Sweet Secret

栢野すばる

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1巻

1-1

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   プロローグ


 眼下がんかに、星屑ほしくずを振りまいたような光が揺れている。
 ここは、都内でも屈指の一流ホテル。その最上階に位置するフレンチレストランだ。
 リザーブされた特別席には周囲の喧騒けんそうはほとんど届かず、まるで幻想的な世界に二人きりでいるかのような気分になれる。
 ――き、緊張する。今日、されるのかな、アレ……
 古河ふるかわ詩織しおり、二十五歳。
 今日は婚約者の孝弘たかひろとの、五年ぶりの再会である。
 五年もの間、アメリカに赴任していた孝弘は多忙で、めったに日本に帰ってこられなかった。こんなふうに顔を合わせて会話をするのは久しぶりだ。
 目の前の孝弘は、五年前よりも、はるかに男らしく頼りがいのある雰囲気をまとっている。清潔感と自信にあふれた彼のたたずまいが、詩織にはまぶしく感じられた。
 ――どうしよう。孝弘さん、ますますかっこよくなって帰ってきた。私との釣り合わなさがより明確になってる……! 
 日本有数のゼネコン、古河ふるかわ重工じゅうこうの創業者一族の長女詩織と、金融系企業を多数傘下さんかに置く小早川こばやかわグループの後継者である孝弘は、二人が幼い頃に親どうしが決めた婚約者である。
 だが、気品あふれる美青年の孝弘を前に、詩織は正直、萎縮いしゅく気味だった。
 細身だがきたえ上げられた体に、優雅で意志の強そうな眼差し。つややかでなめらかな肌と、わずかに栗色を帯びた薄い色の髪。孝弘はどこからどう見ても理想の王子様そのものの容姿をしている。いや、彼は容姿だけではなく、性格も頭脳もパーフェクトなジェントルマンなのだが……
 思えば幼稚園の頃に引き合わされたときから、五つ年上の孝弘は完璧な『婚約者』だった。どちらかと言えば抜けている詩織にイライラすることも山ほどあっただろうに、決して嫌な顔をせずに、ずっと優しく接してくれた。詩織は、彼に微笑みかけられれば舞い上がり、デートに誘われれば必死でお洒落しゃれをして出かけたものだ。
 そう……孝弘のことはとても好きなのである。嫌いになる要素などない。
 彼は女の子なら誰でも憧れてしまうような男性なのだから。でも……
 詩織は彼に気づかれないよう、窓に映った自分の姿をそっと確かめた。
 やや小柄でおとなしそうな女が、ガラスの向こう側から自分を見つめ返してくる。
 ――私、変な格好じゃないよね? 
 アクセサリーはパールで統一し、靴もドレスに合わせた濃紺のサテンの九センチヒール。このレストランにいても問題ない服装だと思うのだが、孝弘の目にはどう映っているのだろうか。
 孝弘は、いつも万事にそつがない。婚約者である詩織のことも、無難に『可愛くて面白くて俺の好みだ』なんて言ってくれる。
『面白くて』という部分に『他に褒めようがない』という孝弘の気持ちがにじみ出ているようで若干切なくはあるが……詩織は、彼の言葉を好意的に受け止めているつもりだった。
 もちろんそうして褒めてくれるのは、詩織の両親に配慮してのことだろう。
 実際の詩織は、美人の母に似てそこそこの顔立ちはしているものの、はっきり言って地味な人間である。
 さらに言うなら、生まれ育った実家の立派さはさておき、詩織本人は『お嬢様』という呼称に似合わず、かなり自由人なのだ。
 親は詩織を、古河家のお嬢様にふさわしくあるようきちんと育ててくれたのだが、残念なことに詩織の自由っぷりは直らなかった。
 周りのお嬢様達が、ブランド品だのメイクだの他校の彼氏だのと、年相応の物事に興味を示し始める中、詩織は一貫して自分の『趣味』に没頭する日々を過ごしてきた。それが、お嬢様らしからぬ振る舞いにいっそう拍車をかけることになった。
 そうして孝弘がいない五年の間も、詩織はひたすらそれにのめり込んでいたのだ。ついには職業になってしまった『趣味』に……
 ――そっか、もう五年経っちゃったのか。私が孝弘さんと一緒にアメリカに行くのを断ってから。あっという間だったな。私も仕事が忙しくて充実してたし。孝弘さんもそうなんだろうなぁ。
 そう思いながら、詩織はワイングラスに手を伸ばす。
 今日の会食では孝弘が、詩織の生まれ年である二十五年前の赤ワインのボトルを開けてくれた。
『特別な日にしたいから、この年のワインを探してもらった』と言って。
 特別な日、という言葉に、詩織の胸はさっきからどきどきが止まらない。

