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月と華
16.貴女を泣かせてばかりだな
しおりを挟む私の言葉を聞いてルナティエラ嬢の瞳が揺れる。
美しい蜂蜜色の瞳は、いつものように優しくとろりと甘いのではないだろうかと感じられるものではなく、とても複雑な感情の色が見えた。
「まあ、先程も言ったように、私は彼を弁護できるほど知らん。だが……そうだな。万が一にも彼がミュリア・セルシア男爵令嬢を選んだとしよう」
できるだけ穏やかな口調で語ると、その内容を思い描いて傷ついたように眉尻を下げる。
唇を噛みしめている様子は痛々しいが、ちゃんと伝えなければならない言葉があったのだ。
つらい思いをさせてすまない。
だが、これだけは言わせてくれ。
彼がそんな馬鹿男だとは考えていないが、万が一ということもある。
それに、そういう状況にならなくとも知っておいて欲しいのだ。
貴女が独りではなく、私がいるのだということを───
「そんな馬鹿な男は見切りをつけ、見捨てて帰ってこい」
「……え?」
キッパリとそう伝えれば、彼女は目を見開きこちらを凝視し、いま聞こえた言葉が信じられないというような面持ちであった。
「そんな見る目のない男に、大切な妹を任せるほど酔狂ではない。こちらへ戻って来ると良い。主神オーディナルに言えば、どうとでもなるだろう」
事実、主神オーディナルか夢の中で私に訴えれば、確実にこちらへ帰って来ることができるはずである。
もともとこちらの世界の人間なのだ。
オーディナル様の力で、ルナティエラ嬢をこちらの世界へ引き戻すことは、さほど難しくないだろう。
それに、ルナティエラ嬢が傷つきボロボロになっている様を見逃すことなど出来ない。
私の大切な妹なのだ。
傷つき泣いているなら、私が丸抱えにする覚悟くらいできている。
気分的には、離婚して戻ってくる妹を出迎えるような感覚かもしれない。
まあ……まだ嫁には出していないがな。
「私は……神の花嫁と言われております。もし、帰れば国が大混乱に……」
彼女はやはりというべきか、こちらの世界へ帰ってきたらどうなるか予想して、帰ることを全く選択肢に入れていなかったと感じさせる言葉を零す。
だから、それは杞憂であると教えることにした。
こうなると、母の作戦や主神オーディナルの一手、そして、いま船にいる乗船客が広める噂に感謝しなくてはならない。
全てが、ルナティエラ嬢に何かがあった場合、問題なく受け入れられるように動いている。
彼女が戻ってくることがあっても、これなら何とかなる。
そう確信できるし、噂のせいで少しばかり恥ずかしい思いをするかもしれないが、大切な妹のためだと考えれば仕方あるまい。
神の花嫁と黎明の守護騎士の恋愛譚に主神オーディナルが手を貸しているという噂を聞いたルナティエラ嬢は、目を丸くして『黎明の守護騎士ってどちら様でしょう?』と問うた。
それが私のことであると知るやいなや、彼女は素っ頓狂な声を上げて、ポカンッと口を開く。
令嬢らしくない表情に、自然と苦笑が浮かんでしまったが、改めてルナティエラ嬢が帰ってきたところで問題にならないことを説明する。
「で、でも……それって違う意味で色々と問題ではありませんか?ベオルフ様は私のせいで結婚できませんよっ!?」
「結婚するつもりがないので助かる」
「そういう問題ではありません!」
「それに、貴女1人養うくらいの甲斐性はある」
「ですから!」
「だから、一緒にリュートを待ってやれる」
そう言い切った私を信じられない者でも見るかのような視線を向けていた彼女の瞳が、再び揺れ始めた。
「まあ、ミュリア・セルシア男爵令嬢を選ぶならば待つ必要もないが……何かあって一時的に戻ってきたのなら、迎えに来る彼を待つ必要がある。その間、私と共に居たほうが何かと都合も良いだろう」
「迎えに……来なかったら?」
「そうだな。もし、ルナティエラ嬢が愛想尽かされたというのなら、兄妹水入らずで静かに暮らすか」
幸いにも、静かに暮らせそうな土地がある。
少し寒いが、問題はないだろう。
まあ……そうなったら『ジャガイモの聖女様』などと呼ばれ、周囲の者たちからありがたがられるという弊害はつきまとうだろうが……
この際、その点には目をつむってもらおう。
いや、その地で静かに暮す前に、彼女が欲しいと言っていたミソやショーユという物があるジャンポーネに行ってみるのも良いな。
きっと彼女が喜ぶような物珍しい物に溢れた国だろう。
