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1巻
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――どうしたんだろう?
心配になりつつも、春花は雪人のシャツの袖を掴んだまま言った。
「今、お父さんは関係ないよ。私、雪人さんの本物の奥さんになりたいの。だから……っ!」
春花の指先から、雪人の腕が離れた。
言いつのる春花の腰に、その腕が回る。
抱き寄せられた、と思った瞬間、耳元で雪人の疲れたような声がした。
「何度も言うが、これ以上したら本当に止められない。今の俺はどうかしている。保護者でいられそうにないんだ」
「いいの。それでいいんだよ。保護者になってほしいなんて、私は思っていない!」
雪人の胸に抱き込まれたまま、春花は力強く答える。ちょっと怖いけれど、本気で奥さんにしてほしいと思っているのだ。だから、何をされてもいいのに。
しかし春花の答えに、雪人がおかしげに喉を鳴らした。
また子ども扱いされた。
そう思い唇をかむ春花に、雪人が少し落ち着きを取り戻した口調で言う。
「軽々しくそんなことを言わないでくれ。まだ社会に出たばかりのヒヨコのくせに。君を抱くのは、何も知らない子どもに無理強いするのと変わらない」
「そんなことない、無理強いされたとか、絶対に思わない……のに」
言っているうちに悲しくなってきた。
どうすれば子ども扱いをやめてくれるのだろう。雪人のことが本当に好きなのに。
気持ちの伝え方がわからなくて、焦ってしまう。
「私、ちゃんと働いてるし、もう二十一だから子どもじゃない……」
情けなくてうつむいた瞬間、春花の腰に回った腕にぎゅっと力がこもった。
「……わかった。じゃあこうしよう。明日までゆっくり考えて、本気で続きをしてもいいと思うなら、明日の夜、俺の部屋においで」
春花を抱きしめたまま、雪人がそう言った。
「わかった。明日また、この部屋に来る」
はっきりそう答えると、雪人が小さく喉を鳴らした。
「嫌なら無理しなくていい。……俺ももう、こんな真似はしない」
その言葉と同時に、腕の力が緩んだ。雪人は春花を残してベッドから立ち上がり、そのままパソコン机に向かう。
「……じゃあ、また明日」
そう言うと、雪人はノートパソコンを開き、仕事を始めてしまった。
これ以上相手にしてもらえないことを悟りつつ、春花は床に落ちた下着を拾って立ち上がる。
「私、明日の夜絶対に来るから」
だが、背を向けた彼の反応はない。
「ほんとに来るからね」
何も答えてくれない雪人の背中にそう言い切って、春花は彼の部屋を飛び出す。
……扉が閉まった直後に雪人がついた大きなため息が、春花の耳に届くことはなかった。
第二章
亡くなった春花の父は、いつも口癖のように言っていた。
『春花、人生は思い出の積み重ねだよ。いいことも悪いことも全部思い出になる。その思い出が、春花の生きた軌跡になるんだ』
どんなことが起きても、それが人生の彩りになる日が来る。だから、一日一日を精一杯味わって生き続けることが大事。やりたいことがあれば、どんどん挑戦するといい。失敗も悔しさも、いつかは愛おしい人生の色になる……と。
父にそう言われて育てられたお陰か、春花は割と前向きに、何でも挑戦してみるタイプの女の子になった。
元から体力もあるし、メンタル面でもけっこうタフな自覚はある。
猪突猛進……と言われたら否定できないが、前向きさだけを頼りに、これまで突き進んできたとも言える。
同時に、思い込んだら突っ走りすぎて、何度後悔したことか……
――いくら何でも、今回の件は……恥ずかしすぎる……
昨夜の醜態を思い出し、春花は額を押さえた。
失敗の積み重ねが、本当に『愛おしい人生の彩り』になる日が来るのだろうか。
父が嘘をつくわけはないと思うが、春花が昨夜やらかしたことは『ただの汚点』として残ってしまう気がしないでもない。
――何事も経験だからって、やっていいことと悪いことがある……よね……
羞恥で頭をかきむしりたくなりながら、春花は目の前のキーボードに文字を打ち込んだ。
昨夜の自分はどうかしていた。
あんなふうに雪人の部屋に入り込んで、抱いてほしいと遠回しに縋って、それから……
――は、恥ずかしい!
なぜあんななりふり構わない行動に走ってしまったのだろう。
もっと穏やかに説得すればよかったのだ。好きだから一緒に暮らしてほしい、と。何をあんなに焦っていたのだろうか。
いや、あのときは『もうだめだ、あとがない』と真剣に思っていたのだ。
身体を弄ばれたことを思い出す。
――あ、あんなコト、されるなんて。どうしよう。雪人さんの顔を見られない。
何をされ、どこを見られたのか。思い出すだけで変な汗が出てくる。君が誘ったくせに、と言われたが、その通りだ。
自分から誘っておいて、いざとなったら子どものように怯え、動転しているのだ。
春花はキーを叩く手を止め、頭を抱えた。
仕事が終わったら、どんな顔をして家に帰ればいいのだろう。
今朝春花は、雪人の朝ご飯を作り置きして、彼の顔を見ずに朝五時に家を飛び出してきた。家に帰って、雪人とどんなふうに会話をすればいいのかわからない。
悶々としていたとき、春花の肩が、ポンと叩かれた。
驚きのあまり椅子の上でちょっと飛び上がってしまう。
「さっきから声かけてるんだけど大丈夫?」
先輩の青山だった。爽やかな顔を曇らせた彼が、心配そうに首をかしげる。春花は慌てて愛想笑いを浮かべた。
「な、何でもありません! 大丈夫です!」
「顔が赤いけど」
そう指摘され、春花は慌ててノートでパタパタと自分の顔を煽いだ。
――し、仕事に集中、仕事に集中……っ!