「五年前は渋いって言って、ワインなんかほとんど飲まなかったのにな」

 孝弘がからかうような笑みを浮かべたので、詩織は冗談めかしてふくれてみせた。

「もう大丈夫です。今は大好きになりました」
「そう。それなら、これからは一緒にワインを楽しめそうだ」

 孝弘は機嫌良さげにそう言い、目を細めてグラスを傾けた。
 詩織が微笑みかけると、孝弘が今までのくつろいだ雰囲気を改め、姿勢を正した。

「あの、詩織」

 孝弘が意を決したようにグラスを置いて、ふところから何かを取り出した。彼の喉が、一瞬ごくりと上下する。

「左手を出して」

 孝弘の言葉に、詩織の心臓がおどり上がった。言われるままに差し出すと、孝弘は緊張した表情で告げる。

「サイズは君のお母さんに相談して、見当をつけてもらったんだ……ああ、ぴったりだ」

 詩織の左手の薬指に、こぼれ落ちそうなほど大きなダイヤのしずくを飾り、孝弘がほっとしたような表情になる。

「似合うな。やっぱり君の肌には桜色が映える」
「孝弘さん……この指輪……」

 詩織の指に輝くのは、美しいエンゲージリングだった。小豆あずき大の見事なクリアカラーのダイヤモンドを、大粒のピンクダイヤが取り巻いている。まるで、泉の周りに咲き誇る満開の桜のようだ。大ぶりの石達がダウンライトの光をね返し、虹色にきらめいていた。
 ――こんな大きなピンクダイヤ見たことない……色も粒の大きさも全部揃ってる……。ひょっとしなくても、普通のお店には出回らないクラスのすごい石よね……
 緊張の面持おももちで孝弘を見上げると、彼は端整な顔に、透き通るような優しい笑みを浮かべた。

「バイヤーにこのダイヤを見せてもらったとき、これなら詩織のイメージに合う指輪が作れると思ったんだ。よかった、すごく似合う」
「私のイメージ……ですか?」
「この桜色。君は昔から桜の花みたいな人だったから」

 自分のどの辺が桜なのかな? と真面目に考え込んだ詩織の手を、孝弘が大きな手で握り込む。

「やっと落ち着いて、君と日本で暮らせるんだな。五年前は振られたけれど、腐らずに頑張ってよかった」
「あ、あのときはすみません、あの……」
「詩織、俺と結婚してくれ。もう五年経った。今度こそプロポーズを受けてくれるだろう?」

