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1巻
1-3
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「なんか、今、そんなふうに笑顔でいてくれるとホッとする」
「えっ?」
「あ、いや、なんでもない。りっちゃんは笑顔が明るくていいなと思っただけ」
首をかしげる利都に微笑みかけ、チカが再びアイスコーヒーをかき回す。
「ねえ、りっちゃん、次どこに行く? 梅の花でも見に行く?」
「梅の花ですか? 見たいです」
次の予定を聞かれるということは、まだこの楽しい時間は終わらないのだ。そう思った瞬間、利都の心がぱあっと華やいだ。
チカの態度に対する、小さな疑問も吹き飛ぶ。
「じゃあさ。電車で二駅くらい先の公園に、すごく大きい梅の木があるんだ。それを見に行こう」
「はい」
利都は満面の笑みを浮かべて頷いた。チカは、口元をほころばせて利都を見つめている。
「りっちゃん、楽しい?」
「楽しいです……あの、最初はチカさんは何者なんだろうと怪しんでいたんですけど、今はそんなことないです」
「そっか、良かった! 誘ったかいがあった」
チカがほんのりと耳を染めてしみじみと言う。
「……俺なんか、どうせ信用されないだろうなと思ってたから嬉しいよ。俺、昔から女の子に言われるんだよね。派手に遊んでそうだって」
「派手に遊んでそうですよ? イケメンすぎて彼女が五人くらいいそう」
半分本気で、半分冗談めかしてそう言うと、チカがわざとらしく眉をひそめた。
「こら、待て。俺は真面目なお兄さんなんだけど」
「私なんか、なにも持っていない孤独なOLですよ」
『なにも持っていない孤独なOL』という自虐的な言葉が、利都の胸に突き刺さる。
冗談で口にしたはずのセリフなのに、その言葉は意外な強さで利都の心をえぐった。
そうだ、自分にはもう、親友も恋人もいないのだ。痛みをごまかしても、その事実は変わらないし、あの二人に笑顔で会える未来は、永遠に来ない……
不意に表情を陰らせた利都に驚いたのか、チカが首をかしげて言った。
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです」
慌てて首を振る利都の傍らで、チカが頬杖をついて呟いた。
「なんだか、ほっとけない顔するね」
「えっ……」
ほっとけない顔、とは、どういう意味だろう。
「俺もさ、自分が我慢すればいいや、ってすぐ溜め込んじゃうタイプなんだけど、そういうのダメだよ、辛いことは抱え込んじゃダメ」
利都の心臓が、どくん、と鳴った。
無意識に胸の上で拳を握り締めながら、利都はじっとチカを見つめた。
チカの美しい顔もまた、なにか痛みを抱えているように思えた。その痛みの正体はわからないけれど、間違いなく彼は心に傷を持っている。
「は、い」
少しかすれた声で利都は返事をした。チカはなにを考えているのか。どうして自分に優しくしてくれるのだろう。
「どうしたの、そんなきょとんとした顔して。俺マジで言ってるんだから信用してよ」
「い、いえ、あの、チカさんもなにか、辛いことがあったのかなって」
そこまで言いかけて、利都は慌てて指先で口を覆った。出会ったばかりの人に対して踏み込みすぎだ。
「な、なんでもないです、すみません、余計なこと言って」
チカが目を見開いて、じっと自分を見ている。気を悪くさせたかな、と首をすくめた利都からゆっくり目をそらし、チカが小さな声で呟いた。
「えっと、なんて言うか、俺はいい年して、自分の実家が嫌いなんだよね。ちょっと問題の多い家でさ。そのせいでかなり悩んで、それを誰にも言えずに溜め込んで、一度身体を壊しちゃったんだ」
瞬きもせずにコーヒーのグラスを見つめていたチカが、弾かれたように顔を上げ、取りつくろっているみたいな明るい声で言った。
「でも、りっちゃんはせっかく美人なんだから、可愛くして笑ってなって。悩みを溜め込んじゃダメだよ」
チカの優しさは伝わってくるが、すぐには納得できない言葉だった。
笑っても、明るく振る舞っていても、心に突き刺さったまま消えないものはある。
弘樹と舞子にされたことのように、なにをしても抜けない棘はあるのだ。
そういう棘はどう扱えばいいのだろう。どうすれば自分の痛みは消えるのか。
今だって、触れようとするだけで心が痛い。気づいたら、利都はかすかに目に涙を溜めて、チカに尋ねていた。
「……どうしても心から消せない傷は、どうしたらいいんですか? どんなに悩んでも、私にはまだわからないです」
唇を噛んで、利都はチカの答えを待つ。中途半端に優しいことを言うなら、その先も教えてほしい。
――私は親友も恋人も一度に失ったのに。今の私にはなにもない。もう、どうしたらいいのかわからない……!
利都は、睨みつけているみたいな強い視線で、チカをじっと見つめた。
「それは」
利都の眼差しの強さに押されたのか、チカが虚を衝かれたように、言葉を失った。
からからと換気扇の回る音が聞こえる。マスターは、カウンターの隅で雑誌を手に座り込んでいた。ほんのりと暗い喫茶店のなかに、不思議な沈黙が落ちる。
「あ、あんまり、男に弱みを見せないほうがいいと思うよ。なんて言うか、あの、勘違いする奴いるって、絶対……」
チカが少し動揺した様子でそう言い、慌てたように残りのアイスコーヒーを喉に流し込んだ。
利都は顔をしかめたまま、チカの端整な横顔を見つめた。
今のはどういう意味だろう。なんだか、話が繋がっていないような気がする。
「とにかく、辛いことがあるなら俺にぶちまけていいって。聞くしかできないけど、聞いてあげるよ。りっちゃんが辛くなくなるまで話を聞いてあげる」
チカが気を取り直したように微笑む。
利都は申し訳なくなり、うつむいた。
――ああ、今のは、私の八つ当たりだ……
謝ろう、と思って顔を上げた利都の前で、チカが唐突に立ち上がった。
「そ、そうだ、梅の花、見に行こうか。マスター、お会計お願いします」
利都は謝罪しそこねたまま、チカにつられて立ち上がった。チカが利都と二人分の会計をしてくれる。
「チカさん、自分の分はお金払います」
「えっ?」
ぼんやりしていたチカが、なぜか赤い耳をして振り返った。
「あ、会計? いいよ、奢るよ」
チカがドアを引いた瞬間、明るい光が差し込んできた。チカの淡い色の髪がきらきらと輝き、繊細な色合いの瞳に淡い影を落とす。
「りっちゃん、あの、さっきの話だけど……」
チカがわずかに赤く染まった顔で、利都から視線をそらしながら言った。
「ほんとにさ、なにか嫌なことがあるなら、楽になるまでいくらでも俺に愚痴っていいからね」
楽になるまでいくらでも、という言葉が、意外なほどの強さで利都の心をすくい上げる。
たとえ表面だけであっても、利都の悲しみに寄り添おうとしてくれる人がいる……その事実が、利都の心を明るく照らした。
「え、あ、ありがとう……ございます……大丈夫、です」
ぎこちない口調で利都は言った。頑なに目をそらしていたチカが、意を決したように手を伸ばし、利都の手を取った。
――手、握られた!
再び利都の心臓が跳ね上がる。チカは利都の手を引き、早足で歩き出した。
「これから一緒に梅の花見よう。綺麗だよ。気分転換になるから」
チカの言葉に、利都はこくりと頷いた。顔が熱く、真っ赤になっていることが自分でもわかる。
けれど利都の手を引いて先を歩くチカの耳も、同じように真っ赤に染まっていた。
チカに化粧の仕方を教わった日から、利都は自分に似合うメイクに挑戦し始めていた。
シックなブラウンで目の周りを淡く彩ると、なんだか『できる女』になったようで、仕事も捗る気がする。
「よし」
一日の仕事を終え、利都は帰宅前に会社の化粧室の鏡で朝塗ったアイシャドウを確認し、ブラウスの襟を直す。
チカからプレゼントされたアイシャドウに励まされているような気がして、なんだか一日頼もしかった。
幸せな気分で、利都は鞄からスマートフォンを取り出した。
チカからまたメールが来ている。梅の花を見に行ったあと、利都はフリーメールからではなく、携帯のキャリアメールからチカにメールを送った。
彼は忙しいようなのに、こまめにメールをくれる。
チカは利都のことを友達だと思ってくれているのかもしれない。日曜日、ほんのわずかな間、手を繋いで歩いたことを思い出して、利都の表情は緩んだ。
『今日も一日お疲れ様です。知り合いと話がついたので、りっちゃんをどこで見かけたのか話せそうです。今日、電話しても大丈夫?』
メールには、そう書かれていた。チカが電話をかけてくる。あの甘い優しい声を耳元で聞ける瞬間を想像しつつ、利都はスマートフォンを鞄にしまった。胸が、どくどくと高鳴っている。
――浮かれて変なこと書いちゃいそうだから、返事はあとにしよう……
深呼吸をし、利都は化粧室を出た。
今日の晩ご飯はどうしようかな、冷凍のパスタでいいかな、そう思いながら、利都は弾む足取りで会社をあとにする。
いつもの電車に揺られていたら、ようやく落ち着いてきた。利都はそっとスマートフォンを取り出す。
『ありがとうございます。今日の仕事は無事に終えました! 八時過ぎに家に着くので、それ以降であればいつでも大丈夫です』
深呼吸をして、メールを送信した。
――電話、本当に来るかな?
利都は自然と浮かぶ笑みを押し殺し、吊革につかまった。
家の最寄り駅で電車を降り、電話に備えて早く帰ろうと、少し暗いけれど近道になる裏道に足を踏み入れる。
普段は人通りの多い道を帰るのだが、今日は早く帰宅したい。
うきうきした気分で人気のない公園を横切った、その時だった。
突然、太い腕に喉を捕まえられる。
え、と思った瞬間、利都の身体は軽々と引きずられた。
汗臭い異臭が鼻につく。真っ白になった頭で、腕を振り解こうと利都は必死にもがいた。
引きずられた身体がよろめき、足からパンプスが転げ落ちる。
変質者だ、と利都はようやく気づいた。全身に震えが走る。
大声で助けを呼ぼうとしたが、首を絞められていて、声がまともに出なかった。
抵抗しても男の力は強く、腕は外れない。
助けて、と祈った瞬間、自転車のブレーキ音が響き、男性の怒鳴り声が聞こえた。
「おいそこ! なにしてる!」
どん、と利都の身体に衝撃が走る。
地面に突き飛ばされた利都の目を懐中電灯の眩しい光が、焼いた。
「待て!」
地面に転がされたまま、利都は呆然と辺りを見回す。
「大丈夫ですか?」
ぼさぼさになった頭を直しもせず、利都は目の前にかがみ込む警官に頷いた。
間一髪、パトロール中の警察官に助けてもらえたんだ、と気づいたのは一瞬あとだった。
ぐちゃぐちゃになって脱げかけたコート、ボタンの飛んだブラウス、破れたタイツというとんでもない姿のまま、利都は派出所で頭を下げた。
「すみませんでした。もうあの道は使わないようにします……」
思いきり首を絞められたせいか、ひどく喉が痛い。
「変質者が頻繁に出てましてね、最近パトロール強化中だったんです。夜道では絶対に油断しないでください」
