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1巻

1-2

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 ゆり子は、孝夫の申し出に無言で頷く。入院棟の区切りの扉に来たところで、孝夫が立ち止まった。

「ではまた明後日、ゆり子さんも身体に気をつけて」

 孝夫はそう言って、片手を上げて去って行った。
 ――私にまで優しくしてくださるなんて、なんて器の大きい人だろう。伯母様にお金を使いこまれたときは、心が折れると思ったけれど、斎川さんのお陰で助かった。私、まだ小世ちゃんを守れる……
 孝夫を見送り終えたゆり子は、もらった金額をその場で数え、メモ帳に控えて、小世の病室に駆け戻る。小世はぐったりと目を瞑っていた。
 先ほど起き上がったせいで疲れてしまったのだろう。

「ありがとう……孝夫さんのお見送り……」

 そう言って、小世が見事なルビーの指輪を外し、ゆり子に差し出した。
 ――どうして、最近すぐ外しちゃうんだろう。前はとても気に入ってたのに、綺麗って……
 ゆり子は小世から指輪を受け取り、枕元のポーチの中に片付ける。
 そして、孝夫から預かった封筒を小世の目の前にかざして見せた。

「あのね、小世ちゃん。斎川さんがお金を貸してくださったの。あ、もちろん、使った分は、私がアルバイトをして分割払いで返すから、気にしないで。もしくは結婚したら斎川さんにいっぱい甘えて、うまくチャラにしてもらってね」

 冗談交じりに言いながら、ゆり子は封筒から抜いたお金を、小世の枕元のポーチの中に隠した。
 残りは自分のぼろぼろのポシェットの、隠しポケットにしまう。
 財布に入れたら伯母に抜かれる。病院に無事に納めるまでは、このお金は守り抜かなくては。
 小世のポーチと自分の隠しポケット、それぞれいくらずつにお金を分けたかをメモしたあと、ゆり子は明るい声で小世に言った。

「いつも通りに、一番偉い先生が回診にいらっしゃったら、ここからお金を取って渡してね」

 小世はなにも言わずに微笑んだままだ。最近どんどん元気がなくなってきて、ゆり子がなにを言っても笑っているだけになった。

「もちろんそんなのいけないんだけど……この病院はそういうところだから、割り切ろう。ね?」

 ゆり子の言葉を笑顔で聞いていた小世が、不意に小さな声で言った。

「……ああ、幸せ。私、今が一番幸せなんだわ……」

 妙に達観たっかんした声音に、ゆり子の身体が強ばった。
 どうしたのだろう。何故急にそんなことを言うのか。
 小世が幸せになるのは、これからなのに……ゆり子はまだあきらめていない。小世を無理に励ますことはしないけれど、心の中では絶対に小世が元気になると信じているのに。
 ゆり子は唇を開こうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。

「私は、ゆりちゃんをあの家から出してあげたい。あんな場所に置いておけないわ……」

 小世が静かな、決意を込めた声で言った。
 明日をも知れぬ病で苦しみ続けていても、小世はゆり子の『お姉ちゃん』なのだ。
 昔から、必死にゆり子のことをかばってくれた。
 今もその愛情深さは変わらない。どんなに自分が苦しくても、ゆり子のことばかり心配している。

「私のことなんか、あとでいいよ……」
「だって、ゆりちゃん、貴女は私の宝物なのよ。宝物を放り出したまま行けないわ」

 ――行けないって……どこに……?
 ゆり子は不吉な言葉に青ざめた。

「え……急に、どうしたの……?」

 小世は大きな目で真っ直ぐにゆり子を見つめ、静かな声で、言い聞かせるように告げた。

「ゆりちゃん、これからなにがあっても、貴女は幸せになって……。私が貴女に抱いているのは愛情と感謝だけよ。絶対にそれを忘れないで」
「なに言ってるの? 小世ちゃん……急にどうしたの?」

