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1巻

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「伊東さんは寮に住んでいるんでしたっけ?」

 ふと思い出したように外山が尋ねてきた。
 外山の言うとおり、華が住んでいるのは会社の寮だ。有給消化が終わる今月中に出て行かねばならない。新しい家を借りるには、敷金や家賃の他に引っ越し費用もかかる。寮には家電が備え付けてあるが、それらも新しく買う必要があった。お金があまりない今、家賃の高い都内で家を借りるのは無理だ。
 だから華は、田舎で家賃も安い実家の近くに戻ろうと考えていた。
 華の実家は兼業農家で、両親と兄夫婦、それから二人の甥っ子が住んでいる。実家に戻ることも考えたが、兄の家族の邪魔になってしまうし、すでに華の部屋もないから難しいだろう。
 だが、近所に住んでいれば母がお米と野菜くらいは分けてくれるだろうし、事情を話せば家電を買うお金くらいは貸してくれそうだ。
 もちろん、留学がダメになったと知られたらものすごく心配するだろうから、そのことは伏せておくつもりでいる。そもそもまだ戻ることさえ伝えていないのだ。
 たとえ、戻るための適当な理由を見つけたところで『お見合いしてお嫁に行きなさい!』という、いつもの説教めいたお小言は避けられない。軽い頭痛を感じ、華はそっとこめかみを揉んだ。
 それが一番の問題なのだ。お見合い結婚などしたくないというのに。

「アメリカの生活は楽しみでしょう。期間は半年でしたっけ? 帰ってきたらまた一杯飲みましょうか」

 外山にそう言われ、華はうなずいていいのか悩んでしまう。
 実際は留学には行けず、地元に逃げ帰るのだ。言葉をにごして華は答える。

「私、留学後は東京にはもう戻ってこないんです。実家近くに帰っちゃうので」
「……そうだったんですね」

 虚を突かれたような表情で外山が言った。
 何をそんなに驚いているのだろうと思っているところに、注文した飲み物が運ばれて来た。
 シャーベット状の赤いお酒にカットしたイチゴがたくさん盛りつけてあり、ミントの葉が飾ってある。想像していたよりずっと素敵な飲み物だった。

「わ、素敵、おいしそう」

 華は笑みを浮かべたまま、ちょっと首を傾げて外山に尋ねる。

「外山さんは何を頼まれたんですか」
「クイーンズ・ペックっていうカクテルですよ。飲んでみますか」

 華はしばらく考えた末、そのお酒をひと口もらうことにした。
 普段なら人のお酒を飲ませてもらうことはないのだけれど、憧れの外山と二人きりで非日常的な空間にいる、というシチュエーションで浮かれているのかもしれない。

「あ、おいしい。初めて飲みました」

 ちょっと苦い後味だが、ワインのような味もする不思議なカクテルだった。
 口の中がさっぱりする。

「伊東さんは、カクテルはあまり飲まないんでしたっけ?」
「そんなことないですよ。ただこういうお店のカクテルって、飲んだことがなくって。本格的ですね」

 華はそう言って、シャーベットの中に沈んだイチゴを、柄の長いスプーンですくった。
 ほんのりアルコールの染み込んだイチゴは得も言われぬおいしさだ。
 にこにこしている華を、外山も柔らかな笑顔で見つめている。その表情はやっぱり大人っぽくて、華のドキドキが全く収まらない。

「留学後、ご実家近くに戻るということは、地元がお好きなんですか?」

 外山にそう聞かれ、華は首を振った。

「……できれば東京に住みたかったんですけどね」

 思わず正直な自分の気持ちを答えていた。
 高校までの友達は皆、地元を出て働いたり嫁いだりしているし、買い物をするにも、大きな街へは車で一時間以上かかる。華にとって、実家のそばはあまり魅力的な場所ではない。
 カクテルに沈んだイチゴを食べ終え、華は今度はシャーベット状になっているお酒をすくった。
 甘いアルコールが口の中でとろりと溶けて、これまたたまらなくおいしい。
 さすがは外山がおすすめしてくれるだけのことはある。
 凍ったカクテルを夢中で食べていた華は、ふと外山との距離が近いことに気づいた。
 熱心にシャーベット状のカクテルを食べていた華をじっと見つめ、外山が目を細めて言った。

「ご実家近くに帰って来いって言われたんですか?」
「いえ……」

 華はまた首を振る。なぜ外山はこの話を気にするのだろう。
 話題を変えたいと思いつつ、溶けかけたカクテルを勢いよく飲み干した時、察してくれたのか外山が言った。

「次、何か頼みますか?」

 追及されなかったことに、ホッとした華はメニューを見た。やはりカクテルのことはよくわからない。
 悩む様子を見かねた外山が身を乗り出して、華が手にしているメニューを覗き込んでくる。

「これなんかどうですか」

 ふわりと外山からいい香りがする。お酒のせいなのか外山に接近したせいなのかわからないが、ドキドキが加速して止まらない。落ち着こうと外山の指先が示しているお酒の名前を見る。

「ジャック・ローズってどんなお酒ですか?」
「カルヴァドスベースのカクテルです。リンゴのブランデーのことなんですが、ご存知ですか?」
「いえ、初めて聞きました。リンゴのブランデー……ですか? 飲んだことがないからそれにしようかな……」

 どんな味がするのだろうかと思いながら、華はちらりと腕時計を見た。
 ――もう十時か……時間が経つのあっという間……
 あと一時間くらいでこの夢のような時間も終わるんだな、と思うと少し残念に感じる。その時ふと、一番大事なことを思い出した。

「そうだ、外山さん、今日はおみやげありがとうございました」

 華が姿勢を正して頭を下げると、外山が笑顔で言った。

「いいえ、大したものじゃなくてすみません」
「そんなことないです」

 華は首を横に振る。外山が、会社を辞める自分をこんなふうに気遣ってくれるとは思わなくて嬉しかった。そのことはちゃんと言っておかねばならない。

「あの……私、外山さんに、今までいろいろと気にかけてもらえて嬉しかったです。今日のおみやげも本当に嬉しかった」

 ちょっと酔っているかもしれない。そう思いながら、華は言葉を続けた。

「外山さんって、いつも、事務の私にまで声掛けてくれましたよね。外山さんはいろいろすごいんだから、もっと威張ってもいいのに……なのに、常に優しくしてくれて……余裕があるというか、そういうところが素敵だな、って。えっと、うまく言えなくてすみません」

 外山の他にも成績のいい営業マンはいるが、外山のように常に落ち着き払っている人は、ほとんどいない。
 華は、外山の一番すごいところは『人並み外れた余裕』だと常々思っていた。今日出張帰りに華の送別会に来てくれたのもその余裕の表れだと思う。けれど、本人を目の前にするとなかなかうまく伝えられないものだ。

「そうですか。余裕があるように見えますかね。そうでもないけどな」
「いいえ、部長なんていつも外山さんがいないところで『外山は余裕そうだから、もっと仕事振ろう』っておっしゃってましたし」

 外山がその言葉に噴き出し、カクテルをひと口飲んで華に言う。

「本当ですか。参ったな」

 おかしそうに笑う外山につられ、華までなんだか楽しくなってしまった。

「部長って、外山さんのこと、すごくお気に入りですよね」
「いいえ。部長と俺は、伊東さんが入社してくる前はケンカしまくりでしたよ。どうして俺だけこんなに難しいクレーマー顧客を押しつけられるんですか! って、フロアで怒鳴り合いをしたこともありますし」
「嘘……!」
「嘘じゃないです。今思えば俺を育てようとしてくれてたんだと思いますけどね。うちの部ではそれ以来笑い話のネタになってます。聞いたことなかったですか?」

 いつも冷静沈着な外山が会社で怒るなんて想像もつかない。

「聞いたことないです。本当なんですか?」
「俺もガキでしたから。この会社に入社して半年くらい経った頃かなあ。途中から話がズレてきて、挙句に部長がブチ切れて、いつも机に置いてある、あの変なぬいぐるみを投げてきて」

 たしかに部長の机の上には、彼が応援している球団のマスコットのぬいぐるみが置いてある。静かなバーの雰囲気に気を使い、声を殺して笑ったせいか、華は咳き込みそうになってしまった。
 ちょうど運ばれてきたカクテルを飲んで呼吸を落ち着かせ、華は明るい声で尋ねる。

「でも今は部長と仲がいいようにしか見えません」
「まあ、俺も大人になりましたし」

 すました顔で外山が言うので、華はまた笑ってしまった。さっきまでは緊張で身体が痛いくらいだったのに、笑ったおかげですっかりほぐれたようだ。
 机に置いてあるぬいぐるみが可愛らしくて部長には不釣り合いだとか、外山が全社表彰で社長賞をもらった時、スピーチが短すぎて司会者にもっとしゃべるよう言われ、仕方なく実家で飼っている猫の話をして大笑いされた話などをしているうち、すっかり時間が経っていた。
 どの話も、外山の巧みな話術にかかるとおかしくてたまらない。
 留学がダメになってから、久しぶりにたくさん笑った気がする。
 ――ここに連れて来てもらって良かった。外山さんってこんなに楽しい人だったんだな。
 微笑みを浮かべる華に、外山が言った。

「俺は伊東さんのこと、一番若いのに頼りになる人だなって思ってましたよ。どんな無茶振りされても笑顔でこなしてるし、仕事もほぼミスしないし」
「そうですか? そうかなぁ……」
「機嫌の悪い営業担当にキツく当たられても、いつもさらっと受け流していますしね。あれは大したものです。他の女子社員なんかよく泣き言言ってるじゃないですか」

 そう言われ、外山はそんなところまで見ていたのか、と内心ちょっと驚く。
 営業マンは時間に追われていることが多くて、イライラしてしまうのだろう。
 だから華は、気にしすぎないようにしているのだ。それに幼い頃から気の強い兄と姉に振り回されてきたので、理不尽さに慣れているのかもしれない。

「芯が強いのはいいことですよ。俺は、伊東さんの折れないところがいいなと常々思ってるから」
「ほめすぎですって、外山さん」

 華は笑顔で小さく首を振った。
 ――ホントは全然強くなんかないんです。武史と一緒のフロアで働くことが嫌になって、会社を辞めるんですから……。でも、こうやってほめてもらうとすごく嬉しい。外山さんっておだて上手だな……
 話が弾むのに任せ、気づけば、華はかなりの量のお酒を飲んでいた。
 身体が火照ほてり、ふわふわする。そんなにお酒に弱いほうではないが、カクテルというのは存外にアルコール度数が高いものなのかもしれない。
 それに酔いがまわっているせいか、どんどん口が軽くなっていく気がする。
 気がゆるんでしまって、ふと気づけば、華は普段なら言わないようなプライベートの愚痴ぐちまで、外山に話してしまっていた。

「この先地元に戻ったらお見合い結婚をさせられるので……私、兄と姉がいるんですけど、二人とも二十代前半で地元の人と結婚しているから、『お前も兄さんたちみたいに身を固めろ』って親がすごくうるさいんです。だから、実家の近くに住むの嫌なんですよね」
「伊東さんってまだ二十三ですよね。結婚にはちょっと早くないですか?」
「ウチの親にとってはそれが普通なんですよ。私は嫌なんですけど」

 実家の両親は……特に母は、子供たちを早く結婚させたいと考えるタイプだ。そのお陰で華は、子供の頃から『いいところにお嫁に行けるように』と家事やお行儀を厳しくしつけられてきた。
 だが、華は早く結婚したいと思っていないし、お見合いもしたくない。
 親の言う『地元の人と夫婦になって、それぞれの実家のそばで暮らすのが幸せ』という考え方には賛同できないのだ。結婚するなら好きな人としたいし、可能なら東京で暮らしたい。

「そうなんですか……結婚ね……」

 外山は真顔で考え込んでいる。
 ――どうでもいい話しちゃったかな。外山さん、返事に困ってるみたい。
 話を変えようと思った瞬間、外山が尋ねる。

「そういえば伊東さんは、なんで留学の後は地元に戻るんですか。そんなにお見合いを嫌がっているのに」

 また先ほどの話題に戻ってしまった。隠そうかと思ったが、どうせ外山は明日からは別の世界で生きてゆく人だ。このひどい経験も、外山がいっぱい笑わせてくれたようにいつか笑い話にしたい。そう思った華はつい本当のことを口にしてしまった。

「ホントは、留学行けなくなっちゃったんです。……業者に費用を払った後、倒産したうえ、社長がお金を持ち逃げして」
「は?」

 外山が珍しく鋭い声を上げて絶句する。外山のこんな驚いた表情は初めて見るな、と思いつつ、華は少しためらって、正直に答えた。

「だから、私、明日から人生仕切り直しなんです。元からけっこうギリギリの計画で、寮費も食費も込みの語学学校に行くプランだったんですけど……日本に帰ってきたらちょうど冬なので、そのままスキー場で住み込みのバイトをしてお金貯めて、また新しく仕事を探そうかなって思ってたくらいで。資金も余裕がなかったんですよね」

 みじめな話をしていたら、武史にひどい振られ方をして、もう同じ会社にいたくないと思った時のショックが、ありありとよみがえってきた。
 少し時間が経った今なら、武史には大事にされていなかったことがわかる。
 あの数ヶ月にも満たない交際の中で、どれだけお互いの心を通わせたことがあっただろうか。
 仕事を頑張っているところを評価してもらって、好きだと言ってくれて嬉しかった気持ちは嘘ではない。だが、武史にとっては、その告白の言葉さえ、思いつきで言ったにすぎず、気持ちなんてこもってなかったのだ。だからこそ、あんなにあっさり華を捨てたのだろう。
 ――ダメ。今はせっかく楽しく過ごしてるんだから、あんな人のことを考えるのはやめよう。
 華は沈み込んでゆく気持ちを振り切り、顔を上げて笑ってみせた。

「そのことは会社に相談したんですか? そんな事情があるなら退職を撤回できたかもしれない。辞めると聞いて正直、俺は驚いたんですが……」

 真剣な外山の問いを、華は否定で返す。

「いいえ。ちょうど会社は辞めたいなと思っていたので」
「どうして?」

 華は口をつぐむ。武史の話はしたくなかった。少なくとも、憧れの人に聞かせたい話ではない。
 だが、下手に話を作っても、頭のいい外山には見抜かれてしまう気がする。
 華は手元のマティーニを飲み干して、不自然なほど明るい声で言った。

「ないしょです! すみません。つまらない話して。私の話なんかより、せっかく素敵なところに連れて来ていただいたからもっと楽しい話がしたいな」

 じわじわとこみ上げてくる薄暗い気持ちを振り払おうとしたけれど、なんだかうまく笑えない。
 アルコールのせいか、頭の芯がぼんやりしてきてネガティブな本音が漏れ出てしまう。

「明日から始まる、どん底な現実を忘れたいです、私」

 恋人もいない、留学もできない、お金もない、東京にもいられない……ないないづくしの人生が待っていることを少しでもいいから忘れたい。
 忘れてどうなるというわけでもないけれど、せめて今くらいは楽しく過ごしたいのだ。

「現実を忘れたい……ですか?」

 外山の不思議そうな声に、華は深々とうなずいた。

「はい。あ、でも今はすごく楽しいです。こんなカッコいいお店に連れて来ていただいて嬉しいし、外山さんみたいな素敵な方とたくさんお話できて、夢みたいな気分なので」
「夢みたいって……俺と一緒に飯食ったりしゃべったりしたこと、何度もあるでしょう? 他人行儀なこと言わないでください。俺としてはけっこう勇気出して誘っていたんですけど」

