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しおりを挟むプロローグ
春花は、二十一歳になったばかりのOLだ。
職業はシステムエンジニアの卵。
都心の豪華なマンションに『旦那さん』と二人で暮らしている。
春花たちの住む家は、いわゆる超高級マンションの一戸で、窓の外には都心の大庭園の緑が広がり、ロケーション的にも最高の場所にある。
ネットでこっそり調べたところ、日本に長期滞在する外国人セレブや芸能人、政治家向けの物件らしい。
お風呂もベッドルームも二つずつ。広い広いリビングに、そのままつながった十畳ほどの台所まである。
本物の大理石が敷きつめられた玄関には、居住者のプライバシー保護のために、専用エレベーターまでついていた。
平凡な春花が、こんな豪邸に住んでいるのはわけがある。
いや……この結婚自体がわけあり、なのだ。
会社の同僚ですら、春花が既婚者であることは知らない。総務の人以外には内緒にしているのだ。
そんな事情を抱えている春花は、今朝も、いつものように朝食の準備にいそしんでいた。
――よし、味噌汁はできた。あとは鮭と、ほうれん草のごま和えを添えて。
春花は、ガスの火を消して『旦那さん』の分のお膳を整え、食卓に向かう。
――はぁ、それにしても広い家。実家なんて台所を出たら二歩で食卓だったのに!
内心ため息をついて、四十畳はあろうかというリビングダイニングを見渡す。それから、ソファで新聞を読んでいる『旦那さん』に明るく声を掛けた。
「おはよう、雪人さん! 今朝は鮭を焼いたの」
春花の声に、ソファで新聞を読んでいた『旦那さん』の雪人が顔を上げる。
雪人は春花より十二歳年上の、いわゆる青年実業家だ。
経済界の名門、遊馬家の長男として生まれ、今は一族の経営する複数の企業の取締役を務めている。
本物の超エリート。本来なら、春花とは縁のない世界の人間だ。
「いい匂いがすると思った。朝から頑張ったんだな」
雪人が低い声でそう言ってくれたので、春花は嬉しくなって微笑んだ。
朝の七時前だというのに、雪人はもう着替えを済ませている。いつもそうなのだ。彼は春花の前で緩んだところなど一度も見せたことがない。
――隙がなくて、お侍さんみたい。
見慣れたはずの雪人の姿に、春花はほんの少しみとれてしまった。
それから、くるくるとはねている自分の寝癖に気づいて、慌てて指先で撫でつける。
――私もちゃんとしないと……
春花は改めて、隙のない雪人の姿を見つめた。
きっちりと整えた黒い髪に、引き締まった大柄な体躯。誰もがみとれてしまうような男前だが、厳しい雰囲気が近寄りがたさを醸し出してもいる。
雪人は、名前の通り、凍てついた雪のような男だった。
彼のクールな態度は、誰に対しても変わらない。
普段から感情を表に出さないし、笑みも滅多に浮かべない。言動にも常に抑制がきいていて、まるで氷の彫像のようだ。
「ありがとう」
雪人はいつもと変わらない静かな口調で言い、ソファを立って食卓に移動してきた。
「旨そうだな」
春花が整えたお膳を一瞥し、雪人が低い声で呟く。
どうやら今日の朝食はお気に召してくれたようだ。
「よかった!」
『旦那さん』の言葉に安心し、春花は自分の分のお膳を取りに台所へ戻る。
失敗して焦がした鮭が、春花の分だ。
お膳を手に食卓につき、春花は朗らかな声で言った。
「いただきまーす」
春花のお膳に目をやった雪人が、無言で自分の鮭を取り分けて、春花のお皿にのせた。
「そんなに焦げてたら、君の食べられるところが少ないだろう」
「え、あ、あの、大丈夫。私、焦げてるところが好きだから」
慌ててそう答えた春花の前で、雪人が小さく笑った。
「まだ若いんだからたくさん食え。俺はいい。三十過ぎたらそんなに山ほどいらない」
有無を言わさず、雪人が鮭の切り身を押しつけてきた。
それから彼は、品のいい仕草で味噌汁を口に運ぶ。
「……料理もずいぶん上手くなったな。君と暮らし始めた当初は、どうなることかと思ったが」
雪人の言葉に、春花は真っ赤になって答えた。
「そ、それは! あの、トマトにお砂糖掛けただけのおかずとか出して、ごめん……なさい……」
その言葉に、雪人が噴き出す。それから、春花に視線を向けた。
