5 / 6
貴賤結婚
しおりを挟む
「――お父様。今なんと仰いました。私、まだ十六だというのに、耳が遠くなってしまったのかしら」
クロエは耳に手を当て眉を顰めた。それから耳に何か悪い物でも入ったに違いないと、耳を手の平で軽く数回叩いた。モンマルテル侯爵との縁談が纏まっただなんて、有り得ないような幻聴が聞こえたのだから。そうだこれは、きっと耳の病気に違いない。
「現実を受け入れたくない気持ちは分かるがクロエ、お前とマルモンテル辺境伯の縁談が纏まった」
アロイスは静かに首を横に振り、現実から目を背けているクロエに淡々と事実を告げた。しかし同時に娘が逃げたくなる気持ちもまた、彼は充分に理解できた。
「マルモンテル侯爵だなんて。なんてこと、貴賤結婚だわ。これではクロエが――」
ルイーズは娘の将来を悲観し、両手で顔を覆い嘆いた。成金男爵の娘が、領主国家君主の妻となるというのだから、彼女が悲嘆するのも無理はない。
「確かに我が家と先方では、身分に大きな差があるのは事実だ。けれども、この縁談はバルゲリー公爵が仲人となっておられる。我が家にとっては、過ぎるほどの名誉だ」
アロイスとて娘の将来を思えば、断ってしまいたい。大変な苦労をするのは目に見えているのだから、誰が喜んで愛娘を差し出すものか。
「それでも、あんまりですわ。身分差のみではなく、初婚の娘を前妻の息子がいる人の元へ嫁がせるなど。それも侍女を伴うことは許さないとは、あんまりではありませんか」
あの後、バルゲリー公爵から出された条件は、あまり良いものではなかった。まず侯爵には他の侯国君主の娘である前妻とのあいだに生まれた嫡子がおり、その子を継嗣とし育むこと。そして侯国へは供を連れていくことは許されないと告げられたのだった。
けれど貴族社会の最下層にいる男爵が、公爵に否と言えるはずもなく、ただアロイスは畏まりましたと頷くことしか出来なかったのだ。
「殿下は悪いようにはしないと仰せでいらした。縁談と言っても実際に婚姻するのは一年後だ。殿下は婚姻するまでの期間中は、お前と侯爵がそのような関係にあると公言は絶対にしないとお約束して下さった。先方もそれを承知でいらっしゃる。それに実際に結婚となれば、殿下の分家筋へ養子に入るのだから貴賤結婚ではなくなる」
クロエもルイーズも、アロイスの説得をただただ俯いて聞いていた。成金令嬢が公爵の分家へ養子に入ったからといって、これで一安心だとなるわけがないことをこの場にいる誰もが分かっていた。
「期間中にお前か侯爵のどちらかが、否と言えば縁談は破談になる。殿下はそれもお許し下さった。だからクロエ。お前はお前らしく、あちらで振舞いなさい。菓子作りも我慢してくて良い。――クロエ、貴族らしいことは何もしなくていい。何かと辛い一年になるだろうが、辛抱強く我慢をしなさい。一年後には必ず我が家へ帰っておいで。帰った後は、お前は何も気にせず好きに過ごせばいい。守ってやれずにすまない。不甲斐ない父を許してくれ」
アロイスは向かいのソファへ座る妻と娘の元へ跪くと堪らず二人を強く抱きしめた。
「いいえ、お父様。こんなにも愛していただいているのですもの。私ほど幸せな娘はこの世におりませんわ。一年我慢すれば良いのですから。君主の妻に相応しくないよう、一生懸命に振る舞いますわ。いつもと同じでいいのですもの。簡単なことです。お父様もお母様も、どうかご心配なさらないで」
クロエは何度もすまないと謝る父の背を慰めるように摩った。
「そうだわ。お父様。わたくし嫁入り道具に欲しいものがありますの。とっても高価だけれど、一年も我慢するのだから、これくらいの我儘は許してくださるでしょう。色々と沢山用意していただきたいわ」
クロエの目から涙がはらはらと流れ落ちたが、彼女はそれを誤魔化すように涙声で、けれど努めて明るい声音で冗談めかした。少しでも忙しくすることで、自分も両親も悲しみを忘れられたらいい。そういう思いから、わざと我儘を言ったのだった。
クロエは耳に手を当て眉を顰めた。それから耳に何か悪い物でも入ったに違いないと、耳を手の平で軽く数回叩いた。モンマルテル侯爵との縁談が纏まっただなんて、有り得ないような幻聴が聞こえたのだから。そうだこれは、きっと耳の病気に違いない。
「現実を受け入れたくない気持ちは分かるがクロエ、お前とマルモンテル辺境伯の縁談が纏まった」
アロイスは静かに首を横に振り、現実から目を背けているクロエに淡々と事実を告げた。しかし同時に娘が逃げたくなる気持ちもまた、彼は充分に理解できた。
「マルモンテル侯爵だなんて。なんてこと、貴賤結婚だわ。これではクロエが――」
ルイーズは娘の将来を悲観し、両手で顔を覆い嘆いた。成金男爵の娘が、領主国家君主の妻となるというのだから、彼女が悲嘆するのも無理はない。
「確かに我が家と先方では、身分に大きな差があるのは事実だ。けれども、この縁談はバルゲリー公爵が仲人となっておられる。我が家にとっては、過ぎるほどの名誉だ」
アロイスとて娘の将来を思えば、断ってしまいたい。大変な苦労をするのは目に見えているのだから、誰が喜んで愛娘を差し出すものか。
「それでも、あんまりですわ。身分差のみではなく、初婚の娘を前妻の息子がいる人の元へ嫁がせるなど。それも侍女を伴うことは許さないとは、あんまりではありませんか」
あの後、バルゲリー公爵から出された条件は、あまり良いものではなかった。まず侯爵には他の侯国君主の娘である前妻とのあいだに生まれた嫡子がおり、その子を継嗣とし育むこと。そして侯国へは供を連れていくことは許されないと告げられたのだった。
けれど貴族社会の最下層にいる男爵が、公爵に否と言えるはずもなく、ただアロイスは畏まりましたと頷くことしか出来なかったのだ。
「殿下は悪いようにはしないと仰せでいらした。縁談と言っても実際に婚姻するのは一年後だ。殿下は婚姻するまでの期間中は、お前と侯爵がそのような関係にあると公言は絶対にしないとお約束して下さった。先方もそれを承知でいらっしゃる。それに実際に結婚となれば、殿下の分家筋へ養子に入るのだから貴賤結婚ではなくなる」