貴族の子女には厳しい道程になるかもしれないが、ルナティエラ嬢であれば私の旅にもついて来ることができるだろうし、楽しむだけの余裕も見せてくれそうだ。
料理を作ることが出来る上に、好奇心旺盛で多少のことではへこたれない精神を持ち度胸もあることを考えたら、一緒に旅をする相手として申し分ない。
何よりも、二人で自由に各地を巡るという響きは、とても心を浮き立たせる。
二人っきりの旅も良いが、主神オーディナルとノエルもそれに加わる可能性が高い。
いや、間違いなく加わるな。
そうなれば、考えているよりも賑やかで楽しい旅になるはずだが……ルナティエラ嬢の心が傷つき疲れ果てているのなら、その傷を癒やしてからでも遅くはないだろう。
傷を癒やすために二人で寄り添い、主神オーディナルとノエルに見守られながら心穏やかに過ごせば良いのだ。
あの頃のように───
不意に浮かんだ言葉に疑問は感じたが、そうだったな……と、どこかで納得している自分が居た。
しかし、今はそれについて語らず、こちらへ戻ってきてもどうにかなるのだと、心配しなくて良いと語る私の言葉を黙って聞いていたルナティエラ嬢の大きな瞳から、真珠のような輝きがこぼれ落ちる。
ぽろり……ぽろぽろとこぼれ落ちていく様は綺麗だが……泣かせるために言ったのではないので、少しだけ困ってしまった。
「……貴女を泣かせてばかりだな」
頬を包み込む手に、涙がこぼれ落ちていく。
ぬくもりのある雫は、光を受けてキラキラと宝石のようだと感じるが、濡れた頬が冷たくなってしまうのが可哀想で、指だけを動かしてソッと水分を拭った。
「まあ、だから……貴女は自分の意志であちらにいるのだ。こちらに居場所がないからいるわけではない。彼のそばにいたいのならそれで良いではないか。それが貴女の望むことなのだから」
そう伝えても、自分のワガママで世界が壊れてしまうかもしれないと嘆く彼女に、そんなことはありえないと語り聞かせ、彼女の思考を歪めて追い詰めようとするアレが本当に邪魔だと感じた。
彼女がこんなことで心を痛めているのは、全てアレが原因だ。
考えたくもない方向へ無理矢理向けられ、己が利己的で醜い存在なのだと暗示にかけているのだろう。
貴女ほど優しい人は、そうそうお目にかかれないというのに……
ミュリア・セルシア男爵令嬢が天真爛漫で天使のようだと言われているが、私にとってのソレは、貴女なのだと感じている。
言葉にして伝えたところで、真意を歪められてしまい信じてもらえないかもしれない。
だから、歪められた思考でもわかりやすい問いを投げかけることにした。
「歪められた意識で考えても、まともな答えなど出るはずもない。だが、これだけはわかるはずだ。貴女は彼のそばにいたいのか、いたくないのか、どちらだ」
シンプルな問いかけであったからか、彼女の唇から『そばにいたい』という言葉がこぼれ落ちる。
偽りのない、真っ直ぐな気持ちであった。
「ならば、迷う必要など無い。少しばかり我を通してみろ。それでも無理であれば帰ってこい。私に遠慮はいらん」
「……何も……私はベオルフ様に何も返せないのに」
「妹の身を案じる兄に、守る理由が必要か?」
血よりも濃いもので繋がっている感覚がある、私たちは間違いなく兄妹なのだ。
震える体を優しく包み込み、お互いの体を行き来する力の奔流に身を任せ、彼女の心が落ち着くように背を軽く叩き、頭に頬を寄せる。
「貴女は変なところで難しく考えすぎる上に、自己評価が低すぎる。奇妙な力で捻じ曲げられている部分は大きいが……少しくらい、自分を信じてやれ。ミュリア・セルシア男爵令嬢など比較にならんくらい愛らしいのだから」
「……それは、身内贔屓というのです」
「私くらい贔屓しても良いだろう」
この腕の中にある、少し素直ではないところがあるけれども可愛らしくて愛しい命を守るためなら、いくらでも頑張ることが出来るだろう。
今までは様々な理由から表立って守ることが出来なかった。
しかし、これからは違う。
私の妹を傷つける者には、容赦なく牙を剥き叩き伏せる。
それが例え、王族や神殿関係者であってもだ。
とはいえ、王族と言っても国王陛下や王太子殿下はそのようなことをしないだろうから、問題は第二と第三王子だな。
セルフィス殿下は未だルナティエラ嬢を諦めていないフシがあるし、オブセシオン殿下はルナティエラ嬢との噂を流そうとしていたようであったが、その真意は謎に包まれている。
神の加護が自分にあるのだというような流れを作り、王太子殿下に成り代わろう考えていたのか……それとも、他に理由があったのか……言葉通りルナティエラ嬢に好意を寄せていたとは考えづらい。