 形の良い目に甘い光を宿し、笑顔でそう告げる孝弘に、詩織の胸がとくんと高鳴った。
 ――イ、イケメンのそういう笑顔は、反則です……! 
 五年前、まだ二十歳だった詩織は、アメリカへ赴任する孝弘との結婚を先送りにして、日本に残ることを選んだ。
 まだ結婚には早いからという口実で断ったのだが、本当の理由は孝弘に言えなかった。
 ……まあ、言えるわけがない。
『私、昔から隠れてエッチな小説を書いていたんですけど、このたび有名な女性向け官能小説のレーベルからデビューが決まったんです。だから駐在エリートの奥様にはなりません! 日本でエロ小説家として頑張ります! 孝弘さんも頑張ってください!』……なんて。
 書籍化の打診が来たとき、ちょうど海外赴任が決まった孝弘からプロポーズを受けた。
 まさか、短大在学中に出版社に送ったエロ小説が、本当に商業出版されるなんて思ってもみなかったのだ。
 だがそのために、詩織は彼のプロポーズを断った。どうしても小説家になりたくて。手に入れたチャンスを逃したくなくて……
『まだ二十歳で、海外で孝弘さんの奥さんとしてやっていく自信がないから』というもっともらしい理由を述べたので、強く結婚を希望していた孝弘も、一応は納得してくれた。
 しかし、今や結婚を断る理由などない。孝弘はこれから日本で暮らすことが決まっているし、詩織の年齢的にもちょうどいい。
 ――い、いや、大丈夫、シミュレーションどおりに進めれば、『私の仕事』のことは絶対に内緒にしておけるハズ! 
 詩織は内心こぶしを握りしめつつ、自分にそう言い聞かせた。
 もしも、自分がプロの官能小説家であることがバレたらどうなるのだろう。
『そんなイロモノの嫁はいらん!』と、両家を巻き込んだ婚約解消騒動になるのだろうか。
 金融系大企業のオーナー一族である小早川家は、超! お固い家柄だ。詩織の職業は毛嫌いこそされ、歓迎されるはずもない。
 想像していくうちに青ざめてきた詩織の顔色に気づいたのだろう、孝弘が声を曇らせて尋ねた。

「もしかして嫌だったか?」
「あっ、いえ、そんなことないです。このダイヤ、本当に桜みたいな色で綺麗だなぁって……」

 うわの空だった詩織は、慌てて笑顔を作った。

「俺との結婚の話は受けてくれるんだな」

 詩織は、笑顔のまま孝弘の言葉に頷いた。

「はい……お受けします……嬉しいです」

 こんなふうに素敵な場所で、誰もが見とれてしまうような美青年にプロポーズされたら、嬉しいに決まっている。
 頷きながら、とうとう自分もお嫁に行くのだな、と詩織は思った。
 毎日、寝ても覚めてもエロ小説のことしか考えていない自分にもこんな日が来るのだと思うと、感無量だった。
 頬を染める詩織を、孝弘が幸せそうな笑顔で見つめる。

「詩織は俺のことが好きか?」
「は、はい!」

 反射的に頷くと、孝弘が笑顔のまま言った。

「俺もだ。そう言ってくれて本当に嬉しい。これからも、君を一生大切にする。君にふさわしい男になれるように、五年間アメリカで頑張った甲斐があった」

 官能小説のヒーローがヒロインにささやくような、完璧すぎる愛の言葉だった。
 こういう言葉がサラリと出てくるからエリートイケメン御曹司は怖いのだ。
 極上の笑みを浮かべる孝弘と見つめ合いながら、詩織は今日この時間まで何度もシミュレーションした内容を、あらためて頭の中で復唱する。
 ――大丈夫……よね……? 著者用の見本誌は今後、時間指定で孝弘さんのいない時間に届けてもらって、届いたら貸倉庫に片付ければいいわよね? 
 詩織はプロの小説家として、短大を出た頃から、つごう二十冊の女性向け官能小説を上梓じょうししている。現在は、中堅どころの筆の早い作家としてそこそこ重宝されている立場だ。
 そんな詩織には、出版後、自著の見本誌が贈られてくる。
 出版社にもよるが、著者に贈られる見本誌の冊数はおおむね十冊ほど。
 つまり今、詩織の家には、自分が書いた官能小説が二百冊近く積み上がっているのだ。
 今年は五冊ほど出版の予定があるので、さらに五十冊は増える予定である。
 まさか孝弘のもとに、自分の書いたエロ小説数百冊とともにとつぐわけにはいかない。だが、見本誌は自分の努力の成果なのだから、愛着が深くて捨てるには忍びない。それにこれらは、他社の編集部に営業をかける際の名刺代わりにもなるのだ。
 もう一つ、悩んでいることがある。執筆中の文章を孝弘に読まれるのはまずい、ということだ。
 詩織が手がけている小説は、官能描写に免疫めんえきのない人であれば、見た瞬間に『ウッ』となるほど濃厚なエロシーンが多い。
 孝弘に、『詩織はどんな原稿を書いているの?』なんて気軽にのぞき込まれたら一巻の終わりだ。原稿にはひと目でわかるほど、エロい単語がぎっちり詰め込まれているのだから。

