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終の魔女
しおりを挟む夢を見た。ひどく滑稽で現実味のない夢を。
その夢の中で僕は小さな部屋の中の真ん中にある木製の椅子に俯いて座っている。そして目の前にはぼんやりとした影のようなものがいて、僕を見下ろしていてこう言うんだ。
「三大欲求ってあるだろう? ほら、食欲・性欲・睡眠欲って。僕はあれな、間違いだと思うんだよね」
そんな投げかけに対して僕はじゃあ一体なんなんだと問い返す。するとそのモヤはゆらゆらと揺れ動いてこう答えた。
「お前は知ってるだろう。人間がここまで栄えた理由、人間の原初からの欲求」
知りたいという知識欲さ
「なにそれ、よくわかんないよ」
「はあ、頭が悪いなあ。どこまでも間抜けで根性のない腰抜けめ」
「そんなこと言わないでよ」
君は僕なんだからさ。
◇◇◇
目に朝日が差し込む、どうやらもう朝のようだ。僕はまだぼーっとする頭を掻きながらベットから起き上がり部屋の電気をつける。そしてカーテンの方をチラッと見て手手に力を込めてパッとかざした。
開く……訳ないよな。僕にはカーテンを開ける魔力すらないんだから。はあ、僕も火とか水とか出してみたいなあ。
すたすたとカーテンに近づいて手で開けると外は青空の一遍も見ることもできないほど完全に雲に覆われている。ため息をついてカーテンを閉じるとリビングからよく聞きなれた陽気な声が聞こえてきた。その声に呼ばれて僕は扉を開け数歩、歩いてリビングのテーブルに座る。
「ほら、しゃきっとせんかい! 蓮がそんなんじゃ姉ちゃんも気持ち乗らないって!」
出来立てのベーコンエッグが乗った皿が宙を舞い、僕が座った椅子の前に提供される。脇では洗濯物がひらひらと折りたたまれ、掃除機が天井の掃除をしていた。
「姉さんはいいなあ。これだけ魔法が使えれば就職も楽勝でしょ」
「そんなことないよ? 結局大事なのは中身だってね!」
白いポニーテイルの似合うきれいな顔立ち。加賀里百合、僕の実の姉だ。年齢は、まあ大学卒業間近って感じで、見ての通り明るくてコミュ力お化け。おまけに大のお人よしである。
根暗でネガティブな僕とは正反対で本当に血のつながった家族なのかと疑うようなこともあるが、両親が死んでから六年間ずっと育ててくれた、たった一人の家族だ。
僕はありがとうと一言言ってからベーコンエッグを数口で平らげ、荷物を持って玄関に立つ。
「あれ、傘は持ってかないの?」
「大丈夫だよ、見学する所も駅の近くでそんな歩かないし」
「そう……。じゃあ、行ってらっしゃい!」
僕はその言葉に少し手を挙げてすぐに家を出た。
行ってきます。
たった一言、言えばよかったかなと少し後悔した。いや別に大したことじゃない。明日も同じ会話が繰り返される。
だけど、今日だけは何か、その明日が来ないような気がして少し心臓が締め付けられる感じがした。
―――
『東京都多麻市で"魔女"による殺人事件が発生。今月24件目』
電車内でイヤホンをしながらスマホをいじっているとふとそんな記事が目に入ってくる。基教市は僕の通う国立理法高校がある町、別に東京の中でも特段田舎というわけでも都会というわけでもない町。
近頃は魔女事件がかなり増えてきてる。姿は人とほとんど同じながら人の脳髄をすすって生き永らえなければいけない恐ろしくも哀しい生き物。一説にはエーテル鉱
50年前、魔法を使うためのエネルギー源となるエーテル鉱がフランスで発見されてから徐々にその姿を表し始め、現在では凶悪犯罪者のような扱いをされている。
幸い僕の周りでは魔女に襲われた人はいないが安心なんてことはできない。魔法の使えない僕では何も守れない。だからできる限り危険の可能性のあるものは避ける、それが僕の生き方だ。