 勇気って、どういう意味だろう……華はふわふわする頭で外山の言葉の意味を考えながら話を続けた。

「でも、今日みたいな日に声を掛けてもらえたのが、個人的にありがたくて。私、あんまり一人になりたくない気分だったから」

 ――どん底にいることをつかの間忘れられるくらい楽しませてもらえて、本当に感謝してる。
 そう心の中で付け加えて、華はじっと自分に視線を注いでいる外山から目をそらした。
 グラスに口をつけようとして、そういえばもう飲み干してしまったのだと思い出す。
 ――ダメだ、私かなり酔ってるかも……
 さっきから、相当外山に気を許してしまって、しゃべりすぎている気がする。
 華はグラスを置いて深呼吸した。少し酔いを冷ましたほうがいいかもしれない、そう思った時、グラスに手をかけていた華の手に、外山の大きな手のひらが重なった。
 驚いて華はかたわらの外山を見上げる。
 引き締まった外山の喉元が、かすかに上下するのが見えた。
 ――外山さん、どうしたの?
 彼の視線は華にしっかりと向けられている。射貫いぬかれるような眼差しで、華は動けなくなってしまう。

「一人になりたくない、ね」

 考え込んでいた外山が呟く。
 包み込まれるように手を握られたまま、華は呆然と外山の整った顔を見つめた。

「えっと……はい……今日くらいは誰かと一緒にいたいな、って」

 ぎこちなく答えた瞬間、外山の手の熱さを意識し、華の心臓がどくんと音を立てた。

「じゃあ俺が、もう少しお付き合いしましょうか」

 無表情に華の話を聞いていた外山が、かすかに笑みを浮かべた。
 反則的なくらい魅惑的な笑顔に、鼓動が苦しいほど高まる。

「それとも、俺が相手じゃ嫌かな」

 突然何を言い出すのだろう。彼の意味ありげな言葉に反応できず、華は言葉を失った。
 巧みに他の客の視線から隔絶されたこの席が、急に逃げ場のないおりのように感じられてくる。

「あの……」
「嫌なら、今の発言は撤回しますが」

 そう言いながらも、外山は華の手を離そうとしなかった。
 ――嫌じゃないんだけど……でも……
 ためらって目を伏せた華に、不意に外山が身体を寄せてきた。
 たくましい身体が華に覆いかぶさり、あらがう間もなく軽々と唇を奪われる。
 ――あっ、何!?
 慣れたしぐさ、余裕に満ちたキスに華はめまいがしそうになった。
 お酒の匂いと、外山のまとっているさわやかな匂いが華の身体を包み込む。
 唇を重ねたまま、華はぎゅっと目をつぶった。
 伝わってくる外山の体温が、華の知らない大人の世界の入り口のように感じる。
 大きな手に手首をつかまれたまま、華は彼の舌先を受け入れた。
 かすかに唇を開いた華の反応に満足したのか、外山がゆっくりと唇を離した。

「……行きましょうか」

 外山が、華の耳元でささやく。その低い声がぞくりと肌を震わせる。
 華は引き込まれるように、自然とうなずいてしまっていた。
 普段なら絶対に、こんなことはしないのに……



   第一章


 ――こ、これは。たしかに現実を忘れてしまいそう……
 あまりの展開に、華の酔いはすーっと冷めてしまった。
 外山に連れてこられたのは、バーと同じホテルにある部屋だ。ここしか空いていなかったと外山は言うが、まさかこんなすごい部屋を取ってしまうとは思わなかった。
 華は半ば呆然としながら、豪華絢爛ごうかけんらんなホテルのエグゼクティブ・スイートの部屋を見回した。
 三十六階の部屋からはさっきのバーと同様に、東京の夜景が一望できる。
 しばらくぼんやりたたずんでいた華は、外山に『コンビニに行ってくるから、その間にシャワーを使って』と言われたことを思い出し、シャワーブースの扉を開けた。
 中はピカピカに磨き上げられ、いつか使ってみたかった高級ブランドのアメニティが並んでいる。
 華は服を脱いでたたみ、シャワーのコックをひねった。驚くほどいい香りのシャンプーやボディソープで身体を洗い、髪を適度に乾かして、置いてあるバスローブを羽織る。とてもふかふかだ。
 それから改めて、豪奢ごうしゃな室内を見回す。置かれたお茶を見つけ思わず心が弾んだ。
 ――これなんだろう? ハーブティーかな……あ、すごい、イギリスの紅茶もある! 