「そうだ、春花」
切れ長の形のいい目に見つめられ、春花の胸がドキリと高鳴る。
「そろそろ、離婚しようか」
穏やかな雪人の言葉に、春花の顔から微笑みが消えた。
「りこ……ん……」
「ああ、結婚するときに約束しただろう?」
淡々とした雪人の言葉に、春花は人形のようにこくんと頷く。
「うん……約束……した……」
身体中の血が、すうっと引いていくような気がする。自分の心臓の音が、やけにはっきり聞こえた。
ずっと、いつかは言われる言葉だと心していたつもりだったけれど……急すぎる。春花は無言で、手にした箸を握りしめた。
「先生が亡くなられて、もう一年経つ。君も働いて貯金ができたはずだから、大丈夫だろう。離婚の責任は俺にあることにして、慰謝料も支払う。とりあえず一千万くらいあれば、当座の生活は問題ないはずだ」
凍りつく春花に、雪人は言った。
「……いつまでも俺といない方がいい。今までありがとう。君は君の新しい人生を見つけなさい」
そう言い終えた彼の顔は、いつもと同じ、鉄壁の無表情だった。
第一章
……離婚しよう。
雪人のその言葉が頭から離れないまま、一日があっという間に過ぎた。
システム開発の会社に勤める春花は、入社一年目とはいえ、かなり多忙だ。
専門学校で情報工学を学び、基礎的な知識をすでに持って入社したお陰で、春花は先輩から仕事を山ほど割り当てられている。
一応、最若手なりに、戦力として期待されているのだ。
しかし今日は、頭が全く働かなかった。
三時間も残業したはずなのだが、何をしたのかよく思い出せない。
春花は通勤用のリュックサックを背負ったまま、ふらふらと帰途についた。
――わかってた。わかってる、うん、大丈夫。離婚するっていうのは、結婚したときからの約束だもん……貯金もできた。独立できる……大丈夫。
足が砂に埋もれたように重い。家に帰りたくない。正確に言えば、雪人と顔を合わせるのが辛いのだ。
雪人の顔を見たら、もう少し側にいたいと泣いてしまいそうだ。
だけどそんな懇願すらも、彼はきっとこんなふうに流すだろう。
『そもそも、結婚は一年間の約束だった』と。
――でも私は一緒にいたい……。お子様で迷惑な存在かもだけど、一緒にいたい。迷惑掛けないように仕事だって家事だって頑張ってるのに、やっぱりだめなのかな。雪人さんは私のこと、嫌いなのかな……
何度も涙ぐみかけたが、泣くのが苦手な春花は泣けなかった。
こんな気持ちでは家に帰れず、何となくカフェに寄って甘い物を摘んでみた。けれど、もう日付が変わる時間だ。
さすがに明日の仕事のことを思うと、これ以上夜更かしはできない。
――帰りたくない……
春花は明るい色のまっすぐな髪に指を絡め、無意味にくりくりといじり回す。
ピカピカのガラス窓に映るのは、二十一歳にしては、ややあどけない顔をした自分の姿だ。
――結局、成人しても童顔のまんまだ……。うぅ、お母さんは美人だったのに、どうして私はお子様なのかな……
春花はため息をついて、自分の顔から目をそらす。三十になる前に交通事故で亡くなった母は、とても大人っぽく、美しい人だった。一応春花も似ていると言われるけれど、鏡を見てもため息しか出ない。
雪人の隣に立つと、自分が妹か親戚の子にしか見えないこと、彼から相手にされていないことのどちらも、痛いくらいに感じる。
これまで何度も言い聞かせてきたことだ。
『奇跡でも起きない限り、雪人から愛されるはずがない、期待してはいけない』と。
だが、やはり、離婚を切り出されたのは辛かった。
――春花が雪人と出会ったのは三年前。
まだ、春花の父が存命の頃だった。
父は医者で、祖父の代から、東京のベッドタウンで『渡辺医院』という小さな病院をやっていた。父は祖父の跡を継いだが、春花に『医者になってここを継げ』とは言わなかった。
記憶の中の父が全く贅沢をしていなかったことを思うと、おそらく、あまり条件のいい仕事ではなかったのだろう。
その病院に立ち退き交渉にやってきたのが、雪人だった。
春花と父が暮らしていた町には昔ながらのカフェや公園が多くあり、それが近年脚光を浴びるようになってきていた。『人気の駅ベストテン』に選ばれたりもして、ここ数年でマンションもたくさん建ち、駅ビルも改装されるようになっていた。
