Sweet Secret

栢野すばる

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1巻

1-2

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 ――あ、あれ? 私、変なことを言ったかな? 孝弘さんの時間が無駄になったら悪いなと思っただけなんだけど。
 そう思いつつ、詩織は電話口で孝弘の様子をうかがった。

「あの、昨日の夜遅かったので、寝坊してしまったんです。ごめんなさい。お待たせするのが申し訳ないので今日は……」
『じゃあ、俺が今から詩織の家に行くよ。この前メールで教えてもらった住所だよね?』

 そういえば、前回のデートでさりげなく聞かれて、何も考えずに教えてしまっていた。

『君は家で待っていてくれればいい。三十分くらいで迎えに行くから』
「いや、あの、それも申し訳ないので」

 断ろうとした瞬間、電話は切れてしまった。……三十分後に孝弘が来てしまう。
 時間がなくてまずいと焦っていたら、再び電話が鳴る。今度は母からだった。
 ――今度はお母様!? 忙しいのに! 
 お風呂に入らなければと思いつつ、詩織は電話に出た。過保護な母は、電話に出ない限り何回もかけてくるのだ。無視するとあとが面倒くさい。

『もしもし、詩織。お母さんだけど。今度小早川さんのご家族と会食があるでしょう? いい帯が届いたから見にいらっしゃい。若い子向きの可愛らしいお品よ』
「おはようございます、お母様」

 予想どおり、のんきな話題であった。申し訳ないが相手にしている時間がない。

『まあ! おはようございますって、もうお昼ですけれど。まさか貴方、今頃起きたのではないでしょうね』

 母の声が詩織の挨拶あいさつを不機嫌そうに訂正する。四時に寝て十一時に起き、孝弘とのデートに寝坊したなどと知られたらさぞ怒られるだろう。母は節度ある清く正しい生活を娘に求めているのだ。

「忙しいの。疲れてるんだから仕方ないでしょう?」
『なんですか、その口の利き方は。貴方、一人暮らしを始めて生活が荒れたのではありませんか?』

 話がまずいほうに転がっていく。そうでなくてもタイムリミットが近いのだ。詩織は慌ててしおらしい声を出して母に調子を合わせた。

「ごめんなさい。私、昨日の夜中まで、お友達に頼まれた大事な仕事が終わらなくて、少し寝坊しちゃったんです。会食用の帯はお母様のセンスに任せるわ」
『あら、そうなの? お仕事が大変なのね。お友達に頼まれたことはきちんとなさいね』

 真面目に働いていることをアピールした結果、母の機嫌は若干回復したようだ。しかし、詩織と違い優雅な時間軸に生きている母に付き合っていると、時間がどれだけあっても足りない。
 詩織は、これまでつちかった『対・実母戦術』を駆使して、なんとか話を終わらせることに成功した。

『……じゃあ、帯に合いそうな着物をいくつか出しておきますから、今度合わせにいらっしゃい』
「わかりました。ありがとう、お母様。じゃあごきげんよう」

 電話を切り、詩織はお風呂に飛び込んだ。鏡に映る顔はクマがひどく、元からの色白も相まって幽霊のようだ。
 ――私、日光に当たらなすぎかもしれない。化粧で誤魔化せるかな……
 シャワーを浴び、髪と身体を熱心に洗って風呂場を出た。
 せっかくのデートなので綺麗に着飾ろうと思っていたのだが、服を選ぶ余裕もない。
 ――とにかくすぐ着られる服! いや、可愛い服……ああ、もうこれでいいや! 
 葛藤かっとうの末、詩織は『すぐ着られる服』を選んだ。
 近所のショッピングモールのセールで買ったブラウン系の柄物がらものワンピースに、通販でまとめ買いした無地のストッキングを合わせる。髪を乾かし始めた瞬間、チャイムが鳴った。
 ――孝弘さん、もう来た! さすが五分前行動の人……! 
 濡れたボサボサの頭、しかもノーメイクのまま、詩織はよろよろとインターフォンに向かった。もっと身綺麗にしたかったのに、とほぞを噛むが、寝坊した自分が悪いのだから仕方がない。

