彼の至宝

まめ

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十四

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 初めてラウとしてディーデリックと腰を据え、話し合ったあの日から、三人の生活は少しばかり変わった。その中でもディーデリックは、そんなに変化がなかったように思う。彼はあの日以前も以降も領主としてこの地を治め、民がよりよい生活が出来るよう尽力している。一つ変わったのは、以前のように寝る間を削ってまで働こうとしなくなった事だ。これからはもう、思考を放棄しようと執務に没頭しなくてもいい。
 環境が大幅に変化したのは、主にラウとその両親だ。ラウと両親はディーデリックの屋敷で働き、家庭菜園程度の畑と庭の管理補助を任されるようになった。それというのも領主様のお側に召されたことで、村人からの嫉妬を恐れたラウが、自分と両親を屋敷で雇ってもらえるようディーデリックに懇願したからだ。真実を知っている者からすれば、ただエーリクとディーデリックがそういった仲になっただけなのだけれども。傍からから見れば、ラウとディーデリックがそうなったと思われても仕方がなかった。
 それからエーリクは、午前中は眠るようになった。魂だけの存在がどうやって眠っているのか。それをラウは理解することが出来ないけれど。話し合いによって午前は、ラウだけの時間だと決め。その間は無闇に気持ちを伝えて来ることはなくなった。おかげで農作業がはかどるというものだ。
 午後からは二人一緒の時間だ。お互いに気持ちを伝え合い、兄弟のように仲良くしている。農作業が残っていれば、ラウが体を動かす。そして音楽を奏でたくなれば、エーリクがチェンバロを弾く。また乗馬がしたくなればエーリク。ロバの荷馬車でゆっくり散歩をしたいときはラウ、というように彼らは一つの体を譲り合いながら、なかなか楽しくやっている。
 そして夕暮れからは、エーリクだけの時間になる。その時刻になるとラウはソファに沈み込み、翌朝まで眠りにつく。代わりにエーリクが就寝までの時間を自由に過ごしている。
 もだもだとしていたディーデリックとエーリクの恋は、ラウを間に挟むことにより、ようやっと成就した。したがって愛を確かめ合うのは必然であって、目が覚めたラウが腰痛や倦怠感を感じることは、しばしばあるが、そこは仕方がないと諦めている。そう、諦めてはいるのだけれども。

「立てないってどういうこと。ねえ、アブドゥルマリク。いくら何でもちょっと酷いと思わないか」

 不満を漏らすラウに対し、アブドゥルマリクはベッドの淵に顎を乗せ、そんなことはどうでもいいから耳の裏を撫でろとラウの手を鼻で突き、それから下らないとでも言うようにふんと鼻を鳴らした。
 本当に人間とは面倒臭い生き物だ。自分でそうなることを選んでおきながら、いざとなると不満を漏らすだなんて。なんと矛盾の多い愚かな生き物だろうかと、アブドゥルマリクはラウを哀れんだ。

「あ、お前いま、俺のこと馬鹿にしただろ。何だよお前だって、耳の裏をちょっと強めに掻かれたら、こそばゆくなっちゃって、ついつい後ろ足が動いちゃうくせに。お前、本当は犬じゃないのか。ぜんぜん精霊に見えないんだけど」

 なんと失礼な。この偉大なる精霊を一度ばかりか、何度も何度も犬呼ばわりとは。今度こそ許しがたい行為である。
 アブドゥルマリクは抗議の声を上げようとしたが、思いのほかラウに掻かれている耳の裏がこそばゆく、それは空気の抜けたような間抜けな鳴き声になってしまった。

「なんだよ。その間抜けな鳴き声。やっぱりお前は、精霊なんて大層な生き物じゃなくて、そこら辺にいる犬と同じだよ」

 もう勘弁ならぬとアブドゥルマリクは、ベッドから離れると体勢を低くした。そして鼻にしわを寄せ、駄々を捏ねる飼い犬のように唸り声とも、咆え声とも言えない奇妙な鳴き方で怒りを訴えた。

「なんだよ。ますます犬みたいじゃないか。おかしいったらありゃしないや」

 ラウがひとしきり笑った後、部屋の扉がノックされ、少しするとロブレヒトが中に入って来た。

「おはようございます。ラウさん。ご機嫌は如何でしょうか。旦那様は此度のことを大いに反省なさっておられます。今後は気を付けると仰せで御座いますので、なにとぞお許しを。本日の農作業につきましては、ご両親より全て終わらせたので、ご心配なさらないようにとのことで御座います」

 エーリクの魂がいるからか、ディーデリックの侍従であるロブレヒトは、ただの農民でしかなかったラウにまでも慇懃に接する。そんなことをしてもらうような人間ではないと、ラウは彼に何度か訴えたのだけれども、ラウ様は旦那さまの大切な方ですのでと押し切られ今に至る。ではせめてと、名前に様は付けないで欲しいとの願いだけは、何度目かの懇願でなんとか叶えてもらうことが出来た。

「ロブレヒトさん。申し訳ないんですが、今日はどうも立てそうにないので。このままここで過ごすことになりそうです」

 自分の体のことではあるけれども、自分のことではない。何ともよく分からない気恥ずかしさと気不味さから、ラウはアルブレヒトを直視することが出来なかった。
 何と言えばこの気持ちが他人に伝わるだろうか。まるで自分の両親の情事を目撃し、母親は昨晩激しく抱かれたので起き上がれないのですと、そのことを他人に説明しているような。いや、痛みを訴えている体は、紛うことなく自分のものなのだけれども。

「結構でございますとも。お食事はこちらへお運び致します。朝食と申しますには、些か遅う御座いますが。昼食を兼ねたものをご用意しております」

 顔色一つ変えずに笑みを浮かべたロブレヒトは、本当によく出来た侍従だが、何やらこの頃は彼の機嫌がすこぶる良いように思える。それはきっと、彼が敬愛する主人が幸福であるからだろう。大切な宝玉を失くし、色を失った彼の世界が再び色付き始めたのだから。
 暫くして侍女が運んできた食事を、ゆっくりとした動作で食べ終えたラウは、満腹と疲労から来る睡魔に襲われ、再びベッドに体を横たえた。
 どうせ寝てしまうなら、エーリクに会いたいな。いつも彼とは心の中で、お互いの感情を伝え合っているけれど。どうしても面と向かって話したいことがあった。
 ねえ、エーリク。また夢の中で、前みたいに話そうよ。今度は泣かないでさ。
 ラウは意識を失う直前に、そうエーリクに語り掛けた。
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