海のこと

03 ー slowly ー

17-2

　
　
だって、彼はそもそも、好きという気持ちが分からないと言っていたのだ。
分からないってどう言うことだ。

以前に、彼のトラブル……というか、記憶障害の事について少し調べた時、何があったか分からないというパターンと、何を表しているものなのかが分からないという分類がある事を知った。

彼は、知らないとか、分からないという言葉をよく使う。
彼にとって、分からないというのはどっちの事なんだろう、と思っていた。
経験を忘れているのか、それとも、見知ったものの意味を丸ごと忘れているのか。

記憶は経験であり、感情と行動の記録だ。だとしたら、何も憶えていないという彼にとっては、起きている何もかもが初めてのもの、という事になる。
好きがわからない、と言っていた彼にとっては、僕が彼に好きだと言ってする事全てが、意味不明ってこと……になるのだろうか？
まるで、幼児期を狼と一緒に暮らしていた子供が、初めてヒトの社会や世間に関わっていくみたいに、全てが未知の世界の学習になるのだろうか。



昼休みのいつもの屋上。
海はサンドイッチをつまみながら、買ってあげた野菜ジュースのパックを、不審な顔をして眺め、それからストローを差して飲む。
そして一口目で、絶妙に変な顔をした。

「リンゴ多めの、甘いやつを一応選んだんだけど……」

「うん」

「身体にいいんだから、飲んで」

「うん」

頷いて、そのままストローに口をつけ、素直に飲み続ける。
この人は、文句は多いけど、僕の与えるものは何でも素直に受け入れるなぁ。
そういう所は可愛げあるけど……

「ホテルの飯、美味しかったな……」

ストローを噛みながら溜息混じりに、突然あの夜の話が君から出る。
僕はドキリとして、どういう反応をしたら良いのだろうと身構える。