「詩織、どうした? なんだかさっきから少し元気がないけど」

 真顔になった詩織の様子に気づいたのか、孝弘が表情を曇らせた。

「なっ、何でもありません」
「それならいいんだけど……ところで新居はどこにしようか。目白めじろはどう? 君のご実家にも近いし。あのあたりに新築のマンションはあるかな」

 ――うちの近所に住むの? まずい、あのあたりに貸倉庫やレンタルオフィスはあったかしら? 
 慌てて考えを巡らせる詩織の前で、孝弘が楽しげにワイングラスを傾ける。

「早く二人で暮らしたいね。式の前に籍だけ先に入れたら、君のご両親に叱られるかな」

 しかし詩織はそれどころではない。

「あの、孝弘さん、す、住むのは、貸倉庫のある街がいいなって……あと、レンタルオフィスなんかが近くにあったらいいかも。私、今、フリーライターだから……」
「いや、そんなもの借りなくていいよ。新居を広めにしよう。そこに詩織用の書斎を作ればいいじゃないか。まずはマンションを借りて、都心にいい土地を探そう」

 その答えに、詩織は一瞬気が遠くなる。
 ――どうしよう……私の計画が、孝弘さんの財力で一掃いっそうされてしまう! この金持ちめ……! お願いだからそんなに張り切らないで……
 孝弘は新居のことを考えるのが嬉しいらしく、明るい声で話を続けた。

「どんな書斎がいいかな。吹き抜けにしようか? 君が気分よく仕事に集中できるような、明るいスペースが良さそうだ」

 せっかくのご提案に申し訳ないのだが、そんなに明るい場所でエロ小説を書きたくない。
 許されるならば、こたつなどで背中を丸めてお茶をすすりながら書きたいのだ。

「書斎はいらないですよ? レンタルオフィスを借りますから」
「遠慮しなくていいよ。一緒に設計しよう。色々考えるのも楽しいし」
「いえ、遠慮とかではなく、本当に……一人でひっそり書きたいっていうか……」

 孝弘は、詩織が結婚後も仕事を続けることについて、一切反対しなかった。実家の両親は、若くして要職に就く多忙な孝弘に気を遣い、詩織に専業主婦になるよう言ってくるが、孝弘はそれを『詩織の自由にしてほしいし、仕事をしている女性は好きだ』とかばってくれるくらいだ。
 孝弘は昔から詩織の意思をとても尊重してくれる。その気持ちはありがたいのだが……

「わ、私、物が多いから……収納が……貸倉庫が、ある所がいいな……」

 嘘をつき慣れていない詩織は、あっという間にしどろもどろになってしまった。
 だが、あれら筆舌に尽くしがたい内容の自著を家に持ち込むわけにはどうしてもいかないのだ。真面目な彼にあんな汁だくの文章を読まれたら……全てが終わる。

「収納なら、新居に広めのウォークインクローゼットをいくつか作ればいいんじゃないか?」

 当然のように提案してくる孝弘に、詩織は心の中で叫んだ。
 ――ダメ! そのクローゼットに、貴方がウォークインしてきたら困るの! 
 旧小早川財閥の御曹司、今では小早川フィナンシャルグループの最年少役員として名をせる孝弘は、日本の若手の中では名実ともにトップクラスのビジネスマンである。
 趣味は剣道とジョギングとスキー、語学は英語と中国語に堪能たんのうで、この五年の間に海外の超一流ビジネススクールで経営系の難関資格も取得しているらしい。
 そんなエリートかつ理想の王子様像を体現したような孝弘の前に、『姫様、今宵こよいは三人で楽しみましょう』『あっ、そんなところに指……ダメ……』『いやらしい身体だ、こんなにあふれさせて……』などという文章をさらけ出す勇気は持てない。持てるわけがない。
 詩織は、自分が官能小説家であるということを、ごくごく一部の人間にしか言っていない。
 過保護な両親には、フリーライターの仕事をしていると説明している。
 古河重工、及び多くの関連会社のトップに立つ多忙な父は、娘の仕事にはさして興味がないらしく、『詩織は国語が得意だったから、作文を仕事にしているんだろう』などと適当な解釈で済ませている。名家のご令嬢だった母は世間を知らないので、詩織の仕事も『お友達に頼まれて、何か書いてお金をもらっている』と理解しているようだ。
 おかげで、今のところは何とか、家族にバレずに済んでいる。
 唯一、身内バレが危ぶまれるのは七つ年上の兄・章介しょうすけだが、クールな兄は妹の自由を尊重してくれるので深く詮索してこない。さっぱりした性格の兄で、本当に助かっている。
 短大を卒業したあとは、仕事に集中したいからと父が所有するマンションで一人暮らしも始めた。
 もちろん大反対されたが、孝弘と結婚するまでに一人暮らしくらいは経験させてくれ、と押し通したのだ。
 だが、一人暮らしを希望した理由は、本当のところ一つしかない。
 エロ小説を書きたいから。そして、エロ小説を書いている姿を家族には絶対に見せられないからである。
 別にこの仕事を恥じているわけではないのだが、自分が書いた本気のエロシーンを親兄弟に読まれて平気かと言われるとノーだ。詩織はそんな豪傑ごうけつではない。ただの平凡なエロ作家だ。