 ゆり子は身を乗り出し、小世の痩せ細った指を握った。
 ――嫌だよ、そんなお別れみたいな言葉。これから先もずっと一緒だよって言って……!
 喉元のどもとまで出かかった言葉を、ゆり子は呑み込んで、別の言葉にすり替える。

「小世ちゃんは、私のことなんかより、まず結婚式を挙げられるように元気になろう? 斎川さんだって言ってくださるでしょう、元気になるまでずっと俺が支えますって……」

 ゆり子の言葉に、小世が優しい笑みと共に言った。

「……ねえ、ゆりちゃん、もう、七時過ぎよ。真っ暗だから帰って、危ないから」

 優しい声にうながされ、歯を食いしばっていたゆり子は、はっと壁の時計を見た。
 もう、面会終了時間を五分も過ぎている。いつもは、受付の人に迷惑を掛けないよう、きちんと時間を守っているのに。
 急いで病院を出なくてはと、ゆり子は立ち上がってコートを羽織はおった。

「そうだね、遅くなっちゃった! 明日も病院が開いたらすぐ来るね」

 頷いた小世が、気付いたようにゆり子に言った。

「あ……そうだ、ゆりちゃん。明日、アルバムを何冊か持ってきてくれる? お気に入りの写真を何枚か、手元に置いておきたいの」
「わかった。じゃあね、小世ちゃん」

 ゆり子は小世に手を振って、病室を出た。
 廊下を急ぎ足で歩いていると、小世の主治医の田中とすれ違う。
 ひょろりと背が高く、男前なのに身なりに構わない。髪は今日もボサボサだ。
 初めて会ったとき、『田中りょうと言います。三十三歳、毎朝髪をとかすのを忘れます、言わなくても、見ればわかるかな?』と自己紹介され、小世は大笑いしていた。
 ――あら? 先生は昨夜も当直で、今日の昼過ぎにお帰りになったのでは……?
 多忙すぎる田中の身を案じつつ、ゆり子は足を止め、彼に声を掛けた。

「こんばんは、田中先生」
「やあ、こんばんは」

 田中は足を止め、温厚おんこうな笑みを浮かべて挨拶あいさつを返してくれた。

「先生はまだお仕事なのですか?」
「気になることがあって、顔を出しただけなんです。本来は明日の朝までお休みなんですけど」

 ここは、名門の私立医大附属病院だ。
 偉い先生の中には、お金のない小世に冷淡な態度を取る者もいた。
 けれど、田中は違う。患者さんは皆平等に見るから、付け届けはらないと言って、ゆり子が必死にかき集めたへそくりを断ったのだ。
 田中は『将来、付け届けなんて制度は罰則対象になると思いますよ。僕は時代を先取りしているだけですから』と笑っていた。
 たまたま応接コーナーで立ち話をした他の患者達も『田中先生は本当に素晴らしいお医者さんですよ。腕もいいし誠実だし』と、口を揃えて言っていた。
 ――でも、時間外にわざわざいらっしゃるなんて……なんだか不安だわ。
 ゆり子は田中の顔を見上げながら、恐る恐る尋ねた。

「気になることってなんですか? 小世ちゃんの体調が悪いんでしょうか?」

 おびえた顔のゆり子を安心させるように、田中は言う。

「いいえ、新しい薬は合ってるかなって。忘れ物を取りに来たついでにここに寄っただけです」

 田中の答えに、ゆり子はほっとして頷いた。
 笑顔の田中に頭を下げて、ゆり子は歩き出した。だが、その足取りがだんだんと重くなる。
 ――本当についでに寄っただけなのかな。小世ちゃんの具合、私が思っているより悪いんじゃ。
 そう思ったら、足が止まった。のぞき見は悪いとわかっているけれど、不安に突き動かされて、ゆり子は足音を忍ばせて小世の個室に向かった。
 扉を開けようと躊躇ためらったゆり子は、わずかに開いた引き戸の隙間すきまに耳を寄せた。
 中から小世の声が聞こえる。

