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< Erste Satz : きょうこ >

N˚. 2 < Zweiter Akt.:きょうこ【第二幕】 >

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このクソ素晴らしき世界。
Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚. 2 

< Zweiter Akt.:きょうこ【第二幕】 >



…………………………

 制服に着替え、部室棟から出ると空に星がひとついて、その反対側の空に三日月を見つけた。対の星となったきみがいる安心感を感じて、失ったときの苦しさを想像してみる。いま、きみがいなくなると困る。あたしの居場所が………わからなくなる。

 各々の部活が終わり、汗の匂いとともに通路を流れる生徒に混じって校門を出ると、両端に設けられた花壇の前で目立たないように流れに逆らう、ちいさな温度を見つけた。

「ん?あ。せつな?」

 靴を心地よく鳴らして、弾み、駆け寄ってくるきみ。その軽く心地のいいリズムと、やわらかい笑顔に、ついあたしもほころんでしまった。

「ずいぶん待ったんじゃない?」
「ううん、全然待ってないっ」

 とろけるように笑うきみは嘘をついていた。本当は三十分以上は待っていたのだろう。こんなにも鼻の頭が赤くなって、きみのちいさく細い指が、ほら、こんなにも冷たくなっているじゃないか。

「まったく、先に帰ってもいいって言ってんのに。寒いんだからさー」
「だってね?きょうこちゃんといる時間が多くなれば、しあわせだからね?」

 相変わらず、きみはすごいな。純粋でまっすぐ、恥ずかしくなるような言葉も躊躇わず声にできる。

「どこか寄ってくかい?」

 そう提案してみたが「うーん。実は今月、お財布が悲鳴を上げていてねっ、その……っ、ごめんね?」とのことだ。校則でアルバイトは原則禁止になっているうえに、きみの親は厳しいというから教師たちが黙認している『みんなが隠れてやっていること』なんて出来ないらしい。こうやって、きみと話をして、きみのことを知れば知るほど、あたしと違って『お嬢さま』で『箱入り』なんだということがわかっていく。

暮れゆく十一月の駅。
 不器用に直線的で、ただ真っ白な照明で浮かび上がるホームは細長い舟のよう。だから、転覆しないように踏ん張ってしまう癖が子どもの頃から抜けない。無機質な舟のうえで、せつなだけが温度を持っていて、楽しそうに、しあわせそうに話をするから、この舟の上にきみの声の数だけ、あたたかい色が咲いていく。

「せつなは一所懸命に生きているんだなあ」
「うん?そんな大袈裟なことじゃないよっ?」

 不思議そうに首を傾げ、ちょこんと顔の前で手を合わせたまま「たくさん話すのは、きょうこちゃんに………わたしのことをよく知ってほしいからね?」と、ちいさな口が、夜空に浮かんだそれと同じ三日月になった。

「そか。じゃあ………たくさん聞いて、たくさん知らないとだなー」
「うんっ」

 ほんとうにきみは、一瞬、一瞬を一生懸命に美しく生きようとしているね。

「ねえ?きょうこちゃん?」
「うん?」






「……………、………………?」

 きみの声が上手く聞き取れず、聞き返そうと形にした言葉は、けたたましく鳴り響くベルとアナウンスに塗りつぶされた。電車の騒音と巻き上げた風が嵐のように髪をさらう。乱れた髪が、きみの表情を隠すからわからないんだ。電車の扉が開き、ちいさな身体が、ひょいっと軽く跳ね、乗る電車。ホームと電車のあいだに作られた10センチメートルの隙間が“せかい”の境界に見えて、あたしときみは違う“せかい”にいるのだと言われた気がした。

 そっち側の“せかい”に生きるきみが、

「ゴッホって知ってる?って聞いたんだよ?」

 こっち側に生きるあたしに言って、目を細め、悲しそうな表情で微笑む。

 扉の横にあるちいさなスペースにきみは収まり、窓に流れる闇の“せかい”を見つめている。あたしが見ているのは、そのちいさな背中とガラスに写る半透明のきみの顔だ。

 せつな?なんだか、胸の奥がざらざらするんだ。
 ねえ?おねがい、せつな。なにか言って?