必死で頭の熱を冷ましている春花に、青山が、腕組みをして言う。
「この前納品したシステムあるでしょう。あれに変なログがでてるんだけど見てくれない?」
変なログ、という言葉に、春花の煮え立った頭がすっと冷める。ログというのは、プログラムの動作を履歴として残したファイルのことだ。そこに変なデータが記載されているということは、プログラムのどこかに問題があるのかもしれないことを意味する。
「おとといリリースした会計システムですよね? はい、確認します」
「うん。詳細はメールで送る。俺の方も調べてみるから、渡辺さんも対応をお願い。今やってる作業は来週でいいから、午前中にわかったことだけメールで頂戴」
「わかりました、すぐ調べます!」
そう答えて、春花はプログラムの開発用ソフトを立ち上げ、納品したばかりのファイルを開く。
そして、本番環境にアクセスし、青山が『おかしい』と言っていたログファイルをダウンロードした。
しばらくファイルを眺め、青山からのメールや、システムから算出されたデータを見比べているうち、春花もおかしなことに気づく。
――あれ? これ……基礎パラメータがズレてないかな? 先月の値で計算してるのかも。
これはまずい。春花は瞬きもせずに画面を見つめ、ひたすらにファイルの内容を調べた。
――この前作った検証用のスクリプトがあるから、あれに該当データを流し込んで……
とりあえず一度青山にメールを送り、その先は気づけば、昼食もとらずにひたすらプログラムのバグ解消に励んでいた。
昔から、一つのことに夢中になると、他のことが頭から飛んでしまうのだ。
首と肩が痛いと思って壁の時計を見上げると、もう十七時になっている。
――久しぶりに時間を忘れてた……。お昼食べたっけな?
机を見渡すと、ビニール袋の中に朝買った菓子パンの空き袋が突っ込んであるのが目に入った。そういえばクリームパンとカレーパンをかじった気がする。
――食べたな、よし。
春花はペットボトルの水を飲み干し、再び画面に表示されている内容に集中した。
やはりシステムにトラブルが発生している。
今日中に修正しないと、明日以降のデータ全てがおかしくなってしまう。しかもそれは顧客の給与計算に関わる部分なので、大変な問題になる。
今日のうちに修正を終えなければ……
メールを確認すると、営業担当とお客さんの間で激しいやり取りが交わされていて、かなりのクレームになっていた。
――急がなきゃ。先月分の基礎設定パラメータの修正も必要だって、青山さんにメールしないと……
システムの修正が終わったのは、さらに何時間も経ったあとだった。なんとかデータが正常に作成されることまで確認できたし、おかしなデータも修正できた。
春花はすさまじい空腹を覚えて、痛む肩をもみながら顔を上げた。
時計を見ると、もう二十三時を過ぎている。
きょろきょろとチームの様子を確認した春花は、何かを食べている青山の様子に気づいて、ふらふらと歩み寄った。
「青山さん、そのお菓子……一個だけください!」
手を合わせて懇願すると、青山が驚いたように手を止め、大袋の中の小分けされたドーナツを春花の手にのせてくれた。
「あれ? 渡辺さん、夕飯食べてないの?」
「はい。気づいたら、もうこんな時間でした……」
お腹が空きすぎて、比喩ではなくひっくり返りそうだ。
春花は涙目で、もらったドーナツにかぶりついた。
「ありがとうございます。美味しい!」
青山が呆れるくらいの勢いでドーナツを食べ終えた春花は、カーディガンのポケットから小銭入れを取り出す。その中から百円玉を取り、青山に差し出した。
「ごちそうさまです」
「いや、お金なんていいって。皆にあげようかと思ってまとめ買いしたやつだから。渡辺さん、すごくお腹空いてそうだからもう一個あげる。はい」
誘惑に負けて思わず手を出した春花に、青山が微笑みかける。
社内の若手女子の間で『憧れの先輩』と騒がれているだけあって、アイドルみたいな爽やかな笑顔だ。
「あ、ありがとうございます。お腹空きすぎて、家に帰る気力もなくて」
言いながら春花は、二個目のドーナツもあっという間に食べ尽くしてしまった。
そんな春花の様子を見つめたまま、青山が笑顔で言う。
「俺の方こそありがとね、渡辺さんが対応してくれたデータ修正、全部バッチリだった」
どうやら彼は、春花が行った作業の確認を、同時進行でやってくれていたようだ。自分の修正作業もあったはずなのに、仕事の速さに感服する。
――さすが、リーダー。
春花はホッとして、ようやく笑顔を取り戻す。
「なんか、渡辺さん頼りになるよね。専門出たばっかりの子がうちのチームに来るって決まったときは心配だったけど、すごい優秀なんだもん。七ヶ月でこんなに戦力になってくれるなんて。俺だけじゃなくて、皆びっくりしてる」
突然の褒め言葉に、春花は赤くなってしまった。
「そ、そんなことないです。昔からちょっと要領がいいだけで」
子どもの頃から父のパソコンでゲームを作ったりして、遊んでばかりいたし……と、心の中でつけ加える。
要するに春花は、ちょっぴりコンピュータオタクな女の子だったのだ。
コンピュータの専門学校でも好きなことを好きなだけ勉強したし、単にこういう作業に向いているだけなのだろう。
「いや、優秀だよ。俺、びっくりした。渡辺さんは地頭がいいって言うか……あ、もう十一時過ぎてるけど大丈夫? 俺はタクシーで帰るからもう少し作業していくけど、渡辺さんはいいから。電車があるうちにもう帰りな」
会話が弾みかけたとき、青山が我に返ったように時計を見上げて言った。
春花の家は都心にあるので、電車はまだ余裕がある。だが、こんな時間まで働いて帰ったら、また雪人が心配して怒るに違いない。
――そうだ、そろそろ帰らなきゃ!