携帯を見ながら歩くな、音楽を聴きながら歩くな、マンションに入るなら辺りを見回してからにしなさい。警官の注意にぼんやりする頭で頷きながら、利都は涙をこらえた。
「大丈夫? 親御さんに迎えに来てもらう?」
「いえ、私は一人暮らしなので……ご迷惑をおかけしました」
そう言って利都は立ち上がった。
家の近くにまだアイツがいるかも、と思うと不安でたまらない。
駅前に夜中まで開いているファミリーレストランがある。そこでちょっと休んで、タクシーで帰ろう。そう思い、利都は足を引きずるようにして歩き出した。
レストランのボックス席に腰を下ろす。ぐちゃぐちゃになったブラウスを隠すためにコートを羽織ったまま、利都は飲みものだけ注文して、大きく溜息をついた。
その時、鞄のなかでスマートフォンが鳴っていることに気づいた。
慌てて壁の時計を見る。
もう九時だ。
あんなことに巻き込まれて、チカからの電話を気にかける余裕はなかった。
利都は鞄から財布だけを抜いて立ち上がり、電話を片手に店の出入口付近まで移動した。足は痛んだが、なんとか歩ける。画面を見ると、やはりチカからの電話だった。
「……はい」
喉が痛いが、利都はあえて明るい声で返事をした。
『こんばんは……あれ、りっちゃん? 声変じゃない? どうしたの?』
チカの優しい声が、耳をくすぐった。たった二度一緒に過ごしただけの、王子様の言葉が利都のなかに蘇る。
なにか嫌なことがあるなら、俺に愚痴っていいからね、という言葉だ。
気づけば、利都の目からボロボロ涙が零れていた。
社交辞令だとわかっているのに、その言葉に縋りたい自分が情けない。出会って日の浅いチカを頼るなんて図々しいと思うけれど、怖い目にあって、不安でどうしようもない利都は余裕を失っていた。
「え、っと、あの、さっき変質者に首絞められちゃって……」
電話の向こうで、チカが黙り込む気配がした。
しまった、と思い、利都は慌てて口をつぐむ。重い話をして嫌がられたのだ、と思い、利都は震える声で、話を終わらせようとした。
「そんなわけで、取り込み中なので、あとで改めて電話します」
小さく唇を噛み、咳き込みながらそう言って、スマートフォンの通話ボタンをオフにしようとした瞬間、チカの慌てたような声が聞こえた。
『待って! 今どこにいるの? そこ家じゃないよね?』
「え……?」
『今から行く! 大丈夫? どこに行けばいい?』
「大丈夫です」
『いや、大丈夫じゃないよ。そこどこ? 家まで送るから。ちょっと待ってて。どこにいるの?』
利都は口を閉じた。
なぜこの王子様は、こんなに優しいのだろうか。
込み上げる嗚咽をこらえながら、利都は切れ切れに言った。
「……駅の、ファミレスに、います……」
『何駅? なんて店?』
店を出入りする人達にジロジロ見られながら、利都はゴシゴシ顔を拭い、チカの質問に答えた。
――一人でいるのが怖い。助けてくれる人がいるなら助けて。
『わかった、そこなら三十分くらいで行けるからお店で待ってて! 危ないから一人で帰ろうとしちゃダメだよ! わかった?』
「はい」
電話が切れたあと、利都はしばらく、指が痛くなるほどスマートフォンを握り締めていた。
――嘘でしょ、本当に助けに来てくれるの……? こんな怖い時に一人でいなくていいの?
利都はヨロヨロと席に戻り、涙をハンカチで押さえ、椅子の背もたれによりかかる。
気力が萎えて、しゃんと身体を起こすこともできず、ぼんやりと冷めてゆくコーヒーを眺めていた。
三十分ほど経った頃、入口から駆け込んでくる、キラキラと輝く淡い髪の毛が見えた。
――チカさんだ!
利都は、慌てて立ち上がった。
本当に来てくれたのだ、という驚きが利都の胸に込み上げる。
辺りを見回していたスーツ姿のチカが、真剣な顔で利都のほうに歩いてきた。
「りっちゃん、ごめんね、待たせて」
店中の人が、チカを振り返って見つめている。だが彼は、そんな視線には慣れているらしく、気にする様子もない。
なにを言っていいのかわからず、利都はうつむいた。
今更だけれど、本当に彼に頼って良かったのだろうか。仕事で忙しかったのかもしれないのに。
そもそも、利都を助ける義理など、彼にはない。だんだん、自分の選択が正しかったのか、不安になってくる。
ボロボロの利都の格好に気づいたのか、チカが顔をしかめた。
「……とりあえず出よう?」
そう言って、卓上の伝票をつかみ、チカが足早に歩き出す。
皆と同じような格好をしていても、チカは際立って美しい。そんな彼の横にぼろぼろの自分が立つことを恥ずかしく思いながら、利都はチカのあとを追った。
「お会計お願いします」
レジの女の子が、頬を赤らめてチカを見上げている。チカが懐から薄い財布を出したので、利都は慌てて自分の財布から千円札を取り出した。ドリンクバーのコーヒーしか飲んでいないので、これで足りるだろう。
「チカさん、自分で会計します。ぼーっとしててすみません」
レジの女の子が、利都と、華やかな空気をまとっているチカをちらりと見比べた。
なんでこんな女の子を連れてるの? そう言いたげな表情に気づき、利都は小さく唇を噛んだ。
――ああ、私、どうしてチカさんを呼び出してしまったんだろう。
「りっちゃん、俺が払うからいいよ」
「いえ、自分でします、本当にすみません……」
お釣りを受け取りながら、利都はチカに深々と頭を下げた。
「そんなに謝らないで。大変だったよね。俺、びっくりして会社飛び出してきちゃった」
チカの声が曇る。彼は手を伸ばし、利都が抱え込んだ革の鞄をひょいと取り上げた。
「今からタクシーで病院行こう、首に痣があるし、足も引きずってるし……痛い?」
チカは、利都がどこを怪我しているのかすぐに気づいたようだ。でも、今一番辛いのは心だ。
「大丈夫です」
利都は首を振った。多少痛くても、夜間病院に行くほどの大怪我ではない。
それに、そんな時間のかかるところに、チカを付き合わせられない。
「すみませんでした。チカさんの顔を見て安心できました。本当になんの関係もないチカさんにご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
「あ、いや、俺のほうこそ驚いて押しかけちゃって。迷惑だったかな……ごめんね」
レストランから出たところで、チカが気まずそうな笑顔で言った。利都は首を振り、言葉を探す。
