彼の至宝

まめ

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十五

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 気付けばラウは草原に立っていた。小川が少し先にあり、さらさらと流れる水音が聞こえる。空は晴れ渡り、鳥や蝶が飛ぶ様はとても綺麗だ。
 ラウはその場に座り、空を見上げた。
 ここは何処だろうか。どこか懐かしいような。けれども、一度も見たことがない風景だ。ラウはてっきり前回と同じ場所に招かれるのだろうと思っていたのだが、ここは以前の真っ白な世界とは違い動植物に溢れ穏やかな雰囲気が漂ってた。
 なんだかいい。とても落ち着く。こういう場所は好きだ。いつか死ぬときが来たならば、こんな穏やかな場所で静かな気持ちのまま逝けたらいいのにとそう思える。

「いい所だろう。生前に好きだった場所を思い浮かべてみたら、あんなにも殺風景だった世界があっという間に変貌したんだ」

「エーリク。居るなら声をかけてよ」

「そりゃあ居るさ。私の中だもの」

 いつの間にか背後に立っていたエーリクは、ラウの側に座ると遠くを見つめたまま黙り込んだ。何かまた思い詰めでいるようだ。そんな彼の心と比例するかのように、急に一陣の強風が吹くと快晴だった雲行きが怪しくなり始めた。

「ラウ。私は自分で自分が分からないんだ。本当に人間なのだろうか。この場所は何なのだろう。確かに今を生きている。それは間違いない。それならば私はもう一度。……もう一度、死ななきゃならないのか」

 エーリクは唇を噛みしめ俯いた。
 死ぬのは怖い。一度それを経験したからこそ、尚更に強く感じる。この世から自分という存在がなくなり、今ある意識が途切れる。それを思うだけでぞっとする。あとには何も残らない。ただ人間だったはずの肉の塊が存在するだけだ。

「誰だってそうさ。死ぬのは怖いよ。俺も君が死んだときの記憶を夢で見るときは、何度だって叫び出したくなるよ。いつかは死ななきゃいけない。いつかはこの意識が途絶えてしまう。そう考えたら、発狂してしまいたくなる。いっそ生まれなきゃよかったのにって。だってそうすれば、こんなにも怖いと思うこともないから。でも生まれちゃったらどうしようもないし、今生きているからには死にたくない。俺もそうだけど、本当に人間って自分勝手な生き物だよ」

 死ねば存在そのものが消え失せる。もうそこに自分はいない。そう言うと誰かの心の中で生き続けるはずだから、そう悲しくはないと主張する人もいるかもしれない。
 けれどそれが何だというのか。その誰かの記憶の中で自分が生きていたとしても、その誰かに死を悼まれたとしても、死んでしまえば、自分という存在はどこにも存在せず、今が暗いのか明るいのか。賑やかなのか静かなのか。そもそも今という時間の概念すらもない。自分という人間を構成する一切合切が消滅してしまう。その恐怖とたった独りで向き合わなければならない。
 人は独りで死んでいく。誰しもが、それから逃げることなど出来やしない。そうだ。だからこそ。

「俺は本当に恵まれてるなって思うんだ。だってこの世界中で俺だけが、絶対に独りで死なないんだよ。すごいよね。最期は君とこんなふうに話しながら死ぬのかな。それとも二人で寄り添って眠るように死ぬのかな。どんなふうに死んだって、やっぱりその瞬間がきたら怖いと思う。でもどうやったって逃げられないなら、誰か側にいて欲しい。一緒にいて欲しい。独りで死ななくていいなら、それなら少しは救われるような気がする」

 エーリクとラウのことを知る人も知らない人も皆、ラウばかりが損をしている。貴方は自己犠牲ばかりで辛くはないのか。どうしてそこまで人の為にするのかとそればかりを口にする。
 彼がエーリクの生まれ変わりだと知る人々は、決まって貴方ばかりが損な役回りで可哀想でならないと言い、そうでない人々は親に楽をさせる為に貴族に体を売った可哀想な男だと言う。
 しかしラウはそんなに自分は可哀想なのかと疑問に思い、都度心の中で否定をしていた。なにもそれを必死に否定し、現実から目を逸らそうとしているわけでもない。ただただラウは、他人から自身がそう見えることが不思議でならず、また彼の境遇が哀れなものだと盲目的に信じる人々に呆れていた。そうしてその度に人とはなんと勝手な生き物なのだろうかとつくづく思うのだ。