「何してるんです?」

 お茶を一つ一つ手にとって見比べている時に突然声を掛けられ、華はハッとして振り返った。
 いつの間に戻ってきたのだろうか。ビニール袋を手にした外山が、棚の上を覗き込んでいる華を不思議そうに見ていた。

「おかえりなさい。コンビニ遠かったんですね」

 なるべく落ち着いた口調で、華は答えた。だが外山の端整な顔を見ていると、じわじわと緊張が高まってくる。

「少し離れた場所にありましたので」

 いつもどおりの冷静な口調でそう言った外山が、袋からいろいろな飲み物を取り出した。

「伊東さんが飲みたいものがわからなかったので、いくつか買ってきました」

 そう言って、外山は残りのものが入ったコンビニの袋をベッドサイドのテーブルに置いた。

「ありがとうございます」

 華はお礼を言い、バッグから財布を取り出した。バーではご馳走になってしまったので、飲み物までもらっては申し訳ないと思う。

「いえ、いりません。シャワーを浴びてきます」

 脱いだジャケットを手に、外山が部屋から出て行った。
 ――またご馳走になっちゃったな……何から何まで至れりつくせりだ。
 いろいろとご馳走してもらう一方なのは、なんだか落ち着かない。
 華は外山が買ってきてくれた飲み物の中から、スムージーを選んで口をつけた。残りは部屋の冷蔵庫に片付ける。
 夜景を見ながらぼんやりそれを飲んでいると、夢の国にいるような気分になってきた。
 ――椅子もふかふか。いいなあこの椅子。
 全部飲み終えた華はため息をつく。
 正直に言うと、今回の件で外山のことをちょっと変わった男だと感じた。彼ならば華のような普通のOLではなく、もっときれいな女性を選べるだろうに、なぜ一夜の相手に華を選ぼうなどと思ったのだろう。
 ――私とは明日から会わなくていいから、後腐あとくされがないと思ったのかもしれないな。
 なんとなく自分の考えに納得する。
 華はリラックスチェアから立ち上がり、デスクの前の回転椅子に座ってくるくると回ってみた。
 実は、回転椅子が子供の頃から好きなのだ。さすが高級ホテルの椅子はよく回る……などと思っていたら、シャワーブースから出てきたバスローブ姿の外山と目が合ってしまった。

「何してるんですか?」
「す、すみません……こんなすごいホテル……珍しくて……」

 赤くなりながら、小さな声で華は謝った。さっきから外山には妙なところばかり見られている。お茶をごそごそ探っていたり、椅子に乗ってくるくる回っていたり。

「伊東さんは可愛いですね」

 外山がさらっと言い、うつむいていた華の頬に長い指で触れた。

「何を言ってるんですか、外山さんってば」

 頬に血が集まるのを感じる。雰囲気を盛り上げるために甘いことを言っているだけだとわかっているのだが、恥ずかしくてたまらない。

「……俺、何か変なことを言ったかな」

 華のあごを優しく持ち上げ、外山が整った顔を近づける。普段はきっちりと整えている短い髪が濡れて乱れているのが、華の目に新鮮に映った。

「伊東さんは俺のこと、嫌いではないですか?」

 外山の黒い目に覗き込まれ、華は首を横に振って震え声で答えた。

「き、嫌いだったら、ついてこないです、よ……?」

 距離が近すぎる。だんだん鼓動が激しくなってきて、華はぎゅっと目を閉じた。
 緊張しすぎて苦しくて、外山の目を見ていられない。

「なら良かった」

 低い声で呟いた外山がさらにぐいと近づき、華の唇を唇でふさぐ。何が『良かった』のかと、尋ねる間もなかった。シャワーを浴びたばかりだからだろうか。外山の唇はほんのりと水の味がした。
 椅子に座ったままの華は手首を大きな手につかまれ、抵抗できなくなる。唇が離れたかと思うと、外山の腕が今度は腰に回って、軽々と抱き上げられてしまっていた。

「嫌がられていないなら、俺も遠慮せずにすむな」

 たくましい腕の中でもう一度キスをされ、華の身体から力が抜けてゆく。武史とは比べものにならないくらいの力強さだ。これが大人の男の身体なのか、と思った瞬間、身体の芯がゾクリと震える。

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