 パンタグラフが架線を擦って鳴り電力を得てモーターが唸る。金属の擦れる音やぶつかり合う音は、決して快適ではないはずなのに眠気をさそうくらいに心地いいのはなぜだろう。

「……せつな?ゴッホって『ひまわり』の?」
「うん」

 きみのちいさな手が、きゅっと手すりを握りなおした。

「わたしが彼の絵をはじめて見たのは小学三年生の時でね」

 まつげが伏せ、大きな瞳の面積が小さくなる。すこし、潤んだ瞳のなかに闇の“せかい”を讃えるような光が流れていた。



「衝撃的……というのは、ああいうことを言うんだろうね」

 お母さんに連れられて行った美術館。そこに飾られた一枚の絵に惹かれたきみは、帰り道に初めて『わがまま』を言い、初めて『ねだって』までゴッホの画集を買ってもらったのだという。

「……そか、なんだか、すごいね」
「そうかな?」

 ガラス越しに見る半透明のきみが悲しそうに微笑むから、思わず「せつなだって、ゴッホにな……」と口にしたとき、レールと車輪が擦れる甲高い音がして揺れた。あたしはバランスを崩して、きみを追い込むように扉の角に追い込んでしまう。胸に、ちいさなきみの顔があって、ゆっくりと一定のリズムで吐かれるあたたかい息を身体で感じた。

 きみも驚いて

 ……………いない。

 大きな瞳が美しい光であたしを捉え、離さないようにまっすぐに向けられている。あたしの胸の下に、ゆっくり立てられた熱い指先と、それから包むように脇腹にやさしく添えられる、ちいさな熱。

「ん………っ」

 やらしい声が漏れた、はず。その声を飲み込むよう喉が鳴った、はず。心臓がおおきく跳ねている、はず。うっすらと汗をかいている、はず。顔が、首筋が紅くなっている、はず。

 ぜんぶ、自分のことなのにわからないから逃げるように周りを見渡し、もう一度、きみの瞳を覗いたとき………そこにあったはずの美しい光は消え、添えられていたはずの熱い手もいなくなっていた。

「や……っ、ひとがいるからさ…………?」
「うん?急に揺れて、びっくりしたね?きょうこちゃん?」
「え?あ…………うん」

 天井のスピーカーから、あたしの降りる駅名が伝えられた。

「それじゃあ、また明日ね?」

 言葉が冬の空気に溶けて、きみを乗せた電車が闇の向こうへ消えていった。いつも聞いている言葉だ。疑問形なのは、きみの癖だ。なのに…………どうして、こんな気持ちになる?人工の明るさで夜に浮かぶ舟の上で、胸に残る直径2センチメートルの熱とざらざらとした感覚に手を重ね、祈るように体に力を入れて丸まった。あたしが、この出来事の作者なら、これらをどう表現するのだろうか。

 駅から二十分歩いても、直径2センチメートルの熱は消えずに橋の上まで着いてきた。向こう岸に浮かぶ灰色のマンション群があたしの育った町だ。B棟のエントランスですれ違った、どこかの部屋に住む誰かに、ぺこり。郵便受けを開けると大量の封筒とハガキ、目が痛くなる色使いで刷られた色欲の吐口へ誘うチラシの束は、握りつぶしてから専用のごみ箱に捨てる。エレベーターを待つ間、そのほとんどがダイレクトメールであるハガキや封筒に目を通しているとエレベーターの扉が開き、ふたつ隣りのおばさんがごみ袋を持って出てきたので、ぺこり。機械油の独特な匂いがする箱に乗り込んで『5』のボタンを押す。『5』に着くと足音を殺して廊下を歩き、玄関の前で、ひと呼吸。

 ふつう、ふつうに、だ。

 今日も昨日と変わらない。
 あたしは『ふつう』だ。

 鍵を差込み、左に回した…………いつもの鈍く引っかかる感覚がない。鍵が開いている……?弟が帰ってきていて………内側から鍵を閉め忘…いや、弟にかぎってそれはない。嫌な予感と過去が騒ぎ出して、胸にいたはずの直径2センチメートルの怖がりなきみが、どこかに隠れた。