「君は俺の為に生きてるんだよ。俺が死ぬときに寂しくないように。怖くないようにその時が来るまで。その日を迎えるまで一緒に生きていく存在。それが君」

 ラウが終ぞ誰かに愛欲を感じることがなくとも。生涯においてそれがなくとも。親愛や友愛といったことは現在も感じているのだから、それで良いではないか。決して愛というものを知らないわけではないのだ。それに彼は愛情を与えるばかりでなく、それを返してくれる相手も幾らかいる。それのなにが可哀想だというのだろうか。
 加えて下級階層である農民に生まれたというのに彼も彼の両親も、今では重労働とは無縁となった。老いには勝てないのだから、いつまでも元気で働けるわけではない。働けなくなった農民の行末は、それこそ本当に哀れなものだ。だからこそラウは、このことを大層に有難く感じていた。

「……幾ら何でも、それは随分と乱暴だな」

 顔を上げたエーリクは、少し嫌そうな顔で苦笑していた。確かにお前は俺の為に死ぬ存在だなんて、そう言われては誰だっていい気はしない。
 けれどこの男には、それくらいに乱暴で丁度良い。そうでもしないと何時迄も、うじうじと悩んでしまうのだから。

「いいんだよ。だって誰も生きている意味なんて分からないんだから。何の為にどうしてなんて。そんなことを考えても仕方がない。だから今の君は、ディーデリックに愛される存在であり、最終的に僕と一緒にもう一度死ななきゃいけないっていう。ちょっとその部分では可哀想な人間。それでいいじゃないか」

 二度も死を経験しなければならないだなんて。エーリクという男は、何という過酷な運命を持っているのだろうか。もしこの世に神が居るならば、何故彼にばかり意地悪をするのかと問いただしてみたい。そうラウは思った。
 貴方はこの男を愛しているから、このような奇跡を起こしたのでしょうか。それとも嫌っているからこそ、二度も死を与えるだなんて苛酷とも言える生を強いたのでしょうかと。

「人間だろうが、そうじゃなかろうが何だって良いじゃないか。それにもし君が人間じゃなくて、実は幽霊だったとしても、元は人間なんだから似たようなもんだろ。大した違いなんてないよ」

 人間だろうが人間じゃなかろうが、エーリクはラウにとって愛すべき存在だ。友達であり、兄弟のようでもある特別なもの。この存在を知ってしまった今、彼が居ない人生は考えられない。何だって良い。悪魔であっても構わない。自分の中に彼がいれば、それで良い。

「いつかさ。その日が来たら。二人で神様に文句を言いに行こうよ。何でこんな綺麗な顔に生まれるようにしたんだ。おかげで一度目の人生は最悪だったってさ。それから二回も死を与えるなんてどうかしてるってね」

 神を神とも思わぬラウの言い草に、エーリクは思わずといったように笑みを零した。もしも存在するならば、言ってやりたいことは山程ある。そうだその通りだ。
 何故こんな顔に生まれるようにしたのか。おかげで人間の汚い部分ばかりが目に入って育ってしまった。貴方が決めた七つの大罪の内、六つは常に側にあり、ないのは暴食くらいなものだ。
 そんな目に遭ったのだから、文句を言うだけでなく、一発くらい殴ったところで神も文句は言えまい。

「それは良い。絶対にそうしよう。何なら私は、神の両頬を引っ叩いてやりたいな。うん。何だかラウと一緒に神に文句を言いに行けると思うと、もう一度死ぬのはそんなに怖くないかもしれない。……実際にその時が来たら、そうではないかもしれないけれど。今は怖くないように思う」

 エーリクは漸く満面の笑みを浮かべた。
 眠りに落ちる前にラウは笑って話し合おうと彼に言ったのだが、夢の中で対面するときには決まって難しい顔をしているのだから困ったものだ。

「前から言ってるけれど、君はもっと自分の半身の俺に感謝しなきゃいけないよ。それこそ平凡な顔で、平凡な農民の家庭に生まれて。それから結構考えなしで楽天的な性格に生まれたことにもね」

 そのようにラウが冗談を言うと、エーリクは楽しそうに笑い声を上げた。それからすっと真顔になり、有難うと一言告げるとまた笑みを浮かべた。

「ああ。そろそろ時間切れみたいだ。またその内こうやって話そうよ。今度こそは笑って真面目な話はなしでね。君は何かと思い悩むから、半身としては気が休まらないよ」

 全くもうと言う自分の声で、ラウは夢から覚めた。それから側で寝そべるアブドゥルマリクが目に入ると、一つ溜息を吐きこう言ったのだった。
 アブドゥルマリク。君が思う通り、何だか人間ってとても面倒くさい生き物みたいだよと。
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