クロエもルイーズも、アロイスの説得をただただ俯いて聞いていた。成金令嬢が公爵の分家へ養子に入ったからといって、これで一安心だとなるわけがないことをこの場にいる誰もが分かっていた。
「期間中にお前か侯爵のどちらかが、否と言えば縁談は破談になる。殿下はそれもお許し下さった。だからクロエ。お前はお前らしく、あちらで振舞いなさい。菓子作りも我慢してくて良い。――クロエ、貴族らしいことは何もしなくていい。何かと辛い一年になるだろうが、辛抱強く我慢をしなさい。一年後には必ず我が家へ帰っておいで。帰った後は、お前は何も気にせず好きに過ごせばいい。守ってやれずにすまない。不甲斐ない父を許してくれ」
アロイスは向かいのソファへ座る妻と娘の元へ跪くと堪らず二人を強く抱きしめた。
「いいえ、お父様。こんなにも愛していただいているのですもの。私ほど幸せな娘はこの世におりませんわ。一年我慢すれば良いのですから。君主の妻に相応しくないよう、一生懸命に振る舞いますわ。いつもと同じでいいのですもの。簡単なことです。お父様もお母様も、どうかご心配なさらないで」
クロエは何度もすまないと謝る父の背を慰めるように摩った。
「そうだわ。お父様。わたくし嫁入り道具に欲しいものがありますの。とっても高価だけれど、一年も我慢するのだから、これくらいの我儘は許してくださるでしょう。色々と沢山用意していただきたいわ」
クロエの目から涙がはらはらと流れ落ちたが、彼女はそれを誤魔化すように涙声で、けれど努めて明るい声音で冗談めかした。少しでも忙しくすることで、自分も両親も悲しみを忘れられたらいい。そういう思いから、わざと我儘を言ったのだった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
旦那様、離縁の申し出承りますわ
ブラウン
恋愛
「すまない、私はクララと生涯を共に生きていきたい。離縁してくれ」
大富豪 伯爵令嬢のケイトリン。
領地が災害に遭い、若くして侯爵当主なったロイドを幼少の頃より思いを寄せていたケイトリン。ロイド様を助けるため、性急な結婚を敢行。その為、旦那様は平民の女性に癒しを求めてしまった。この国はルメニエール信仰。一夫一妻。婚姻前の男女の行為禁止、婚姻中の不貞行為禁止の厳しい規律がある。旦那様は平民の女性と結婚したいがため、ケイトリンンに離縁を申し出てきた。
旦那様を愛しているがため、旦那様の領地のために、身を粉にして働いてきたケイトリン。
その後、階段から足を踏み外し、前世の記憶を思い出した私。
離縁に応じましょう!未練なし!どうぞ愛する方と結婚し末永くお幸せに!
*女性軽視の言葉が一部あります(すみません)
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
女嫌いな辺境伯と歴史狂いの子爵令嬢の、どうしようもなくマイペースな婚姻
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
恋愛
「友好と借金の形に、辺境伯家に嫁いでくれ」
行き遅れの私・マリーリーフに、突然婚約話が持ち上がった。
相手は女嫌いに社交嫌いな若き辺境伯。子爵令嬢の私にはまたとない好条件ではあるけど、相手の人柄が心配……と普通は思うでしょう。
でも私はそんな事より、嫁げば他に時間を取られて大好きな歴史研究に没頭できない事の方が問題!
それでも互いの領地の友好と借金の形として仕方がなく嫁いだ先で、「家の事には何も手出し・口出しするな」と言われて……。
え、「何もしなくていい」?!
じゃあ私、今まで通り、歴史研究してていいの?!
こうして始まる結婚(ただの同居)生活が、普通なわけはなく……?
どうやらプライベートな時間はずっと剣を振っていたい旦那様と、ずっと歴史に浸っていたい私。
二人が歩み寄る日は、来るのか。
得意分野が文と武でかけ離れている二人だけど、マイペース過ぎるところは、どこか似ている?
意外とお似合いなのかもしれません。笑
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。
つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。
彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。
なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか?
それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。
恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。
その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。
更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。
婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。
生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。
婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。
後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。
「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる