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狭間の村と風の渓谷へ
3.あ……そっか……夢?
しおりを挟む色々準備をして寝室に戻り、ベッドサイドにあった椅子を引っ張ってきて座り、洗面器に張った水へ布を浸してから固く絞り、彼女の汗ばむ額へ乗せる。
部屋の換気をしても良かったが、それよりも室内全体が埃っぽいため、主神オーディナルからいただいた洗浄石を使ってルナティエラ嬢を含めた室内を綺麗にした。
きっと、ろくに風呂にも入れない状況であっただろうし、汗をかいて気持ちが悪いのではないかと考えたからだ。
まさか、彼女の体の汗を拭き、衣類を着替えさせるわけにもいかなかったので、洗浄石の事を思い出したときは救われた気分になった。
あの奇妙なお茶は何も知らないルナティエラ嬢が飲んでしまったらいけないので処分し、飲み物にはノエルのリンゴの果汁と塩を少量入れた水を準備しておいたから、大丈夫だろう。
本当ならノエルのリンゴを食べて貰うのが一番良いとはわかっているのだが、これだけ衰弱していると食べるのも辛い状態に違いない。
今、無理をさせるよりも、水分などを補給した方が体には負担が少なくて済むように思える。
「ぴゅぃ」
心配そうに、二羽の小鳥はルナティエラ嬢の首元へ行ったかと思うと、いつも人の頭の上に落下してくる方が、もぞもぞと布団の中へ潜り込む。
まるで、ぬくもりを与えているような行動だと思い、暖炉の火を強めるために立ち上がったのだが、何故か紫紺色の冠羽を持つ小鳥が目の前に飛んできて、此方だと言うように目の前をパタパタ飛ぶのだ。
促されるように視線をやると、指し示された場所はルナティエラ嬢のベッド。
離れるなと言うことなのだろうか。
仕方が無いと椅子に座れば、不満そうに「ぴっ」と鳴いた。
「まさか、ベッドへ入れと言っているのか? 駄目だ。さすがにマズイ」
万が一にも見られたら、あらぬ噂を立てられて、ルナティエラ嬢が窮地へ落とされてしまう。
それだけは、何としても避けなければならない。
姿が見えないから良いだろうという安易な考えで動くのは、あまり良くない気がした。
「ぴゅぃ」
もぞもぞと潜り込んでいた天色の冠羽をした小鳥がぴょこっと顔を出し、物言いたげにぴゅぃぴゅぃ鳴き始める。
お前たちの言葉が、少しでも理解出来たら速かったのだが……
何を言いたいのかわからんと呟いた途端、『緊急事態だ!』『寒いっていってる!』という声が脳裏に力一杯響いた。
ぐわんっと後頭部を殴られたような衝撃を受けて眩暈を感じるが、二羽の小鳥は必死に訴えかけているようで、震えるルナティエラ嬢の体を何とかしようと必死になっていた。
そうだ……緊急事態だ。
し、しかし……
わずかな抵抗感が、危機的状況だとわかっているのに動きを鈍らせる。
『緊・急・事・態』
改めて響く言葉に、ルナティエラ嬢へ視線をやると、彼女の体は細かく震えていた。
暖炉と薄い布団だけでは足りず、寒さに震えているのだと理解は出来るが……
この際……やむを得ん。
心の中でリュートに詫びながら、緊急事態だから仕方が無いと割り切り、上着を脱いで薄い布団を持ち上げてベッドに体を横たえると、震える彼女の体を包み込んだ。
すると、すぐさま抱きしめ返してくれるどころか、ぬくもりを離すまいと震える腕で必死にしがみついてくる。
それと同時に、体の内側から、ルナティエラ嬢へ流れ込んでいく何かを感じはじめた。
これは、ルナティエラ嬢に足りない物を、私から補っているというヤツか?
熱があるのに、血色が悪いルナティエラ嬢の唇はかさついていて、いつものみずみずしさが無い。
私が出て行ってから体調を崩したのだろうか。
戻ってくる頃には完治していたから、何も言わなかった……ということなのだろう。
ルナティエラ嬢は、こうして私に言わなかった───いや、言えなかったことがどれくらいあるのだろうか。
急速に自分の体から消えていく何かを感じても、彼女を突き放そうという考えは全く浮かばなかった。
足りない物を全部、私から補えば良い。
全部渡しても良い。
私なら大丈夫だから、気にすること無く全て奪い尽くせ。
貴女やハルキに教わったレシピで、私の体はすぐに色々な物を補えるのだから、気にする必要は無い。
朝起きたら、またカレーを作ろう。
アレなら、栄養を沢山補えるはずだ。
だから……元気になってくれ───
祈るような思いで、彼女の額に頬をすり寄せる。
私に抱きついてきたせいでまだ熱い額から落ちてしまった布を乗せ、とくりとくりと脈打つ鼓動を感じていると、かすかに彼女が身じろぎしたのを感じた。
「……あ……れ?」
「大丈夫か?」
「……ベオルフ……様? 最北端の地へ……行っているのでは?」
ボンヤリとした蜂蜜色の瞳が此方を見上げてくる。
「あ……そっか……夢?」
どう答えようか考えている内に、彼女は自分で答えを出して納得してしまったようだ。
まさか、夢を通して未来から来たとも言えずに黙り込んでいると、彼女は弱々しく微笑む。
「良かった……夢なら……こんな状態を知られないし……呆れられない……もの」
「何故、私が呆れるのだ」
「だって……自己管理が……出来ていない……から」
「誰だって、予期せず体調を崩すことはある。日々の生活で気をつけていても、避けられないこともあるだろう。それを責めることなど無い。それよりも、辛いだろうから、無理に話をしなくても良い。熱はまだ高いのだ。飲み物も準備して置いたが、喉は渇いていないか?」
私の言葉を聞きながら彼女は驚いたように目を丸くしてから、くしゃりと歪めてしまう。
何か気に障ることを言っただろうか……また、デリカシーが無いと言われるのか?
「やっぱり……夢ですねぇ……こんなに気遣って……優しい言葉をかけられるなんて……でも、相手がベオルフ様なのはわかります……貴方だけですもの……私を気遣ってくれるのは……」
「ルナティエラ嬢……」
「でも……ベオルフ様がこうしてくれていることを今は覚えているのに、離れてしまうと忘れてしまうのです……それが……とても恐ろしくて……私は……忘れたくないのに……この手が優しいことを……忘れたく……ない」
震える声で語る彼女を落ち着かせるように頬を撫でていた手を、包み込むように触れて唇を噛みしめる様は、感情を押し殺しているようにも見えた。
それは、黒狼の主がかけた呪いの影響だろう。
アレがルナティエラ嬢の記憶を、自分の都合が良いように改ざんする術を仕込んでいたはずだ。
この時期の彼女は、それに違和感を覚えていたのか。
それが卒業間近になると、片鱗すら思い出すことが出来なくなっていた。
徐々に蝕まれていく恐怖に苛まれる日々を、一人耐えてきたのかと思うと辛い。
「ミュリア様が来て……全てが……あの本の通りになり始めている……私は……どうなるのでしょう……」
「大丈夫だ。私が離れずそばに居る」
「ふふ……嬉しい……けれども、きっと……ベオルフ様も……いずれミュリア様の方へ……いってしまう……」
「誓っても良い。絶対に離れたりしない。物理的に離れてしまっても、心は寄り添っている。忘れないでくれ……それだけは絶対に忘れないで欲しい」
「そうだったら……嬉しい……」
「今は苦しくても、卒業まで耐えてくれ。卒業パーティーの際、貴女はこの悪夢から解放される。貴女は、かけがえのない者に出会うのだ。貴女だけを想い、護る存在に……」
私もそうだが……護れなかった私と彼とは違うからな。
思わず、そう呟いてしまった。
すると、彼女は不思議そうに首を傾げてうつろな瞳で見上げてきたのである。
「ベオルフ様がいたから……耐えられる……のに?」
どういうことだろうかと蜂蜜色の瞳を見つめ返していると、彼女は柔らかな笑みを浮かべたまま語り出す。
「毎回、遠くへ行く際……本を貸し借りするでしょう? 帰ってきたら、感想を聞かせてくれって……約束して……それが……私の生きる糧……楽しみ……なのです。ベオルフ様の旅のお話を聞いて……最北端の地の状況を聞いて……私の身を案じてくれる言葉をかけてくれる……それだけで……私は頑張れます」
「たった……それだけのことで?」
「私には……それがとても大事なのです……だって、そうでもしないと……誰も……名を呼んでくれない……名前を忘れたみたいに……誰も……」
ズキリと心が痛んだ。
名前を呼ばれないということが、どれほど辛いことなのか想像もつかない。
ただ、彼女のうつろな瞳が悲しくて……
「ルナティエラ嬢……」
「ふふ……そう呼ばれるのも久しぶりな……気がします……ベオルフ様がいないと……私は……私の名前も……忘れそう……」
たまらなくなり、体を強く引き寄せ抱きしめる。
こんなにボロボロになっていたのに、何故気づけなかったのだ!
後悔の念が体の中を暴れ回り、喉元に熱い鉛でも流し込まれてしまったかのように言葉は出てこなかった。
ただ、今だけは何者にも傷つけられないように祈りながら抱きしめる。
そして、彼女が本当は何と呼ばれたいのかわかっていた。
親しい者しか呼ぶことを許されない愛称。
両親や婚約者にも呼ばれなくなったことが悲しくて、気づかないふりをしている彼女が痛々しい。
だからというわけではなかったのだが、庭園に居た頃に呼んでいただろう名前が、自然と口からこぼれ落ちた。
「ルナ……」
ぴくりと反応した細い体は、息を詰めて耳を澄ましているようだ。
その反応から、もう一度呼んで良いのかわからず、私も口を閉ざしてしまったのだが、小さく囁くような声が耳に届いた。
「もう一度……呼んでください」
「……ルナ」
「もう一度」
「ルナ」
「本当に……嬉しいけど、やっぱり夢ですよね……ベオルフ様が私をそう呼ぶことなどありませんもの……でも……嬉しい……お父様も、お母様も、セルフィス殿下も……もう呼ばない名前……もう……誰も……呼んでくれない……」
セルフィス殿下はどうでも良いのだろうが、両親には呼んで欲しかったのだろう。
父親と母親のことを語るときに、かすかだが声が震えていた。
まあ、セルフィス殿下は、ルナティエラ嬢がいなくなってから「ルナ」と連呼していたので、黙らせておいたのだが……
二度と呼ばなくて良いと思っているし、呼ばせない。
セルフィス殿下に、もうその資格は無いのだ。
「大丈夫だ。先ほども言ったが、卒業パーティーが終われば、貴女の願いは叶う」
「その時……ベオルフ様は?」
「……私は共に行くことは出来ない。だが、こうして会える。夢で必ず会える」
「夢で……必ず……」
少し安堵したような表情を浮かべ、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
暗い顔ばかりしているから心配だったが、多少は心が上向きになってきたのだろうか。
「心配しなくともそばに居る。私は貴女を護る盾となろう」
「騎士が……気軽に言って良い言葉ではありません……」
「良いのだ。私は、貴女だけの騎士だからな」
「もう……本当に都合の良い……夢ですねぇ……嬉しすぎて……泣けてしまいます……卒業パーティー後の私は……独りではないのですか?」
「独りなどと言わせたりしない。私がいる。それに、未来の貴女のそばには、沢山の人々がいる。楽しそうに笑って、料理をしているのだ」
「……料理?」
やはり、『料理』という単語には反応したな。
好きなのだろう? と問いかけると、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしてしまう。
「何故、そのことを知って───そうでした、夢でしたね……でも……幸せな夢……未来の私は、とても幸せでしょうね……」
「ああ。だから、何があっても諦めないで欲しい。絶対に、何があっても最後まで足掻いてくれ。何かあれば、私を呼んで欲しい。私は必ず、貴女の助けとなる」
「まるで愛の告白ですよ」
「男女の愛ではないが、貴女を妹のように想っている。だから、甘えてくれて良いのだ」
「じゃあ……独りに……しないでください……風邪が治るまでで良いから、独りに……しないで……」
「ああ。そばに居る。だから、ゆっくり休むと良い」
ずっとそばに居て欲しいと言わない辺りが、ルナティエラ嬢だと思った。
もっと我が儘を言ってくれて良いのだが、夢だと思っている中でも、私がそう言われてしまったら困るだろうと考えてしまうのが彼女なのだ。
私の返答に微笑んだ彼女の目尻から、一筋の涙が流れ落ちていく。
その涙の理由は聞かず、指でソッと拭い、しっかりと抱きしめて独りではないのだと伝えるように、ぬくもりを分かち合う。
背中を優しく撫でながら「大丈夫だ、そばに居る」と囁く声に誘われ、彼女はゆっくりと瞼を閉じ、再び眠りへと落ちていく。
こぼれ落ちる涙は暫く止まることが無く、彼女の心の傷を垣間見た気がして、胸が言葉にならない鈍い痛みを覚え、それはなかなか治まることが無かったのである。
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