そこまで考えた瞬間、春花の心臓がびっくりするような音を立てた。
――あ、今日、帰ったら雪人さんの部屋に行くんだった。そうだ、うん、行くんだ。ど、どんな顔して行こうかな。
どくん、どくん、と、心臓が大きな音を立てて打つ。顔が熱く火照り始めた。
――何で今日に限ってこんな時間まで……でも、しょうがないか。トラブル対応だもんね。急いで帰ろうっと。
青山から帰宅の許可を得た春花は、ちょっとだけ残っていた事務的な作業をパパッと片付け、大きなリュックを背負って立ち上がった。
「じゃあすみません、青山さん、お先に失礼します!」
「お疲れ様」
いつもクールで優しい青山が、笑顔で片手を上げてくれた。そういえばもう社内には、青山と春花の他に数人しか残っていない。
チームメンバー思いの青山は、春花に限らず、誰の作業が遅れたときでもこうやってフォローしてくれるのだ。
彼が皆から慕われたりモテたりするのは、日頃の責任感ある振る舞いのためだろう。
「青山さんも早く帰ってくださいね!」
そう言い置いて、春花は全力で非常階段を駆け下り、会社の裏口を飛び出した。
――今日は走って帰ろうっと。
実は、雪人の家は春花の会社からも近く、走れば二十分ほどでたどり着くことができる。
この時間は地下鉄の本数も少ないし、金曜日なので酔っ払いも多くて嫌な思いをしそうだ。走って帰っても大して到着時間に差はないだろう。
――口紅買いたいんだよね。私、いつもすっぴんだから……
春花は、会社と家の中間あたりにあるコンビニめがけて、全力疾走した。
このあたりは眠らない都心にふさわしく、実家の近くでは見かけなかったような品揃えのコンビニも何軒かある。
そのうちの一軒では、しゃれたコスメも扱っている。
――今日、あそこでコスメ買って帰ろう!
勢い勇んで、春花は目当てのコンビニに飛び込み、コスメコーナーに駆け寄った。
けれど、赤みを帯びた照明のせいで、口紅の色がよくわからない。
派手ではない薄めの色を選びたいのだが、どれも同じような色に見えてしまう。
買うのはやめようかなとも思ったが、春花は意を決して口紅のサンプルに顔を近づけた。
見栄っ張りなのはわかっている。
だが、今夜くらいは雪人に『春花も大人になったんだな、おしゃれで可愛い』と思われたい。
――どれを買おうかな……?
しかし、男手一つで育てられ、小学生の頃からパソコンの動画編集やら、ゲームのプログラミングやらにのめり込んでいた春花には、化粧品のことがいまいちわからないのだ。
女友達のアドバイスで『ピンクベージュ系がいい』ということを聞いたことはあるのだが。
――えっと、どれがいいかな? グロスはベタベタするから嫌だし……。これでいいか。ナチュラルレッドって書いてあるから、きっと自然な色だよね。
遠い昔に母の鏡台で見た口紅と同じようなものを選び、購入する。そして再び店を飛び出して走り出した。
自宅のあるマンションに駆け込み、そっと家の中に入ったが、今日の雪人は玄関前で腕組みして待っていない。どうやら怒ってはいないようだ。
玄関先で早速叱られる、という悲劇を回避できたことにホッとした瞬間、緊張で身体が強ばり始めた。
――雪人さんに会うのは気まずい……だけど、つ、続きをしてほしい……
春花はギクシャクとした足取りで自室に急ぎ、下着とパジャマを取り出して、バスルームに駆け込んだ。もちろん、買いたての口紅を持って行くのも忘れない。
シャワーを頭から被って全身をいつものようにゴシゴシと洗い、結婚当初に雪人に買ってもらったバスローブを羽織る。
――お化粧してみよう……
濡れた顔をタオルで拭い、洗面所の湿気を逃がすために扉を全開にした。それから春花は、いそいそと口紅を塗ってみる。
だが、一応ひと通り塗ってみて、何か違う……と感じてしまう。
――あれ? 赤すぎる……ような。お店の照明の下で見たのと違う?