『俺だけど』

 インターフォンのディスプレイには、孝弘の顔が映っている。時間切れだ。詩織は全てを諦め、エントランスのロックを開けて玄関に立った。
 チャイムが鳴るのと同時にドアを開ける。そこには、カーキのジャケットにデニム姿の孝弘がいた。
 孝弘は人気俳優にも引けをとらないくらい格好いい。もう少し格好悪くしてくれないと自分に釣り合わないのでは……と詩織が不安に感じるほどだ。
 普段のビジネスウェアと違うラフな格好も異様に似合っているし、特に整えずに下ろした髪もサマになっている。
 胸がときめいた瞬間、思い出す。そういえば、今の自分は安売りのジャージー素材にワンピースをかぶっただけのすっぴんボサ髪だ。
 詩織は微笑んでいる孝弘の前で、濡れた頭からそっとタオルを外した。
 ――うう、私ってどうしてこうなの……孝弘さんにこんなマヌケな姿見られたくなかったよ……
 泣きたい思いで、詩織は愛想よく笑みを浮かべた。

「こんにちは。ごめんなさい、遅刻した上に迎えに来ていただいて」
「いや、俺のほうこそ心配して押しかけてしまって悪かった」
「心配?」

 何の話だろうと首を傾げた詩織の前で、孝弘が笑みを浮かべた。

「いや、なんでもない。朝からお風呂に入ってたのか?」
「え、ええ……ちょっと……昨日入れなくって」

 明け方まで必死にエッチな小説を書いていたのでお風呂に入りそびれました、なんて言えるわけもなく、詩織は曖昧あいまいに微笑む。

「……昨日の夜、何してたの?」

 ふいに孝弘の声が低くなる。普段穏やかな彼の不機嫌さを感じ取り、詩織は驚いて目を丸くした。

「えっ? どうしたんですか?」
「いや、ごめん。昨日の夜は何をしてたのかなって気になっただけだよ」

 詩織から目をそらして、孝弘が言った。その顔には、さっきまでのパーフェクトな笑みがない。
 ――まずい! 待たせた上に、身支度もできていないから怒らせたのかも。どうしよう? 
 内心身構える詩織に、孝弘が今気づいたというような口調で尋ねた。

「あれ? 詩織、そういえば俺があげた指輪は?」

 そう言われて、もらったエンゲージリングを金庫の中に入れたままだったことを思い出す。
 あんな最高級グレードのジュエリーは、普段使いなどするものではない。家事の最中に、万が一水回りで石が落ち、排水管にダイヤが流れてしまったら……と思うと恐ろしいのだ。お風呂に入るときならばなおさらだ。

「シャワーを浴びていたので外していたんです。今つけてきます。待っててください」
「そう……シャワー……」

 微妙な反応に、詩織は当惑して孝弘の整った顔を見つめた。やはり彼の表情は曇ったままだ。一体どうしてしまったのだろう。

「……できれば指輪は普段からつけてほしいな。少なくとも婚約している間は」

 孝弘の言葉に、詩織は慌てて頷いた。それもそうだ。せっかくプレゼントしてくれたのにつけないのでは、孝弘に失礼に当たるだろう。

「ごめんなさい。そうしますね。あの、支度をするので一階のカフェで待っていただいていいですか? すぐに行きますから」
「上がって待たせてもらっては駄目なのか?」

 孝弘が、彼らしくもなく強引なことを申し出てきた。詩織は驚いて目を丸くする。
 ――ん? 孝弘さんてば、今日はホントどうしたんだろう? 
 家に上がりたい、なんて、いつもスマートで気遣い上手な彼らしくもない。
 もちろん、笑顔で通したいところだが、孝弘を家に上げるのは無理である。
 なぜならば、濡れ場だらけの本が居間に散乱しているからだ。資料を調べるという名目で手当たり次第に読んでいたエッチな漫画や小説がその辺に堂々と広げてある。孝弘の目に入ったらアウトだ。さらに言うと、締め切り明けの今日は部屋が散らかりすぎていて、どこにエロ本という名のアサシンがひそんでいるのかわからない。
 腕組みした孝弘の前で、詩織は首を横に振った。

