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扉を閉めて、鍵をかけて。[八折]
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扉を閉めて、鍵をかけて。[八折]
死神には残りの生命がロウソクに灯る火として見えていると、多くの物語に記されている。しかし、物語のように火を消す権利などはないのだ。ただ、生命の側に行き、火が消えるまで寄り添って、話を聞く。それがわたしのお仕事だ。
収蔵室の扉を閉めて、鍵をかけた。帰りは遅くなったものの残業を終えて、まだ空が紺色ではなく真っ赤に焼けているだけ早いと言える。わたしは正門に向かう煉瓦敷きの道の上で、夜に向かう空を見ていた。ここで流れる時間と人間の住む場所で流れる時間は寸分違わず同じなのだろうか。もし、差異があり、時間が遅く進んでいるから“死神”が死んでいないだけだとしたら……。そんな考えを巡らせていると、背後から死神の足音が近付いてきた。
わたしは残業という残業、上司という死神に愛されている。
この夜、わたしが勤める部署の皆が呼ばれ、生命の灯が消える人間の側に行く事となった。稀にある、一度に多くの生命の灯が消え、本へと記される出来事。空から見下ろす紺碧の海面にきらきらと満天の星が映り、その中に幾つもの黒い点が浮かぶ。その日、多くの客を乗せた巨大な旅客船が事故で沈み、極寒の海に客が投げ出されたのだ。
わたしは数少ない救命艇のひとつに向かう事となった。事故から数日が経った、ある月夜。広大な海を漂う救命艇にその紳士は乗る。
「こんばんは」
月を背に舳先に立つわたしを見て、やつれた顔の紳士の目の色が変わりロープを切る為の斧が持たれる。自らの生命にすがっているのか、それとも何も無い海の上で出会ったわたしという存在に恐怖しているのか、本人も分かっていない姿が哀れに映る。穏やかに揺れている救命艇の上をよろよろと向かってくる彼に向かい、スカートの裾を少し上げ、傾げずき挨拶をした。
「改めまして、こんばんは」
「……生き残りか?」
「いいえ、侯爵殿。わたしは人間ではありません。死神です」
“死神”という言葉を聞き、途端に見開く目と震える眼球。辛うじて歩けていた脚が止まり斧を落とすと、その場に座り込んで顔を覆った。
「ちっ、違うんだ……っ。ちがう。私はこんな事をする人間ではないのだっ」
「今際の際では、そう仰る方もいます」
彼に近付いていくと酷く拒絶され、後退りまでされるのだから、やはりわたしは人間にとって忌まわしい存在なのだなと悲しくなる。
「私は!国の為に多くの戦場に赴き!多くの兵と民を救ってきた!」
「そのような話を聞きに来たのではありません」
「じゃあっ!私ひとりくらい見逃してくれてもいいじゃないかッッ!!」
この救命艇には、ざっと見て二十数名は乗れるだろう。あれだけの巨大な旅客船だ、これほどの舟を備えていてもおかしくはないが、それでも数が少な過ぎるとも言える。この“舟の乗客”は公爵殿、彼一人。月明かりの甲板を見渡すと片方だけの靴や懐中時計、這いずる血痕が多く残されている。そう彼は……、
「どうしても!どうしても助からなければならない!」
彼は極寒の海に放り出される前に、運良くこの救命艇に乗り込んだ他の乗客達を手にかけたのだ。
「何故、貴方は他の人を殺めたのですか?」
「一人でも少ない方が!食糧を分けずに済む!」
「それでは道理が通りません」
「………むっ、息子の結婚式にどうしても参列しなければならない!」
彼が巨大な旅客船に乗った理由は、家を飛び出し、大陸に渡った子息から届いた一通の手紙だった。元々、許す気の無かった一人息子が、その身ひとつで事業を成功させる。そして、永遠の伴侶と共に歩む最初の日に、父を呼んだのだ。
「このような事をする貴方は、ご子息に会えるような“人間”ですか?」