ナチュラルレッド、と書いてあったが、思っていたよりも真っ赤な気がする。
――だめだ。これじゃ赤すぎて似合わない。
慌てて水で洗ったが、落ちない。焦ってさらに石鹸をつけて擦ったら、ほのかに赤みが残る程度まで落とせた。こんなとき、メイク落としは常備しておかなければと痛感する。
――どうしよう、でも他に色つきのリップさえ持ってない。一個だけ持ってたやつ、この前折れて捨てちゃったし……
口紅を手に右往左往していた春花は、背後の気配に気づいて振り返った。
「何をしているんだ」
そこには呆れ果てた顔の雪人が腕組みをして立っていた。洗面所の入り口に寄りかかり、じっと春花のことを見ている。
バスローブを羽織っただけのボサボサ頭で、春花は呆然と立ち尽くした。
「今日もずいぶんと遅かったな」
とがめるような口調で言われ、春花は慌てて言い訳を口にする。
「あ、あの、ちょっと……仕事で」
そう言いながら、春花はバスローブの袖で顔を隠した。
可愛くして雪人の部屋に行く予定だったのに、こんな姿を見られてしまうなんて最悪だ。
「うぅ……」
変な格好を見ないでほしい、という抗議を込めて雪人をにらみつけると、彼は皮肉な笑みを口元に浮かべた。
「俺は君を待ってたんだが」
その言葉に驚いて、春花は顔を隠していた手を離す。
「えっ? ご、ごめんなさい」
雪人の言わんとすることを理解した瞬間、春花の身体がカッとなった。
胸の奥で、心臓が苦しいほどに躍り出す。
「あ、あの……あの……」
おずおずと雪人を見上げると、彼は身をかがめて春花の顔をのぞき込んだ。
「君は、俺の部屋に来るつもりだったのか?」
冗談めかした口調で尋ねられ、春花は真っ赤な顔でうつむいた。
「え、えっと……うん……今から行こうかと思って……」
そう答えると、雪人がちょっと笑って言った。
「そうか。ならいい。俺もあの世で君のお父さんにぶん殴られる覚悟ができた」
――え? お父さんに殴られる……って?
何のことだろう、と首をかしげた春花の腰を、雪人の腕がぐいと引き寄せる。
「俺の部屋に来るか?」
抱きしめられたまま改めてそう尋ねられ、春花は足をぷるぷる震わせながら、小さく頷いた。
もちろん、行きたい。
奥さんにしてほしい。
抱いてほしい。
恥ずかしくて言えない言葉を、どうやら雪人はくみ取ってくれたようだ。カチカチに強ばっている春花の身体を軽々と抱き上げ、大股で廊下を歩き出す。
裸にバスローブを羽織っただけの格好なので、春花は慌ててめくれてしまう裾を押さえた。
――わ、私、どんな顔……すれば……!
雪人にしがみついたまま、春花はひたすらに激しい鼓動をなだめる。
彼の寝室に連れて行かれ、ベッドの上にポンと座らされた。春花はバスローブの胸元をかき寄せた状態で、雪人を見上げる。
「ゆ、雪人さん、昨日、私が無理矢理押しかけたときは嫌そうだったのに……なんで?」
かろうじてそう尋ねると、雪人が形のいい目を細めて、低い声で言った。
「とぼけた顔をするな。君は男の理性を試しすぎだ」
きっぱり言われ、春花は目を丸くする。
試すも何も、懇願しても最後までしてくれなかったくせに、一体何だというのか。
「私、何も試してないけど……」
春花の言葉に、ベッドサイドに立ったままの雪人が呆れたように肩をすくめる。
「だから子どもだって言ってるんだろう……全く、お子様め」
雪人の言葉に、春花は自分が裸同然の格好であることも忘れて眉根を寄せた。
――どうして子どもって強調するの? もう二十一歳なんですけど……?
春花の怒った顔がおかしかったのか、雪人が噴き出す。
その笑顔は今まで見たことがないくらい鮮やかで、幸せそうだった。おどろく春花に彼は、びっくりするくらい柔らかな口調で告げる。
「俺も今日一日悩んだ。だがグズグズ悩むのは時間の無駄だと気づいた。一度きりの人生だし、人生を彩り豊かにするためなら、腹をくくる。彩色に失敗するかもしれないが、まあ、それも味わいだろう」
人生を彩る、という言葉に驚き、春花は思わず顔を上げた。
それは、父の口癖と同じだ。もしかして父が教えたのだろうか。
だが、それを問おうとしたとき、雪人がスプリングをきしませてベッドに乗り込んできた。彼は微笑んで、座ったままの春花に顔を近づける。
「本当に、ずっと一生、春花の保護者でいるつもりだった。でも、やっぱり無理だ。……俺にとって、君は可愛すぎる」
長い指が春花のふっくらした頬を撫でる。
緊張で動けない春花の耳に、雪人が優しい声で囁いた。
「俺は狭量なんだ。それを認める。君を誰かにやるくらいなら、全部俺が奪いたい」
「な……なに……それ……奪いたいって……」
驚きすぎて、春花は間抜けな口調で呟いた。
「なんでそんなに驚くんだ?」
真顔で尋ねられ、春花は思わず目をそらした。
「だ、だって、雪人さん、急に変なことを言うから。奪いたいとか」
「急に……? まあ、春花にとっては急な話かもしれないな。俺は、すっとぼける真似だけは上手いから。春花は何をしていても一生懸命で可愛い。あんなに可愛い姿を毎日見せられたら、俺みたいな唐変木だって惚れるよ。本気で自覚がないのか?」
あまりの言葉に、春花は腰を抜かしそうになる。
「もしかして、私が好きだ好きだってうるさいから、話を合わせてくれてる?」
そう口にした瞬間、もしかしてそうなのかもしれないな、と思った。
情けない顔をした春花の顎を軽く摘んで、雪人が柔らかな笑みを浮かべる。
また心臓がとまりそうなくらい魅力的な笑顔を見せられてしまった。そう思った瞬間、春花の鼓動が息苦しいくらいに速まった。
――は、反則……っ! そんな顔っ!