「散らかってるのでちょっとダメなんです。髪を乾かしたらすぐに行きますから」
「わかった。じゃあ下で待ってるから。慌てずに落ち着いて支度しておいで」

 孝弘が、気を取り直したように優しい笑みを浮かべる。
 詩織はホッとして頷いた。不機嫌そうに見えたのは、多分気のせいだろう……
 十分ほどで身支度を終え、詩織はマンションの一階にあるカフェに走った。

「お待たせしました!」

 何かを考え込むような表情でコーヒーを飲んでいた孝弘が、顔を上げて微笑んだ。

「今日は映画でも行こうか?」

 孝弘の提案に、特に不満もない詩織は素直に頷いた。

「詩織は何が見たい?」
「えっ? 私ですか?」

 詩織が見たい映画は、やたらと爆発シーンが多くて、最後にエイリアンが退治されるような大規模予算投入系か、エッチなシーンのあるお子様NGの恋愛ものなのだが、どちらも申し出るのははばかられた。
 孝弘に『変わった趣味だ』と思われたら恥ずかしい。詩織だって、一応乙女なのである。

「私はなんでもいいです」
「じゃあ、俺が見たい映画でいい?」

 詩織はこころよく頷いた。孝弘が不快感なく過ごしてくれて、つつがなく時間が経過すれば問題ない。詩織が浮かれていつものマイペースぶりを発揮してしまったら、孝弘にあきられてしまうかもしれない。
 今までもずっと、詩織はそうやって彼に気を遣ってきた。何しろ相手は小早川グループの御曹司である。詩織の迂闊うかつな言動で婚約を破棄されでもしたら、迷惑が一族にまで及んでしまう。
 孝弘も同じように詩織には気を遣ってくれている。常に紳士的で、詩織を困らせることは一切しない。
 だからこそ、五年前『どうしても海外赴任に詩織を連れていきたい』と主張されたときはちょっと驚いたけれど……あのときくらいだ。孝弘に強く何かを頼まれたのは。
 ――こういうのが、旧家の娘の結婚なんだろうな。淡々と結婚して、淡々と子供作って、家族や親戚に迷惑をかけないように家柄や財産を守って。私は……ちょっと寂しいけどね。
 ふと考え込んだ詩織の前で、孝弘が首を傾げる。

「どうした?」
「あ、い、いえ、コーヒー飲んだら映画に行きましょうか。ちょっと待ってください」

 慌てて愛想笑いを浮かべた詩織の前で、孝弘が表情を曇らせた。

「詩織は俺が日本に帰ってきて、嬉しくなかった?」

 突然の意外すぎる台詞せりふに、詩織は目を丸くした。
 ――嬉しくなかった……って、どういう意味? 

「そ、そんなこと、ないですけど」

 頭が真っ白になってしまい、詩織はつっかえつっかえ答えた。嬉しかったに決まっている。婚約者が帰ってきたのだから。

「なんか、プロポーズした日も今日も、俺が何を言ってもうわの空だから。俺なりに張り切って君をエスコートしたり、指輪を選んだりしてるんだけど」

 その台詞せりふに、詩織の顔から笑みが消えた。
 孝弘の顔がとても真剣だったからだ。笑って流せるような雰囲気ではない。

「ごめん。詩織を困らせるつもりじゃないんだ」

 表情を凍りつかせた詩織に、孝弘が取りつくろったように微笑みかける。

「それを飲み終えたら、映画に行こうか」

 いつもどおりの優しい声に、詩織はおずおずと頷いた。
 孝弘の言うとおり、確かにうわの空だったかもしれない。しかしそれは、日々書き殴っているエッチな小説を孝弘に隠したいとか、結婚したらエロ本や仕事をどうしようとか、余計なことばかり考えているからであって、彼と一緒にいるのが嫌だからではないのだ。
 ――私がエロ小説家でなければ、孝弘さんに変な心配を抱かせることもなかったのかも。
 そんなことを思いつつ、詩織はカップを置いて孝弘に深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 突然謝られて驚いたのか、孝弘が目を見張る。

「詩織?」
「孝弘さんのおっしゃるとおりです。私、頭の中が毎日仕事のことでいっぱいなんです。今日も四時まで仕事をしていて、思い切り寝坊しました。うわの空で本当にごめんなさい」