「詩織、どうしたの? ワインを飲みすぎた?」

 孝弘の言葉に、今後の対処法について考え込んでいた詩織は、慌てて笑みを浮かべた。

「あ、えっと、あの、仕事の話をしていたら、急に、ご依頼いただいた原稿でミスをしたかなって心配になってしまって……でも、大丈夫でした!」
「そうか、ならよかった。……それにしても、君とこれからの話ができるなんて嬉しいな。離れている間、ずっとこんな日を夢見ていたから」

 孝弘の精悍せいかんな笑顔に、詩織は微笑みを返した。
 ――孝弘さんはこうやって、嬉しい、楽しみだって言ってくれるけど……まあ、リップサービスよね。婚約者とはいえ、気を遣わせて申し訳ないな。私、孝弘さんと違ってホントに地味だし。
 内心ため息をつきつつ、詩織は背筋を伸ばす。
 とにかく、今後の対処方法をしっかり考えなくては。
 クールな孝弘のことだ。詩織との結婚に関してはおそらく『小早川家の次期当主としての義務だ』と割り切っているのだろう。
 昔から孝弘に憧れ、好意を抱いてきた詩織としては少し寂しいが、彼はきっとどこに出しても恥ずかしくない夫としてきっちり振る舞ってくれるに決まっている。
 そんなことよりも今考えるべきは、詩織の仕事をどう隠蔽いんぺいすべきかである。
 この状況なら、おそらく誰もが『イケメン御曹司と結婚が決まったんだから、エロ小説家のほうは諦めれば?』とアドバイスするに違いない。だが、エロ小説家として軌道に乗った今となっては、どうしてもこの仕事をやめたくないのだ。
 ――ああ、でも、孝弘さんに自分の書いた話を読まれるなんて、絶対無理……。王子と姫と騎士が三人でエッチする小説なんか書いているところを見られたら……私はもちろん孝弘さんもショックで死ぬだろう……! 
 青くなったり白くなったりしている詩織を、孝弘が不安そうに見つめている。
 詩織は内心の焦りを押し隠そうと無意味に笑みを浮かべた。
 ――でもやめたくない。小説家になって本を出すのは、小さい頃からの夢だったんだもの……それに私、何を書いてもエロい恋愛小説になってしまうから、ジャンル変更もできない……! 

「実は、詩織のご両親には内々に話をさせていただいていたんだ。うちの両親とも相談して、結納は来月にしようと考えているんだけど、いいかな」
「わ、わかりました」

 孝弘の言葉に、詩織は頷いた。もう、外堀はガッチリと埋められているようだ。早く何とかして、仕事内容を隠す方法を考えないとならない。
 ――どうしよう……
 きらきらと輝く桜色のダイヤを指に飾った詩織は、背中を伝う冷や汗を感じながら、今後の対策に思いをせるのだった。