ただ、私を快くは思っていないだろう。
彼が意図的に流した噂は、私の噂に上書きされてしまったのだから……
こう考えると、私は二人の王子に喧嘩を売っていることになるのだろうか。
まあ……黒狼の主のことに比べたら大したことではないように思えるから不思議である。
腕の中でひとしきり泣いてスッキリしたのか、ルナティエラ嬢は恥ずかしそうに私の方をチラリチラリと赤い目で見てくる。
まだそのままでいろと声をかけ、頭を胸板に押さえつけると「いたっ」と声が聞こえ、そう言えば額が赤くなっていたことを思い出して、彼女の顔を覗き込む。
「まだ赤いな……痛むか……」
「だ、大丈夫です……だ、だいじょーぶ……」
そう言いながらも額を手で押さえているから気になって仕方がない。
ここが夢で助かった。
イメージした物を出すのが容易い。
濡れタオルを出して彼女の額を冷やしていると、ルナティエラ嬢は赤くなっている目元も冷やしたかったのか、タオルの生地が余っている部分を手にとり目元に押し当てていた。
「痛みは?」
「マシになりました」
「そうか……」
「ベオルフ様は、その額の傷……痛みませんか?」
「時々な……」
そう返答すると、真っ赤な目で心配そうな顔をした彼女は、私の額に手を伸ばし……ハッとしたように手を引っ込めようとする。
何を遠慮することがあるのだろうと彼女の手を取り、普段は見ても気持ちが良いモノではないだろうという配慮から前髪で隠している額の古傷に触れさせた。
「触れられるのは……嫌じゃないのですか?」
「貴女以外の者であれば嫌かもしれん」
恐る恐る触れて撫でていく感触が懐かしく、以前にもこういうことがあったと体に刻まれている記憶が訴える。
そろりと撫でる指が心地よくて目を細めると、彼女は嬉しそうに口元を綻ばせた。
少し痛んだとしても、こうして撫でてくれるなら気にならないかも知れない。
ルナティエラ嬢の額を冷やしながら、己の額を撫でてもらうという光景は、はたから見れば「何をやっているのだ?」と問われかねないが……何だかとても嬉しくなってしまった。
他愛もない話を交わしながら穏やかな時間を過ごし、互いの力がそろそろ満たされたと感じてきた頃。
なにかの音が上空から聞こえた気がして、自然と視線を上へ上げる。
私によりかかり甘えていたルナティエラ嬢も、自然と視線を上げ……真っ白な上の空間に、ポツリと見える黒い点に意識を向けた。
なんだ?
それはものすごいスピードで落下しているようであった。
これはマズイとルナティエラ嬢を背に庇い、落下してくる者がこちらへ飛びかかってきても良いように備える。
……が、その者はそのまま地面に激突してしまった。
もうもうと上がる土煙のようなものと、倒れている人物は、どうやら青年のようである。
呆気にとられ、その様子を二人して眺めていると、彼はむくりと起き上がり、上方を睨みつけて吼えた。
「い……イテテテ……ったく……いきなり手を離すとか、何考えてっ……」
「あはは、ごめんねぇ。手を離すつもりは無かったんだけど、父上がいきなり現れたから驚いちゃって」
「これが夢じゃなかったら確実に死んでいた……」
「わ、わかってるって、ごめんよ。それにあまり大きな声を出すと、ほら、二人共驚いて固まっちゃってるし……」
「え?」
見慣れない衣服を着た青年と、空に浮かぶ青年のやり取りはとても親密な感じがしたが……父上というのは、主神オーディナルのことだろうか。
ふわふわと笑みを浮かべながらノエルを伴い降りてきたところを見ても間違いないだろう。
私の背中にしっかりしがみついていたルナティエラ嬢は、恐る恐るといった様子で主神オーディナルとノエル、そして新たに現れた青年二人を見つめてポカンとしている。
「やっぱり驚かせちゃったかな。しかし、さすがは父上。言語通訳機能が正常に稼働していますよ」
「当たり前だ。そのための準備であったからな」
「ノエルも頑張ったのー!ルナ、ベオ、褒めてーっ」
何を頑張ったのかわからなかったが、ノエルが飛びついてきたので受け止め、私はいまだ呆然としているルナティエラ嬢が気になり「どうした?」と声をかけた。
ルナティエラ嬢が声を出すより早く、新たに訪れた青年二人のうちゼルと呼ばれた彼は手を上げて「やあ」と気さくに挨拶をし、もう1人の青年は驚いたようにこちらを凝視していたのである。
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