その開発プロジェクトをメインで請け負っていた会社が、雪人が役員を務める『遊馬土地開発』だった。
三年前のあの日、雪人に診療所の移動を打診された父は、こう言った。
『あと一年ほどで診療所は畳もうと思っているのです。それまで、待ってもらえませんか』
当時のことを思い出すだけで胸が苦しくなる。
父は、春花が中学生の頃から病に冒されていた。そして専門の病院に通い、闘病を続けながら、診療所に通ってくる患者さんたちを診察していたのだ。
病気が日に日に悪化し、痩せ細っていく父と暮らすのは、悲しかった。
周囲の人は『お父さんには、悔いの残らないように過ごさせてあげて』と助言してくれたが、春花は嫌だった。死んでほしくなかった。たった一人の家族なのに……
父は穏やかで優しい人だった。
母がいない春花に寂しい思いをさせたくないと言い、いつも一緒に朝食をとってくれた。『春花には反抗期がなかった』と笑われたくらい、春花は父のことが大好きで、あの暮らしがずっと続くのだと信じ切っていたのに……
『病気は必ず治す。春花を一人にしない。春花のことはママと約束したんだから』
……ずっと言ってくれていたそんな決まり文句を口にしてくれなくなったのも、ちょうど、雪人が診療所を訪ねてきた頃だ。
それはつまり、父が、余命を宣告されたあたり……
『先生は、なぜあと一年でこの診療所を畳まれるのですか? こちらはかなり評判もいいようです。駅ビルの最上階に医療施設のフロアを設ける予定ですので、そこに有利な条件で移動されてはどうでしょうか。こちらとしても、移転に関して色々と無理なお願いをするのですし……』
戸惑った様子の雪人に、父は朗らかに答えた。
『私は身体を壊しているので、もう診療所は続けられないのです。いついなくなるかわからない医者なんて、患者さんに迷惑を掛けますからね』
もってあと二年、と言われた父は、患者さんを一年掛けて他の病院に引き継ぎ、病院を畳んで療養に移るつもりだったらしい。
『診療所を畳んだあと、こちらの土地をお譲りすることに異論はありません。跡地はマンションになるんですか? いいですね、このあたりに人が増えるのは。私と娘が育った町ですから愛着がありましてね、ずっと住み継がれる場所になるといいですね』
父の声が、春花の脳裏に鮮やかによみがえる。
――お父さん……
思い出に沈み込みそうになった春花は、スマートフォンが震えていることに気づいて我に返った。メールが何通か来ている。送り主は雪人だ。
帰りが遅いがどうかしたのか、迎えに行った方がいいのかと書かれている。
冷たいけれど過保護な雪人のことだ。春花が真夜中まで連絡なしで戻らないので、心配しているに違いない。
……そう、まるで父親のように。
不思議なことに、父と雪人は『立ち退き交渉をしに来たビジネスマンと地権者』という間柄とは思えないくらいに意気投合していた……ように見えた。
特に重要な用事がなくても、雪人はふらりと父の診療所や、ときには家にまでやってきた。そして、二人で何かを話し込んでいた。
――何を話していたんだろう、お父さんと雪人さん……
春花は、父と雪人の間に交わされていた会話がどんなものなのか、よく知らない。
しかし、どうやら雪人は、二十歳近く年上の春花の父に、何らかの友情を感じていたらしい。
だから、友人の娘である春花のことを、非常に手厚く保護した、ということのようだ。
――わかってる、雪人さんは私のことを、友達から預かった子どもだと思ってるだけ。
脳裏に、これまでの雪人との思い出がよみがえる。
春花はため息をつきつつスマートフォンを操作し、保存しておいた画像を開いた。
桃色の振り袖を着て微笑む春花と、スーツ姿で無表情の雪人が並んでいる写真。
成人式には、雪人が買ってくれた振り袖を着て出席した。そのあと、彼が迎えに来てくれて、写真を撮ってもらったのだ。画像のデータも、そのときに提供してもらった。
『俺はいい』と拒む雪人に懇願して、一緒に撮影してもらった大事な一枚。
雪人と二人で写った写真はこれしかないので、春花の宝物なのだ。
しばらくそれを眺めたあと、春花はメールを立ち上げた。
『仕事で遅くなりました、ごめんなさい。もうすぐおうちです』