「俺はそこまで親切じゃない。どうでもいい女の機嫌なんか取らない」
言い終えると同時に、雪人の唇がかすかに口紅の残った春花の唇を塞ぐ。
春花の心臓が、どくん、とひときわ激しい音を立てた。
優しいキスは石鹸の匂いがした。昨夜のように闇雲な、貪るようなキスではない。蕩けるような唇の感触に、春花は緊張も忘れて身を委ねた。
――ああ、石鹸だけじゃなくて、他のいい匂いもする。
心配になりつつも、春花は雪人のシャツの袖を掴んだまま言った。
「今、お父さんは関係ないよ。私、雪人さんの本物の奥さんになりたいの。だから……っ!」
春花の指先から、雪人の腕が離れた。
言いつのる春花の腰に、その腕が回る。
抱き寄せられた、と思った瞬間、耳元で雪人の疲れたような声がした。
「何度も言うが、これ以上したら本当に止められない。今の俺はどうかしている。保護者でいられそうにないんだ」
「いいの。それでいいんだよ。保護者になってほしいなんて、私は思っていない!」
雪人の胸に抱き込まれたまま、春花は力強く答える。ちょっと怖いけれど、本気で奥さんにしてほしいと思っているのだ。だから、何をされてもいいのに。
しかし春花の答えに、雪人がおかしげに喉を鳴らした。
また子ども扱いされた。
そう思い唇をかむ春花に、雪人が少し落ち着きを取り戻した口調で言う。
「軽々しくそんなことを言わないでくれ。まだ社会に出たばかりのヒヨコのくせに。君を抱くのは、何も知らない子どもに無理強いするのと変わらない」
「そんなことない、無理強いされたとか、絶対に思わない……のに」
言っているうちに悲しくなってきた。
どうすれば子ども扱いをやめてくれるのだろう。雪人のことが本当に好きなのに。
気持ちの伝え方がわからなくて、焦ってしまう。
「私、ちゃんと働いてるし、もう二十一だから子どもじゃない……」
情けなくてうつむいた瞬間、春花の腰に回った腕にぎゅっと力がこもった。
「……わかった。じゃあこうしよう。明日までゆっくり考えて、本気で続きをしてもいいと思うなら、明日の夜、俺の部屋においで」
春花を抱きしめたまま、雪人がそう言った。
「わかった。明日また、この部屋に来る」
はっきりそう答えると、雪人が小さく喉を鳴らした。
「嫌なら無理しなくていい。……俺ももう、こんな真似はしない」
その言葉と同時に、腕の力が緩んだ。雪人は春花を残してベッドから立ち上がり、そのままパソコン机に向かう。
「……じゃあ、また明日」
そう言うと、雪人はノートパソコンを開き、仕事を始めてしまった。
これ以上相手にしてもらえないことを悟りつつ、春花は床に落ちた下着を拾って立ち上がる。
「私、明日の夜絶対に来るから」
だが、背を向けた彼の反応はない。
「ほんとに来るからね」
何も答えてくれない雪人の背中にそう言い切って、春花は彼の部屋を飛び出す。
……扉が閉まった直後に雪人がついた大きなため息が、春花の耳に届くことはなかった。
第二章
亡くなった春花の父は、いつも口癖のように言っていた。
『春花、人生は思い出の積み重ねだよ。いいことも悪いことも全部思い出になる。その思い出が、春花の生きた軌跡になるんだ』
どんなことが起きても、それが人生の彩りになる日が来る。だから、一日一日を精一杯味わって生き続けることが大事。やりたいことがあれば、どんどん挑戦するといい。失敗も悔しさも、いつかは愛おしい人生の色になる……と。
父にそう言われて育てられたお陰か、春花は割と前向きに、何でも挑戦してみるタイプの女の子になった。
元から体力もあるし、メンタル面でもけっこうタフな自覚はある。
猪突猛進……と言われたら否定できないが、前向きさだけを頼りに、これまで突き進んできたとも言える。
同時に、思い込んだら突っ走りすぎて、何度後悔したことか……
――いくら何でも、今回の件は……恥ずかしすぎる……
昨夜の醜態を思い出し、春花は額を押さえた。
失敗の積み重ねが、本当に『愛おしい人生の彩り』になる日が来るのだろうか。
父が嘘をつくわけはないと思うが、春花が昨夜やらかしたことは『ただの汚点』として残ってしまう気がしないでもない。
――何事も経験だからって、やっていいことと悪いことがある……よね……
羞恥で頭をかきむしりたくなりながら、春花は目の前のキーボードに文字を打ち込んだ。
昨夜の自分はどうかしていた。
あんなふうに雪人の部屋に入り込んで、抱いてほしいと遠回しに縋って、それから……
――は、恥ずかしい!
なぜあんななりふり構わない行動に走ってしまったのだろう。
もっと穏やかに説得すればよかったのだ。好きだから一緒に暮らしてほしい、と。何をあんなに焦っていたのだろうか。
いや、あのときは『もうだめだ、あとがない』と真剣に思っていたのだ。
身体を弄ばれたことを思い出す。
――あ、あんなコト、されるなんて。どうしよう。雪人さんの顔を見られない。
何をされ、どこを見られたのか。思い出すだけで変な汗が出てくる。君が誘ったくせに、と言われたが、その通りだ。
自分から誘っておいて、いざとなったら子どものように怯え、動転しているのだ。
春花はキーを叩く手を止め、頭を抱えた。
仕事が終わったら、どんな顔をして家に帰ればいいのだろう。
今朝春花は、雪人の朝ご飯を作り置きして、彼の顔を見ずに朝五時に家を飛び出してきた。家に帰って、雪人とどんなふうに会話をすればいいのかわからない。
悶々としていたとき、春花の肩が、ポンと叩かれた。
驚きのあまり椅子の上でちょっと飛び上がってしまう。
「さっきから声かけてるんだけど大丈夫?」
先輩の青山だった。爽やかな顔を曇らせた彼が、心配そうに首をかしげる。春花は慌てて愛想笑いを浮かべた。
「な、何でもありません! 大丈夫です!」
「顔が赤いけど」
そう指摘され、春花は慌ててノートでパタパタと自分の顔を煽いだ。
――し、仕事に集中、仕事に集中……っ!
