、と鼻で笑われ「少年は学校の廊下を走れるか?」と聞かれた。廊下を走るなんて出来る訳がないと答えると「どうして?」と返ってくる。どうしてって………どうして、だ?
「そんな事も考えられないのかな?」
また子どもを馬鹿にするみたいに小さく笑うのだ。
「分からないのに、廊下を走れないのか」
「………それがルールだからだ」
「ルール?ルールね、面白い。そうじゃないよ、少年」
「じゃあ、やっちゃいけないからだ」
「何故、やっちゃいけないんだ?」
また、いたぶるのが楽しいみたく、くすくす、と美しい顔に笑われた。そして、左右非対称の笑顔で見つめられ「少年は“ルール”というものの根幹を分かっていない。本来、ルールとは人間同士が共生していく為にあるのだよ」と、ぼくの鎖骨と鎖骨の間、その少し下に指を突き立て、吸い込まれそうなその目で見上げ、ぼくの目の奥を見つめた。
「廊下を走り、誰かにぶつかれば怪我をさせるかもしれない。だから、やめましょう。これが本質だ」
「ぼくらを歩かせていたのは…………」
「考えろ、と言ったはずだ、少年」
ルール違反はよくない、そう強く教わった。でも、何故よくないのかは教わらなかった。だから、知らないだけだ。教えてくれれば、もっと分かっていたんだ。いつもルールの“うわべ”だけを掬って与え、ぼくら子どもの身体に染み込ませ覚えさせていく。そして、あとは褒めたり、叱ったりするだけで従わせ、歳を取れば“それが全体の常識、当たり前”なのだと思い込んでいるから疑いもしない。
また、きみが「ふふっ、まだ分かっていない」と小さく笑う。
「抗ってみろ、少年。“やっちゃいけない”から多くを学べ」
「………学ぶって言っても」
「走っては駄目だ、歩きなさい。では、走らずに速く歩けばいい。叱られない速さで、誰よりも速く歩く。そんな事をやってみたらどうだ?」
「小学生じゃあるまいし」
「では、バスの降車ボタンを誰よりも先に押すのはどうだろう?」
「誰も押さなければ降りないといけないだろ」
「考えろ、と、わたしは言った」
目を伏せ、その長いまつ毛に照明の光が反射して神秘的に微笑むヨルに、しばらく息が止まってしまった。それくらいに美しい。何故か、ぼくは咳払いをして夜空を見上げる。この心臓の高鳴りはなんだよ?はあ、と、ため息を吐くと「考えたのか?」と大きく開いた左目で睨まれ、慌てて考える。自分が降りずに降車ボタンを押す為には、誰かが降りる前に押せばいい訳だ。そうすれば、ぼくが降りずに済む。でも、ぼくが押した後に誰も押さなければ、ぼくが降りる事に………そうなったとしても、ぼくが降りればいいだけだから、誰にも迷惑はかけない……よな。
「決して“社会のルール”に対して、違反の範囲ではない遊びだろう?」
「遊び?運とか、たまたまとか………そういう賭けみたいなものじゃないか」
「いいや。運でも、勘でも、賭けでもないさ」
ヨルが“バスの降車ボタン早押し遊び”として提案した遊び方とルールは、他の乗客に怪しまれず様子を伺い、降車ボタンを押すであろう乗客の行動パターンを見つける。それをそつなくこなす為には観察力、洞察力も必要だ。さらに統計も加えれば精度が増す。様々な計画で使われるような基本的な町の構成と客層を自分で収集する。ゲームの勝敗は誰よりも早く降車ボタンを押し、他の乗客が降りれば勝ち。停留所に停まり誰も降りなければ、ぼくの負けだ。勝ち続ければゲームは止まる事なく続行し、負ければペナルティとして、バス停で降り、次のバスを待つだけ。ペナルティのコストは少々高い運賃を払う事と家に帰るのが遅くなるだけ。
「最高に楽しそうだな。考えただけでもゾクゾクする」
そう言ってヨルは嬉しそうに顔を歪ませ爪先で立つ。ぼくの顔を両手で包み、鼻と鼻が触れそうな距離五センチメートルの近さで目を見て言うのだ。この世界はルールとマナーで出来ていて、それらを必ず守らなければいけないと決めた理由は、人間自身が“凶悪な獣”だから。他の動物との違いは“強い理性”と“知恵”、“学問”を持ち合わせているだけの違い。もし、理性と知恵、学問を手放したのなら、簡単に自分を抑える事をやめ“凶悪な獣”のまま振る舞う破綻した動物に堕ちる。時にそれら破綻が招いた歴史上の大きな事変は、“凶悪な獣”のままに振る舞う者を、不安や鬱憤、おごりによる正気を失った者たちが支持し、他の“人間”に行使した身勝手な正義がきっかけだった。