その一文を打ち込み、春花はカフェを飛び出した。
――私は雪人さんが好きだからずっと一緒にいたい。でも私は……ただの保護対象だし、迷惑を掛けているだけ。助けてもらっているのに、これ以上わがままは言えない……
わかりきった事実が春花の胸をえぐる。
冬が訪れた都心の町を走り抜け、春花はマンションのエントランスに駆け込んだ。エレベーターに飛び乗ったとき、スマートフォンが鳴った。
慌てて電話に出ると、雪人の不機嫌な声が飛び込んでくる。
『今どこにいるんだ。迎えに行くから、うろうろしないで待っていなさい』
どうやらかなり不機嫌なようだ。
朝切り出された離婚の話に、まともに返事をしなかったからだろうか。
「大丈夫! 今もう、エレベーターの中だから」
そう言って電話を切ると同時に、エレベーターが最上階についた。春花は眼前の玄関ドアを開ける。
「ただいまぁ」
ちゃんと今日も、明るい声が出せた。
――ああ、私また笑ってる……
父の闘病が始まった頃から、春花はどんなときでも明るい声が出せるようになった。
それ以来、どんなに悲しくても自分の心を見せずにニコニコすることが得意になっている。
今日も明日も、家を出て行く日も、きっと笑顔でいられるだろう。心はズタズタになっていたとしても……
「遅い。連絡も寄越さず何してたんだ。新人なのに、こんな時間まで仕事があるのか」
不機嫌な顔をした雪人が、腕組みをして壁にもたれかかっている。威圧感のあるその表情に一瞬すくみつつも、春花は笑顔で彼に謝罪した。
「ごめんなさい。最近忙しくって。ちゃんと連絡すればよかった」
「君に何かあったら先生に申し訳が立たない。俺としては、責任を持って預かっているつもりなのに……そんなことじゃ、いつまでたっても独り立ちさせられないだろう?」
不良娘を叱るような口調に、春花はうつむいてしまった。
「はい、気をつけます……」
何も答えず、雪人が部屋の中に引っ込んでゆく。春花は無言で彼の広い背中を見送った。
雪人の冷ややかな表情が胸に突き刺さり、痛くてたまらない。
――もう、潮時なんだなぁ……私はこの家を出て行かなきゃいけないんだ。今までみたいに、二人で過ごせなくなる……
春花は自分の部屋に飛び込み、クッション代わりの縫いぐるみを抱きしめた。
一緒に暮らし始めた当時、なぜか雪人が買ってきてくれた、おまんじゅうのような熊の縫いぐるみ。子ども扱いされたことはちょっとせつなかったけれど、春花にとっては愛しい宝物だ。
ふわふわした縫いぐるみを抱いたまま、春花は唇をかみしめた。
雪人が好きだ。
父を訪ねてくる彼を、葬儀に駆けつけてくれた彼を、ひとりぼっちになって泣いているとき、黙って側にいてくれた彼を……好きになった。
その気持ちは、一緒に暮らしたこの一年で強くなる一方だ。
――相手にされていないなら、出て行かなきゃいけないなら、最後に……自爆しちゃおうかな! そうだよね、黙って出て行くより、自爆の方がいいに決まってる。
柔らかな縫いぐるみに顔を埋め、春花は身じろぎもせずに考えた。
どうせ叶わぬ恋ならば、最後にきっぱり砕け散って諦めるのもアリだ。
そう考え始めたら、それが正解のような気がしてきた。
雪人に言おう。大好きだから一緒にいたいと。迷惑は掛けないし仕事も頑張るから、一緒に暮らしてほしいと。
……それでだめなら、この恋心に蓋をしよう。いつか消えてなくなる日まで、この恋のことは忘れよう。
指を縫いぐるみに食い込ませ、春花は勇気を奮い立たせた。
振られる心構えをするのは、途方もなく怖い。だが、そうでもしなければ雪人への想いは諦められそうもなかった。
雪人の引き締まった口元が、愁いを帯びた横顔が、春花の脳裏に浮かび上がる。
いつも彼を見ていたからだろうか。目をつぶれば、まるで彼が側にいるかのように、その姿を思い描くことができる。滑らかな肌、黒く艶のある髪、筋肉の浮いたしなやかな腕。
出会ったその日から、父の葬儀に駆けつけてくれた日のこと、そして一年間一緒に暮らしてきたこと……。春花は雪人のことなら、どんな細かいことでも覚えている。
父の葬儀の日。
春花は、圧倒的な悲しみに疲れ果てていた。愛する父がもういなくて、一人きりになってしまったのだという絶望に押し潰されて、涙も出ないまま弔問客に頭を下げていた。