――来てくれて嬉しかったです、って言っていいのかな……
だが、そんな言葉を言う勇気はない。利都はギュッと拳を握り締めて、笑顔を作った。
「そんなことないです。本当にすみませんでした。さっきは動転しちゃってて」
「謝らないでってば。俺が勝手に来たんだからいいんだよ。友達がそんな目にあってるのに放っておけないでしょ」
利都から目をそらし、チカが小さな声で言った。
「タクシー乗り場に行こう、りっちゃんがいいなら、俺が家まで付き添ってあげる。嫌なら、乗り場まで送ったら、俺は帰るから」
「あ、は、はい、もう家に帰りたいです」
利都は、チカの言葉に頷いた。
コートから立ち上るわずかな異臭や、ちぎれてしまったブラウスのことを気にする余裕が出てきた。
「あ、待って、その前にドラッグストアに寄ろう。湿布買ったほうがいいよ。喉には塗るタイプのやつがあると思う。本当は病院で見てもらったほうがいいんだけど」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない。こんな時まで我慢しちゃダメだ」
チカが利都の鞄と自分の鞄を持ったまま、空いているもう片方の手でふわ、と利都の肘を支えた。
不用意に近づかないようにしつつ、足を痛めている利都をカバーしようとしているのだろう。
――やっぱり、優しい。こんな優しくしてもらっていいのかな……
利都は泣きそうになるのをこらえ、チカについて歩き出した。
チカに頼りすぎてしまったという事実が、だんだん怖くなってきた。
なぜ、彼の善意をこんなに無遠慮に受け入れてしまったのだろう。
利都は街灯に照らされたアスファルトを見ながら何度も涙をこらえた。
「もうちょっとゆっくり歩こうか?」
利都を振り返り、チカが言った。
「すみません、お願いします……」
チカの腕につかまったまま、利都はぎこちなく答える。
利都の目からとうとう涙が落ちた。
――申し訳ないけど、助けてもらえて嬉しい。図々しいな、私……
「りっちゃん、ドラッグストアがまだ開いてる。……どうしたの!?」
「あの……」
振り向いたチカの前で涙を拭い、利都は顔を上げた。
「うち、狭いですけど、良かったらお茶飲んでってください」
口にした言葉の大胆さに、傷ついた足が緊張で震え出す。
「え、あの……無理に上がり込みたいとか思ってないからね! 俺、家の前で帰るから」
なぜかほのかに赤面しながら、チカが慌てたように言う。
「いいえ、そんなの申し訳なさすぎるので」
チカの透き通る目から、利都は目をそらす。
自分らしくない真似をしてしまったと気づき、後悔が押し寄せてきたが、あとの祭りだ。
「あの、ご迷惑でなかったらですが……たんぽぽコーヒーっていうの、この前買ったから飲んでいってください」
チカが驚いたように利都を見つめ、ぎくしゃくした仕草で頷いた。
「う、うん……ありがとう……じゃあ、それだけもらおうかな……?」
その顔は、さっきよりもさらに、赤く染まっていた。
利都としては、自宅にチカを招き、送ってくれたお礼にコーヒーをごちそうするだけのつもりだった。
それなのになんだかとんでもない展開になってしまった。王子様が床に膝をついて、足の傷の手当をしてくれている。
利都は心から申し訳なく思いながら、チカに詫びた。
「す、すみません、ありがとうございます。手当までしていただいて、あの、汚い足でごめんなさい」
「湿布は絆創膏の上から貼るといいよ。擦り傷はちゃんと消毒しないと」
脱脂綿で丁寧に利都の怪我を拭いながら、真面目な表情でチカが言う。
利都は、弘樹が遊びに来た時のために買った小さなソファの上で、カチカチに硬くなったまま、もう一度チカにお礼を言った。
「ありがとうございます」
「このくらいでいいかな。足に触ってごめんね」
チカがそう言って、汚れた脱脂綿をビニールに入れた。
「絆創膏を貼るのはお風呂から出てからがいいよ」
「す、す、すみませ……」
全身の血が顔に集まったかのように熱かった。
利都はちぎれそうなほどにスカートを握り締め、壊れた玩具のように繰り返す。
「ありがとうございます、あの、すみません」
「消毒終わり! じゃ、俺、帰るね」
チカがビニールをゴミ箱に入れ、ひょいと立ち上がった。利都は慌ててチカを引き留めようと手を伸ばす。
「ま、待ってください、コーヒー、淹れます」
「いいよ、もう遅いから。あんまり女の子の家にい続けるのもどうかと思うし」
「あ……」
壁の時計は十時を指している。
明日も会社だ。彼の言う通り、赤の他人を家に入れるには非常識な時間でもある。
「じゃあね、またなにかあったら電話して。怖いことがあったら、いつでも電話していいから」
チカは笑みを浮かべてそう言い、玄関に立った。
「あ、あとさ、今日の電話の件はまた今度話すよ。落ち着いている時に聞いてほしいから」
「そ、そうだ、忘れてました、その話を聞こうと思ってたんでした……」
品の良い革靴を履き終えたチカが、立ちつくす利都ににこっと笑いかけた。
「今日は疲れてるでしょう。早く寝てね」
「はい、ありがとうございます」
「たんぽぽコーヒーってやつ、今度どこかでごちそうしてよ」
「あっ、あの」
引き留めようとする利都に首を振り、チカが片手を上げ、玄関のドアを開けて出ていく。
「見送りはいいから、ちゃんと家のなかにいなさい。じゃあ、りっちゃん、おやすみ」
「あ、お、おやすみなさい……」
ぱたん、と閉じた玄関の扉を見つめ、利都は溜息をついた。
――ああ、王子様、行っちゃった。
落胆が、利都の胸にゆっくりと満ちていく。
のろのろとドアをロックし、チェーンを掛けて、利都は手を止めた。
ふわ、と利都の鼻先に、森林のような香りが漂う。チカがまとっていた香りだ。
利都はうっとり目を細め、そのまましばらく、冷えきった玄関に立ちつくしていた。
「えっ?」
「あ、いや、なんでもない。りっちゃんは笑顔が明るくていいなと思っただけ」
首をかしげる利都に微笑みかけ、チカが再びアイスコーヒーをかき回す。
「ねえ、りっちゃん、次どこに行く? 梅の花でも見に行く?」
「梅の花ですか? 見たいです」
次の予定を聞かれるということは、まだこの楽しい時間は終わらないのだ。そう思った瞬間、利都の心がぱあっと華やいだ。
チカの態度に対する、小さな疑問も吹き飛ぶ。