「ルールを破り、反抗するだけが成長や社会に対する抵抗ではないのだよ」
ぼくのように大人が大多数を占める社会に疑いを持ち、その社会に文句があるのなら決められた規律の中で訴え続ける。人間として非常識な行動や暴力的な解決は、ルールから成る社会への冒涜や反逆として冷ややかな目で見られ、時に相応の罰を受ける。さらに消費する熱量や損害の割に非効率であり、多くが理性を持たない“凶悪な獣”の行いだと糾弾される。社会の仕組みの中で規律を守りながら、誰かの心を動かす事が出来たなら、健全な仲間が集まり世界を逆転させるような革命までも成し遂げる事が出来ると、ヨルは歪んだ笑顔を浮かべた。後は「散々、歴史の本でお勉強してきただろう?」と、ぼくの頬を包んでいた白く小さな手を離した。
「悪辣な革命行動は、ただの暴君なのだよ」
それは必ず暴君放伐に遭う。何故なら悪辣な革命行動は、前時代の君主から首が変わっただけだからだ、と、空に浮かぶ月を見上げた。
「遊びも抵抗も決められたルールの中でやるから意味があり、楽しいのだよ」
────明日が楽しみだな、少年。
昨夜もベッドの中に潜り込んでいたのだが、結局、朝方まで眠る事はなかった。今朝も寝坊をして朝食を食べることなく家を出る。ここのところ駅に向かう途中で公園に差しかかると、ヨルがいないだろうかと探してしまう。いないと分かっていていても見えない姿に、何故か、ため息が身体から漏れてしまうのだ。
駅の改札を抜け、ホームに降りる階段で『廊下を怒られない速さで、誰よりも速く歩く』というきみの声を思い出した。人で溢れるホームを……少し、少しだけ速く歩いてみた。人の流れに溺れ、ぶつかりそうになり、躓くように立ち止まらなければいけないからストレスが溜っていく。人の流れと動線、周りの人をよく見て……あれ?駅って…………、
こんなに人が多かったっけ?
通勤のピークは過ぎているはずだ。だけど、人が多すぎて空気が、薄い。耳に酷い音が入ってきて、意識を頭ごなしに押さえ潰そうとする音。何の音だ、これ?人の………足音の束や息づかい、服の擦れる音。小さく呟く、誰かへの汚い言葉たちだ。気にも留めなかった音の集合体が、こんなにもやかましく、それらに頭の中がかき混ぜられて酔っていると気付き、気分が悪くなった。頭が揺れ視界が歪むから、慌てて逃げるようにイヤホンを耳に突っ込み音楽を再生する。叩くようなピアノが鼓膜を揺らし、不規則に揺れる頭を一定のリズムで揺らすのは、
君がそばにいるときはいつでも………。
そう唄う、少し掠れた声がヨルように繊細でいて、力強いきみのような美しい声だから安心する。華奢で、色白、細く長い手足や目一杯抱きしめる事が出来たなら折れるんじゃないかと心配になる儚さを持った身体。乾きながらも透き通り、少し掠れた声でささやかれる、感情。
もしかして、ぼくがきみに惹かれるのは………。いや、でも、きみはぼく以外にも、って。今、ぼくが参っているのは頭の中の揺れか、
それとも、
君といる夜に、めまいを感じる事か。
第二夜、終わり。
第二夜、
相変わらず、眠れない夜が続いていて、今日も寝不足のまま高校へ行く。ただ、だらだらと眠たいだけの毎日は七月に入り、窓ガラスに隔てられた向こう側は真夏日、三十度を超えているらしい。そんな熱から、まだ冷めていた昨夜、ヨルが「また悩み事か?少年」と聞くから驚いた。どうして、きみはぼくの事が分かるのだろう。「……まあ、そうだね。悩み………だな」と答えると「そんな顔をするくらいなら話だけでも聞こう」と美しい動作で隣に座った。
ぼくは高校に入り、少しずつ大きくなる“学校に行く意味が分からない”という事と、高校を辞めたいと考えているという事を打ち明けた。それなのにきみは「ふふっ、そうか」とだけ言って、それ以上は何も言わず、ただ微笑む。
……本当にヨルは“話を聞くだけ”だったのだ。