この電車にだって魔女が紛れ込んでるかもしれない。平然とした顔で人を殺す行かれた怪物が……。
「おい、やめろって。危ねえだろうが」
僕がそんなことを考えていると目の前の二人の少年たちが指先から火を出しながらそんなことを言っているのがイヤホン越しに聞こえた。
「こら、あんたたちこんなところで火を出したらだめよぅ」
「「ごめんなさい……」」
隣にいた白髪の老婆が少年たちに注意をすると二人は素直に謝り、ちょこんと座席に縮こまった。
こういう子供が一番腹が立つ。人の迷惑になるようなことをするな、そんな漫画みたいに力があるのならもっといい使い道があるだろう。
”大いなる力には大いなる責任が伴う”というやつだ。
どこぞのおじさんの言葉を心の中で唱え、僕は相も変わらずいつもの日課である、物理学入門の参考書を読みながら電車内時間を過ごす。
―――
いつもなら多麻市に向かうところだが今日は真反対の桑都市の方へ向かった。なぜなら今日は学校の行事である研究所見学の日だからだ。見学する施設は魔法科学研究所。国内で、いや世界で最も最先端の魔法科学分野の研究施設だ。
「おい加賀里、もう説明始まるから自分のクラスの列に並べ!」
担任の声に僕はほかの生徒たちが並んでいる列に入る。それからすぐに始まった教師のつまらない前置きは聞き流し、バレないようにこの施設の概要をスマホで調べていた。
エーテルが発見され、魔法が認められた初期のころに設立されそれから現在まで、常に魔法科学の最先端をいっている。主な研究としては魔法の原理の解明や新しい魔法の開発、エーテル鉱の無害化など。
魔法が使えない僕にとって、知識だけでも周りより多くなきゃ話にならない。そもそも、高校に魔法学があるし。とにかくこういう状況でどれだけ他と違いを生み出すか、それが大事だ。
「あーあ、めんどくせえなぁ」
僕の隣の生徒がぼそりとそう呟く。それに呼応するようにその前の奴もこそこそとくだらないことを言い始めた。
「それな、もともと企業見学自由選択だったじゃんか」
「二週間前ぐらいだったっけ? 突然、全員このナントカ研究所をけんがくすることになりましたってな」
「ああ、ふざけんじゃねえよ。俺はVRMMOのゲーム会社見たかったのによぉ」
はあ、グダグダうるさいやつらだ。こいつらホントにうちの学校の生徒か? こんな研究所が学校に見学を許可することなんてめったにないんだ。教師たちも是が非でも行かせたいのが分からないのか?
言ってやれよ、ってそんな度胸ないか
違う、こういうバカに説教する価値なんてないだろ。
心の中の僕が話し合っているうちに教師の話は終わっていたらしく、わらわらと生徒が研究所へと入っていく。僕もすぐに立ち上がって皆の後についていった。
扉の先には天井まで吹き抜けた大きなホールがあり、その周りをドーナツのように囲むガラス張りの研究室が連立しているようだった。
他の生徒たちは目を輝かせて周囲に散っていく。聞いてなかったが今日は自由行動らしい。
僕はとにかく時間を無駄にしないよう見たい研究所をどの順番で回るかを決めてすぐさま足を動かした。
最初に向かったのは魔法の源、エーテル鉱の研究室。50年前に日本の廃坑で発見されたそれは、空気中に気体のエーテルとして拡散し、一部が人間の体内に吸収され、魔法として消費される。
ただ高濃度のエーテルは致死性があり、エーテル鉱を素手で触るのは極めて危険らしい。そのためか研究室内の研究員たちはみなガスマスクと防護服を着用していた。
「あの緑色の光がエーテル……。濃度が高いから目で見えるくらいになるのか?」
次に行ったのは新たな魔法の制作の研究室。最近は複雑な魔法の開発に躍起になっているそうだ。
そして今いるのが魔女に関する研究室。魔女の生態や起源などの研究をしているらしい。