 恐る恐る顔を上げると、孝弘は驚いた表情のまま、コーヒーカップを手に詩織を見つめていた。
 何か変なことを言っただろうか。そう思いながら、詩織は続ける。

「指輪も、うちの母でさえ持っていないようなすごいダイヤだったし……下水に流したら取り返しがつかないので、普段はつけていないだけなんです」

 そう言った瞬間、孝弘が噴き出した。
 ――な、なんで笑うの? 
 驚く詩織の前で、孝弘が笑いを収めようと肩を震わせながら呟いた。

「げ、下水に流すって、君ね」
「だって下水に流したら大惨事だと思うんです。そんなことになったら、下水管を開けてもらって溝さらいをしないと探せないし」

 孝弘は片手で顔をおおって笑いをこらえている。
 ――私、また余計なことを言ったんだな……
 様子をうかがう詩織の前で涙をぬぐい、孝弘が明るい表情で言った。

「いや、笑ってごめん。そんな理由で指輪を外していたのか。君は今も昔も変わらないな」

 孝弘の表情はすっかりゆるんでいた。さっきまでの妙に不機嫌そうなかげりは消えている。
 それにしても『今も昔も変わらない』とはどういう意味だろう。
 ――私、何かしたっけ? 
 詩織は首を傾げた。おそらく、考えるまでもなく、何か余計なことをしたのだろう。
 思い出さなくてもいいような気がする。いや、思い出さないほうがいい。
 必死に暗黒の記憶を封印しようとする詩織の脳内に、孝弘の前でしでかした数々の失敗がよみがえる。
 中学の頃、学校帰りに孝弘と待ち合わせし、階段の下にいる彼に駆け寄ろうとして、制服のスカートからパンツ丸出しで転げ落ちたこと。
 高校の頃、文化祭に孝弘を呼び、クラスメイトに強引に着せられた大根の着ぐるみ姿で入場ゲートに迎えに行ったこと。
 それから、短大入学のお祝いにもらったパステルカラーのジュエリーに対して『あめみたいで、おいしそう』とつい余計なコメントをしてしまったこと……
 どのときも、孝弘は王子様のような顔に驚愕の表情を浮かべて凍りついたり、あるいは爆笑したりしていた。
 恥ずかしすぎて思い出したくない。ついでに孝弘の余計な記憶も消したくなってきた。

「本当に、顔に似合わず面白いな、君は。美人だし、申し分のないご令嬢なのにね……」
「あ、あの、すみません。女らしくないって母に未だに叱られているんです、私」

 そう言うのと同時に、お正月の親戚のつどいで耳にした、歳の近い従姉いとこの文句が脳裏をよぎった。

『なんで詩織ちゃんが小早川さんの婚約者になれたの? 本家のお嬢様だからって優遇されすぎ! あの子、そんな柄じゃないじゃない!』

 確かにそのとおりだ。親の立場的には釣り合っているとはいえ、なぜドジで平凡な詩織が……と思う人は多いだろう。

「でも俺は詩織といると楽しいけど」

 孝弘の明るい声に、落ち込みかけていた詩織は顔を上げた。

「取り澄ましたお嬢様より自由な君のほうがずっと好ましい。面白くて」
「あ、あの、面白いって褒め言葉ですか?」

 びっくり箱みたいで、ある意味意外性はあるのかもしれないが、孝弘はそれでいいのだろうか。
 内心冷や汗だくだくの詩織に笑いかけ、孝弘はジャケットを手に立ち上がった。

