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第八章 海の覇者

ものの例えは心臓に悪いのです

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 と、とりあえず、距離を取りましょうっ!
 そうしないと、私の意識がすぐに飛んでしまいますうぅぅぅっ!

 何故、朝からこんな状況に陥っているのか納得はいきませんけれど……そんなことを言っている場合でもありません。
 こ、これは、本気でマズイですっ!
 本音を言うと、とんでもなく良い笑顔のリュート様から離れたくはありませんが、動悸の激しい心臓やフェードアウトしそうな意識を保つために、なんとか距離を取らなければいけません。

「あ、あの……リュート様? おろして……いただきたいのですが……」
「何故?」

 むしろ、何故と問われている私のほうが「何故?」という疑問を口にしたいのですがっ!?
 しかも、その色気と哀愁はズルイですよ!
 私が悪いことをしているみたいではありませんか……

「この時間くらいしかルナを独り占めにできないし、充電もできないから、正直に言うと離れたくねーんだよな」
「独り占め……ですか?」
「今日は、遠征討伐の前日だから、やることが山ほどある。それに、みんなルナを構いたくて仕方が無いから、二人きりにさせてくれない。チェリシュだって、不安定な時だし、できるだけ二人一緒に付き添っていてやりたい……ってなると、この時間しかねーだろ?」

 本日は、山のようなレシピを持って新担当に会うことをサラ様に勧められましたし、遠征討伐に必要になるだろう物品の買い出しやキュステさんの海洋調査の補助、ロン兄様と黒の騎士団の方々が帰って来るので、その時に行われる話し合いなど、盛りだくさんです。
 私が来てからというもの、一日が濃いらしく、リュート様はスケジュールをメモにとって管理しているようでした。
 それについては……な、なんだかとても申し訳ないのですが、この時期の学園の生徒はこんなものらしく、召喚術師科だけではなく、他の科でも忙しそうに日々を送っているようです。
 確かに、学生の頃は新学期は、いろいろとあって忙しかったですよね……

 あと、個人的な用事ではありますが、なんとしても本日中にカレーを完成させたいのです。
 二日目のカレーなども作りたいのですが……さすがに残る気がしません。
 確実に、リュート様が残っている全てを平らげる予感しかしませんもの。

「ということで、下へおろす提案は却下だ。俺に、充電させてくれ」

 とーっても良い笑顔で、そうおっしゃったリュート様は、私をぎゅーっと抱きしめてご満悦。
 こういう場合、私は……どうしたら良いのでしょうっ!
 だ、駄目です、本当にこの距離感は、し、心臓が持たないのですよっ!?
 こんなに麗しいリュート様の笑顔を、朝から独占してしまえる幸せを感じながら、今にも口から飛び出してしまいそうな心臓の高鳴りを、できるだけ違うことを考えることで意識をそらして抑えるだけで精一杯です。

 顔なんて真っ赤だというのに、「可愛い」と言って嬉しそうに笑っているリュート様の目は、絶対に節穴なのですっ!
 狼狽しながら赤くなっている顔が、可愛いはずありませんもの。
 それも相まって羞恥心に刺激されてしまい、うつむきたいのに……そうするとすぐに「ルナ」って甘い声で囁かれるのです。
 私にいったい……どうしろとおっしゃるのですかああぁぁっ!

 オロオロしている私を宥めるように、リュート様は「抱き上げているから駄目」なのだと思ったのか、ソファーにおろして隣に座ると、流れるような動作で抱き寄せ、額に頬をすり寄せたかと思うと、ちゅっと音を立てて口づけを落としてくださいました。

 ……え?

「あ、あの……私……いま……エナガの姿では……」
「ん?」
「エナガの姿だから、していたのだと……」
「可愛いルナについついしていただけだけど? 姿形は、俺にとってそれほど重要なことでは……あー、いや、一部助かっている部分はあるけど、これに関しては『ルナだからしている』のであって、エナガだからっていう理由では無いぞ」

 へー、そうだったのですかぁ……って……あ、あれ?
 それはそれで……問題だらけのような気がするのですが……だ、大丈夫でしょうか。

 恐る恐るリュート様を見上げると、とても優しい瞳で私を見下ろしていて、私がここにいることを確かめるみたいに頬を手で包み込みます。

「ルナがさ……初日に寝るのが怖いって言っていたろ? あの時の気持ちが、最近よく理解できるんだ」

 初日の夜にリュート様に言った言葉を思い出しました。
 確かに、そう言いましたよね。
 夢のような一日だったので……幸せすぎて怖かった。
 こんな幸せな気持ちを知ってしまったら、あの苦しい状況に戻って、正常でいられるのか自信が無かったのですもの。
 今なら、あちらの世界でもそんなことにはならないって自信を持って言えますが、当時の私には、そう考えることができませんでした。

 リュート様に出会えたことが、考えられないくらい素晴らしい幸運であったか……それを知っているからこそ出てしまった言葉でした。

「もし、ルナがいなくなったらどうしようって……オーディナルやベオルフが帰ってこいって言ったら、ルナは簡単にいなくなっちまうって考えたら怖くってさ……」
「ベオルフ様とオーディナル様は、そんなことをおっしゃいませんよ?」
「ベオルフはまだしも、オーディナルは怪しい」

