海のこと

文字の大きさ
上 下
347 / 401
04 ー touch ー

3

しおりを挟む
 
 
海は海で、また色々な事に逡巡していた。

(呼べって、言われても……)

名前を付けてと言われた時は嬉しくて、彼に似合うような、相応しいような、色んなパターンを考えるのは楽しかった。
けれど散々考えて考えて、いざ手渡したものが、本当にそれで良かったのかどうか、彼に似合ってるかどうか、気に入ってくれたのかどうか。

気のせいか、一瞬、エッて顔をされたので、急に沢山のことが気がかりになった。

そもそも、自分が誰かの「名前」を呼んだ事など、今まであっただろうか。
ニックネームですら、無かったかも知れない。

街中や、電車の中や、作業所の中でも、誰か他人の話が聞こえて来て、みんな親しげに互いを呼び合い、話しかけ、笑う。

そういうのを、やった事が無い。

俺は無いけど……
あの人は、いつも色んな人と、班の人や、上長や、警備の人や、食事に行く店のウエイター、誰とでもいつも、楽しそうに話してて……ああ、ホラ。
自分の頭の中ですら「あの人」などと言って、自分で付けた名前を呼べていない。

知り合って、友人になって、好きだと、特別な人と言われて、……どうしたらいいのか。
俺は、そんな、いいもんじゃないのに。


嵐の夜、彼の家で、迂闊うかつに自分の事を話してしまった。
嘘偽りは全くなくて、本当に、気が付いてからずっと、何も憶えていないし、寮でもとにかく人が嫌で、一人でいたし、いつも一人で放置されていた。

障害のある人の部屋では、みんなそれどころではなく、自分だって誰かとまともな会話が出来る状態ですらなかった。

退院してからあの寮に入れられて、最初、周りが何を言ってるか理解していなかった。
少し知能レベルのおぼつかない子供とか、車椅子の人とか、身振り手振りでしか意思疎通のできない人。みんなの事情は詳しくは知らない。俺がその中で一番、何も出来ない奴だった。
それぞれ、短い間に、もっと状況のいい移転先や、補助具なんかで何とかなる奴らは自立支援を受けつつ働くのが決まって、尞を出て行った。入れ替わりにまた新しく車椅子の人なんかが来て、また出て行って。

自分だけ、しばらくそこで、何も出来ないまま過ごした。
ある程度身体は動くので、最低限の生活、食事、睡眠、排泄は自分で出来るレベル、入浴は介助がついて、順番に石鹸とシャワーで適当に流された。
他人を嫌がる反応を見せるようになると、自他の判断や自意識が認められると診断され、その辺りから自立訓練を始めさせられたようだった。

身体は動かせるのだから、触られたく無いなら身の回りの事は自分でしなさいと、促されるままに行動する事は、何とかやれた。場所移動の時は、手を引けないので、両方に輪のある電車の吊り革みたいなのを持たされて、それで引っ張って連れてかれていた。
触らなければ、一日中黙って大人しかったので、それは手が掛からなくて良かったと言っていた。
やらせれば真似させた通りに動くし、物の認識はあるので、次は脳機能と言語のリハビリとして、タッチパネルモニターとキーボードのある部屋に連れて行かれた。キーボードは硬めの感触で、それも機能訓練のうちだという事だった。放っとけば黙って閉じこもり一日中やっているので楽だと係官に言われた。

学習内容は、最初は同じ色、同じ形、文字の認識。画面に現れる形と、キーボードの同じものを探して打つ。タッチパネルに触れる。ゲームみたいなものだった。段階をクリアして、次のステージへ。次は文字の集まり、画面には物が映し出される。耳で音を聞く。
ずっとそういうのをやらされているうちに、急に、文字がその画面に映っている何かの呼び名を表すもの、という事が分かった。
名前があって、指をさして、次は、動作の言葉も覚えた。動作の一つ一つにもいちいち名前がついていて、色んな言葉を組み合わせて使っているのを知る。

そうやって少しずつ、まず自分の行動に関わる言葉と、同じ部屋にいるのが誰かを認識するようになった。
認識するようにはなったが、他人とは距離を置いて、ずっと黙っているので、言葉を理解し認識している事にはしばらく気が付かれなかった。
自分自身も、音声でアナウンスは聞いていても、自分で声を発しないので、頭の中で組み立てはするが、声に出す事は出来ていなかった。
会話の訓練は、放ったらかしではそもそも無理なのだ。
何か言われたら、首を縦か横に振る、同じ部屋の聾唖の人の真似をしていた。
声を出すのは、掴まれて出す悲鳴ぐらいだ。嫌な事をされて出る悲鳴だから、自分の声も嫌だった。

悲鳴。
嫌な事をされて、反射的に腹筋から喉に送られ発せられる音。それが身体に響くのも、耳で聴くことも嫌だった。
 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる

天災
BL
 高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる。

白雪王子と容赦のない七人ショタ!

ミクリ21
BL
男の白雪姫の魔改造した話です。

とろとろ【R18短編集】

ちまこ。
BL
ねっとり、じっくりと。 とろとろにされてます。 喘ぎ声は可愛いめ。 乳首責め多めの作品集です。

俺と父さんの話

五味ほたる
BL
「あ、ぁ、っ……、っ……」   父さんの体液が染み付いたものを捨てるなんてもったいない。俺の一部にしたくて、ゴクンと飲み込んだ瞬間に射精した。 「はあっ……はー……は……」  手のひらの残滓をぼんやり見つめる。セックスしたい。セックスしたい。裸の父さんに触りたい。入れたい。ひとつになりたい。 ■エロしかない話、トモとトモの話(https://www.alphapolis.co.jp/novel/828143553/192619023)のオメガバース派生。だいたい「父さん、父さん……っ」な感じです。前作を読んでなくても読めます。 ■2022.04.16 全10話を収録したものがKindle Unlimited読み放題で配信中です!全部エロです。ボリュームあります。 攻め×攻め(樹生×トモ兄)、3P、鼻血、不倫プレイ、ananの例の企画の話などなど。 Amazonで「五味ほたる」で検索すると出てきます。 購入していただけたら、私が日高屋の野菜炒め定食(600円)を食べられます。レビュー、★評価など大変励みになります!

身体検査が恥ずかしすぎる

Sion ショタもの書きさん
BL
桜の咲く季節。4月となり、陽物男子中学校は盛大な入学式を行った。俺はクラスの振り分けも終わり、このまま何事もなく学校生活が始まるのだと思っていた。 しかし入学式の一週間後、この学校では新入生の身体検査を行う。内容はとてもじゃないけど言うことはできない。俺はその検査で、とんでもない目にあった。 ※注意:エロです

首輪 〜性奴隷 律の調教〜

M
BL
※エロ、グロ、スカトロ、ショタ、モロ語、暴力的なセックス、たまに嘔吐など、かなりフェティッシュな内容です。 R18です。 ほとんどの話に男性同士の過激な性表現・暴力表現が含まれますのでご注意下さい。 孤児だった律は飯塚という資産家に拾われた。 幼い子供にしか興味を示さない飯塚は、律が美しい青年に成長するにつれて愛情を失い、性奴隷として調教し客に奉仕させて金儲けの道具として使い続ける。 それでも飯塚への一途な想いを捨てられずにいた律だったが、とうとう新しい飼い主に売り渡す日を告げられてしまう。 新しい飼い主として律の前に現れたのは、桐山という男だった。

処理中です...