「もっと早く来て頂戴ちょうだい

 孝夫やゆり子に向けるのとはまるで違う、甘い、ねたような小世の声が聞こえた。

「また君はそんな我儘わがままを。約束通りの時間に来ただろう?」

 同じく、甘やかすような、ゆり子の知らない田中の声が聞こえる。
 ――え……? 田中先生……?
 ゆり子の頭が真っ白になる。

「……斎川さんや、ゆり子さんがいる時間帯には、来られないからね」

 ゆり子の心臓が、異様な音を立てた。
 自分が今耳にしている会話は、なんなのだろう。
 ひとしきり笑い合ったあと、田中が切り出した。

「小世、あの……そろそろ、痛み止めを変えないか? 夜も寝られないんだろう、身体が弱ってしまうよ。量は僕がちゃんと調整するから」
「万が一にも、話せなくなるのは嫌なの。ゆりちゃんと、先生と、最後までずっと話したい。頑張るから、もうちょっと待って……」

 すすり泣く小世の声に衣擦れの音が混じる。枕元に置いたパイプ椅子の位置を変えるような音がして、小世の声が聞こえた。

「ねえ、私、痩せた?」

 小世の声が不自然にくぐもって聞こえる。
 まるで誰かにしっかりと抱きしめられているかのようだ。

「変わらないよ。大丈夫だ」
「……先生の言うことなら、信じるわ。最後まで、馬鹿みたいに信じる」

 しばらく、会話が途切れた。どのくらい時間が経っただろう。田中の静かな声が響く。

「息苦しいだろう、やはり身体を起こさないほうがいい。横になろう」

 ゆり子はなにも考えられないまま、息を殺して耳を澄ました。

「待って、先生……」

 ゆり子は音を立てないように息を呑む。

「私……元気になれたら、先生と一緒に逃げたい」

 小世のすすり泣きを聞きながら、ゆり子は後ずさった。
 違う、小世は元気になったら、孝夫の押してくれる車椅子で結婚式を挙げるのだ。そう約束してもらって、笑ってうなずいていたのに。

「うん……治ったら、必ず……」

 主治医の田中は小世の身体のことをよくわかっている。治ったら、なんて言葉は、口にするのも心裂かれる思いに違いない。
 ゆり子は激しくなる鼓動を誤魔化ごまかすため、慌ててコートの胸を押さえた。
 足音を忍ばせて廊下を突っ切り、入院病棟の仕切り戸の先に出たあと、ゆり子は全力で走った。
 そういえば、田中は最近、孝夫の前に姿を見せない。いつから見せなくなったのだろう。
 ――そうなんだ。小世ちゃんは、田中先生が好きなんだ。
 じわじわと、実際に目に見た光景を心が受け入れ始める。
 さっき、小世が『幸せ』と繰り返していた理由が、ようやくわかった気がする。
 呆然ぼうぜんと病院のロビーを歩きながら、ゆり子は小世の甘い声を反芻はんすうした。
 小世はあんな風に、孝夫に甘えたことなど一度もない。
 ゆり子の前だから照れているのかと思っていたけれど、いつも礼儀正しくて、距離を保っていた。
 ――そうだよね、婚約してすぐに病気になっちゃって、斎川さんとはデートもしたことがないんだもの……好きとか恋とか、そんなの……なかったよね……
 孝夫からもらった婚約指輪を、お見舞いの時間以外は外してしまう理由も、今更ながらにわかった。
 田中の前では、孝夫にもらった指輪は外していたいからだろう。
 一歩建物から出ると、暖かな病院の中と違って、外は凍えるほどに寒い。
 小世には好きな人がいたのだ。人目を忍んでしか会えない恋人が。
 ゆり子に漏らさなかったのは、相手が自分の主治医だからだ。
 田中はこの大学病院の優秀な医師であり、たくさんの患者を抱えている。
 そんな彼が特定の患者と特別な関係になるなんて、許されない。
 露見ろけんすれば田中の責任問題に発展する。誰かに知られたら、会えなくなるかもしれない。
 その想いが、小世と田中の口を固く閉ざしているのだ。
 寒いのに、ゆり子の頭は異様に熱く火照ほてっていた。

