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悪夢の始まり
8.覚悟は出来たか?
しおりを挟む目の前で消えようとする命に、何も出来ない自分に嫌気がさす。
そうだ……こうやって、幾度となく私は見送ってきた。
脳裏に浮かんだのは、規則正しく鳴り続ける音を発する箱から伸びる沢山の管。
それらに繋がれ、白いベッドに横たわる血の気の無い女性の姿。
医師が「覚悟しておいてください」と呟く。
無情に響いた声を聞きながら、今回も助けることが出来なかったのだと打ちひしがれる。
泣き崩れる両親と、たたずむことしか出来ない私。
優しすぎる父と気丈なる母が子供のように泣き叫ぶ。
「――何で……」
私の声では無い誰かの声が、彼女の名を呼んだ。
握り込まれた拳が震え、視界がぼやける。
そんな中でも、傷ついた彼女の体から魂が離れていくのが見えた。
マナを傷つけられて、肉体にとどまることが出来なくなったのだ。
私はまた、見送ることしか出来ないのか?
思いのままに腕を伸ばす。
傷つき弱り切った魂を包み込むように、私もその場を離れる。
今度は守ることが出来るように祈りながら――
しかし、今は違う。
私にはまだ、やらなければならないことがある。
それに、ラルムは彼女とは違う。
一度ユグドラシルの元で休息をして、やがて帰ってくる魂だ。
永い別れが約束されている。
もう、ベオルフ・アルベニーリとして会うことは無いだろう。
「お前の方が……死にそうな……顔……してんの……な……」
苦しい息で私へ笑いかけるラルムは全てを受け入れたのか、とても表情が穏やかだ。
既に痛みも感じないようである。
マナの損傷は……それほど感じられない。
しかし、肉体が限界に達してしまえば、マナは瞬く間に崩れ去る。
「……お前のそんな姿を……見たら……オーディナル様が……心配する……だろ?」
かけたい言葉は沢山ある。
だが、声が出てこないのだ。
悔しく、辛く……無力な自分が許せなかった。
「弟のこと……頼ん……だ」
「お前が守れ! 兄なら……最後まで守ってみせろ!」
「そうしたいのは……山々……なんだけど……な」
無理を言うなよ……と、弱々しい吐息と共に吐き出された言葉は、空気に溶けて消えていく。
いよいよ危なくなった頃、みんなのすすり泣く声に頭を垂れる。
別れの時だ――
そう思った瞬間、不意に感じた神気に顔を上げる。
空は血のように赤く染まっているというのに、そこだけは澄み渡る青が見えた。
花びらが散り、七色の光が降りてくる。
馴染みのある力……私は光を見つめながら、力ない声で呟く。
「主神……オーディナル……」
私の言葉を聞いた一同は弾かれたように空を見上げた。
光が見慣れた主神オーディナルの姿へ変化を遂げ、軽やかに地面へ降り立つ。
あまりにも現実とはかけ離れた光景に、誰もが言葉を失った。
「一度だけ力を貸してやろうと言ったのに、お前達は忘れてしまったのか? すぐに呼べば良いものを」
いつものように姿を隠しているわけではない。
いつの間にか紫黒が周囲に結界のようなモノを張り巡らせ、その場に主神オーディナルが降臨したのだ。
いつの間に連絡を取っていたのか……
「あちらが危うかったので、駆けつけるのが遅くなったが……此方も大分酷くやられたな」
「オーディナル様ああぁぁっ! ラルムがああぁぁっ!」
「オーディナル、どうにか助けられないかっ!?」
天の助けとはまさにこのことだと、全員が主神オーディナルを見つめた。
ただ、「あちらが危うかった」という言葉は気になったが、今はラルムだ。
ノエルと紫黒がしがみ付く中、主神オーディナルは静かにラルムを見ている。
「全てを投げ出しても成し遂げようという覚悟は出来たか?」
「すでに……やって……ます」
「話しづらそうだな」
主神オーディナルは指先でラルムの喉元に触れる。
すると、ラルムが激しくむせ込んだ後、一気に呼吸が楽になったのか不思議そうに喉元を右手で擦った。
「これで話せるだろう。僕の問いに答えて貰おう」
「弟のためになら出来ました」
「ベオルフの為には出来そうか?」
「……え?」
「出来るのか、出来ないのか」
ラルムが主神オーディナルの問いかけに戸惑い、何かを思い出したように私の顔を見る。
そして、ハハッと笑った。
「今までそんな考えも浮かびませんでした」
笑いながらそう言ったラルムの目は、とても穏やかだった。
今まで感じていた複雑な色は消え、真っ直ぐに此方を見つめてくる。
「でも、今のベオルフを見ていたら……残していくのが不安になりました」
「ほう?」
「俺がいなくなったら、コイツはどうするんだろうって……俺には力も権力も金も無い。でも、それでも……俺の命が続く限り、コイツを助けてやりたいって思いました。残してはいけないって……残していくのなら、未練などサッパリ捨てられるよう……どうすればいいかと考えていました」