「じゃあさ。電車で二駅くらい先の公園に、すごく大きい梅の木があるんだ。それを見に行こう」
「はい」
利都は満面の笑みを浮かべて頷いた。チカは、口元をほころばせて利都を見つめている。
「りっちゃん、楽しい?」
「楽しいです……あの、最初はチカさんは何者なんだろうと怪しんでいたんですけど、今はそんなことないです」
「そっか、良かった! 誘ったかいがあった」
チカがほんのりと耳を染めてしみじみと言う。
「……俺なんか、どうせ信用されないだろうなと思ってたから嬉しいよ。俺、昔から女の子に言われるんだよね。派手に遊んでそうだって」
「派手に遊んでそうですよ? イケメンすぎて彼女が五人くらいいそう」
半分本気で、半分冗談めかしてそう言うと、チカがわざとらしく眉をひそめた。
「こら、待て。俺は真面目なお兄さんなんだけど」
「私なんか、なにも持っていない孤独なOLですよ」
『なにも持っていない孤独なOL』という自虐的な言葉が、利都の胸に突き刺さる。
冗談で口にしたはずのセリフなのに、その言葉は意外な強さで利都の心をえぐった。
そうだ、自分にはもう、親友も恋人もいないのだ。痛みをごまかしても、その事実は変わらないし、あの二人に笑顔で会える未来は、永遠に来ない……
不意に表情を陰らせた利都に驚いたのか、チカが首をかしげて言った。
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです」
慌てて首を振る利都の傍らで、チカが頬杖をついて呟いた。
「なんだか、ほっとけない顔するね」
「えっ……」
ほっとけない顔、とは、どういう意味だろう。
「俺もさ、自分が我慢すればいいや、ってすぐ溜め込んじゃうタイプなんだけど、そういうのダメだよ、辛いことは抱え込んじゃダメ」
利都の心臓が、どくん、と鳴った。
無意識に胸の上で拳を握り締めながら、利都はじっとチカを見つめた。
チカの美しい顔もまた、なにか痛みを抱えているように思えた。その痛みの正体はわからないけれど、間違いなく彼は心に傷を持っている。
「は、い」
少しかすれた声で利都は返事をした。チカはなにを考えているのか。どうして自分に優しくしてくれるのだろう。
「どうしたの、そんなきょとんとした顔して。俺マジで言ってるんだから信用してよ」
「い、いえ、あの、チカさんもなにか、辛いことがあったのかなって」
そこまで言いかけて、利都は慌てて指先で口を覆った。出会ったばかりの人に対して踏み込みすぎだ。
「な、なんでもないです、すみません、余計なこと言って」
チカが目を見開いて、じっと自分を見ている。気を悪くさせたかな、と首をすくめた利都からゆっくり目をそらし、チカが小さな声で呟いた。
「えっと、なんて言うか、俺はいい年して、自分の実家が嫌いなんだよね。ちょっと問題の多い家でさ。そのせいでかなり悩んで、それを誰にも言えずに溜め込んで、一度身体を壊しちゃったんだ」
瞬きもせずにコーヒーのグラスを見つめていたチカが、弾かれたように顔を上げ、取りつくろっているみたいな明るい声で言った。
「でも、りっちゃんはせっかく美人なんだから、可愛くして笑ってなって。悩みを溜め込んじゃダメだよ」
チカの優しさは伝わってくるが、すぐには納得できない言葉だった。
笑っても、明るく振る舞っていても、心に突き刺さったまま消えないものはある。
弘樹と舞子にされたことのように、なにをしても抜けない棘はあるのだ。
そういう棘はどう扱えばいいのだろう。どうすれば自分の痛みは消えるのか。
今だって、触れようとするだけで心が痛い。気づいたら、利都はかすかに目に涙を溜めて、チカに尋ねていた。
「……どうしても心から消せない傷は、どうしたらいいんですか? どんなに悩んでも、私にはまだわからないです」
唇を噛んで、利都はチカの答えを待つ。中途半端に優しいことを言うなら、その先も教えてほしい。
――私は親友も恋人も一度に失ったのに。今の私にはなにもない。もう、どうしたらいいのかわからない……!
利都は、睨みつけているみたいな強い視線で、チカをじっと見つめた。
「それは」
利都の眼差しの強さに押されたのか、チカが虚を衝かれたように、言葉を失った。
からからと換気扇の回る音が聞こえる。マスターは、カウンターの隅で雑誌を手に座り込んでいた。ほんのりと暗い喫茶店のなかに、不思議な沈黙が落ちる。
「あ、あんまり、男に弱みを見せないほうがいいと思うよ。なんて言うか、あの、勘違いする奴いるって、絶対……」
チカが少し動揺した様子でそう言い、慌てたように残りのアイスコーヒーを喉に流し込んだ。
利都は顔をしかめたまま、チカの端整な横顔を見つめた。
今のはどういう意味だろう。なんだか、話が繋がっていないような気がする。
「とにかく、辛いことがあるなら俺にぶちまけていいって。聞くしかできないけど、聞いてあげるよ。りっちゃんが辛くなくなるまで話を聞いてあげる」
チカが気を取り直したように微笑む。
利都は申し訳なくなり、うつむいた。
――ああ、今のは、私の八つ当たりだ……
謝ろう、と思って顔を上げた利都の前で、チカが唐突に立ち上がった。
「そ、そうだ、梅の花、見に行こうか。マスター、お会計お願いします」
利都は謝罪しそこねたまま、チカにつられて立ち上がった。チカが利都と二人分の会計をしてくれる。
「チカさん、自分の分はお金払います」
「えっ?」
ぼんやりしていたチカが、なぜか赤い耳をして振り返った。
「あ、会計? いいよ、奢るよ」
チカがドアを引いた瞬間、明るい光が差し込んできた。チカの淡い色の髪がきらきらと輝き、繊細な色合いの瞳に淡い影を落とす。
「りっちゃん、あの、さっきの話だけど……」
チカがわずかに赤く染まった顔で、利都から視線をそらしながら言った。
「ほんとにさ、なにか嫌なことがあるなら、楽になるまでいくらでも俺に愚痴っていいからね」
楽になるまでいくらでも、という言葉が、意外なほどの強さで利都の心をすくい上げる。
たとえ表面だけであっても、利都の悲しみに寄り添おうとしてくれる人がいる……その事実が、利都の心を明るく照らした。
「え、あ、ありがとう……ございます……大丈夫、です」
ぎこちない口調で利都は言った。頑なに目をそらしていたチカが、意を決したように手を伸ばし、利都の手を取った。
――手、握られた!