「俺にとっては褒め言葉だよ。……さ、映画館に行こう」

 そう言った孝弘は、ひどく機嫌の良さそうな表情をしていた。


 映画を見終わり、詩織は孝弘と二人で初夏の街を歩いていた。
 カフェやギャラリー、ブティックの並ぶ美しい街並みには好奇心をそそられるが、詩織はさっきから落ち着かない気分だ。
 ――な、なんで今日は手を繋ぐ……のかな……? 
 すたすた歩いて行く孝弘は、なぜか映画館を出てから、詩織の手をしっかり握ったままだった。
 紳士である孝弘は、今まで一度も詩織に触れたりしなかったものの……一体どのような気持ちの変化が起きたのだろうか。もちろん嫌な気分ではないが、非常に落ち着かない。
 道行く人が孝弘をじっと見ている。シャープで端整な顔立ちに、まっすぐに伸びた背中。清潔感にあふれた美貌の彼は非常に人目を引く。
 ちなみに、三千九百円のジャージー素材のワンピースを着た凡人の詩織には、誰一人として注目していない。人の視線は正直だなと思う。
 ――ああ、いくらラクチンだからって、こんな服買うんじゃなかったよ……それに今更だけど、この柄、ミノムシみたいじゃない? 茶色だから使い回しが利くって言われたけど、ミノムシっぽいよね? 
 気づいてしまったが最後、『私のワンピースはミノムシ柄』ということしか考えられなくなってきた。
 しかも、相変わらず孝弘の手は詩織の手を握ったままだ。意識したら、ますますドキドキしてしまう。
 ――だ、だめだ、混乱してきた! 緊張する、どうしよう。

「詩織」
「ハッ、ハイッ!」

 詩織は上ずった声で答えた。自分の顔が真っ赤なのはわかっている。昔からの婚約者とはいえ、これほどのイケメンに手を繋がれて赤くならずにいられるものか。少なくとも凡人の詩織には無理だ。
 詩織の、『私、ずっと地味子で男性と縁なんてありませんでした! 今、舞い上がってます!』と丸わかりの態度がおかしいのか、孝弘がくすっと笑った。

「どうしたの? 手を繋ぐのは嫌?」
「い、イイエ、あの、イイエ、あの……」

 悲しいかな、日本語すら出てこない。
 そのとき、口をパクパクさせている詩織の手を孝弘が軽く引き、身体を抱き寄せた。
 ――え……っ? 
 見た目よりもたくましい身体の感触に頭が真っ白になる。同時に、自転車に乗った子供がすごい勢いで二人の脇を通り過ぎていった。
 子供を見送った孝弘の腕の力がゆるむ。

「あの子、危ないね。この辺の歩道は狭いのに」

 びっくりするくらい間近に孝弘の顔がある。詩織は真っ赤な顔のままぎこちなくお礼を言った。

「あ、あ、あ、ありがとうございます」

 顔が熱い。真っ赤になっているのが自分でもわかる。
 毎日あんなにエロい小説を書き殴っているのに、現実の詩織は男性と接触したことなどほとんどなく、婚約者に触れられただけで舞い上がって汗だくになっているのだ。我ながら情けない。
 ――そ、そうだ、場をなごませよう、何か、こう、なにか世間話を……世間話をするんだ! 
 空回りしていることを自覚しつつ、詩織は孝弘を見上げた。

「あ、あの、な、なんか、私の服、ミノムシみたいじゃないですか?」
「は?」

 孝弘が詩織の唐突な言葉に目を丸くする。

「いえ、あの、お店の人に『ブラウンベースのモザイク風の柄だから使いやすいですよ』って言われたんですけど、なんか、ミノムシに似てるなって気づいちゃって」

 孝弘がびっくりした顔のまま、詩織の着ているワンピースに目をやった。
 ……沈黙が痛い。余計なことを言わなければよかった。
 詩織は、そっと孝弘から目をそらす。
 ――私……なんでこうなのかな……日に日に好感度をダウンさせているような……とほほ。
 ガックリと落ち込んだ詩織の頭に、ふいに孝弘の手が乗せられた。

「君は今日の服が気に入らないんだな。わかったよ。プレゼントする」

 孝弘の肩は、笑いをこらえようとして震えていた。
 ――……って! 孝弘さんがまた死にそうなくらい笑ってる……! 