「そうか」
主神オーディナルはフッと表情を崩してラルムの頭を優しく撫でた。
それにはラルムも驚いたようで、目をせわしなく瞬かせている。
どうやら、主神オーディナルの満足がいく回答だったらしい。
「ベオルフも……よほどショックだったのだな」
それに、どう返答して良いか判らず言葉を詰まらせる。
フラッシュバックする記憶の断片たちが、更に心を乱した。
「余計なことも思い出しそうになっているが……お前がそれほど動揺するのは、久方ぶりに見る」
責められているわけではない。
だが、胸につかえていた言葉がようやく口からこぼれ落ちる。
「私の力は通用しませんでした。必要なときに使えない力です。そんな私が……主神オーディナルの助けになるのでしょうか。ラルムも……この村の人々も……助けられませんでした……何も……出来なかった」
血を吐くような言葉に、主神オーディナルは静かに首を振った。
地面に跪き、無力な自分に打ちひしがれる私の頭に手を伸ばし、いつものように優しく撫でる。
「何を言う。お前の判断で、魂は救われた。マナを失った魂たちは、ユグドラシルが連れて行く。ゆっくりと休んで、また新しい生を受けるのだ。あと少し判断が遅ければ、それすら出来なくなるところであった……よくやった」
励ますように優しい声でそう言ってくれるが、彼らの今世はここで終わりを告げたのだ。
救えなかったことに違いは無い。
「ラルムだったな。お前の気持ちはよくわかった。しかし、お前にはここで死んで貰う」
衝撃的な言葉に私は声を上げようとするが、主神オーディナルは静かな目で私を見ていた。
「勘違いをするな。ピスタ村出身のラルムという男は、ここで消えて貰わなければ困るのだ。これから、お前の為に動くなら、黒狼の主ハティとの縁を全て断ち切っておかねば……な」
主神オーディナルの言葉の意図が掴めず、重い沈黙が降りる。
その中で一人だけ意味を理解したらしいラルムだけが、真っ直ぐに主神オーディナルを見た。
「そういう事なら、俺はここで死にます」
「もう、弟に自分が兄だと名乗れなくなるぞ」
「良いです。その代わり、弟を助けてください。おそらく、黒狼の主ハティは弟の命を狙ってきます」
「判っている。その対策は既に考えているし、許可を取ってきた」
「なら安心です。俺を使ってください。後悔させない働きをしてみせます」
「心強い言葉だ。ならば、お前から『ラルム』の名を媒介にして全て破壊し、創造しよう」
名前を媒介に……?
その言葉で何故かルナティエラ嬢を思い出す。
主神オーディナルは、頑なにルナティエラ嬢の名を呼ばない。
もしかして……ルナティエラ嬢も、自分の名前を媒介に何かを願ったのか?
ルナティエラ嬢が一度死にかけて、再び創造されたという可能性もある。
奇妙な胸騒ぎのような、嫌なことを思い出しそうになって胸が詰まった。
「大丈夫か?」
「主神オーディナル……まさか……」
「否定はせん。だが、詳細は話せない。答えは全て、お前の中にあるのだからな……まあ、ラルムの方は心配しなくていい。契約は成された」
神との契約――
それは、普通の人生は歩めないと約束されたようなものだ。
本当にそれで良かったのかと問いかけるようにラルムを見るが、彼は静かに頷く。
「お前を一人にしておけねぇからさ。それに、殴ってでも止めるって約束しただろ?」
「ラルム……」
「俺は、弟の事さえなんとかなれば何もいらない。それに、他ならぬお前だから、これで良いって思えるんだ」
「……すまん」
「馬鹿がよ……そこは、『ありがとう』だろうが」
返す言葉も無い。
私のために、ここまで覚悟を決めてくれた者がいる。
一人で成し遂げるつもりであったのに、多くを巻き込んでしまった。
『人は独りじゃ、何もできねーんだよ。やれることは、たかが知れてる。だからこそ、みんなと手を取り合うんだ。希望に満ちた未来を勝ち取るために……な?』
不意に浮かんだ言葉は、誰の言葉だっただろうか。
忘れてしまったのではないが、うまく思い出せない。
ラルムに迫った死は、あまりにも衝撃だったので……封じられた何かが、幾つか飛び出して来た感じだ。
おそらく、私の過去にあった記憶なのだろう。
頭の中を巡る記憶の断片に戸惑っている間にも、ラルムと主神オーディナルの会話は続く。
細かな取り決めなどは、言語として認識できないようにしている辺り用意周到だ。
主神オーディナルとラルムの間だけで交わされた契約内容を知ることは出来ない。
だが、ラルムと主神オーディナルは満足そうに微笑んだ。
どうやら、お互いに納得のいく内容になったらしい。
「さて、ラルムとしての別れは必要か?」
「いいえ。このまま逝きます。弟には……村の人たちと一緒に死んだことにしておいてください」
「……わかった」
主神オーディナルが大きな杖をどこからともなく取り出す。