再び利都の心臓が跳ね上がる。チカは利都の手を引き、早足で歩き出した。
「これから一緒に梅の花見よう。綺麗だよ。気分転換になるから」
チカの言葉に、利都はこくりと頷いた。顔が熱く、真っ赤になっていることが自分でもわかる。
けれど利都の手を引いて先を歩くチカの耳も、同じように真っ赤に染まっていた。
チカに化粧の仕方を教わった日から、利都は自分に似合うメイクに挑戦し始めていた。
シックなブラウンで目の周りを淡く彩ると、なんだか『できる女』になったようで、仕事も捗る気がする。
「よし」
一日の仕事を終え、利都は帰宅前に会社の化粧室の鏡で朝塗ったアイシャドウを確認し、ブラウスの襟を直す。
チカからプレゼントされたアイシャドウに励まされているような気がして、なんだか一日頼もしかった。
幸せな気分で、利都は鞄からスマートフォンを取り出した。
チカからまたメールが来ている。梅の花を見に行ったあと、利都はフリーメールからではなく、携帯のキャリアメールからチカにメールを送った。
彼は忙しいようなのに、こまめにメールをくれる。
チカは利都のことを友達だと思ってくれているのかもしれない。日曜日、ほんのわずかな間、手を繋いで歩いたことを思い出して、利都の表情は緩んだ。
『今日も一日お疲れ様です。知り合いと話がついたので、りっちゃんをどこで見かけたのか話せそうです。今日、電話しても大丈夫?』
メールには、そう書かれていた。チカが電話をかけてくる。あの甘い優しい声を耳元で聞ける瞬間を想像しつつ、利都はスマートフォンを鞄にしまった。胸が、どくどくと高鳴っている。
――浮かれて変なこと書いちゃいそうだから、返事はあとにしよう……
深呼吸をし、利都は化粧室を出た。
今日の晩ご飯はどうしようかな、冷凍のパスタでいいかな、そう思いながら、利都は弾む足取りで会社をあとにする。
いつもの電車に揺られていたら、ようやく落ち着いてきた。利都はそっとスマートフォンを取り出す。
『ありがとうございます。今日の仕事は無事に終えました! 八時過ぎに家に着くので、それ以降であればいつでも大丈夫です』
深呼吸をして、メールを送信した。
――電話、本当に来るかな?
利都は自然と浮かぶ笑みを押し殺し、吊革につかまった。
家の最寄り駅で電車を降り、電話に備えて早く帰ろうと、少し暗いけれど近道になる裏道に足を踏み入れる。
普段は人通りの多い道を帰るのだが、今日は早く帰宅したい。
うきうきした気分で人気のない公園を横切った、その時だった。
突然、太い腕に喉を捕まえられる。
え、と思った瞬間、利都の身体は軽々と引きずられた。
汗臭い異臭が鼻につく。真っ白になった頭で、腕を振り解こうと利都は必死にもがいた。
引きずられた身体がよろめき、足からパンプスが転げ落ちる。
変質者だ、と利都はようやく気づいた。全身に震えが走る。
大声で助けを呼ぼうとしたが、首を絞められていて、声がまともに出なかった。
抵抗しても男の力は強く、腕は外れない。
助けて、と祈った瞬間、自転車のブレーキ音が響き、男性の怒鳴り声が聞こえた。
「おいそこ! なにしてる!」
どん、と利都の身体に衝撃が走る。
地面に突き飛ばされた利都の目を懐中電灯の眩しい光が、焼いた。
「待て!」
地面に転がされたまま、利都は呆然と辺りを見回す。
「大丈夫ですか?」
ぼさぼさになった頭を直しもせず、利都は目の前にかがみ込む警官に頷いた。
間一髪、パトロール中の警察官に助けてもらえたんだ、と気づいたのは一瞬あとだった。
ぐちゃぐちゃになって脱げかけたコート、ボタンの飛んだブラウス、破れたタイツというとんでもない姿のまま、利都は派出所で頭を下げた。
「すみませんでした。もうあの道は使わないようにします……」
思いきり首を絞められたせいか、ひどく喉が痛い。
「変質者が頻繁に出てましてね、最近パトロール強化中だったんです。夜道では絶対に油断しないでください」
携帯を見ながら歩くな、音楽を聴きながら歩くな、マンションに入るなら辺りを見回してからにしなさい。警官の注意にぼんやりする頭で頷きながら、利都は涙をこらえた。
「大丈夫? 親御さんに迎えに来てもらう?」
「いえ、私は一人暮らしなので……ご迷惑をおかけしました」
そう言って利都は立ち上がった。
家の近くにまだアイツがいるかも、と思うと不安でたまらない。
駅前に夜中まで開いているファミリーレストランがある。そこでちょっと休んで、タクシーで帰ろう。そう思い、利都は足を引きずるようにして歩き出した。
レストランのボックス席に腰を下ろす。ぐちゃぐちゃになったブラウスを隠すためにコートを羽織ったまま、利都は飲みものだけ注文して、大きく溜息をついた。
その時、鞄のなかでスマートフォンが鳴っていることに気づいた。
慌てて壁の時計を見る。
もう九時だ。
あんなことに巻き込まれて、チカからの電話を気にかける余裕はなかった。
利都は鞄から財布だけを抜いて立ち上がり、電話を片手に店の出入口付近まで移動した。足は痛んだが、なんとか歩ける。画面を見ると、やはりチカからの電話だった。
「……はい」
喉が痛いが、利都はあえて明るい声で返事をした。
『こんばんは……あれ、りっちゃん? 声変じゃない? どうしたの?』
チカの優しい声が、耳をくすぐった。たった二度一緒に過ごしただけの、王子様の言葉が利都のなかに蘇る。
なにか嫌なことがあるなら、俺に愚痴っていいからね、という言葉だ。
