海のこと

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02 ー he ー

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「俺が、こんな、駄目だから……ごめんなさい……」

顔を覆って、ずるりと壁際に座り込む。

「ああ、海……別に、平気だから……立ってよ」

海は立ち上がれもせず、ただ後から後から、涙が止まらない。
班長はそんな風にされて困ってしまって、その隣に、一人分の隙間を空けて、腰を下ろす。

「大丈夫か?」

班長は、着ていたウインドブレーカーを、いつかの時のように頭から被せてやる。
海は一瞬びくりとしたが、大人しくその上着に包まれた。

走って来たと言っていた、少しこもった体温。煙草と、彼の匂い。
懐かしい匂い……。

「泣かないで」

声が温かくて、余計に泣けてくる。

「うっ……うん……」

「海」

「うん……」

「迷惑じゃない。言っただろう」

「……何……」

「好きだって。憶えてる?」

「……」


憶えてる。

忘れない。
忘れたくない。ただ一つの言葉。

そうだ。
最初から言ってくれていた。
君の事が、好きだ、と言ってくれていたこと。
言葉で。声で。温度で。感触で。
見えないものを、心を、沢山の形にして伝え続けてくれたこと。
全部。

ごちゃごちゃと、頭だけで悩んでいた事、全てが整っていく。


「……おぼえてる……」

「憶えてる?」

「うん……うん……、分かった」

「……分かった?」

「……うん。分かっ……た」

「好きだから、だからだよ。分かった?」

「ウン」

泣きながら、何度もうなずいた。

好きだから。
好きだから、怖い。

やっと分かった。自分にも。
どうして彼がいつも優しく笑ってくれるのか。
どうして親切にあれこれ心配してくれるのか。
どうして今、すぐに戻って来てくれて、慰めてくれるのか。
どうして、傍に座って、好きだと言ってくれるのか。

自分が、何故それでこんなに涙が出るのか。


「……分かった……」


やっと、自分にも分かる。
ひとつの感情として、理解する。

涙が出ること。胸が痛くなること。
どうでもいいと、いつも思っていた、その奥底に。

憶えてもいない、気がついてもいないこういう気持ちが、自分の中に落ちていた事。

見えなかった、心のありか。その形。
見えなくても、確かに存在しているもの。

照らし続けてくれたから、見つけることが出来た。それを今、大事に抱きしめる。
忘れたくないものたちを。

……忘れたくない……。


「うん。分かってくれたら、それでいいから、泣かないで」

「ごめんなさい……」

「もういいから……」


班長はただ困って、困りながらも笑っていた。

何なんだ。どうなったんだ。
僕はやっぱり残念な奴だから、今のこの彼の気持ちと状況がよく把握できない。海はただただ、謝りながら泣いている。

でもやっと、気持ちが通じたみたいな気がする。
だって今日は僕の背中でじゃなく、僕の目の前で、君がこんなに泣いてる……


「もういいから。ほんと分かんないから、君は…。ちょっとホラ顔見せて」

「んん」

顔を上げる。

「触るよお」

少し近付いて、自分の着ていたパーカーの袖で、顔をゴシゴシ拭う。
力任せの摩擦が痛い。
彼の腕。彼の匂い。

「痛い」

「泣くからさ」

「やっぱり酔っ払いって、雑だ」

「黙れ」


へへ、と笑って、どん、と壁に背中をつけて座り込み、パーカーの袖伸びた、と愚痴る。


しばらくまた黙り込む時間。
隣の男の涙が落ち着くまで、静かに待っている。

距離を空けて二人、廊下に座り込んでる。

それだけの、けれど、温かい時間。


海は、そっと顔を上げる。

彼が隣にいる。
涙を拭いてくれたパーカーの袖口が、そこにある。

指先がふと動く。

あの時、プラネタリウムで、届かなかった手。


「……袖、……」


言い訳のように震える声で、

こわごわと、指先を、伸ばして……

やっと、そのパーカーの袖口に、そっとさわる。


「……袖、伸びたのか、……ごめん……」


細めのリブ編みの、綿ジャージの感触。
それから、その袖口から出ている、彼の小指の関節の上。

ほんの指先で、彷徨さまようように。一瞬。



さわれた。



ここに、
あった。


始めから、あったんだ。
いつも。



胸が一杯で、一度落ち着いた涙がまた溢れ出しそうになって、ぐっと下を向く。

班長はその指先に少し驚いて、それから、すぐ理解して、もう何度もそうして来たように、怯える手をぐっと掴み取り、強く強く握った。


「う」

びくりとして、引こうとする。でももう、離してくれない。

「冷たいね」

ハハッといたずらっぽく笑って、握り締めた手を揺らす。

「走って来たからさ、いま、めちゃくちゃあったかいだろ、手」

「……酔ってるからだろ……」

「まあ、それもあるねえ」

「……」

「握ってよ」

「……」


言われるままに、……躊躇ためらいながら、初めて好きだと言われたあの時のように、掴まるみたいに握り返す。
確かにここにある、皮膚の感触、しっかりした厚み、
……温かさ。


泣きそうになりながら、どきどきしていた。
温かくて、力強くて、包んでくれる優しい手。
けれど、その彼の手も、自分と同じように、脈が速く、強く打っているのを感じている。

海は少し緊張しながら、その温度と感触にしばらくゆだねていた。


温度と感触と、同じ鼓動に耳を澄ます。


あの時、好きだと告げられた時。

何もかも分からなくなって、手がくっ付いたように離れなかった。

やっと分かる。

こうしてずっと、ずっと握ってくれていれば、いつか温度が馴染み、自分の体温も、怖かった相手の感触も分からなくなること。

相手と同じになり、相手に溶け込んで、自分がここにけて消えてゆく。


触れられた事で、触れられた自分の存在を確認してしまうのが嫌だった。
いなくていいと、消えてしまいたいと思い、その裏腹に、消えるのは怖いと思っていた事。

けれど、この人と同じものになって、この人の中にごちゃ混ぜになって、こうして自分が融けてゆくことは、怖くない。

それは、温かくて、心地よくて、安らぎに近いものであるということ。


だからこのままずっとこうしていればいい。離れてはいけない。離れなくていい。

離れなければ、怖くない。ずっとこうしていれば。

ずっと、こうして、この手に触れていれば。
 
 
 
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