ぼくが、この高校に進んだ理由は“いい高校だから”という安直な考えで、頑張ればどうにかなる位置に自分が立っていたから頑張った。幸か不幸か試験に通り、何となく毎日登校する事になって、何となく毎日授業を受ける事に意味を見出せないという状態に陥っている。大量の時間を消費する投資だというのに、それに対してのリターンを理解していない。今日も教室の一番前にある壁面に、ずらずらと並べられる象形文字が上手く読み取れないのは、教わっていない言語に頭が揺れるからだ。
ヨルと出会った日から日付が変わると、家から外に出るようになっていた。眠れぬ夜に部屋で過ごせば息が詰まるし、頭の中を駆け回るあいつに苛まれるだけの時間を過ごす。実に無意味。外に出ると誰もいない町にひとり。だから、世界征服をした気にでもなれれば楽しいのかもしれないが、誰もいないなら征服にもならないから達成感はすぐに冷める。本当に無意味。コンビニに行くと大声で話す同世代のヤツらを見かけて、声をかけようかと様子を伺ってもみた。だけど、彼らの会話がくだらなすぎて仲良くやれそうにないからやめた。ぼくの人生において無意味だからだ。
そして、結局、ヨルのいる公園へと向かう。
今夜も色白い美しい顔はベンチに座っていて、白いまつ毛の流し目に見つけられた。そして、「ふふっ、毎晩求められるとは嬉しいものだな」と紛らわしい言い回しをされるのだ。そんな、きみに軽蔑の目を向けながら、その左右非対称の笑みを浮かべる顔に見惚れていた。知的でいて繊細、少し荒いようにも思える直線的な言葉選びや少し掠れた声に震え、淡々と話す口調と毅然とした態度に魅了される。色白で細く、壊れそうにも強く存在する儚い美しさに、胸が締め付けられる。なんだか、夜に家から抜け出す理由が変わってきているような気がするけらど………これは、これでいいか。
ガラスの向こうの三十度を超える外気を想像して目を閉じ、今日を少し越えた夜に残っている大気の熱を想像した。その暗い大気の中にヨルの姿を思い浮かべようとするも、真っ白な影だけが現れて、あの美しい顔が思い出せない。頭の中に言葉で言い表せない感情が駆け回り、きみまでもがいない。本当につまらない人間だな、ぼくは。求める物は手の内に入れられず、教わる事だけしか手に入れられない。腕を伸ばし、あくびをして、目を開いた。
「そんなに俺の授業がつまらんか?」
ヨルが笑っている。こんなに大きく口を開けて笑うのを見るのは初めてだった。ぼくが授業中に先生が横に立っているとは知らず、大きなあくびをしたら叱られたと話しただけでこれだ。
「本当に学校……辞めようかな」
「ふふっ」
「何も言わないんだね」
「わたしに何を言えと?」
そう……ぼくはヨルから何を言われたいんだよ。結局『辞めないほうがいい』とでも言われて、思いとどまる理由を作って欲しいだけだろ。それも全部、見透かしているから、きみは余裕のある表情で小さく笑うんだろうね。
「ふふっ、少年が選び進んだ道だ。辞めるのも、また選んだ道、とでも言っておこうか」
やっぱり見透かされている。だから、ぼくが生理現象であるあくびをしただけで叱られるという不条理を持ってして訴えても、軽くあしらわれ………ちょっと待てよ。どうして、ぼくは叱られたのだろうか?どう考えても先生が言った事はおかしい。道理がいかない。その事をきみに話すと、きみは前のめり気味に食い付いた。
「おかしいとは“何”が、“どう”おかしい?」
ぼくを叱る時に先生は『そんなに俺の授業がつまらんか』と言って叱った。つまり、その理屈を当てはめると、先生が授業中にするあくびは“生徒に教えるのがつまらない”と言っている事になる。先生は許されて、ぼくのあくびは許されない。それらを思うと世の中に溢れる“やってはいけないの線引き”が、大半の大人の都合によって出来ているように思うのだ。
「籠で飼われていると思い込んでいた少年が、自由に飛べるのだと気付いたらしい」
「どういう意味?」
ふんっ、と鼻で笑われ「少年は学校の廊下を走れるか?」と聞かれた。廊下を走るなんて出来る訳がないと答えると「どうして?」と返ってくる。どうしてって………どうして、だ?