「あの店はどうかな」

 詩織の肩を抱いて、孝弘が高級ブランド店を指差す。

「ち! 違います! すみません。服を買ってほしいという意味じゃないんです!」
「いや、たまには詩織の服も見立ててみたい。アメリカでいつも考えてたんだ。君と結婚したらああしよう、こうしようって、色々と」
「ちょっ、待っ……!」

 なぜか非常に機嫌のいい孝弘に引っ張られ、詩織は隠れ家サロンのようなお店に連れていかれてしまった。休日の昼間だというのに店の中にはあまり人がいない。ダウンライトで照らされたマネキンが着ている服は夏物の薄いワンピースだが、控えめに置かれた値段表を目にして詩織はぎょっとなった。
 ――高すぎる。この服一枚で私のミノムシが何匹買えるのかな。
 実家を出たあと、親の持つマンションに住むことで家賃だけは無料にしてもらっているものの、それ以外の生活費は詩織が自分でまかなっている。
 それが、一人暮らしにあたって両親が出してきた条件だったからだ。
 おそらく両親は、多少苦労させれば、お嬢様育ちの詩織など、すぐにを上げて戻ってくると思っていたのだろう。エロ小説家の仕事に挫折ざせつしない限り、戻る気はないのだが。
 そんなわけで、詩織はあまりお金がないのだ。ブランド物も自分では買わない。

「いらっしゃいませ」

 笑顔で迎える店員に、孝弘が落ち着き払った口調で告げた。

「彼女の服をひととおり見立ててもらえますか」
「かしこまりました」

 詩織は、店員に愛想笑いを返した。こんな場所で、服を買う買わないと押し問答するのは恥ずかしい。
 ――試着して、今日はいらないって言えばいいわ。
 何着かワンピースを持ってきた店員は、詩織の靴を一瞥いちべつすると、笑顔でノースリーブの赤みを帯びたオレンジのワンピースを差し出してきた。
 そういえば今いているパンプスは、母に押し付けられたどこぞのブランド品なのだ。

「お連れ様にはこちらがよろしいかと。いかがでしょうか?」

 光の加減で赤みの濃くなるワンピースは、とろけるような手触りだった。
 布自体にグラデーションがかかっているので、単色でも非常に美しく見える。さらに、カッティングが絶妙なのだろう、『このワンピースには余計な装飾など不要だ』と思えるデザインだ。
 ――綺麗な服……でもオレンジ色なんて派手だよね。どうしよう、一応着るだけ着てみようかな。店員さんは自信満々オススメです! って感じだし。
 好奇心に駆られた詩織は、そのワンピースを受け取って着替えてみた。
 気おくれしつつもワンピースに袖を通した詩織は、思わずまじまじと鏡をのぞき込む。
 地味で色白としか思っていなかった自分が、まるで洗練された淑女しゅくじょのように見えた。

「孝弘さん!」

 試着室から出て、弾んだ声で孝弘を呼ぶ。
 まさか自分がオレンジ色を着こなせるとは思わなかった。ぜひ彼にも見てほしい。

「すごいです。こんなに明るい色なのに私でも着られました!」
「へえ、似合うな」

 感動のあまりはしゃいだ口調になってしまった詩織を見つめ、孝弘が満足げに腕を組んだ。

「そちらのお靴にも合うのではないかと思いまして」

 詩織のベージュのパンプスを示し、店員がそう言い添えると、孝弘はすぐに頷いた。

「そうですね。よく似合ってる。ではこのワンピースを頂けますか」

 即決され、詩織は慌てた。別に買ってほしくて試着して見せたわけではないのだが。
 しかし口パクで『いりません』と訴えたのに、孝弘には綺麗に無視されてしまった。

「かしこまりました。お客様、合わせてこちらなどいかがでしょう」

 笑顔の店員が今度は大ぶりのネックレスを差し出してくる。

「お召しのワンピースとのシリーズとして、デザイナーが提案したものなんですよ」

 胸のところに、アンティーク調のネックレスをあてがわれ、詩織はなるほどと納得してしまった。
 ――確かにすごく合う。金古美きんふるびっぽい金具がこの色にぴったり。この螺鈿らでんみたいなパーツもいいな。

「じゃ、それもください」

 詩織の姿をひと目見た孝弘が、再びあっさりとオーダーした。
 動転し、詩織は孝弘の顔を見上げる。
 ――孝弘さん、待って……あの……値札見てます……? 
 合計すると、詩織の書くエロ小説一冊分の印税が吹っ飛ぶほどの値段になっている気がするのだが。

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