金色に輝く世界樹の枝葉を模したその杖を地面に突き立て、先端に輝く七色の宝珠が花開いていく。
その花びらが開いていくと同時にラルムの輪郭がぼやけていき、光の球へと変化する。
主神オーディナルの言葉は、誰にも判らない言語であった。
しかし、その言葉に宿る力は魂が知っている。
全員が無言で胸元に手を添えたのは、主神オーディナルの言葉に魂が共鳴しているからかもしれない。
「創世の言葉――そろそろ来るぞ」
紫黒の言う通りに、光となっていたラルムが人間の形を作っていく。
光の人間は、主神オーディナルの力ある言葉に導かれるように姿を現した。
現れた青年に抱いた第一印象は「獣のようだ」というもので――黒狼の主ハティの喉元に食らいつきそうな鋭さを秘めていた。
黒に近い茶色の髪と、獣を思わせる紫の瞳。
野性味に溢れる男が、先ほどまで傷だらけであったラルムだとは思えない。
しかし、目が……目元が彼のままだと感じた。
「どうだ? 痛みはあるか?」
「い、いえ……なんだか……とても軽いです」
「そうか。ならば良い」
「ねーねー、オーディナル様! ラルムの顔、違うよー?」
「違うに決まっているだろう? 本人だと判っては困るのだ。それに、顔が良い方が情報を集めやすい」
「その分、目立つが……ああ、だから、その外套なのか。認識阻害の力を感じる」
「さすがは紫黒。よく気づいたな」
つまり……色々手を加えましたね、主神オーディナル。
私の視線で考えていることが判ったのか、主神オーディナルはニッコリと微笑む。
「マナに大した傷が無くて良かった。これならば何とかなる。ただ、黒狼の主ハティが無理に与えた力の影響か、魂は疲弊しているので、そこは制約に引っかかってしまったが……まあ、前よりはマシになっただろう」
どうだ、凄かろう?
そういう言葉が今にも聞こえてきそうな主神オーディナルの顔を見つめながら、私は眩暈を覚えた。
ここまでやれと……誰が頼んだ。
しかし、これならラルムだと悟られる事は無いだろう。
「お前の従者が増えたことは喜ばしいな。これからは、ラハト・キルニールと名乗るが良い。表はマテオ、裏はラハトが動くようになれば、情報面での死角は無くなるだろう」
「ありがとうございます……オーディナル様。このご恩は決して忘れません」
「そう思うのなら、ベオルフの為に死ぬ覚悟で働けば良い」
少々力を使いすぎたかもしれんな……とぼやきながらも、主神オーディナルは横目で私を見る。
「なんだ、ベオルフ……不満か? もう少しくらいなら、余裕はあるが……」
「違います。そこは心配しておりません……というか、やりすぎです」
「これくらいしなければ、あの厄介なモノが消せなかったからな。お前は感謝をしてくれないのか……」
とたんにシュンッとした主神オーディナルに、盛大な溜め息をついた。
やり過ぎだが……本当に助かった。
私ではどうにもならなかったのだ。
ラルムを……いや、ラハトを失わずに済んだのだから、いくら感謝してもしたり無い。
「主神オーディナル……ラハトのことを助けてくださって、ありがとうございました」
「うむ。その感謝の気持ちがあるのなら、僕の愛し子と交換した生地でパンでも焼いて欲しいものだ」
「ルナティエラ嬢の方は良いのですか?」
「あちらは少し時間がかかる。色々と処理が必要なのだ」
「怪我は……」
「それは本人に確認すれば良い。今晩は疲れて、互いに会話が出来る状態ではないかもしれないが……大変なことになっているなら、僕がここで悠長にしているわけがあるまい」
「確かに、その通りですね」
無事だったとしても、時を同じくして大変なことが起きたことに間違いは無い。
私もルナティエラ嬢も疲労困憊といったところか……
「うええぇぇっ……本当に良かったよおおぉぉ!」
アーヤリシュカ第一王女殿下の泣き叫ぶ声が聞こえ、自然と視線をラハトたちへ向ける。
ホッと安堵の息をつくマテオさんとナルジェス卿。
顔を覆い泣いている護衛の二人。
ラハトの周囲を喜び勇んで跳ねるノエルや、飛び回る紫黒。
皆がラハトの生還を喜んだ。
そして私も――
ラルムは亡くなったが、ラハトになって戻ってきた。
これからは、今まで以上に平穏な人生を歩めないと判っているだろう。
しかし、その表情に絶望はなく、希望の光すら見える。
ラハトが私の方を見て微笑んだ。
その笑顔が、不意に誰かと重なって驚いた。
誰だったのだろう……目の色は違うし、髪の色も違う。
だが……私はその人物をとても信頼していた。
彼の代わりだとは言わないが、これからもうまくやっていけるだろうという確信を得るには十分であった。
絶望から一転して希望へと変える。
偉大なる力を持つ優しい主神オーディナルに、心から感謝した。
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