『薬を強くしたらゆりちゃんや先生と喋れなくなる』

 小世の言葉が脳裏に浮かぶ。
 ――ああ、小世ちゃん……斎川さんの名前……言ってなかった……
 ゆり子の頬に、涙が一筋伝い落ちた。
 小世の恋は、咲いてはいけない場所で、はかなく咲いている。あんなに美しく優しい婚約者との間にではなく、道ならぬ道の路傍ろぼうに……
 ゆり子は孝夫に対して強い罪悪感を覚えつつ、ぎゅっと手を握った。
 ――黙っていなきゃ……小世ちゃんのこと、斎川さんに内緒にしなきゃ……
 小世の幸せな時間が、一秒でも長く続いてほしいと心の底から思う。
 あんな家で、娘をどうすれば高く売れるかとそろばんをはじき続ける親の下で、小世はゆり子をかばって、ずっとずっと冷たい傷ついた目をしていた。
 婚約者の孝夫に対しても、優雅に振る舞いつつも、一歩引いた態度を崩さなかった。そんな小世が、あんなに頼り切った甘えた姿を、田中の前では見せるなんて……
 ――小世ちゃんは先生が大好きなんだね。ちょっと抜けてるけど、優しいもんね、先生。
 ゆり子の心にとてつもない悔しさが湧き上がる。
 小世は歯を食いしばって生きてきた。なのに、どうして一番幸せなのが『今』なのか。
 神様は意地悪だ。元気で綺麗な小世と、田中を引き合わせてくれれば良かったのに。
 冷たい頬に、涙が流れた。
 ――斎川さん、本当にごめんなさい。でも私、小世ちゃんの気持ちを……優先してあげたいです……ごめんなさい……
 周囲からの破談の勧めもはね除け、一途いちずに小世に尽くしてくれる孝夫。
 ゆり子のことまで気に掛け、手を差し伸べてくれる彼を、ゆり子は今日から裏切るのだ。
 ――小世ちゃん、小世ちゃんは……私が絶対、守ってあげるから……
 ゆり子を心から愛し、守ってくれた人は、小世だけだ。
 伯母は、一度もゆり子の世話などしたことがない。
 引き取った当初も、三歳のゆり子をほぼ放置していたそうだ。泣いていても危ないことをしていても止めようともせずに。世話は家政婦に任せ、抱っこすらしなかったと聞いた。
 ゆり子が大人になれたのは、二つ年上の小世のお陰だ。
 幼い小世は、『さよが、おねえさんをします』と、常にゆり子の側を離れなかったそうだ。
 昔勤めていた家政婦が『小世お嬢様は本当に小さい頃から賢くて、ゆり子さんが危ないことをしないように見張っていらしたのですよ』と、何度も話してくれた。
 小世は、ゆり子が口に入れたものを器用に取り出し、縁側に出て行くゆり子を捕まえて、部屋に引っ張り戻していたらしい。家政婦達は皆、口々に小世の聡明そうめいさを褒めそやしていた。
 ――小世ちゃんは奥様にも旦那様にも似ず、本物の神童だったって、皆口を揃えて言っていたわ。私のことも、本当にちゃんとお世話してくれたんだろうな。
 小世は、大きくなってからも、頻繁ひんぱんにゆり子の部屋にやってきた。
 二人で一枚の布団にくるまって、お喋りをして過ごしたものだ。彼女が病に倒れるまで、いつもいつも、時間さえあれば二人で過ごしてきた。
 ゆり子の人生は小世と共にった。これからも、小世に側にいてほしい。
 ――三歳の頃から、小世ちゃんは私のお姉ちゃんなの……だから、絶対に私が守る。
 病院の敷地で嗚咽おえつしている若い女を、警備員が気の毒そうに一瞥いちべつして通り過ぎていった。



   第二章 たくされた『花嫁』


 昭和五十一年、春。
 柔らかな雨が降る中、小世の葬儀が無事に終わった。重苦しい気分で、孝夫はあたりを見回す。
 ――ああ……桜が終わるな……
 綺麗だった小世にふさわしい、美しく寂しい春の日。咲き誇る桜が雨に散らされ、白いカーペットのように葬送の道を彩っていた。
 小世の父親は放心状態だった。空っぽの声でゆり子に仕切りを任せてすまない、と言っている光景は見かけたけれど、この半年で十も老けたように思える。
 無理もない。一人娘の命を救えず、家運を懸けていた『政略結婚』までもが破綻したのだから。
 一方で母親のほうは、特に気にした様子もなく、それはそれで異様だった。
 孝夫は、小世の母の喫煙姿から目をそむけた。
 周囲に気付かれないようにそっと振り返ると、喪服のゆり子は、血の気のない顔で足元を眺めている。手には古びたカメラを抱えていた。撮影する様子はない。ただ、持っているだけだ。
 そのかたわらには、主治医の田中が立っている。
 孝夫の姿が目に入っているだろうに、田中は、一度も声を掛けてこなかった。理由はわかっている。
 三ヶ月ほど前、小世をアポなしで見舞いに行ったとき、見てしまったからだ。
 小世を車椅子に乗せて屋上に向かう、田中の姿を……
 白衣の田中は、『婚約者』の孝夫を一瞥いちべつし、無視して、笑顔で車椅子の小世に声を掛けた。
 まるで、恋人のように親しげな仕草だった。
 ――先生はあのとき、邪魔するなと言わんばかりに、はっきりと顔をそむけて俺を無視した。
 車椅子を押されている小世は、孝夫がいることに気付かぬ様子だった。
 背後から身を乗り出し、小世の顔をのぞき込む田中の頬をでて、笑っていた。
 あんなに幸せそうに、甘い笑い声を立てる小世を見たのは、初めてだった。
 孝夫は二人に声を掛けず、足音を忍ばせて元来た道を引き返した。
 田中を呼び止めなかったことは後悔していない。
 もし声を掛けていたら、小世の最後の幸福を潰していたからだ。
 残酷な男にならずにすんで、良かったと思う。
 ――あれで良かったんだ。俺は……間違っていない。俺の名誉よりも、小世さんが幸せに過ごせる時間のほうが大事なはずだ。田中先生も、俺に責められる覚悟だっただろう。
 孝夫はため息を吐き、雨上がりの空を見上げた。
 分厚い雲が裂け、まばゆい春の光が雨上がりの道を照らす。
 差し込んだ陽光は、まるで天国への階段のようだ。
 けれど、小世がその階段を上っていく姿が浮かばない。
 小世が何度も振り向き、足を止め、田中とゆり子を案じ、姿を捜しているような気がして、たまらない気持ちになる。
 ――俺と変わらない歳で、恋も叶わず……どうして……
 孝夫は目を伏せて、黒い革靴のつま先をぼんやり見つめた。
 普段は感情をコントロールできる自信があるが、さすがに今はかすかに涙がにじむ。
 同時に、小世との『約束』を思い出し、背にずしりと重いものがのし掛かった。
 ――俺は、大変なことを引き受けてしまったな……
 最後の小世との面会が孝夫の頭に浮かぶ。
 小世が昏睡状態になる数日前のこと。会社にいた孝夫は、小世の病院から電話を受けたのだ。
 なにかあったのかと焦ってコールバックすると、電話をかけてきたのは、ヘルパーの女性だった。
 小世から、伝言を頼まれたという。
『ゆりちゃんがいないところで話をしたいから、明日の午前中に来てください』とのメッセージに、孝夫は急遽きゅうきょ午前半休を取って、彼女の元を訪れた。
 ――なんの話だろう? なにか深刻な問題が……?
 だが、戸惑う孝夫の気持ちと裏腹に、小世はずいぶんさっぱりした表情だった。