気づけば、利都の目からボロボロ涙が零れていた。
社交辞令だとわかっているのに、その言葉に縋りたい自分が情けない。出会って日の浅いチカを頼るなんて図々しいと思うけれど、怖い目にあって、不安でどうしようもない利都は余裕を失っていた。
「え、っと、あの、さっき変質者に首絞められちゃって……」
電話の向こうで、チカが黙り込む気配がした。
しまった、と思い、利都は慌てて口をつぐむ。重い話をして嫌がられたのだ、と思い、利都は震える声で、話を終わらせようとした。
「そんなわけで、取り込み中なので、あとで改めて電話します」
小さく唇を噛み、咳き込みながらそう言って、スマートフォンの通話ボタンをオフにしようとした瞬間、チカの慌てたような声が聞こえた。
『待って! 今どこにいるの? そこ家じゃないよね?』
「え……?」
『今から行く! 大丈夫? どこに行けばいい?』
「大丈夫です」
『いや、大丈夫じゃないよ。そこどこ? 家まで送るから。ちょっと待ってて。どこにいるの?』
利都は口を閉じた。
なぜこの王子様は、こんなに優しいのだろうか。
込み上げる嗚咽をこらえながら、利都は切れ切れに言った。
「……駅の、ファミレスに、います……」
『何駅? なんて店?』
店を出入りする人達にジロジロ見られながら、利都はゴシゴシ顔を拭い、チカの質問に答えた。
――一人でいるのが怖い。助けてくれる人がいるなら助けて。
『わかった、そこなら三十分くらいで行けるからお店で待ってて! 危ないから一人で帰ろうとしちゃダメだよ! わかった?』
「はい」
電話が切れたあと、利都はしばらく、指が痛くなるほどスマートフォンを握り締めていた。
――嘘でしょ、本当に助けに来てくれるの……? こんな怖い時に一人でいなくていいの?
利都はヨロヨロと席に戻り、涙をハンカチで押さえ、椅子の背もたれによりかかる。
気力が萎えて、しゃんと身体を起こすこともできず、ぼんやりと冷めてゆくコーヒーを眺めていた。
三十分ほど経った頃、入口から駆け込んでくる、キラキラと輝く淡い髪の毛が見えた。
――チカさんだ!
利都は、慌てて立ち上がった。
本当に来てくれたのだ、という驚きが利都の胸に込み上げる。
辺りを見回していたスーツ姿のチカが、真剣な顔で利都のほうに歩いてきた。
「りっちゃん、ごめんね、待たせて」
店中の人が、チカを振り返って見つめている。だが彼は、そんな視線には慣れているらしく、気にする様子もない。
なにを言っていいのかわからず、利都はうつむいた。
今更だけれど、本当に彼に頼って良かったのだろうか。仕事で忙しかったのかもしれないのに。
そもそも、利都を助ける義理など、彼にはない。だんだん、自分の選択が正しかったのか、不安になってくる。
ボロボロの利都の格好に気づいたのか、チカが顔をしかめた。
「……とりあえず出よう?」
そう言って、卓上の伝票をつかみ、チカが足早に歩き出す。
皆と同じような格好をしていても、チカは際立って美しい。そんな彼の横にぼろぼろの自分が立つことを恥ずかしく思いながら、利都はチカのあとを追った。
「お会計お願いします」
レジの女の子が、頬を赤らめてチカを見上げている。チカが懐から薄い財布を出したので、利都は慌てて自分の財布から千円札を取り出した。ドリンクバーのコーヒーしか飲んでいないので、これで足りるだろう。
「チカさん、自分で会計します。ぼーっとしててすみません」
レジの女の子が、利都と、華やかな空気をまとっているチカをちらりと見比べた。
なんでこんな女の子を連れてるの? そう言いたげな表情に気づき、利都は小さく唇を噛んだ。
――ああ、私、どうしてチカさんを呼び出してしまったんだろう。
「りっちゃん、俺が払うからいいよ」
「いえ、自分でします、本当にすみません……」
お釣りを受け取りながら、利都はチカに深々と頭を下げた。
「そんなに謝らないで。大変だったよね。俺、びっくりして会社飛び出してきちゃった」
チカの声が曇る。彼は手を伸ばし、利都が抱え込んだ革の鞄をひょいと取り上げた。
「今からタクシーで病院行こう、首に痣があるし、足も引きずってるし……痛い?」
チカは、利都がどこを怪我しているのかすぐに気づいたようだ。でも、今一番辛いのは心だ。
「大丈夫です」
利都は首を振った。多少痛くても、夜間病院に行くほどの大怪我ではない。
それに、そんな時間のかかるところに、チカを付き合わせられない。
「すみませんでした。チカさんの顔を見て安心できました。本当になんの関係もないチカさんにご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
「あ、いや、俺のほうこそ驚いて押しかけちゃって。迷惑だったかな……ごめんね」
レストランから出たところで、チカが気まずそうな笑顔で言った。利都は首を振り、言葉を探す。
――来てくれて嬉しかったです、って言っていいのかな……
だが、そんな言葉を言う勇気はない。利都はギュッと拳を握り締めて、笑顔を作った。
「そんなことないです。本当にすみませんでした。さっきは動転しちゃってて」
「謝らないでってば。俺が勝手に来たんだからいいんだよ。友達がそんな目にあってるのに放っておけないでしょ」
利都から目をそらし、チカが小さな声で言った。
「タクシー乗り場に行こう、りっちゃんがいいなら、俺が家まで付き添ってあげる。嫌なら、乗り場まで送ったら、俺は帰るから」