必死で頭の熱を冷ましている春花に、青山が、腕組みをして言う。
「この前納品したシステムあるでしょう。あれに変なログがでてるんだけど見てくれない?」
変なログ、という言葉に、春花の煮え立った頭がすっと冷める。ログというのは、プログラムの動作を履歴として残したファイルのことだ。そこに変なデータが記載されているということは、プログラムのどこかに問題があるのかもしれないことを意味する。
「おとといリリースした会計システムですよね? はい、確認します」
「うん。詳細はメールで送る。俺の方も調べてみるから、渡辺さんも対応をお願い。今やってる作業は来週でいいから、午前中にわかったことだけメールで頂戴」
「わかりました、すぐ調べます!」
そう答えて、春花はプログラムの開発用ソフトを立ち上げ、納品したばかりのファイルを開く。
そして、本番環境にアクセスし、青山が『おかしい』と言っていたログファイルをダウンロードした。
しばらくファイルを眺め、青山からのメールや、システムから算出されたデータを見比べているうち、春花もおかしなことに気づく。
――あれ? これ……基礎パラメータがズレてないかな? 先月の値で計算してるのかも。
これはまずい。春花は瞬きもせずに画面を見つめ、ひたすらにファイルの内容を調べた。
――この前作った検証用のスクリプトがあるから、あれに該当データを流し込んで……
とりあえず一度青山にメールを送り、その先は気づけば、昼食もとらずにひたすらプログラムのバグ解消に励んでいた。
昔から、一つのことに夢中になると、他のことが頭から飛んでしまうのだ。
首と肩が痛いと思って壁の時計を見上げると、もう十七時になっている。
――久しぶりに時間を忘れてた……。お昼食べたっけな?
机を見渡すと、ビニール袋の中に朝買った菓子パンの空き袋が突っ込んであるのが目に入った。そういえばクリームパンとカレーパンをかじった気がする。
――食べたな、よし。
春花はペットボトルの水を飲み干し、再び画面に表示されている内容に集中した。
やはりシステムにトラブルが発生している。
今日中に修正しないと、明日以降のデータ全てがおかしくなってしまう。しかもそれは顧客の給与計算に関わる部分なので、大変な問題になる。
今日のうちに修正を終えなければ……
メールを確認すると、営業担当とお客さんの間で激しいやり取りが交わされていて、かなりのクレームになっていた。
――急がなきゃ。先月分の基礎設定パラメータの修正も必要だって、青山さんにメールしないと……
システムの修正が終わったのは、さらに何時間も経ったあとだった。なんとかデータが正常に作成されることまで確認できたし、おかしなデータも修正できた。
春花はすさまじい空腹を覚えて、痛む肩をもみながら顔を上げた。
時計を見ると、もう二十三時を過ぎている。
きょろきょろとチームの様子を確認した春花は、何かを食べている青山の様子に気づいて、ふらふらと歩み寄った。
「青山さん、そのお菓子……一個だけください!」
手を合わせて懇願すると、青山が驚いたように手を止め、大袋の中の小分けされたドーナツを春花の手にのせてくれた。
「あれ? 渡辺さん、夕飯食べてないの?」
「はい。気づいたら、もうこんな時間でした……」
お腹が空きすぎて、比喩ではなくひっくり返りそうだ。
春花は涙目で、もらったドーナツにかぶりついた。
「ありがとうございます。美味しい!」
青山が呆れるくらいの勢いでドーナツを食べ終えた春花は、カーディガンのポケットから小銭入れを取り出す。その中から百円玉を取り、青山に差し出した。
「ごちそうさまです」
「いや、お金なんていいって。皆にあげようかと思ってまとめ買いしたやつだから。渡辺さん、すごくお腹空いてそうだからもう一個あげる。はい」
誘惑に負けて思わず手を出した春花に、青山が微笑みかける。
社内の若手女子の間で『憧れの先輩』と騒がれているだけあって、アイドルみたいな爽やかな笑顔だ。
「あ、ありがとうございます。お腹空きすぎて、家に帰る気力もなくて」
言いながら春花は、二個目のドーナツもあっという間に食べ尽くしてしまった。
そんな春花の様子を見つめたまま、青山が笑顔で言う。
「俺の方こそありがとね、渡辺さんが対応してくれたデータ修正、全部バッチリだった」
どうやら彼は、春花が行った作業の確認を、同時進行でやってくれていたようだ。自分の修正作業もあったはずなのに、仕事の速さに感服する。
――さすが、リーダー。
春花はホッとして、ようやく笑顔を取り戻す。
「なんか、渡辺さん頼りになるよね。専門出たばっかりの子がうちのチームに来るって決まったときは心配だったけど、すごい優秀なんだもん。七ヶ月でこんなに戦力になってくれるなんて。俺だけじゃなくて、皆びっくりしてる」
突然の褒め言葉に、春花は赤くなってしまった。
「そ、そんなことないです。昔からちょっと要領がいいだけで」
子どもの頃から父のパソコンでゲームを作ったりして、遊んでばかりいたし……と、心の中でつけ加える。
要するに春花は、ちょっぴりコンピュータオタクな女の子だったのだ。
コンピュータの専門学校でも好きなことを好きなだけ勉強したし、単にこういう作業に向いているだけなのだろう。
「いや、優秀だよ。俺、びっくりした。渡辺さんは地頭がいいって言うか……あ、もう十一時過ぎてるけど大丈夫? 俺はタクシーで帰るからもう少し作業していくけど、渡辺さんはいいから。電車があるうちにもう帰りな」
会話が弾みかけたとき、青山が我に返ったように時計を見上げて言った。
春花の家は都心にあるので、電車はまだ余裕がある。だが、こんな時間まで働いて帰ったら、また雪人が心配して怒るに違いない。
――そうだ、そろそろ帰らなきゃ!