   第一章 政略結婚相手がなんだか不穏です


 詩織が一人暮らしをしている家は、都内の高級住宅街にあるマンションである。
 結婚前にどうしても一人暮らしをしたいと両親に主張した結果、父の持っていたこのマンションに住むよう言われたのだ。理由は、実家から徒歩五分であることと、マンション自体のセキュリティがしっかりしているからだ。
 両親の監視つきの一人暮らしだが、実家で暮らすよりは断然良い。この場所なら、エッチな小説を思い切り書き殴れるというものだ。
 思えば詩織は、物心ついた頃から読書の好きな子供だった。純文学もライトノベルも少女小説も、なんでも読んだ。厳しい両親も『漫画ではなく活字ならば……』と詩織の欲しがる本は全て買ってくれた。たとえその中に、こっそりエッチなシーンがあったとしても気づかずに。
 かくして、小説の中に少しでもエロいシーンがあれば、そこを繰り返し読む子供だったおませな詩織は、今では立派なエロ小説家となった。
 このように、詩織の興味の方向性は子供の頃から固定されていた。エロスの匂いがするものにかれる性分に生まれついたのかもしれない。
 もちろん両親は詩織の嗜好しこうを知らないし、知ったら多分泣くだろう。

「ううー! 疲れた!」

 あくびをしつつ、詩織は思い切り背中を伸ばした。ようやく原稿にエンドマークを打つことができたのだ。
 時計は現在、明け方の四時を指している。
 ――お、終わった……推敲すいこう終わり。これで、初稿完成! 忘れる前に担当さんに送っておこう。
 詩織は原稿データをメールに添付し、出版社の担当さん宛てに送信する。
 それからこたつの上に突っ伏して、バキバキ音を立てる背中を伸ばした。
 年中こたつテーブルで執筆しているのだが、どうも肩がこる。やはりパソコン用のデスクを買ったほうがいいのだろうか。しかしこたつで丸まって書いていると落ち着くのだ。
 詩織は一つあくびをして、脱稿した満足感に身をゆだねた。
 ――面白い話になっているといいな。売れるといいな。
 今回の小説もなかなか淫蕩いんとうな雰囲気に仕上がった……と思いたいのだが、担当さんの反応はどうだろう。お眼鏡にかなう内容になっていると良いのだが。
 座りっぱなしだった身体は砂を詰めたように重たくなっている。
 しばらくぼーっとこたつテーブルに突っ伏していた詩織だったが、慌てて起き上がった。
 ――いやいや、危なく寝るところだったわ。今日は孝弘さんとデートでしょ? さっさとお風呂、お風呂……は、起きてからでいいや。
 机で突っ伏して寝るのが癖なのである。悪い癖なので直さねばならないと思うのだが、集中から解放されたあとの睡魔にあらががたくて、いつも負けてしまう。
 詩織はまっすぐベッドに向かった。眠すぎる。今お風呂に入ったらそのまま溺れそうだ。
 こんなにすさんだ生活は、結婚したら無理だろう。
 詩織はそう思いながら毛布にくるまって目を閉じた。
 ――次の締切は再来月だから、少し余裕がある……かな? 
 そう思いながらあっという間に眠ってしまった詩織は、電話の音で目を覚ました。
 起き上がって、なんだろうと思いつつもスマートフォンを手に取る。表示されている現在時刻と、電話の発信者の名前を見た瞬間、はっと我に返った。

「いけない!」

 孝弘と約束していたのは十一時。そして今は十一時五分。着替えどころかお風呂にも入っていない。真っ青になりながら、詩織は電話に出た。

「お、おはようございます」

 情けないことに、数日の間、誰ともしゃべらずひたすら小説を書いていたので、うまく声が出ない。

『おはよう。待ち合わせ場所に来たんだけど、珍しく詩織が時間どおりに来ないから……どうしたの? 声がれてるけど……』

 孝弘の心配そうな声に、全身から冷や汗が噴き出す。
 ――やばい! 大寝坊した上にお風呂入ってないっ! 

「あ、あの、ごめんなさい。私、今まだ家で……ちょっと昨日の夜遅くなっちゃって……。すごくお待たせしてしまいそうなので、約束は日を改めていただいてもいいですか?」
『えっ? どういうこと?』

 意外なほど驚いた声を出され、詩織は目を丸くした。

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