「仕方がない、仕方がない!こんな大海原だ!見つかるまで何日かかるかも分からない!」
彼の近く、甲板にいつか注意された膝を立てた座り方をし、膝と膝の間に顎を乗せた。彼の取った行動は彼の意とは反し、死を手繰り寄せる。“人がいなくなり”軽くなった舟は流され、巨大な旅客船から離れてしまった。一方で旅客船は時間をかけてゆっくり浸水し、船体がバランスを崩し沈没する際に、煙突から海水がボイラーに入って水蒸気爆発を起こした。その大きな音と水蒸気、煙は結果として救難信号を受けて向かっていた多くの船にとって目印となった。
「貴方は人を殺めた手で、ご子息の新しい人生を送り出せるのですか?」
「許してくれ……っ!許してくれ!息子の為なんだ!」
「国や民の為に戦場に赴いた。ご子息の為には仕方がなかった……。それは貴方の傲慢、ただの我儘です」
他の生命にも人生があり、かけがえのない生きる理由がある。それを奪い、貴方の人生だけを生かそうとしたのは、誰かの為でもなく貴方自身の我儘に従っただけだ。
「許しを乞い謝るなら、せめて、貴方の殺めた人々にして下さい」
わたしはそこまで言うと彼の横を抜けて「どこも怪我などしていないのだから、這いずってでも着いて来て下さい」と公爵殿言い、舟の後部へと歩く。甲板の上を彼は身体を引きずり、わたしを追ってくると、ひゅっ、と、息を吸う音と共に呼吸を止めた。
「これが貴方の最期です。罪に苛まれたのか、状況に耐えかね尊厳を守ったのか。どちらにせよ、貴方だ」
舟の後部、旗を立てる為のポールにシルクで仕立てられたスーツを使い公爵殿は首をかける。
「まだ食糧は残っています。客船の混乱の中、貴方は凍えないようコートとマフラーまで持ち出している」
「私は……………私のした事の重さを理解したのか……?」
「そうあって欲しいとしか、伝えません」
「君が死神であるなら……っ!まだ命を奪う存在の方が優しい!!」
その言葉に俯き、痛む胸に手を当てた。わたしが公爵殿に行っている事は、彼が身勝手に奪った生命を考えての事だが、生命の最期に寄り添う者として不適格かもしれない。どんな生命であれ、生命の灯が消える時は平等でなければ、所詮、わたしがしている事は彼がした事と同じだ。
わたしは、ひどい、しにがみ。
多くの死神が出向いた巨大な旅客船の事故から数日。雨風を凌げ、ぬくぬくと暖かかく、西陽の入る建屋で“生命”を本に記し続けた。千数百にも及ぶ人生が綴られていき、収蔵室の棚に収められていく。
“まだ命を奪う存在の方が優しい!!”
彼の声が頭から離れずにいる。わたしが生命や人生に対する態度や振る舞いは、敬意、愛しさからだけれど、本当は間違いなのかもしれない。例えば、それらわたしの感情は同僚が言う変人だから湧く感情だとしたら……。そう考えていたら、強く、今夜は誰にも会いたくないと思った。わたしを知っている“もの”にも姿を見られたくないと、強く、思う。建物の煉瓦を切り取り、窓とした隙間から見る夕陽。小首を傾げて、公爵殿の“生命”は、何の意味を持って生まれたのかと考える。彼の“生命”が、国の為、民の為、領地の為に使った人生だとすると、人を殺めてまで生き残ろうとした彼の“生命”は、誰かの“生命”の為に使われた“生命”だ。そんな彼に与えられた”許すはずがなかった”ご子息の新たな道を祝えるという、幸。
死神は“生命”の火が消えるまで、お話を聞き、寄り添うお仕事。決して、生命の灯を消したり、意地悪をする為にいる訳ではない。
文章の最後にわたしのサインを入れて、本をそっと閉じる。その表紙に手を置き、窓から見える夕陽を眺めて思慮するのだ、どこで独りになろうかと。
「あなたは人生をよく生きたと思います」
この気持ちは心の底、誰にも覗けやしない仄暗く、深い場所から込み上げてくる気持ちだ。わたしがいつも魂から離れた生命に贈る言葉。その時、背後に感じた死神の存在。今夜も残業なのかと覚悟した時、上司が言った。貴女の好きなビーフシチューを食べに行こう、と。だから、