『春花ちゃんは泣かないんだねぇ』
揶揄するようにそう言ってきた遠い親戚の言葉を、ぼんやりと思い出す。
彼らは、父の壮絶な闘病死に泣き叫ぶ可哀相な少女の姿を、心のどこかで期待していたに違いない。
それなのに春花は父の死を嘆きもせず、人形のようにペコペコ頭を下げているため、不満に思ったのだろう。
少なくとも春花の耳には、彼らの言葉はそのように聞こえた。
春花に寄り添ってくれたのは、祖父の代からの患者さんたちと、父の友人たちだった。
彼らは親戚でも何でもないのに、やみくもに動き回ろうとする春花を休ませてくれ、代わりに色々な作業を引き受けてくれた。
雪人もそうだ。彼は、父の訃報を知って駆けつけ、ずっと春花を励まし、そして余計なことを言いに来る親戚をそれとなく遠ざけてくれたのだ。
『俺では先生の代わりになんてなれないだろうが……春花さんが安心できる日まで、俺が側にいる』
弔問客が大体捌けた夜、そう言って肩を抱いてくれた雪人の顔を、はっきりと覚えている。
だが、雪人には、春花への恋愛感情などない。
彼が春花と結婚してくれた理由は、天涯孤独になった『友人の娘』である春花を保護するため。
そして、雪人が『強いられた政略結婚』から逃れるためなのだ。
『性格の合わない婚約者と婚約破棄したい。だから、一年だけでいい。協力してほしい』
父を亡くしてから一月ほどたったころ。春花は雪人にそう頼まれ、受け入れた。
雪人が困っているならば助けたいと思ったからだ。
――私と偽装結婚して、婚約破棄しようとしたくらいだもの。どのくらい嫌だったのかな、婚約者さんとの結婚が。
婚約者のことを雪人に聞いても、もちろん詳しくは教えてくれない。ただ『俺と彼女は合わなかった、いい関係を築けなかった』と言っていただけだ。
とにかく、この偽装結婚のお陰で、春花は住む家と安心を、雪人は婚約者と結婚しなくていい理由を手に入れた。
そしてきのう、雪人は『当初の約束通り、一年目の結婚記念日で終わりにしよう』と言い出したのだ。
でも、春花は雪人と別れたくない。
図々しいのはわかっているけれど、春花は、自分を助けてくれた雪人のことが好きだ。
春花は、顔をセーターの袖で擦った。
やはり涙はこぼれない。泣けない人間になったのだな、とぼんやり考える。
ふと気づくと、傍らに投げ出したスマートフォンがメッセージの着信を知らせている。
『渡辺さん、土曜の飲み会来る? その後石田先輩の家でオールでゲーム大会やるんだけど』
先輩の青山優からのメッセージだった。彼は確か二十七歳。優秀なエンジニアで人当たりもよく、イケメンで皆から慕われている兄貴肌の青年だ。
専門卒で入社してきた春花のことも気に掛けていて、こうやってこまめに社内のイベントに呼んでくれる。
――オールナイトでゲーム大会か、楽しそうだな。
石田先輩は奥さんもかつて同じ会社に勤めていて、夫婦で若手社員を呼んで色々なイベントをしてくれる人だ。ゲーム大会に行ってみたい気持ちはあったが、すぐに諦めた。
雪人が『女の子が外泊なんてもってのほかだ』と怒るに決まっているからだ。
お父さんより厳しいな、と思いつつ、春花は丁重に断りのメッセージを送る。
『渡辺です。家族が厳しいので泊まりには行けないんです。飲み会は参加できそうだったら、また連絡します!』
そう返事をして、ため息をつく。
渡辺というのは、春花の旧姓だ。
『遊馬春花』と呼ばれたことはない。
――私が離婚しても、会社の人は何も気づかないんだよな。旧姓で働いてるし、総務の人には結婚してることを黙ってもらってるし……。私が『遊馬春花』だった事実は、ほとんど誰にも知られないまま、消えちゃうんだ。
むなしさと寂しさが胸をかきむしる。
――私、雪人さんがどうしても好き……
改めて自覚すると、その恋は消せない炎として燃え上がる。
偽装結婚した日から、毎日言い聞かせてきた。
『いつか別れるんだから、彼に恋するのをやめなきゃ』と。
けれどこの一年、恋心をなくすことはできなかった。何をどうやっても、春花の恋心を消す消しゴムは見つからなかったのだ……
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