「そんな事も考えられないのかな?」
また子どもを馬鹿にするみたいに小さく笑うのだ。
「分からないのに、廊下を走れないのか」
「………それがルールだからだ」
「ルール?ルールね、面白い。そうじゃないよ、少年」
「じゃあ、やっちゃいけないからだ」
「何故、やっちゃいけないんだ?」
また、いたぶるのが楽しいみたく、くすくす、と美しい顔に笑われた。そして、左右非対称の笑顔で見つめられ「少年は“ルール”というものの根幹を分かっていない。本来、ルールとは人間同士が共生していく為にあるのだよ」と、ぼくの鎖骨と鎖骨の間、その少し下に指を突き立て、吸い込まれそうなその目で見上げ、ぼくの目の奥を見つめた。
「廊下を走り、誰かにぶつかれば怪我をさせるかもしれない。だから、やめましょう。これが本質だ」
「ぼくらを歩かせていたのは…………」
「考えろ、と言ったはずだ、少年」
ルール違反はよくない、そう強く教わった。でも、何故よくないのかは教わらなかった。だから、知らないだけだ。教えてくれれば、もっと分かっていたんだ。いつもルールの“うわべ”だけを掬って与え、ぼくら子どもの身体に染み込ませ覚えさせていく。そして、あとは褒めたり、叱ったりするだけで従わせ、歳を取れば“それが全体の常識、当たり前”なのだと思い込んでいるから疑いもしない。
また、きみが「ふふっ、まだ分かっていない」と小さく笑う。
「抗ってみろ、少年。“やっちゃいけない”から多くを学べ」
「………学ぶって言っても」
「走っては駄目だ、歩きなさい。では、走らずに速く歩けばいい。叱られない速さで、誰よりも速く歩く。そんな事をやってみたらどうだ?」
「小学生じゃあるまいし」
「では、バスの降車ボタンを誰よりも先に押すのはどうだろう?」
「誰も押さなければ降りないといけないだろ」
「考えろ、と、わたしは言った」
目を伏せ、その長いまつ毛に照明の光が反射して神秘的に微笑むヨルに、しばらく息が止まってしまった。それくらいに美しい。何故か、ぼくは咳払いをして夜空を見上げる。この心臓の高鳴りはなんだよ?はあ、と、ため息を吐くと「考えたのか?」と大きく開いた左目で睨まれ、慌てて考える。自分が降りずに降車ボタンを押す為には、誰かが降りる前に押せばいい訳だ。そうすれば、ぼくが降りずに済む。でも、ぼくが押した後に誰も押さなければ、ぼくが降りる事に………そうなったとしても、ぼくが降りればいいだけだから、誰にも迷惑はかけない……よな。
「決して“社会のルール”に対して、違反の範囲ではない遊びだろう?」
「遊び?運とか、たまたまとか………そういう賭けみたいなものじゃないか」
「いいや。運でも、勘でも、賭けでもないさ」
ヨルが“バスの降車ボタン早押し遊び”として提案した遊び方とルールは、他の乗客に怪しまれず様子を伺い、降車ボタンを押すであろう乗客の行動パターンを見つける。それをそつなくこなす為には観察力、洞察力も必要だ。さらに統計も加えれば精度が増す。様々な計画で使われるような基本的な町の構成と客層を自分で収集する。ゲームの勝敗は誰よりも早く降車ボタンを押し、他の乗客が降りれば勝ち。停留所に停まり誰も降りなければ、ぼくの負けだ。勝ち続ければゲームは止まる事なく続行し、負ければペナルティとして、バス停で降り、次のバスを待つだけ。ペナルティのコストは少々高い運賃を払う事と家に帰るのが遅くなるだけ。
「最高に楽しそうだな。考えただけでもゾクゾクする」
