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04 ー touch ー
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しおりを挟む海は海で、また色々な事に逡巡していた。
(呼べって、言われても……)
名前を付けてと言われた時は嬉しくて、彼に似合うような、相応しいような、色んなパターンを考えるのは楽しかった。
けれど散々考えて考えて、いざ手渡したものが、本当にそれで良かったのかどうか、彼に似合ってるかどうか、気に入ってくれたのかどうか。
気のせいか、一瞬、エッて顔をされたので、急に沢山のことが気がかりになった。
そもそも、自分が誰かの「名前」を呼んだ事など、今まであっただろうか。
ニックネームですら、無かったかも知れない。
街中や、電車の中や、作業所の中でも、誰か他人の話が聞こえて来て、みんな親しげに互いを呼び合い、話しかけ、笑う。
そういうのを、やった事が無い。
俺は無いけど……
あの人は、いつも色んな人と、班の人や、上長や、警備の人や、食事に行く店のウエイター、誰とでもいつも、楽しそうに話してて……ああ、ホラ。
自分の頭の中ですら「あの人」などと言って、自分で付けた名前を呼べていない。
知り合って、友人になって、好きだと、特別な人と言われて、……どうしたらいいのか。
俺は、そんな、いいもんじゃないのに。
嵐の夜、彼の家で、迂闊に自分の事を話してしまった。
嘘偽りは全くなくて、本当に、気が付いてからずっと、何も憶えていないし、寮でもとにかく人が嫌で、一人でいたし、いつも一人で放置されていた。
障害のある人の部屋では、みんなそれどころではなく、自分だって誰かとまともな会話が出来る状態ですらなかった。
退院してからあの寮に入れられて、最初、周りが何を言ってるか理解していなかった。
少し知能レベルのおぼつかない子供とか、車椅子の人とか、身振り手振りでしか意思疎通のできない人。みんなの事情は詳しくは知らない。俺がその中で一番、何も出来ない奴だった。
それぞれ、短い間に、もっと状況のいい移転先や、補助具なんかで何とかなる奴らは自立支援を受けつつ働くのが決まって、尞を出て行った。入れ替わりにまた新しく車椅子の人なんかが来て、また出て行って。
自分だけ、しばらくそこで、何も出来ないまま過ごした。
ある程度身体は動くので、最低限の生活、食事、睡眠、排泄は自分で出来るレベル、入浴は介助がついて、順番に石鹸とシャワーで適当に流された。
他人を嫌がる反応を見せるようになると、自他の判断や自意識が認められると診断され、その辺りから自立訓練を始めさせられたようだった。
身体は動かせるのだから、触られたく無いなら身の回りの事は自分でしなさいと、促されるままに行動する事は、何とかやれた。場所移動の時は、手を引けないので、両方に輪のある電車の吊り革みたいなのを持たされて、それで引っ張って連れてかれていた。
触らなければ、一日中黙って大人しかったので、それは手が掛からなくて良かったと言っていた。
やらせれば真似させた通りに動くし、物の認識はあるので、次は脳機能と言語のリハビリとして、タッチパネルモニターとキーボードのある部屋に連れて行かれた。キーボードは硬めの感触で、それも機能訓練のうちだという事だった。放っとけば黙って閉じこもり一日中やっているので楽だと係官に言われた。
学習内容は、最初は同じ色、同じ形、文字の認識。画面に現れる形と、キーボードの同じものを探して打つ。タッチパネルに触れる。ゲームみたいなものだった。段階をクリアして、次のステージへ。次は文字の集まり、画面には物が映し出される。耳で音を聞く。
ずっとそういうのをやらされているうちに、急に、文字がその画面に映っている何かの呼び名を表すもの、という事が分かった。
名前があって、指をさして、次は、動作の言葉も覚えた。動作の一つ一つにもいちいち名前がついていて、色んな言葉を組み合わせて使っているのを知る。
そうやって少しずつ、まず自分の行動に関わる言葉と、同じ部屋にいるのが誰かを認識するようになった。
認識するようにはなったが、他人とは距離を置いて、ずっと黙っているので、言葉を理解し認識している事にはしばらく気が付かれなかった。
自分自身も、音声でアナウンスは聞いていても、自分で声を発しないので、頭の中で組み立てはするが、声に出す事は出来ていなかった。
会話の訓練は、放ったらかしではそもそも無理なのだ。
何か言われたら、首を縦か横に振る、同じ部屋の聾唖の人の真似をしていた。
声を出すのは、掴まれて出す悲鳴ぐらいだ。嫌な事をされて出る悲鳴だから、自分の声も嫌だった。
悲鳴。
嫌な事をされて、反射的に腹筋から喉に送られ発せられる音。それが身体に響くのも、耳で聴くことも嫌だった。
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