そこまで考えた瞬間、春花の心臓がびっくりするような音を立てた。
――あ、今日、帰ったら雪人さんの部屋に行くんだった。そうだ、うん、行くんだ。ど、どんな顔して行こうかな。
どくん、どくん、と、心臓が大きな音を立てて打つ。顔が熱く火照り始めた。
――何で今日に限ってこんな時間まで……でも、しょうがないか。トラブル対応だもんね。急いで帰ろうっと。
青山から帰宅の許可を得た春花は、ちょっとだけ残っていた事務的な作業をパパッと片付け、大きなリュックを背負って立ち上がった。
「じゃあすみません、青山さん、お先に失礼します!」
「お疲れ様」
いつもクールで優しい青山が、笑顔で片手を上げてくれた。そういえばもう社内には、青山と春花の他に数人しか残っていない。
チームメンバー思いの青山は、春花に限らず、誰の作業が遅れたときでもこうやってフォローしてくれるのだ。
彼が皆から慕われたりモテたりするのは、日頃の責任感ある振る舞いのためだろう。
「青山さんも早く帰ってくださいね!」
そう言い置いて、春花は全力で非常階段を駆け下り、会社の裏口を飛び出した。
――今日は走って帰ろうっと。
実は、雪人の家は春花の会社からも近く、走れば二十分ほどでたどり着くことができる。
この時間は地下鉄の本数も少ないし、金曜日なので酔っ払いも多くて嫌な思いをしそうだ。走って帰っても大して到着時間に差はないだろう。
――口紅買いたいんだよね。私、いつもすっぴんだから……
春花は、会社と家の中間あたりにあるコンビニめがけて、全力疾走した。
このあたりは眠らない都心にふさわしく、実家の近くでは見かけなかったような品揃えのコンビニも何軒かある。
そのうちの一軒では、しゃれたコスメも扱っている。
――今日、あそこでコスメ買って帰ろう!
勢い勇んで、春花は目当てのコンビニに飛び込み、コスメコーナーに駆け寄った。
けれど、赤みを帯びた照明のせいで、口紅の色がよくわからない。
派手ではない薄めの色を選びたいのだが、どれも同じような色に見えてしまう。
買うのはやめようかなとも思ったが、春花は意を決して口紅のサンプルに顔を近づけた。
見栄っ張りなのはわかっている。
だが、今夜くらいは雪人に『春花も大人になったんだな、おしゃれで可愛い』と思われたい。
――どれを買おうかな……?
しかし、男手一つで育てられ、小学生の頃からパソコンの動画編集やら、ゲームのプログラミングやらにのめり込んでいた春花には、化粧品のことがいまいちわからないのだ。
女友達のアドバイスで『ピンクベージュ系がいい』ということを聞いたことはあるのだが。
――えっと、どれがいいかな? グロスはベタベタするから嫌だし……。これでいいか。ナチュラルレッドって書いてあるから、きっと自然な色だよね。
遠い昔に母の鏡台で見た口紅と同じようなものを選び、購入する。そして再び店を飛び出して走り出した。
自宅のあるマンションに駆け込み、そっと家の中に入ったが、今日の雪人は玄関前で腕組みして待っていない。どうやら怒ってはいないようだ。
玄関先で早速叱られる、という悲劇を回避できたことにホッとした瞬間、緊張で身体が強ばり始めた。
――雪人さんに会うのは気まずい……だけど、つ、続きをしてほしい……
春花はギクシャクとした足取りで自室に急ぎ、下着とパジャマを取り出して、バスルームに駆け込んだ。もちろん、買いたての口紅を持って行くのも忘れない。
シャワーを頭から被って全身をいつものようにゴシゴシと洗い、結婚当初に雪人に買ってもらったバスローブを羽織る。
――お化粧してみよう……
濡れた顔をタオルで拭い、洗面所の湿気を逃がすために扉を全開にした。それから春花は、いそいそと口紅を塗ってみる。
だが、一応ひと通り塗ってみて、何か違う……と感じてしまう。
――あれ? 赤すぎる……ような。お店の照明の下で見たのと違う?