そう言ってヨルは嬉しそうに顔を歪ませ爪先で立つ。ぼくの顔を両手で包み、鼻と鼻が触れそうな距離五センチメートルの近さで目を見て言うのだ。この世界はルールとマナーで出来ていて、それらを必ず守らなければいけないと決めた理由は、人間自身が“凶悪な獣”だから。他の動物との違いは“強い理性”と“知恵”、“学問”を持ち合わせているだけの違い。もし、理性と知恵、学問を手放したのなら、簡単に自分を抑える事をやめ“凶悪な獣”のまま振る舞う破綻した動物に堕ちる。時にそれら破綻が招いた歴史上の大きな事変は、“凶悪な獣”のままに振る舞う者を、不安や鬱憤、おごりによる正気を失った者たちが支持し、他の“人間”に行使した身勝手な正義がきっかけだった。
「ルールを破り、反抗するだけが成長や社会に対する抵抗ではないのだよ」
ぼくのように大人が大多数を占める社会に疑いを持ち、その社会に文句があるのなら決められた規律の中で訴え続ける。人間として非常識な行動や暴力的な解決は、ルールから成る社会への冒涜や反逆として冷ややかな目で見られ、時に相応の罰を受ける。さらに消費する熱量や損害の割に非効率であり、多くが理性を持たない“凶悪な獣”の行いだと糾弾される。社会の仕組みの中で規律を守りながら、誰かの心を動かす事が出来たなら、健全な仲間が集まり世界を逆転させるような革命までも成し遂げる事が出来ると、ヨルは歪んだ笑顔を浮かべた。後は「散々、歴史の本でお勉強してきただろう?」と、ぼくの頬を包んでいた白く小さな手を離した。
「悪辣な革命行動は、ただの暴君なのだよ」
それは必ず暴君放伐に遭う。何故なら悪辣な革命行動は、前時代の君主から首が変わっただけだからだ、と、空に浮かぶ月を見上げた。
「遊びも抵抗も決められたルールの中でやるから意味があり、楽しいのだよ」
────明日が楽しみだな、少年。
昨夜もベッドの中に潜り込んでいたのだが、結局、朝方まで眠る事はなかった。今朝も寝坊をして朝食を食べることなく家を出る。ここのところ駅に向かう途中で公園に差しかかると、ヨルがいないだろうかと探してしまう。いないと分かっていていても見えない姿に、何故か、ため息が身体から漏れてしまうのだ。
駅の改札を抜け、ホームに降りる階段で『廊下を怒られない速さで、誰よりも速く歩く』というきみの声を思い出した。人で溢れるホームを……少し、少しだけ速く歩いてみた。人の流れに溺れ、ぶつかりそうになり、躓くように立ち止まらなければいけないからストレスが溜っていく。人の流れと動線、周りの人をよく見て……あれ?駅って…………、
こんなに人が多かったっけ?
通勤のピークは過ぎているはずだ。だけど、人が多すぎて空気が、薄い。耳に酷い音が入ってきて、意識を頭ごなしに押さえ潰そうとする音。何の音だ、これ?人の………足音の束や息づかい、服の擦れる音。小さく呟く、誰かへの汚い言葉たちだ。気にも留めなかった音の集合体が、こんなにもやかましく、それらに頭の中がかき混ぜられて酔っていると気付き、気分が悪くなった。頭が揺れ視界が歪むから、慌てて逃げるようにイヤホンを耳に突っ込み音楽を再生する。叩くようなピアノが鼓膜を揺らし、不規則に揺れる頭を一定のリズムで揺らすのは、
君がそばにいるときはいつでも………。
そう唄う、少し掠れた声がヨルように繊細でいて、力強いきみのような美しい声だから安心する。華奢で、色白、細く長い手足や目一杯抱きしめる事が出来たなら折れるんじゃないかと心配になる儚さを持った身体。乾きながらも透き通り、少し掠れた声でささやかれる、感情。
もしかして、ぼくがきみに惹かれるのは………。いや、でも、きみはぼく以外にも、って。今、ぼくが参っているのは頭の中の揺れか、
それとも、
君といる夜に、めまいを感じる事か。
第二夜、終わり。
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