今日で有力とされているのはエーテル鉱と共に発見された未知の細菌によって数人が魔女になりそこから広がったという説だが、巷では別の世界から召喚されたバケモノではないか、と魔法が認められたために生まれたオカルト的な噂もある。
「当たり前だけどそんなに目新しい話はないな。魔女のことなんてネットでいくらでも出てくるし、何か新たな発見があればすぐに公表されるだろうし……」
僕がそう呟いたその瞬間、僕の足元に何かがぶつかる。それは真っ白の服に白く長い髪、背丈が僕の腰ぐらいの少女で僕がその顔を見ると彼女は悲しげな表情を僕に向けて向こうへと走っていった。
なんだあいつ、迷子か? 親を探す……、いや僕にそんな義理はない。逸れたあいつの責任だ。
やっぱりお前は優しさのかけらもないな
うるさい。
そういうふうに思った僕だが、白髪の少女がガッツリ関係者以外立ち入り禁止、テープの貼ってある扉へ入っていくのを見てしまった。
「ああ、もう! 張り紙が見えないのか?」
流石に問題があっては困ると思い僕は少女の後追ってそのテープの下を潜った。
部屋の中は薄暗く、僕では理解できないような様々な機械で満たされている。何度か少女に呼びかけてみるが返事はない。
少し進んでいくと、緑色に光る液体がたっぷりと入った水族館にあるような大きな水槽が並んでいる部屋にたどり着く。
「なんだこれ、液状のエーテル? エーテルは昇華性物質のはず……。どうやって液体に?」
水槽に手を触れ流そうぼそりとつぶやくと上からガシャンと何かが崩れる音がした。驚いて音のした方に目線をやるとかすかに白い髪がなびくのが見える。
まさか、この上に登ってるのか!? くそっ、早くしないとまずい! こんなところで溺死なんてこの施設が閉鎖される!
僕はすぐさま周囲を見渡し水槽の上に登れるようなものがないかを探す。幸い金属製の階段を見つけてすぐさまその階段を上った。
登りきるとそこには水槽に手を伸ばす少女の姿があった。僕は慌てて駆け寄りその少女の腕を掴んで引き寄せる。
「何やってんの!? 危ないよ!」
「ご、ごめんなさい……」
消え入るような声でそう呟く少女。僕はそれを聞いて冷静になってその少女に言った。
「ごめん、でも本当に危ないよ? ほら、早くお母さんのところへ……」
瞬間ガシャンという音と共に床が外れ、どうすることもできずに僕と少女は緑色の液体へと飲み込まれた。
「ブボボッ!!」
驚いて液体を飲み込んでしまう。だが、別に出られないわけじゃない。泳ぎは下手だが手を伸ばせば出入り口に届く。
冷静な頭とは裏腹に僕の脳内には走馬灯のような、夢のようなものが流れてくる。
冷静を装っても頭はわかりやすいものだ
そう、大丈夫だよ。落ち着いて手を伸ばせば。
……届かない。
それどころか体がどんどん沈んでいく。まるで足を引っ張られているようだ。と、思ったがふと足を見ると本当に少女が僕の足を引っ張っていた。
ああ、やばい。息がもうもたないよ。クソ、ミイラ取りがミイラにだ。
意識が遠のき視界が狭まり、ついには完全に真っ暗になった。
◇◇◇
目を開けるとそこは小さい頃、自分の住んでいた家だった。まだ父さんと母さんが生きていた頃の。
手を見ると僕の手は幼稚園児ほどの大きさで目線も今までよりも低い位置にあった。
「蓮? どうしたの?」
後ろから幼い声が聞こえた。
振り返るとそこには小さい姉さんがいる。ただ、姿はぼやけていてよく見えない。いや、それどころか背景すらも全てがぼやけている。
「ほら、早く行こう? 注射なんて怖くないよ。お父さんもお母さんも待ってる」
注射、病院に行くのが嫌でゴネてる時の記憶? あんまり覚えてない。
ごめん、今行くよ。口に出そうとしたが声が出ない。まるで僕の存在だけが宙に浮いているような感じがした。
◇◇◇
目をお覚まし下さい!!