収蔵室から出て、扉を閉めて、鍵をかけた。
おわり。
死神には残りの生命がロウソクに灯る火として見えていると、多くの物語に記されている。しかし、物語のように火を消す権利などはないのだ。ただ、生命の側に行き、火が消えるまで寄り添って、話を聞く。それがわたしのお仕事だ。
収蔵室の扉を閉めて、鍵をかけた。帰りは遅くなったものの残業を終えて、まだ空が紺色ではなく真っ赤に焼けているだけ早いと言える。わたしは正門に向かう煉瓦敷きの道の上で、夜に向かう空を見ていた。ここで流れる時間と人間の住む場所で流れる時間は寸分違わず同じなのだろうか。もし、差異があり、時間が遅く進んでいるから“死神”が死んでいないだけだとしたら……。そんな考えを巡らせていると、背後から死神の足音が近付いてきた。
わたしは残業という残業、上司という死神に愛されている。
この夜、わたしが勤める部署の皆が呼ばれ、生命の灯が消える人間の側に行く事となった。稀にある、一度に多くの生命の灯が消え、本へと記される出来事。空から見下ろす紺碧の海面にきらきらと満天の星が映り、その中に幾つもの黒い点が浮かぶ。その日、多くの客を乗せた巨大な旅客船が事故で沈み、極寒の海に客が投げ出されたのだ。
わたしは数少ない救命艇のひとつに向かう事となった。事故から数日が経った、ある月夜。広大な海を漂う救命艇にその紳士は乗る。
「こんばんは」
月を背に舳先に立つわたしを見て、やつれた顔の紳士の目の色が変わりロープを切る為の斧が持たれる。自らの生命にすがっているのか、それとも何も無い海の上で出会ったわたしという存在に恐怖しているのか、本人も分かっていない姿が哀れに映る。穏やかに揺れている救命艇の上をよろよろと向かってくる彼に向かい、スカートの裾を少し上げ、傾げずき挨拶をした。
「改めまして、こんばんは」
「……生き残りか?」
「いいえ、侯爵殿。わたしは人間ではありません。死神です」
“死神”という言葉を聞き、途端に見開く目と震える眼球。辛うじて歩けていた脚が止まり斧を落とすと、その場に座り込んで顔を覆った。
「ちっ、違うんだ……っ。ちがう。私はこんな事をする人間ではないのだっ」
「今際の際では、そう仰る方もいます」
彼に近付いていくと酷く拒絶され、後退りまでされるのだから、やはりわたしは人間にとって忌まわしい存在なのだなと悲しくなる。
「私は!国の為に多くの戦場に赴き!多くの兵と民を救ってきた!」
「そのような話を聞きに来たのではありません」
「じゃあっ!私ひとりくらい見逃してくれてもいいじゃないかッッ!!」
この救命艇には、ざっと見て二十数名は乗れるだろう。あれだけの巨大な旅客船だ、これほどの舟を備えていてもおかしくはないが、それでも数が少な過ぎるとも言える。この“舟の乗客”は公爵殿、彼一人。月明かりの甲板を見渡すと片方だけの靴や懐中時計、這いずる血痕が多く残されている。そう彼は……、
「どうしても!どうしても助からなければならない!」
彼は極寒の海に放り出される前に、運良くこの救命艇に乗り込んだ他の乗客達を手にかけたのだ。
「何故、貴方は他の人を殺めたのですか?」
「一人でも少ない方が!食糧を分けずに済む!」
「それでは道理が通りません」
「………むっ、息子の結婚式にどうしても参列しなければならない!」
彼が巨大な旅客船に乗った理由は、家を飛び出し、大陸に渡った子息から届いた一通の手紙だった。元々、許す気の無かった一人息子が、その身ひとつで事業を成功させる。そして、永遠の伴侶と共に歩む最初の日に、父を呼んだのだ。
「このような事をする貴方は、ご子息に会えるような“人間”ですか?」
「仕方がない、仕方がない!こんな大海原だ!見つかるまで何日かかるかも分からない!」