 靴が散らかされた玄関。いつもはきれいに群れているスリッパが散乱している廊下。扉が開いたままのリビング。それらが視界に入ってきて頭で理解したとき、

 舌打ちをする。

「っ、またかよ」

 大きなため息に続いて泥のような感情が身体の底から湧いてくるから、溢れないように天井を見上げた。音がする………いつもの音だ。床に散らかり、割れた食器やコップに混じって嗚咽を殺しながら泣く母が転がっている。しかめっ面、溢れてしまった深く熱い泥のため息。髪をかき上げ、頭の後ろを掻きながら低い声で問う。

「で?いつ来たの?かあさん?」



「今日子、ごめね、ごめんね……?なんでもないから……大丈夫だからね?」

 この状況のどこが『なんでもない』で、どこが『大丈夫』なのか。いつもあたしの言葉は母に届かない。あたしのことなんて無視して「ごめんね」と逃げる。

「かあさん、言って。あいつはいつ来た?言わなければ、あたしが警察に行く」

「ちがう」「そんなひとじゃない」「ほんとうはやさしい」「すこし感情の表現が下手なだけ」……もう聞き飽きたよ。いま、そんな言葉の羅列になんの意味があるの。

「言わないんだね。じゃあ……」
「や…やめっ……!いちっ!一時間くらい、前……っ!」

 いつも母があいつを一所懸命かばう理由がわからない。

「一時間か、追いかけても無駄だな」

 熱く重たくなった肺の中の空気を全部出して、次の不幸に備えるために、新鮮な空気を肺にいっぱい詰め込んだ。

「それで?いくら渡した?」






「分からない……」

 この“せかい”はまわっている。
 ただギシギシと歪ながらまわっている。

 “せかい”は不快な音や不協和音を立てながら、
 ぎこちなくまわっていて“こころ”が狂うのを、



 ────楽しみに待っている。

「分からないって……かあさんが働いてもらってきたお金でしょう?どうして、庇うの?」
「ち、違うのよ、今日子っ。庇ってなんかいない、私が弱いだけだか……らっ」

 またそうやって、あたしたち“こども”から逃げるんだね。

「ただいー……?うわっ、なんだよっコレ!?」
「おかえり、いちな」

 弟は何があったか察すると、あたしの表情を見て、母とのあいだに何があり、何が話されたのか理解したようだった。ソファーにショルダーバッグを投げると「わちゃー、どんどんひどくなってね?」と、床に散らかったガラス片を拾い始める。最近、弟にまで『こんな状況でも冷静でいられる』という“こころ”に芽を出したあいつに、あたしは不快をおぼえている。

「きょうちゃんさ。床はおれやっから、かあさんにお薬飲ませてやって」

 覗き見る母の顔色が真っ白に引いて、唇が紫がかり、そして、過呼吸になりかけていた。母のバッグを探し、いつものポーチから取り出した、いつもの錠剤を、いつもの三錠。母は“こころ”が弱い。いつも強くいたからこそ、突然の暴力にあっさりと“こころ”に、ひびが入ってしまった。

「ごめんね?ふたりともごめんね…………?」

 あたしが小説の作者なら、こんな酷く不条理な場面は書かない。

 薬の効き目と、すり減らしたであろう“こころ”の疲れから、母が眠りについたのを確認して、弟が作ったオムライスを口にした。………不思議なことに母と弟は、あたしが料理をすることを強く拒む。ほおばる旨みに、弟が料理を作るたび腕を上げていることを再確認し、むー、と眉をよせ、弟をじぃーっと見ていると不意に目が合ってしまった。

「っうわ!びっくりした!なに、こわ!不味かった!?」
「いや?美味いよ。なあ、いちな?どうして、ねえちゃんに料理をさせない?」

 あー、それはー……と、いつも苦笑いで答えを濁す理由はひとつだろう。

「……あたしの料理は不味いんだな?」



「……こういうのってさー、本人気づいていないこと多いよね」
「薄々勘づいてはいたけれど…………そうか、やっぱりか」

「きょうちゃんさ?今のうち練習しておいたほうが、おヨメさんになったときに……ね?」



 お嫁さん、ね。

 現行の法律では、あと一年とすこしすれば、結婚が法的に認められる年齢に満ちる。その権利の発生は、あたしの人生にどう影響するのだろう。スプーンをくわえたまま天井の照明を眺めた。