「目を覚ましてください! 大丈夫ですか?」
目を開けると僕はベンチに座っていた。目の前にはおそらく研究所の係員であろう人が僕の顔を心配そうに見つめている。
体を触ると湿った感じは全くなく、あの緑色の液体に落ちたのがまるで夢のように感じられる。一体あれは何だったのか。夢にしては感触があまりにもリアルだった。
「少し寒いでしょうか? 良ければ羽織るものなど用意いたしましょうか?」
その質問に頭が混乱したがすぐに僕の体が震えていることに気づく。すぐさまその申し出を断りすぐさま今一番気になることを聞いた。
「あの僕と一緒にいた女の子は?」
「ああ、あの女の子ですか? 私が部屋で倒れているのを見つけてからすぐに目を覚ましてどこかへ行ってしまいました」
「は? 何言ってるんです? 僕たち水槽で溺れて……」
僕はそう言いつつ係員の人の手を掴んだ。
「何をおっしゃるんです? この施設に水槽なんてありませんよ?」
どういうことだ、あれはやっぱり夢? いやでも倒れているのはどういうことだ。
その瞬間、僕は気を失う前に耳に残った声を思い出した。
「これぐらい沈めれば十分かな?」
あの声は少女のものだった。だとすると僕は意図的沈められ、そして部屋に横にされた? 何のために?
「ぐあっ!!」
係員の人がそう唸り声を上げた。
「何をするんですか!?」
気づくと僕はその人の手を思いっきり捻じ曲げようとしていた。
「す、すいません! つい気になって……。ついでにあなたの血の味も確認したいんですけど、手首を切ってもいいですか?」
僕は何を言ってるんだ? 血の味?
そう自分の口から出た言葉に驚愕する。
「何を言ってるんだあんた!? 頭でもおかしいのか!?」
そういうとその人は怯えた表情で僕の元から逃げ去っていった。
「あーあ、せめて骨を折られた時の声ぐらい聞きたかったな。……っ違う!! 何を言ってるんだ僕は!? ああ、くそっ、イライラする。よしとりあえずこの壁の材質を確認しよう!」
そう思って僕は頬を壁に擦り付けた。
「だから違う、なんなんだよこれ!」
「どうしたの加賀里くん?」
僕にそう声をかけたのは桔梗智明。僕と同じクラスの秀才女子。校内の模試ではトップ5常連でその才能は誰もが認めるところだ。かといって高飛車なところはなく天真爛漫で分け隔てない、まさに女神。
だが、だからこそ今、会うべきではない。こんな気違いみたいなことをしているところを見られたら確実に嫌われる。
まあ、元々嫌われてる可能性もかなり高いけどな
紫色のショートヘアを少しかきあげて美しい瞳を僕の方へと向けてくる。
「いや、あの、ええと……」
「当てようか、ベンチの下に何か落として取ろうとしてたんでしょ!」
「あ、ああっ、そうなんだよね!」
「やった!」
こんなんだから彼女もできないんだろうな
僕はとりあえず心を落ち着かせるために視線を合わせないように周囲を見回した。すると彼女の髪に小さい蜘蛛が止まっているのが見える。
「桔梗さん、髪に蜘蛛が」
僕は手でその蜘蛛を掴んで彼女の髪から引き離す。
「ほら」
「あ、ほんとだ。ありがとう!」
「いや、いいんだよ。それじゃいただきます!」
「え?」
僕は捕まえた蜘蛛を口の中に放り込みしっかりと味わうためにゆっくりと噛んだ。
「ううん、小さすぎて味がほとんどわからないなあ。ただうっすら酸味を感じるかな?」
「なっ、何やってるの?」
まるで蜘蛛を食べているのを見ているかのような反応だ。僕はただ蜘蛛を食べているだけなのに。
「そうだ、桔梗さんにしか頼めないことなんだけどいい?」
「だから何言ってるの?」
「胸を触らせてく……」
僕は頼み事を全て発する前に頬に強烈な痛みを感じた。どうやらビンタされたらしい。
「そういう人だったんだね、気持ち悪いからもう話しかけないで!」
まるでデジャヴだ、さっきの係員の。
いや当たり前だ。あんな事して、あんなこと言ったら嫌われるなんて当たり前のことなのになんで僕は。
"魔女は人間社会に紛れ込んでいる。ただそれらは突発的に訪れる衝動を抑えられない。不可解な行動を繰り返す人が身近にいたらそれは魔女かも。すぐに魔女狩りにご相談!"