『どうしたんですか、今日は急に』

 笑顔で尋ねると、小世は横たわったまま、大きな目でじっと孝夫を見つめた。

『来てくださってありがとう。ごめんなさい、無理を言って。孝夫さんに見て頂きたいものがあって』

 小世はきゃしゃな手を持ち上げ、枕元に置いてあったアルバムを指さした。それだけの仕草でもとても辛そうだ。慌てて手に取ると、小世は言った。

『それ……私が撮った写真なの。ご覧になって』

 頷いてアルバムを開くと、色あせた写真が何枚も目に飛び込んできた。写っているのは、どれも小さな子供だ。おかっぱ頭につぶらな目で、とても愛らしい。

『ああ、これはゆり子さんですね。こんなに昔からカメラを触っていらしたのですか?』

 驚いて尋ねると、小世はほんのりと笑った。

『ええ、私は写真を撮るのが好きなの。ゆりちゃん、昔から可愛いでしょう?』
『はい、可愛らしいです。貴女とゆり子さんは姉妹のようだ』

 孝夫の言葉に、小世はますます嬉しそうに微笑んだ。

『そう言われるの、とても嬉しい……』

 本当にゆり子が大切なのだろう。愛情にあふれた優しい声に孝夫は目を細める。

『これは、オートタイマーで二人で一緒に写ったの……家の庭で……』

 小夜が痩せ細った指で、一枚の写真を指した。椿の木の前にゆり子と並んでいるのは、今よりも若い小世だ。セーラー服を着ている。

『小世さんは、この頃からお美しかったんですね』
『まあ、お世辞せじを言ってもなにも出ませんことよ……いえ、孝夫さんが私にお世辞せじを言う必要なんてないわね。今まで、本当にありがとうございました』

 驚く孝夫に、小世は別人のように明るく言った。

『正直に言うと、病気になってしまったとき、婚約破棄されると思っていたわ』
『そんなことは……考えていません。貴女が大変なときに』

 孝夫はやや歯切れ悪く答えた。
 本音を言えば、孝夫は同情と親切心の狭間はざまで迷いつつ、小世には優しい世界で最後の幸せを得てほしいと願っている。はかない安らぎくらいは、裏方として守ろうと……すべて、孝夫の自己満足だ。
 強ばった顔の孝夫に、小世が優しく言った。

『私は、孝夫さんのことを、尊敬しています。だって……見逃みのがしてくれたから』
見逃みのがす?』
『私と田中先生が、貴方を差し置いて勝手に恋人を名乗り合っていることを』

 はっきりと言い切った小世に、孝夫は返す言葉もなかった。
 ――そうか、俺が気付いていることを、知っていたのか。
 人ごとのように孝夫は思った。

『私、田中先生が好きなんです。馬鹿でしょう、こんな身体で、なにを言っているのかしら』

 そう言って、小世は骨の浮いた手で、小さな顔をおおった。その端から、一筋の涙が流れ落ちる。
 初めて小世の涙を見て、孝夫は動揺した。

『小世さん。泣かなくていいんです、俺は田中先生とのことを責める気なんてこれっぽっちも……』

 慌てて手を外そうとしたが、小世は泣き顔を見せまいとするようにあらがった。

『私、貴方の地位目当てで、結婚しようと思っていたの。自分は一生恋なんかしないと思っていたから。相手なんて、お金があって、人間性が良ければ誰でもよかった。私とゆりちゃんを人間扱いしてくれる〝寄生先〟を得て、家から逃げ出そうと……そう思って生きていたのよ』