「結婚…………かあ」

 どこかに隠れていた臆病な直径2センチメートルのきみが、ふわり顔を出す。



 あれは覚悟、だったのかなあ。

 ………せつなは、

 せつなは料理が上手だろうなあ。むしろ、あの見た目で実は不器用とか武器だろ。

「きょうちゃん、なんか言った?」
「……あー。いや?かあさんが警察に行かないなら、あたしたちでどうにかなんないかとか?」

 弟がスプーンをくわえたまま「うーん」と少し考えたあと、

「でもさ。ふたりの問題だろ?酷だけど、かあさんの意思がはっきりしないと」

 やはり、弟にもあたしが不快に思っているあいつが芽を出している。お皿に残る黄色のそれと、赤色のそれを見つめる。かあさんは……曲がりなりにも“おとな”だろ。あたしたちにとって、いちばん身近な“おとな”なんだ……、だから、もうちょっとだけ…………。

 割れ物を弟が片付け、新聞紙に包んでいる間に食器を洗い、そのあとシャワーを浴びて温まった体でコーヒーを淹れる。お湯を沸かし、豆に注いでドリッパーから落ちる雫。それを眺めるのが好きでコーヒーを淹れはじめるきっかけになった。香るカップを持って、弟の部屋をノックし「いちな?お風呂空いたよ」と声かけた。部屋のなかから「うーい、きょうちゃんおやすみー」という弟のいつもの声が、まるで何もなかったみたいに思えて、すこし笑ってしまった。自分の部屋に戻ると灯りは机の照明だけを点けて、復習をはじめる。

 分厚い本を読み解き、タブレットがネットワーク上の文字列を人間が読めるようにして、映しだしている。これらの知識や教養は、いま役に立つものではないかもしれないけれど、きっと、いつか必要なことだから必ず頭に入れておかなければならない。ペンを走らせつづけて、ノートをめくる流れで時計を見た。針が前に見た二十時五十八分ではなく二十二時四十六分に変わっていたから1分間スマートフォンを見つめることにした。

 そろそろ鳴るはず、



ピロリン♪

 ほら、来た。

<こんばんは、きょうこちゃん。電話をしてもいいですか?>

 テキストメールに添えられた、かわいいウサギが跳ねるアニメーション。こういうかわいいものが使えるきみが、うらやましかったりするんだ。あたしが使うには、かわいすぎるから………ね。せつなはテキストメールであっても二十三時を過ぎて連絡してくることはない。ほんとうに漫画や小説に出てくるようなお嬢さまだ。きみのアイコンに設定されたウサギに触れ、現れた『返信』と『通話』のアイコンの後者をタップする。耳元で鳴り、鼓膜をこそばゆく揺らすコール音は、きみと繋がる“こころ”の揺れみたいだと目を閉じて音に集中してみた。きみの“こころ”に呼びかけ続けて、繋がる。

「もしもし?せつな?うん、こんばんは」

 電話のむこう、そこに見える“せかい”は、どんな“せかい”なんだろう。どんな光が満ち、どんな温度で、どんな色をしているのだろうか。あたしが見ている“せかい”は殺風景な部屋に、色気なく並べられた小説が収まる棚、窓に半透明で写る険しい表情をしていたはずの、あたしの表情が崩れてやわらかくなった笑顔が写っているよ。そのガラスの向こう側で、暗闇に光が線を引く電車が走っていく。ただ、それだけの“せかい”だよ。

 この電話が終わったら小説の続きを書こう。
 誰も知らないあたしが創造する“せかい”は、きみも知らない。

 この“せかい”は、あたしたちが知らない間もまわっている。
 寝静まっている間も気付かれない五月蠅さで、
 軋む轟音を立ててながら、休息を取る人間が明日は狂ってくれるのを待っている。

 あたしたちのことなんて聞きたくない、知りたくもない、
 そう思っていないのかもしれない。

…………………………

このクソ素晴らしき世界。
Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚. 2 
< Zweiter Akt.:きょうこ【第二幕】 >
Ende.
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