いやそんなわけない。魔法の使えない魔女なんて聞いたことがない。
僕は恐る恐る人差し指を立ててこう呟く。
「灯火よ」
その言葉に応じて僕の指は蝋燭ほどの火を灯した。本来ならば筆舌に尽くしがたい喜びに違いない。だが今はそれどころではない。
自分が魔女になってしまったというあり得ない疑いの信憑性が高まったのだ。
僕は走り出した。よくもわからないイライラを抱えながら外へ出た。外には雨が降っていて周りにには傘を差している数人の人影が見える。
まずは病院に行って検査を、いや、もし本当に魔女だったとしたら絶対に捕まる。そんなの嫌だ。……姉さんだ。姉さんならなんとかしてくれる。これまでだっていつも困った時に助けてくれるのは姉さんだった。
僕はすぐさま姉さんに電話をかける。しかし、応答はない。不安と焦りに駆られ何度も何度も繰り返すが終に声が聞こえることはなかった。
頭が痛い、もう嫌だ。とりあえず家に帰ろう、そうすればいつか姉さんは帰ってくるんだ。
そう思い、僕は駅へと急ぐ。その時は気づかなかったが僕の足はまるで短距離走者のような速さだった。
―――
マンションに着く頃には僕の体は雨でずぶ濡れになっていた。
「赤熱よ、水を絶やせ」
僕の言葉で服が熱くなり一瞬にして水が蒸発した。
魔法とは斯くも便利なものか。
一歩、また一歩と部屋に近づくにつれてなぜかわからないが心拍が早まる。そして部屋の扉の前に立った時、部屋の中から唸り声とも叫び声とも取れるような、そんな声が聞こえてきた。
すぐさま鍵を取り出そうとするが焦って床に落とし、足が当たって柵から下に落ちてしまった。
こういう肝心なところでポカをやらかすから僕が嫌いなんだよ
しょうがなくなって僕は思いっきり力を込めてドアに体当たりした。ガコッ、と少し扉がずれ僕は数回それを繰り返した。
とうとう扉が外れた時に窓が割れる音がする。急いで中に入って部屋を確認すると、おそらく何者かが逃げ出したのだろう割れた窓と血を床に流して倒れている姉さんの姿があった。
嘘だ、なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。ふざけるな、イライラする。何か、何か刃物は。
台所から包丁を取り、姉さんの上に立つ。
「ごめんね、蓮」
一瞬、姉さんの口が動いたような気がした。だが、脈は完全に止まっている。きっと幻聴だ。
次に僕の目に映った光景は内臓が露わになり、頭の無くなったナニカと血まみれの手だった。
思わず立ち上がり、トイレに嘔吐した。何が起こったのか理解ができなかった、というよりも理解したくなかった。
そのまま首を括って死にたかったが臆病な僕にそんなことができるはずはない。僕はまるで子供のように頭を抱えてその場にうずくまった。
しかし心を落ち着かせる間もなく、今度は玄関の方からコツコツと靴音が響く。隣人が音を聞いて覗きに来たのかもしれない。
この姿を見られたらどうなるだろうか。きっと通報されるだろう。逃げようと思ってもその気力すらない。
僕は朦朧としながら玄関へと向かった。玄関に立っていたのは科学者のような白衣に黒縁メガネをかけた
金髪の女性。
「くっ!!」
その女性は突然僕の首を絞めて壁へと押さえつけた。
「ぐふっ、な、何を!」
「……お前が、加賀里蓮だな?」
「なんでっ、僕の名前を?」
僕の言葉を聞いたその女性は舌打ちをして手を離した。かと思うと咳き込む僕の髪を引っ張って顔を近づける。