 血を吐くような告解こっかいの言葉に、孝夫は絶句した。

『お見合いしたときに思ったの。孝夫さんはとても……いい人そうだって。孝夫さんなら、ゆりちゃんをあの家から連れ出す力を、きっと貸してくれるって、そう……思って……』

 ――そうか、ゆり子さんのため……なのか。
 孝夫の知るゆり子は、いつも古くてぶかぶかの服を着ている。
 髪は自分で切り揃えたような、ざんばらのおかっぱで、手指はいつも荒れている。よくよく見れば息を呑むほど美しい顔立ちなのに、ボロボロの小さな痩せた姿しか印象に残らない。
 ゆり子の姿を思い出していた孝夫は、続いた小世の言葉に今度こそ絶句してしまった。

『孝夫さんとの縁談は、私が父に入れ知恵して、ごり押ししてもらったの』

 ――入れ知恵……? 
 孝夫は、小世の意味ありげな言葉に眉根を寄せる。

『土地を売る条件に、私との縁談を入れてって。私に孝夫さんの子供を産ませれば、お父様は、斎川家の後継者の外祖父になれるって。日本指折りの大富豪と縁が切れなくなるのよって』

 悲痛な声音の告白に、孝夫はなにも言えなかった。
 賢い女性とは聞いていたが……その選択には、小世の幸せなどなにもないではないか。
 孝夫は絶句する。小世が顔から手を離し、か細い声で言った。

『私、もっと写真を撮りたかった……あのカメラを持って、先生と一緒に、ゆりちゃんを連れて逃げたかったな……それで、新しい家に住んで、たくさん写真を撮るの。先生と植えた花とか、もっと可愛い格好をさせた、綺麗なゆりちゃんとか……たくさん……』
『こ……これからも……』

 ……撮れますよ。
 だが、その安請け合いがどうしても言葉にできない。小世に残された時間はあまりにも短いという事実が胸に迫り、まともに声が出ない。
 うつむいて歯を食いしばった孝夫に、小世が言った。

『孝夫さん、お願い。ゆりちゃんを守って。あの子を私の実家から連れ出してください』
『え、な……なにを……?』

 予想外の言葉に、放心していた孝夫は顔を上げた。
 そんなことを言われるなんて、まったく想定していなかったからだ。
 ――ゆり子さんを……? どういうことだ?
 硬直する孝夫を前に、小世はゆっくりと身体を起こす。そして、苦しげな顔で孝夫を見上げた。

『孝夫さんは、聞いてくれるでしょう。だって貴方は……善意の側にいたい人だから』

 小世の声は、嗚咽おえつこらえるように震えていた。
 孝夫の脳裏に、田中と小世の裏切りを許したときの気持ちが、ふたたび生々しくよみがえる。自分は、小世の言うとおりの人間だ。『善意の側』でいたいことを見抜かれている。

『お願いします、孝夫さん。母があの子をどんな目にあわせるかと思うと、死ぬに死ねなくて……』

 無理矢理起き上がったせいか、小世が激しくき込む。
 骨の浮いた背中をさすりながら、孝夫は看護師を呼ぶブザーに手を伸ばそうとした。そのそでを、小世の指がぎゅっと掴む。

『私は、子供の頃から母が大嫌いだった……! 自分が一番綺麗でいたい、そのために自分の妹をいじめ抜いて家から追い出してしまったような母なんて、大嫌いなんです。私、母のような人間になりたくない一心で、ゆりちゃんの優しい姉になろうとしていたの。ゆりちゃんのためじゃない。自分が嫌な人間にならないため……孝夫さんと同じなんです。私も、善意の側でいたかった』

 小世が痩せ細った肩を波打たせ、話を続ける。

『ずっとうしろめたかった。ゆりちゃんは、なにも疑わずに私をしたってくれたから。何回も何回も思ったわ。本物のいいお姉ちゃんになりたいって。そのためにも、ゆりちゃんをあの家から連れ出して、守ろうって。でも、もうできない……もう……できないのよ……』


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