「あ、は、はい、もう家に帰りたいです」
利都は、チカの言葉に頷いた。
コートから立ち上るわずかな異臭や、ちぎれてしまったブラウスのことを気にする余裕が出てきた。
「あ、待って、その前にドラッグストアに寄ろう。湿布買ったほうがいいよ。喉には塗るタイプのやつがあると思う。本当は病院で見てもらったほうがいいんだけど」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない。こんな時まで我慢しちゃダメだ」
チカが利都の鞄と自分の鞄を持ったまま、空いているもう片方の手でふわ、と利都の肘を支えた。
不用意に近づかないようにしつつ、足を痛めている利都をカバーしようとしているのだろう。
――やっぱり、優しい。こんな優しくしてもらっていいのかな……
利都は泣きそうになるのをこらえ、チカについて歩き出した。
チカに頼りすぎてしまったという事実が、だんだん怖くなってきた。
なぜ、彼の善意をこんなに無遠慮に受け入れてしまったのだろう。
利都は街灯に照らされたアスファルトを見ながら何度も涙をこらえた。
「もうちょっとゆっくり歩こうか?」
利都を振り返り、チカが言った。
「すみません、お願いします……」
チカの腕につかまったまま、利都はぎこちなく答える。
利都の目からとうとう涙が落ちた。
――申し訳ないけど、助けてもらえて嬉しい。図々しいな、私……
「りっちゃん、ドラッグストアがまだ開いてる。……どうしたの!?」
「あの……」
振り向いたチカの前で涙を拭い、利都は顔を上げた。
「うち、狭いですけど、良かったらお茶飲んでってください」
口にした言葉の大胆さに、傷ついた足が緊張で震え出す。
「え、あの……無理に上がり込みたいとか思ってないからね! 俺、家の前で帰るから」
なぜかほのかに赤面しながら、チカが慌てたように言う。
「いいえ、そんなの申し訳なさすぎるので」
チカの透き通る目から、利都は目をそらす。
自分らしくない真似をしてしまったと気づき、後悔が押し寄せてきたが、あとの祭りだ。
「あの、ご迷惑でなかったらですが……たんぽぽコーヒーっていうの、この前買ったから飲んでいってください」
チカが驚いたように利都を見つめ、ぎくしゃくした仕草で頷いた。
「う、うん……ありがとう……じゃあ、それだけもらおうかな……?」
その顔は、さっきよりもさらに、赤く染まっていた。
利都としては、自宅にチカを招き、送ってくれたお礼にコーヒーをごちそうするだけのつもりだった。
それなのになんだかとんでもない展開になってしまった。王子様が床に膝をついて、足の傷の手当をしてくれている。
利都は心から申し訳なく思いながら、チカに詫びた。
「す、すみません、ありがとうございます。手当までしていただいて、あの、汚い足でごめんなさい」
「湿布は絆創膏の上から貼るといいよ。擦り傷はちゃんと消毒しないと」
脱脂綿で丁寧に利都の怪我を拭いながら、真面目な表情でチカが言う。
利都は、弘樹が遊びに来た時のために買った小さなソファの上で、カチカチに硬くなったまま、もう一度チカにお礼を言った。
「ありがとうございます」
「このくらいでいいかな。足に触ってごめんね」
チカがそう言って、汚れた脱脂綿をビニールに入れた。
「絆創膏を貼るのはお風呂から出てからがいいよ」
「す、す、すみませ……」
全身の血が顔に集まったかのように熱かった。
利都はちぎれそうなほどにスカートを握り締め、壊れた玩具のように繰り返す。
「ありがとうございます、あの、すみません」
「消毒終わり! じゃ、俺、帰るね」
チカがビニールをゴミ箱に入れ、ひょいと立ち上がった。利都は慌ててチカを引き留めようと手を伸ばす。
「ま、待ってください、コーヒー、淹れます」
「いいよ、もう遅いから。あんまり女の子の家にい続けるのもどうかと思うし」
「あ……」
壁の時計は十時を指している。
明日も会社だ。彼の言う通り、赤の他人を家に入れるには非常識な時間でもある。
「じゃあね、またなにかあったら電話して。怖いことがあったら、いつでも電話していいから」
チカは笑みを浮かべてそう言い、玄関に立った。
「あ、あとさ、今日の電話の件はまた今度話すよ。落ち着いている時に聞いてほしいから」
「そ、そうだ、忘れてました、その話を聞こうと思ってたんでした……」
品の良い革靴を履き終えたチカが、立ちつくす利都ににこっと笑いかけた。
「今日は疲れてるでしょう。早く寝てね」
「はい、ありがとうございます」
「たんぽぽコーヒーってやつ、今度どこかでごちそうしてよ」
「あっ、あの」
引き留めようとする利都に首を振り、チカが片手を上げ、玄関のドアを開けて出ていく。
「見送りはいいから、ちゃんと家のなかにいなさい。じゃあ、りっちゃん、おやすみ」
「あ、お、おやすみなさい……」
ぱたん、と閉じた玄関の扉を見つめ、利都は溜息をついた。
――ああ、王子様、行っちゃった。
落胆が、利都の胸にゆっくりと満ちていく。
のろのろとドアをロックし、チェーンを掛けて、利都は手を止めた。
ふわ、と利都の鼻先に、森林のような香りが漂う。チカがまとっていた香りだ。
利都はうっとり目を細め、そのまましばらく、冷えきった玄関に立ちつくしていた。
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