彼の近く、甲板にいつか注意された膝を立てた座り方をし、膝と膝の間に顎を乗せた。彼の取った行動は彼の意とは反し、死を手繰り寄せる。“人がいなくなり”軽くなった舟は流され、巨大な旅客船から離れてしまった。一方で旅客船は時間をかけてゆっくり浸水し、船体がバランスを崩し沈没する際に、煙突から海水がボイラーに入って水蒸気爆発を起こした。その大きな音と水蒸気、煙は結果として救難信号を受けて向かっていた多くの船にとって目印となった。
「貴方は人を殺めた手で、ご子息の新しい人生を送り出せるのですか?」
「許してくれ……っ!許してくれ!息子の為なんだ!」
「国や民の為に戦場に赴いた。ご子息の為には仕方がなかった……。それは貴方の傲慢、ただの我儘です」
他の生命にも人生があり、かけがえのない生きる理由がある。それを奪い、貴方の人生だけを生かそうとしたのは、誰かの為でもなく貴方自身の我儘に従っただけだ。
「許しを乞い謝るなら、せめて、貴方の殺めた人々にして下さい」
わたしはそこまで言うと彼の横を抜けて「どこも怪我などしていないのだから、這いずってでも着いて来て下さい」と公爵殿言い、舟の後部へと歩く。甲板の上を彼は身体を引きずり、わたしを追ってくると、ひゅっ、と、息を吸う音と共に呼吸を止めた。
「これが貴方の最期です。罪に苛まれたのか、状況に耐えかね尊厳を守ったのか。どちらにせよ、貴方だ」
舟の後部、旗を立てる為のポールにシルクで仕立てられたスーツを使い公爵殿は首をかける。
「まだ食糧は残っています。客船の混乱の中、貴方は凍えないようコートとマフラーまで持ち出している」
「私は……………私のした事の重さを理解したのか……?」
「そうあって欲しいとしか、伝えません」
「君が死神であるなら……っ!まだ命を奪う存在の方が優しい!!」
その言葉に俯き、痛む胸に手を当てた。わたしが公爵殿に行っている事は、彼が身勝手に奪った生命を考えての事だが、生命の最期に寄り添う者として不適格かもしれない。どんな生命であれ、生命の灯が消える時は平等でなければ、所詮、わたしがしている事は彼がした事と同じだ。
わたしは、ひどい、しにがみ。
多くの死神が出向いた巨大な旅客船の事故から数日。雨風を凌げ、ぬくぬくと暖かかく、西陽の入る建屋で“生命”を本に記し続けた。千数百にも及ぶ人生が綴られていき、収蔵室の棚に収められていく。
“まだ命を奪う存在の方が優しい!!”
彼の声が頭から離れずにいる。わたしが生命や人生に対する態度や振る舞いは、敬意、愛しさからだけれど、本当は間違いなのかもしれない。例えば、それらわたしの感情は同僚が言う変人だから湧く感情だとしたら……。そう考えていたら、強く、今夜は誰にも会いたくないと思った。わたしを知っている“もの”にも姿を見られたくないと、強く、思う。建物の煉瓦を切り取り、窓とした隙間から見る夕陽。小首を傾げて、公爵殿の“生命”は、何の意味を持って生まれたのかと考える。彼の“生命”が、国の為、民の為、領地の為に使った人生だとすると、人を殺めてまで生き残ろうとした彼の“生命”は、誰かの“生命”の為に使われた“生命”だ。そんな彼に与えられた”許すはずがなかった”ご子息の新たな道を祝えるという、幸。
死神は“生命”の火が消えるまで、お話を聞き、寄り添うお仕事。決して、生命の灯を消したり、意地悪をする為にいる訳ではない。
文章の最後にわたしのサインを入れて、本をそっと閉じる。その表紙に手を置き、窓から見える夕陽を眺めて思慮するのだ、どこで独りになろうかと。
「あなたは人生をよく生きたと思います」
この気持ちは心の底、誰にも覗けやしない仄暗く、深い場所から込み上げてくる気持ちだ。わたしがいつも魂から離れた生命に贈る言葉。その時、背後に感じた死神の存在。今夜も残業なのかと覚悟した時、上司が言った。貴女の好きなビーフシチューを食べに行こう、と。だから、
収蔵室から出て、扉を閉めて、鍵をかけた。
おわり。
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