ナチュラルレッド、と書いてあったが、思っていたよりも真っ赤な気がする。
――だめだ。これじゃ赤すぎて似合わない。
慌てて水で洗ったが、落ちない。焦ってさらに石鹸をつけて擦ったら、ほのかに赤みが残る程度まで落とせた。こんなとき、メイク落としは常備しておかなければと痛感する。
――どうしよう、でも他に色つきのリップさえ持ってない。一個だけ持ってたやつ、この前折れて捨てちゃったし……
口紅を手に右往左往していた春花は、背後の気配に気づいて振り返った。
「何をしているんだ」
そこには呆れ果てた顔の雪人が腕組みをして立っていた。洗面所の入り口に寄りかかり、じっと春花のことを見ている。
バスローブを羽織っただけのボサボサ頭で、春花は呆然と立ち尽くした。
「今日もずいぶんと遅かったな」
とがめるような口調で言われ、春花は慌てて言い訳を口にする。
「あ、あの、ちょっと……仕事で」
そう言いながら、春花はバスローブの袖で顔を隠した。
可愛くして雪人の部屋に行く予定だったのに、こんな姿を見られてしまうなんて最悪だ。
「うぅ……」
変な格好を見ないでほしい、という抗議を込めて雪人をにらみつけると、彼は皮肉な笑みを口元に浮かべた。
「俺は君を待ってたんだが」
その言葉に驚いて、春花は顔を隠していた手を離す。
「えっ? ご、ごめんなさい」
雪人の言わんとすることを理解した瞬間、春花の身体がカッとなった。
胸の奥で、心臓が苦しいほどに躍り出す。
「あ、あの……あの……」
おずおずと雪人を見上げると、彼は身をかがめて春花の顔をのぞき込んだ。
「君は、俺の部屋に来るつもりだったのか?」
冗談めかした口調で尋ねられ、春花は真っ赤な顔でうつむいた。
「え、えっと……うん……今から行こうかと思って……」
そう答えると、雪人がちょっと笑って言った。
「そうか。ならいい。俺もあの世で君のお父さんにぶん殴られる覚悟ができた」
――え? お父さんに殴られる……って?
何のことだろう、と首をかしげた春花の腰を、雪人の腕がぐいと引き寄せる。
「俺の部屋に来るか?」
抱きしめられたまま改めてそう尋ねられ、春花は足をぷるぷる震わせながら、小さく頷いた。
もちろん、行きたい。
奥さんにしてほしい。
抱いてほしい。
恥ずかしくて言えない言葉を、どうやら雪人はくみ取ってくれたようだ。カチカチに強ばっている春花の身体を軽々と抱き上げ、大股で廊下を歩き出す。
裸にバスローブを羽織っただけの格好なので、春花は慌ててめくれてしまう裾を押さえた。
――わ、私、どんな顔……すれば……!
雪人にしがみついたまま、春花はひたすらに激しい鼓動をなだめる。
彼の寝室に連れて行かれ、ベッドの上にポンと座らされた。春花はバスローブの胸元をかき寄せた状態で、雪人を見上げる。
「ゆ、雪人さん、昨日、私が無理矢理押しかけたときは嫌そうだったのに……なんで?」
かろうじてそう尋ねると、雪人が形のいい目を細めて、低い声で言った。
「とぼけた顔をするな。君は男の理性を試しすぎだ」
きっぱり言われ、春花は目を丸くする。
試すも何も、懇願しても最後までしてくれなかったくせに、一体何だというのか。
「私、何も試してないけど……」
春花の言葉に、ベッドサイドに立ったままの雪人が呆れたように肩をすくめる。
「だから子どもだって言ってるんだろう……全く、お子様め」
雪人の言葉に、春花は自分が裸同然の格好であることも忘れて眉根を寄せた。
――どうして子どもって強調するの? もう二十一歳なんですけど……?
春花の怒った顔がおかしかったのか、雪人が噴き出す。
その笑顔は今まで見たことがないくらい鮮やかで、幸せそうだった。おどろく春花に彼は、びっくりするくらい柔らかな口調で告げる。
「俺も今日一日悩んだ。だがグズグズ悩むのは時間の無駄だと気づいた。一度きりの人生だし、人生を彩り豊かにするためなら、腹をくくる。彩色に失敗するかもしれないが、まあ、それも味わいだろう」
人生を彩る、という言葉に驚き、春花は思わず顔を上げた。
それは、父の口癖と同じだ。もしかして父が教えたのだろうか。
だが、それを問おうとしたとき、雪人がスプリングをきしませてベッドに乗り込んできた。彼は微笑んで、座ったままの春花に顔を近づける。
「本当に、ずっと一生、春花の保護者でいるつもりだった。でも、やっぱり無理だ。……俺にとって、君は可愛すぎる」
長い指が春花のふっくらした頬を撫でる。
緊張で動けない春花の耳に、雪人が優しい声で囁いた。
「俺は狭量なんだ。それを認める。君を誰かにやるくらいなら、全部俺が奪いたい」
「な……なに……それ……奪いたいって……」
驚きすぎて、春花は間抜けな口調で呟いた。
「なんでそんなに驚くんだ?」
真顔で尋ねられ、春花は思わず目をそらした。
「だ、だって、雪人さん、急に変なことを言うから。奪いたいとか」
「急に……? まあ、春花にとっては急な話かもしれないな。俺は、すっとぼける真似だけは上手いから。春花は何をしていても一生懸命で可愛い。あんなに可愛い姿を毎日見せられたら、俺みたいな唐変木だって惚れるよ。本気で自覚がないのか?」
あまりの言葉に、春花は腰を抜かしそうになる。
「もしかして、私が好きだ好きだってうるさいから、話を合わせてくれてる?」
そう口にした瞬間、もしかしてそうなのかもしれないな、と思った。
情けない顔をした春花の顎を軽く摘んで、雪人が柔らかな笑みを浮かべる。
また心臓がとまりそうなくらい魅力的な笑顔を見せられてしまった。そう思った瞬間、春花の鼓動が息苦しいくらいに速まった。
――は、反則……っ! そんな顔っ!
「俺はそこまで親切じゃない。どうでもいい女の機嫌なんか取らない」
言い終えると同時に、雪人の唇がかすかに口紅の残った春花の唇を塞ぐ。
春花の心臓が、どくん、とひときわ激しい音を立てた。
優しいキスは石鹸の匂いがした。昨夜のように闇雲な、貪るようなキスではない。蕩けるような唇の感触に、春花は緊張も忘れて身を委ねた。
――ああ、石鹸だけじゃなくて、他のいい匂いもする。
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