 半眼で呟くリュート様を見て、なんだかおかしくなってきました。
 日本では同族嫌悪という言葉がありましたけれど、それに近いのでは無いかと考えてしまいます。
 あまりにも似ているからこそ、警戒している感じがしましたもの。

「まあ、ベオルフやオーディナルがそんなことを言い出したら、俺がヤバイことをやらかしたってことだよな……でもさ、できることなら、いきなり里帰りだけはやめてくれ。話し合う機会を作って欲しい。マジで、突然いなくなったら泣けるから……それだけは勘弁してくれ……」

 リュート様があまりにも情けない声でそんなことをおっしゃるので、私は思わず吹き出すように笑ってしまいました。
 だって、それって……

「奥さんに逃げられる旦那さんみたいな言い方ですよ、リュート様」
「あー、確かにそうかも……奥さんの父親と兄が怖いから、やっぱり気になっちゃったって感じだよな」
「ベオルフ様もオーディナル様も、話がわからない方ではありませんし、きっと話し合う機会をくださいます」
「オーディナルは即決しそうだけど……」
「リュート様の考えているオーディナル様は、とても厳しい方という感じですね」

 初対面からお説教をされてしまいましたから、仕方が無いと言えばそうかもしれません。
 本当は、とても子煩悩で優しく、時々……ベオルフ様にお説教をされてしょげているなんて、想像することもできないでしょう。

「大丈夫ですよ。オーディナル様は、とてもお優しいですから」
「いや、それは我が子に対してだけだと思う。嫁さんの父親って、あんな感じだ。嫁さんの実家へ帰省する同僚が、お義父さんと会うのは緊張するって言ってたのを笑っていたが、今になって実感することになるとは……」

 そんなことはありませんよって言おうとした私は、リュート様の言葉を頭の中で反芻し、とんでもないことを言われていることに気づき、一瞬にして顔を赤く染め上げました。

「ん? どうした?」
「……よ、嫁……さん?」

 前世の同僚を思い出して懐かしんでいたリュート様は、私の反応から自分が言っていた言葉を思い出し、頬を徐々に赤く染めていきます。
 じわじわと赤くなり、視線が泳いでいるのですけれど……こ、此方だって、そのフォローができるほどの余裕はありません。
 お互いに、視線を合わせてはそらして……という行動を繰り返しながら、なんとか場を和ませるような言葉を探します。
 一つ咳払いをしたリュート様は、いつものようなハッキリとした物言いでは無く、小さな声で呟きました。

「……あ……いや……その……つまり……その……た、たとえ……だな。うん、ものの例えだ」
「そう……ですよね」
「お、おう」

 チラリと横目でリュート様を見ると、まだ赤味の残る顔を、なんとか隠そうと大きな右手で口元を覆っているのですが、格好良さが倍増しているだけで、赤味はあまり隠せておりません。
 絵になるような格好いい照れ方とか、イケメンはズルイですよっ!?
 じーっと見ていると、私の視線から逃れるように顔を背けてしまうのですが、それすら格好いい上に可愛いなんて……
 リュート様の素敵な一面を知った私は、ドキドキしながらも目で追いかけてしまいます。

 顔は背けているのに、左腕はしっかり私を抱きかかえているから、距離は取れません。
 そのことに気づいているにも関わらず、絶対に離そうとはしないリュート様に、私の胸は高鳴る一方です。
 大切にされていると実感できる時間が嬉しくて、ちょっぴり甘えてみたい……けど、心臓が持ちそうになくて……
 もう少し耐性ができたら、リュート様にもためらうこと無く甘えることができるのでしょうか。

 い、いえ、やっぱり無理です。
 心臓が壊れるか、意識が飛んでしまいますよね。
 間違いなく、倒れるほうが先になりそうです。

 そう考えるだけでも赤くなってしまう頬を冷ますことに精一杯で、私たちは失念しておりました。
 忍び寄る気配に……

「朝から、リューとルーがベリリなのっ!」

 揃って体をビクッとさせた私たちは、恐る恐るベッドの方を見ると、もーちゃんを抱きしめてご満悦のチェリシュがにぱーっと笑いながら、かぶっていた布団から這い出てきたところでした。
 タイミングといい、いつものように眠そうに目をこすったりしていない様子から、悟られぬように観察していたのでしょうか。
 ウキウキワクワク感が体の外にまであふれ出している感じがするチェリシュは、本当に元気いっぱいです。
 ベオルフ様の回復……恐るべし───

 そうとは知らないリュート様は、朝から元気いっぱいのチェリシュに驚いた様子で、小首を傾げています。

「チェリシュ。この時期は、もうちょいゆっくりと寝ているだろ?」
「今日のチェリシュは、元気いっぱいなの!」

 充電の時間が短縮された……というリュート様の嘆きの声は聞こえなかったことにしておきましょう。
 チェリシュが元気で嬉しいという気持ちも、リュート様から感じられますもの。
 それに、あれ以上は……今の私には厳しいのです。
 朝から、二度寝のように意識を飛ばす結果にならずに済んで幸いでした。

「時間が短縮された分、どこかで補うか……」

 ぼそりと呟かれた言葉は、私の聞き違いだったのでしょうか。
 とても良い笑顔で此方を見ているリュート様と目が合ったのは良いのですが、今度は私のほうが視線を彷徨わせる結果となり、チェリシュが私たちの間に到着するまで、無言の攻防戦が繰り広げられておりました。

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