「私は音霧薫。魔女だ」
なんとなくそんな感じはしていたけどやっぱりか。
「一体何が目的なんだよ。姉さんを殺したのはあんたなのか? だったらもう僕のことも殺してくれ」
「ふざけるな、私が百合を殺しただと? 百合は私の親友だ!」
「え?」
「大学の、親友だった。1時間ぐらい前に突然連絡がきたんだ。蓮を頼むって。何かと思ってここに来てみたらお前が百合の死体のそばでうずくまっていた」
「そんな、姉さんに魔女の親友?」
「自分も魔女のくせによく言う」
「違う! 僕はお前みたいな化け物とは違う! ただ、今はなんか変なだけだ」
「やっぱりか、蓮。お前、魔女に成ったんだな」
「それって、なんで……」
「私の知り合いにそういう奴がいる」
僕以外にも魔女になった人間がいるのか?
僕が考えていると音霧さんは僕の手を無理やり掴んで車に乗せた。どこに行くんだと尋ねると私たちのアジトだと言った。
―――
音霧さんは車の中で僕にさまざまなことを話した。音霧さんと姉さんのこれまでのこと、僕が魔女になった原因の仮説、家に侵入した何か。そして音霧さんの目指しているもの。
音霧さんが今していること、それは魔法と魔女の謎を解き明かすこと。
魔法とはなんなのか、魔女はなぜ生まれたのか。魔女が普通に生きる方法はないのか。そしてそれを解明していくと一つの疑問にたどり着いた。
「それが蓮みたいな人間から魔女になるやつの存在だよ」
車の扉を閉めてそう言い放つ。音霧さんの話は目の前の建物に入ってからも続いた。
世間では魔女と人間は完全に別の生き物と区別されている。だが、音霧さんによると僕のようなやつが最近増えているらしい。
魔女になる病気?事故?、は政府の言い分であればすぐに公表され民衆に周知されなくてはいけない。であるにもかかわらずそんな話はひとつもなし。
「そこに何かがあるんだ、このふざけた体の謎を解き明かす鍵が。多分、蓮を魔女に変えたやつもそれに関わってる」
「……」
「そこで提案だ、百合に頼まれたから生活の面倒は私が見てやる。その代わり私に協力しろ」
「僕に? どうせなんの役にも立ちませんよ」
「お前、本当に百合の弟か? あいつだったらこういう時、自信満々に、もはや上から目線で即答するが」
「僕は姉さんとは違う、なんの役にも立たない穀潰しだ」
「……姉の仇は取りたくないのか?」
「仇って誰ですか? 僕? 自分を殺すなんて僕には無理だ」
「違う、あれは魔女として仕方のないことだ。私が言っているのはその前にお前の家に入り込んで百合を襲ったやつのことだ」
「それは……憎いですよ。グチャグチャに殺してやりたいほどに」
「なら私と一緒に来い」
昨日の僕ならすぐにでも逃げ出していただろう。そして、きっとそっちの方が正常だ。だけど、僕は昨日には戻れない。あの繰り返されるつまらない日常には決して戻れないのだ。
姉さんを殺したやつを見つけて、僕の苦しみを百倍にして殺してやる。
僕はそう誓って首を縦に振った。
「それじゃあようこそ、我がアジト、サバトへ」
扉が開くとそこはおしゃれなバーだった。部屋の中にはバーテンダーと僕と同い年くらいの青が身の少年が立っていた。
なぜかはよくわからない。だが、僕はその少年の目を見て、嫌な予感が体を駆け巡った。
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