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1巻
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しおりを挟むプロローグ
華は自分の部屋でぼんやりと天井を見上げたまま、動けずにいた。
ふわふわした明るい色の髪に指を絡め、無意識にぎゅっと引っ張る。
――こんなことが自分の身に起きるなんて……
重苦しいため息をつき、華はそっと目を閉じた。
華はつい最近、財産の大半を失った。お金を払い込んだ留学斡旋会社が倒産したうえ、そのお金を社長が持ち逃げしたのだ。夢ではない。インターネットのニュース記事になっているし、テレビでも『業界大手の留学業者が倒産し、社長が集めた費用を持ち逃げしました』なんてキャスターが言っていた。
――嘘だと思いたかった。会社も辞めることになってるのに……最悪だ……
この事実を知って半月ほど経つが、未だに立ち直れていない。そのくらい、華はショックを受けていた。
そもそもアメリカへの留学を決めたのは、数ヶ月ほど交際した恋人の武史に振られたからなのだ。
三年前に短大を卒業した華は、運良く一流企業であるインフラ系の専門商社、吉荻商事に入社することができた。営業事業部に配属され、事務職として多忙な毎日を送っていた華に声を掛けてきたのが、同じ部署の営業職である先輩、宮崎武史だった。
『一生懸命働いている伊東さんが好きなんです。だから俺と付き合ってください』
六つ年上の武史はそう言ってくれた。
華は比較的ほっそりと背が高く、栗色のウェーブを描いた髪に真っ白な肌、大きな茶色の目をしている。どちらかと言えば目立つ容姿をしているせいか、これまでも外見が好みだという理由で男性に声を掛けられたことはあった。だが生真面目な華は、中身に目を留めてくれない人とは付き合えないと思い、その申し出をお断りしてきたのだ。
華の中身を知って好きになった、と、そんなふうに言ってくれる人は初めてだった。しかも年上の人に――。華は彼を恋愛対象として考えたことはなかったものの、そう言ってもらえて単純に嬉しかったのだ。だから、その申し出にうなずいた。
お互い多忙でなかなか会えなかったけれど、彼はいつも『仕事を頑張る華が好きだ』と言ってくれた。
仕事一筋で、恋愛面は同僚の女子に先を越されてばかりだった華を武史は認めてくれたのだ。
社内恋愛で仕事に身が入っていないと思われると嫌だから周りには知られたくない、と武史に言われたため、華は絶対に周囲にバレないように気を使った。付き合っていた数ヶ月の間はデートもそれほどできなかったけれど、彼とはうまくいっていると思っていた。ゆっくり関係を築いていけば素敵な恋人同士になれるに違いない、と。
なのに……そこから先のことは思い出したくない。
去年のクリスマス、なんとか時間をやりくりして会社を飛び出し、華は武史との待ち合わせ場所に駆けつけた。でも、そこには誰もいなかった。何時間待っても、何度メールや電話をしても返事はなく、結局武史はその場所に来なかったのだ。
事故にでも遭ったのだろうかと心配していた華の気持ちは、翌日あっさり裏切られてしまった。
武史が、普通に会社に来ていたからだ。メールに返事はないし、電話にも出てくれない。なのに、武史は華を無視して普通に生活していたのだった。
何か事情があって携帯を見ていないのかと思ったが、武史から向けられた冷たい眼差しにそうではないのだとさとった。
何か武史に嫌われるようなことでもしたのだろうかと考えたものの、答えは出なかった。
一体何が起こったのかわからなくて、その日の記憶はほとんどない。
だが、いつもどおり仕事は忙しかった。営業部づきの事務という仕事柄、数字を扱う重要な業務も多いので、いつまでも引きずってぼんやりしているわけにはいかなかった。
しばらく経ったある日、必死で明るく振る舞っていた華のところに、武史からのメールが届いた。
『本気にさせちゃってたらごめんね。ひどい振り方したほうが諦められるでしょ?』
ただそれだけ書かれたメール――まるで『真剣だったのはお前だけだ』とせせら笑うような振り方だった。
華は相当なショックを受けた。武史が『仕事を頑張っている華が好きだ』と言ってくれたのは嘘で、からかわれただけだったのだ。その日から会社で武史の顔を見るたびに、彼の悪意のようなものを感じてしまって、震え出すくらい華は傷ついていた。
――あのどん底から立ち直るために、夢だった留学をするつもり……だったんだけどな。
華は壁際にうずくまったまま、膝の上に顔を伏せた。
気持ちは重く沈んでいるが、明日は最終出勤日だ。
皆がわざわざ集まって送別会を開いてくれるのだから、明日は笑顔で過ごさなければ。
笑顔で皆にお別れするのが、お世話になった吉荻商事での最後の仕事だと思う。
残高が心細くなってしまった貯金と、新しい生活の心配は、その後からにしよう。
送別会の席には、華が思ったよりもたくさんの人たちが顔を出してくれた。
武史の姿が見えないことに内心ホッとしつつ、華は愛想笑いを振りまく。
「伊東さんは留学楽しみかい?」
お酒が入って機嫌がいい部長の質問に、華は笑顔でうなずいた。本当は行かないのだが、今さら否定することもできない。
「はい! 営業事務の仕事をしていたら、もっとしっかり英語の勉強をしたくなっちゃって」
単純な理由だが、部長は納得したようだ。にこにこしながらそうか、と言って、ビール瓶を手に取ろうとしている。
「あ、私が……」
華は慌てて膝立ちになり、部長の空いたグラスに冷えたビールを注いだ。
席を見回すと、大量の案件を抱えて多忙なはずの営業マンの姿もちらほら見える。送別会だから気を使って、時間をやりくりして顔を出してくれたのだろう。
「伊東さんは優秀だったからな……俺としては残念だよ」
しみじみとそう言ってくれる部長に笑顔で会釈し、華はビール瓶を手に立ち上がった。
「部長、皆さんにご挨拶してきますね」
部長のそばを離れ、同僚にお礼を言ってビールを注いで回る間、華はずっと笑っていた。皆がいろいろと質問してくれたり、激励してくれたりする。同僚に恵まれたなと思いつつ、実はどん底であることを隠しているのが後ろめたくもあった。
複雑な気分で主任のグループにお酌をしていた華は、名前を呼ばれて振り返る。
「伊東さーん! こっちこっち! こっちおいでよ」
明るい声で呼んでくれたのは、営業マンの坂田だった。いかにもスポーツマン、といった感じの爽やかで男前な顔はすでに真っ赤に染まり、楽しそうに身体を揺らしている。
「あはは、きたきた~、さ、伊東さん、外山の隣にどうぞ」
坂田が指し示した隣には、営業部のエースである外山が座っていた。
端整な顔立ちに、サラリーマンらしくない鍛えられた身体の彼は、長身であることもあって、どこにいてもひときわ目立つ存在だ。どきん、と胸が高鳴ったが、慌ててそれを打ち消す。
ドキドキするのも無理はない。外山は入社した時から憧れの人なのである。優しくて、時々若手の華にも声を掛けてくれて、笑顔が素敵で……と、またしてもうっとりしかけていた華は、急いで自分を現実に引き戻した。
――外山さん、出張帰りなのに……来てくれたんだ。
いつも過密気味な外山のスケジュールを思い出して、嬉しくなってしまう。
今日の外山の予定には『五時まで京都で商談』と書かれていた。夕方の新幹線で京都から東京に戻ってきて、さらに送別会に参加するのは大変だったはずだ。最後だからとわざわざ顔を出してくれたのだろう。
華にとって、外山は本当に憧れの先輩だった。いや、華にとってだけではなく、女子社員や若手の営業マン、皆の憧れというほうが正しいかもしれない。
外山は中途採用で入社してきて今年で五年目だと聞いているが、営業成績は常にトップクラスだ。社長賞を三年連続で受賞している、凄腕営業マンなのだ。
上役の評価も非常に高く、来年度は同年代の中でいち早く主任に昇格するのではないかといわれている。外山がそれだけ優秀だということだろう。
「し、失礼します……」
ここに座って、と床を叩く坂田にうなずいて、華は外山と坂田の間に腰を下ろした。すると、外山と目が合い、微笑みかけられる。整いすぎた笑顔に気恥ずかしくなり、華は会釈をしてうつむいた。やはり胸の鼓動は収まりそうにない。
昔からそうなのだ。彼のそばにいると緊張してしまって苦しくなる。
その瞬間、外山の前に座っていた同じ営業事務の先輩、高野が華をじろりと睨みつけた。彼女は華が入社した当時からずっと、外山にご執心なのである。
――うっ、高野先輩ゴメンナサイ! 今日で私は去りますので……!
そう思いつつ高野に向かってにっこり微笑んだ華の耳に、外山の低い声が飛び込んでくる。
「お疲れ様です、伊東さん。今日で最後だなんて寂しいな」
外山が、切れ長の目を細めてじっと華を見ている。やはり言葉につくせぬくらいカッコいい。
最後の出勤日に憧れの彼の隣に座れて良かった、と思い、華は心の中でこの席に呼んでくれた坂田に感謝した。
そんな時、華はふとこの場にいない武史のことを思い出す。
――そういえば、武史ってば、外山さんをかなりライバル視してたよなぁ……武史と外山さんってチームは違うけど、歳は近いし。
武史はどうも外山が嫌いだったらしく、よく彼の悪口めいた愚痴を言っていた。
外山さんはそんなに悪い人じゃないと華が言った時、武史がムッとした表情を浮かべていたことまで、思い出してしまう。
しかし、こうして接していても、華には外山が武史が言っていたような男だとはどうしても思えない。あれは優秀な外山に対する、武史の嫉妬だったのだろうか。
――ううん、私にはもう関係ない。武史のことなんか思い出すのはやめよう。
華は武史の記憶を振りきって、明るい声で言った。
「外山さん、ありがとうございます。今日出張だったのに来てくださって。たしか燦光建設様の本社に行ってらっしゃいましたよね」
「ええ。伊東さんは相変わらず、営業担当者のスケジュールを完璧に把握していますね」
「いえ、そんな……外山さんにそう言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます」
外山のグラスにビールを注ぎながら、華はお礼を言う。
営業部で一番歳が若い華は、電話応対をすることが多かった。
お客様が営業担当者あてに電話をかけてきた時、お待たせせずに取り次ぐのは当然だと思っている。だから、部内の皆のスケジュールは、なるべく朝一番に確認して、しっかり把握するようにしてきた。そういう目立たない努力をほめてもらえると嬉しいし、忙しいのに若手社員のことをよく見ているのだな、と感心する。
――クールに見えるけど優しいんだよなぁ……外山さんは。会社の女の子たちが夢中になるのもわかるよ。
『華ちゃん、外山さんにランチとか飲み会に誘われたら、絶対に私も呼んで!』
そう頼んできた他部署の女子も一人や二人ではない。華なりに頑張って仲介したのだが、外山が彼女たちとそれ以上親しくなることはなかった。
もしかしたら外山は、同じ会社の女性にはあまり興味がないのかもしれない。
華は、すでに酔ってグニャグニャになっている坂田に水の入ったコップを手渡した。
「はい、坂田さんはお水飲んでくださいね」
「おー、伊東さん気が利くねー! アキラ君、伊東さんがくれたお水、もらっちゃうね……!」
完全にでき上がっている坂田はそう言って、水をごくごくと飲み干した。
アキラ君、と下の名前で呼ばれた外山が、べろべろになっている坂田の様子に苦笑する。
「坂田はもう飲まないほうがいいんじゃないかな。今日は家まで送りませんからね」
「へーき、へーきっ」
坂田もまた、外山に次ぐ優秀な営業マンなのだが、彼はとにかくお酒に弱い。接待の席では『飲まない』と断言しているが、今日は仕事ではないのでつい口にしてしまったらしい。
「ねえねえ、伊東さん! 伊東さんは外山のこと好き?」
べろべろに酔っ払った坂田に笑顔で尋ねられ、一瞬華の心臓がどくん、と音を立てた。動揺してしまったことに慌てつつ、華は深々とうなずいて答えた。
「えっ……はい、もちろんです」
「外山も大好きだってー。良かったねー」
――な、何を言い出すの、坂田さん……
酔っぱらいの戯れ言とわかってはいるものの、心臓が口から飛び出しそうなくらいドキドキ鳴っている。
しかし、この話の展開は不穏だ。そっと高野のほうを見てみると……案の定、彼女は不機嫌な顔をしていた。
「あ、でも、私だけじゃなくて、皆外山さんには憧れてますよ。それより坂田さんはもっとお水飲んでください」
華は、慌ててそう付け加え、空になった坂田のグラスをそっと取り上げてテーブルに戻し、新たに水の入ったグラスを置いた。
――高野先輩のご機嫌をなんとかしないと。
「先輩! ビール飲みますか?」
明るい声でそう話しかけると、不機嫌な顔をしていた高野が我に返ったように、大人っぽい笑みを浮かべた。
「あ、ありがとう、華ちゃん」
高野は、外山のことさえ絡まなければ、優しくて仕事もバリバリできる良い先輩なのである。恋は人をちょっぴりおかしくしてしまうのかもしれない。
華が外山の隣を離れて高野にビールを注いでいる隙に、赤い顔の坂田が外山の肩に思い切り寄りかかった。二人は同期で仲が良いらしく、会社でも坂田が外山にじゃれついている場面はよく見かけるのだが、今日も例外ではない。
「どいてください。俺に寄りかかって寝ないでください。おい、寝るなって、坂田!」
坂田にへばりつかれた外山が、わざと怒ったように坂田を押しのける。そんなしぐさにも二人の仲の良さを感じて、華はなんだかおかしくなってしまった。
思わず笑い声を立てた時、坂田にもたれかかられたまま、外山が言った。
「あ、そうだ。伊東さんにおみやげがあるんです。退職祝いにと思って」
目を丸くする華の前で、外山がカバンから小さな箱を取り出した。
「客先からの帰り道に、趣味のいい雑貨屋があったので」
嬉しくてつい笑顔になりつつも、華はそっと高野の様子を横目でうかがう。
だがさすがの高野も、外山が華に退職祝いを渡すことにまではムッとしなかったようだ。ホッとして、華は手を出して包みを受け取る。
「ありがとうございます。開けていいですか?」
外山がどうぞ、と言うのを確認し、華は和紙に包まれた箱を開けた。
中から出てきたのは、ヘアクリップだった。仕事中いつも華が髪を留めていたのと同じ形だが、黒塗りで細やかな螺鈿の花が散らされている。
ひと目見ただけで心が弾んでしまうような美しい品だった。
「わぁ、きれい!」
思わず笑顔になった華に、外山も嬉しそうな笑顔を返してくれた。
「気に入ってもらえたなら良かったです。京都って、いいお店がたくさんありますよね」
手の中にしっくりと収まったヘアクリップは、かなり高価そうだ。もらっていいのだろうかと逡巡したが、遠慮しすぎるのも、忙しい中買ってきてくれた外山に悪い気がした。
「外山さん、本当にありがとうございます。大事に使います」
「おお、外山、勇気出してプレゼントか……プレゼント……俺にはないの?」
半分寝ている坂田が、外山に寄りかかったまま拗ねたように言う。
「坂田にはありません」
外山がわざとらしい冷たい声で答えた時、幹事の先輩が立ち上がって手を叩いた。
「はーい皆さーん、そろそろ時間です! じゃあ最後に、本日の主役である伊東さんに挨拶をお願いしましょう。伊東さーん、こっち来てください!」
皆の前に引っ張り出された華は、今の自分が浮かべられる最高の笑みで場を見渡す。
それから深々とお辞儀をし、ひととおり、今日のこの席を設けてもらったお礼と、会社への感謝の言葉を述べた。
「今まで本当にお世話になりました。この会社で学ばせていただいたことを活かして、これからも頑張りたいと思います」
その言葉で締めくくり、華はいっそう深々と頭を下げる。長いようで短い三年間だったな、と思った瞬間、少し涙が出そうになってしまった。
――本当に明日から頑張らなくちゃ。これからが正念場なんだから……
華の前途を幸せなものだと思い、笑顔で送り出してくれている皆を見ながら、華は懸命に明るい表情を保ち続けた。
三月の今の時期は、ちょうど送別会のシーズンだ。次の予約が立て込んでいるらしい店から追い立てられるようにして出て行くと、出入り口には同僚や上司たちの姿が見えた。
「皆、二次会に行こうか!」
酔っ払った部長が、ご機嫌でそんなことを言っている。華は曖昧な表情を浮かべたまま、そっと人々の輪から一歩引いた。おじさまたちの二次会はとんでもない時間までカラオケに付き合わされるのだ。明日は土曜日なので、きっとエスカレートするだろう。
――今日で皆と会うのも最後だし、一応今日の主賓だから行ったほうがいいんだろうけど、真夜中までタバコもくもくの中でカラオケするの嫌だなぁ……かといって、暗いこと考えちゃうから家に帰るのも嫌だし。
悩む華の腕がつかまれたのは、その時だった。
自分の腕をつかんだ相手を見上げて、華はぎょっとする。
「と、外山さん……?」
しっ、というように指を立て、外山が切れ長の目を細めて囁く。
「伊東さん、よかったら俺と一杯やりません?」
意外な人からの思わぬ申し出に、華は目を丸くした。びっくりしすぎて、咄嗟に答えが返せないが、もちろん外山に誘われて嫌な気はしない。彼は営業部で働く若手から見れば、本当に憧れの存在なのだ。
――どうしようかな……? 今日で退職だから、わざわざ声を掛けてくれたんだよね?
家に帰っても、暗い未来を思い悩んでうずくまる時間が待っているだけ。華の終電は十一時過ぎなので、それまでは誰かと過ごせるなら、もちろんそのほうがずっとありがたい。何より、こんな素敵な人と話せるのは今日で最後だ。
――最後、かぁ……
なぜだか、不思議と切ないような苦しいような気持ちになる。そうだ、この人に会うのも今日で最後だから、お誘いに乗ろうかな。華はそう思い、外山の言葉にうなずく。
「はい、ありがとうございます」
外山がその答えに形の良い口元をほころばせ、ぐいと華の腕を引いた。
「それは良かった。じゃあこっそり抜けましょう、こっちです」
そう言って外山は華の腕をつかんだまま、勝手知ったる足取りでビルの間の目立たない路地に入った。
背後から『坂田どいて! 伊東さんがいなくなったぞ、主役なのに!』なんていう声が聞こえてくる。酔ってご機嫌な上司の誰かが華のことを探しているらしい。しかも坂田は相当酔って周囲を困らせているようだ。
「あの、外山さん。坂田さん、かなり酔っ払っちゃってるみたいですけど」
「いいんです、アイツはああ見えても、意外と酔っていません」
「えっ、そ、そうなんですか……あの、じゃあ高野先輩は呼ばなくていいんですか?」
「ええ、今日は、俺と二人で」
その言葉に、華の胸がさらにドキドキする。
――二人……! どうしよう。外山さんを私が独り占めしていいのかな。
華の腕を引いたまま、外山が足早に路地を抜けていく。
路地の先は大通りに通じていて、外山が手を上げるとすぐに流しのタクシーが停まった。
――外山さんと二人でタクシー乗っちゃった……
タクシーに揺られながら、華はそっと傍らの外山を見上げた。端整な横顔はいつも通り落ち着いていて、華がこの状況に胸を高鳴らせていることなど、気づいている様子もない。
華の視線を感じたのか、外山は顔にかすかに笑みを浮かべた。
いかにも大人の男、という感じの表情で、華の鼓動がますます高まる。
――外山さんって三十歳だっけ。あれ? 私のお兄ちゃんと同じ歳? 全然違うなぁ。ホント、いつも落ち着いているよね。
心の中で感心しつつ、華はなんだか照れくさくなって目を伏せる。
会社のエースである憧れの先輩と最後にお酒が飲めるなんて、素敵な思い出になりそうだ。
タクシーは、しばらく走って都心にある有名なホテルの車寄せに滑り込んだ。インターネットのグルメ特集などで名前を見たことはあるが、とても一人で入れるような雰囲気ではない。
「ここのラウンジが気に入っているんですが、いかがですか」
タクシーを降りた外山にそう尋ねられ、華は思わず姿勢を正した。
「は、はい! ここ、でいいです!」
緊張のあまり、妙なところで言葉を区切ってしまった。
ライトを反射して輝く大理石のタイルを踏みしめながら、華は外山の後をついて歩く。いつも仕立てのいいスーツをまとい、まっすぐに姿勢を正している外山の姿は、高級なホテルのロビーにしっくりと収まっている。このような場所に来ることに、慣れているように見えた。
緊張している華を振り返り、外山が笑顔で言った。
「景色がきれいで、好きなんです。ここ」
乗り込んだエレベータの中にも見事な花がいけてある。何から何まで、別世界のように感じる。
軽いベルの音とともに、エレベータは最上階に着いた。黒を基調とした薄暗いフロアはダウンライトでライティングされていて、高級感があふれている。
外山が慣れた様子で、入り口にいた店員に何かを告げた。きょろきょろと店内を見回していた華は、外山に手招きされ慌てて彼の後を追う。
――すごいお店……! こんなところ初めて来る。
案内された席は窓際だった。足元までの大きな窓一面に広がる光の海に華は目を奪われる。
外山にジャケットの袖を引っ張られ、華は我に返った。
「この席、気に入りました?」
「あっ、は、はいっ!」
夜景に見とれてしまい、外山に飲み物を選んでと言われていたのに気づかなかったようだ。
けれど外山は何も言わず、優しく笑ってもう一度メニューを差し出してくれた。
外山には、今までに何度かランチに連れて行ってもらったことがある。たまたま外山が早く帰れる日に、誘われて飲みに行ったこともあった。
大概は高野が『一緒に行く』とついてくるか、『外山さんとどこか行くなら私も誘ってね』と頼み込んで来る女子の誰かが一緒だったので、二人きりで……というのはなかったのだけれど。
だから、今日みたいに外山と二人きりで飲むとなると緊張する。
「今日は貴方と二人で飲めますね。嬉しいな」
外山が、華の考えていたことを見透かすように微笑む。
さすがに一流の営業マンはリップサービスが上手だ。華は恥ずかしくなり、外山の笑顔に曖昧にうなずいた。妙に雰囲気の良い二人用に区切られた席に案内されたせいか、脈が異様に速くなってくる。
――バーって、こんなカップル席みたいなのがあるんだ……うっ、緊張が最高潮に……
「どうしたんですか」
「いえ……」
おそらくは真っ赤になっているであろう顔を横に振り、華は慌ててドリンクのメニューを覗き込む。カクテルはあまり知らないので、知っている飲み物を探した。
――どうしよう、ビールでいいかな。いや、待って、こんなに雰囲気がいい場所だからいつもと違うものが飲みたいかも。
「これは?」
真剣に悩んでいる華の様子に気づいたのか、外山が長い指でメニューをさした。
フローズン・ストロベリー・ダイキリと書いてある。
「シャーベットみたいなお酒です。ここのはイチゴが丸ごと入ってますよ」
華は目を輝かせる。生のイチゴが入ったお酒なんておいしそうだ。
「ありがとうございます。それにします!」
頬を染めたままそう答えると、外山が微笑んでうなずいた。
笑顔もスーツ姿も低い声も、何から何までカッコ良くて決まりすぎなくらいだ。
――こんなイケメンが営業に来たら、話聞いちゃうよなぁ。取引先のお姉さまなんて、外山さんご指名で電話かけてきたりするし。
そんなことを考えながら、華は必死に熱い顔を冷まそうと努力する。
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