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奴隷のオークとヘタレな相棒
第二話 相棒
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「ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております」
主従契約を全て終えた俺達は、店主に見送られ、奴隷商館をあとにする。辺りはすっかり暗くなっていた。
俺の両掌には、先ほどまでずっと握っていた主人の右手の感触が残っている。相手の手を握ることで、お互いの気持ちが通じ合ったのか、どうやら主人だけでなく俺までもが「名残惜しい」と感じてしまった様だ。ちなみに、主人の手を握っている間、ずっと横にいた店主は特に何も言わなかったが、「もう首輪のチェックは済んだから、続きは帰ってからやってくれ」と顔に書いてある様だった。
俺がずっと暮らしていた奴隷商館は、アーヴァインの北西に位置する商業区の大通りにある。奴隷は国で認められており、特に亜人の奴隷は広く普及しているため、奴隷商館が人通りの多い市場などの大通りに堂々と店を構えていても、問題はない。
また、奴隷は一般家庭でも召使いやペットとして買うこともあるが、それ以上に商人や経営者が労働力として購入することの方が圧倒的に多い。そのため、同じ商業区に奴隷を購入できる場所があると、何かと都合がいいのだ。それに、亜人を扱う奴隷商館は、騒音などでご近所トラブルになりかねないため、住宅区に店を構えるわけにはいかないという事情もある。
「思ったより遅くなってしまったな。まずは宿を取らねぇと」
主人に先導され、奴隷商館の近くにある宿屋へと入る。その立地の都合上、亜人の奴隷も泊まれるが、奴隷のみで一つの部屋を取ることはできない。奴隷は主人と同じ部屋に泊まり、主人はベッド、奴隷は床で寝るのが一般的である。尤も、性奴隷の場合は、主人と一つのベッドで寝る場合もあるが、俺には関係のない話である。
「ツインもダブルも空いてねぇのか……仕方ねぇ、他の宿を探すのも面倒だし、シングル取るか。あと、毛布を一枚レンタルで。あぁ、いつも通り、風呂とタオルも頼む。いったん外に出るから、帰ってきた時に部屋の鍵を渡してくれ」
主人が受付で手続きをしている間、俺は主人の一歩後ろに立ち、後ろ手を組んで待機する。男は後ろ、女は前で手を組んで立つ様にと、奴隷商館で躾けられているのだ。
ひと通りの手続きが終わり、主人は宿屋を出る。俺は黙って、主人のあとに続いた。
「さて、次は冒険者ギルドだな。人を待たせてるんでな、少し急ぐぞ」
そう言い、主人は足早に、大通りを歩き進める。遅れない様に、俺もそのあとを付いていった。歩いている間、大通りを行き交う人間達の視線を、ひしひしと感じる。道路には街灯が等間隔に設置されているものの、昼間と比べると決して明るいとはいえない。だが、それでも俺の存在は一際目立っている様だ。二メートルほどある身長に、腰蓑一丁のオークが出歩いているのだから、注目されても仕方がないだろう。
アーヴァインは比較的温かい地域であるが、夜になると北方の山岳地帯から冷たい風が運ばれてくる時期がある。今がその時期であり、建物の間を吹き抜ける冷たい風が身体を突き刺し、正直言って肌寒い。目の前を歩く主人に気付かれない程度に奥歯をカタカタと震わせながら、腕を手で擦って少しでも暖をとった。
そして、歩くこと十数分。周りの建物とは桁外れに大きな建物ーー冒険者ギルドが見えてきた。冒険者ギルドはレンタルされた時に、何度か訪れたことがある。等間隔に並べられた窓から溢れる光は、まるで闇の中のオアシスの様だ。
主人は冒険者ギルドの入口である両開きのドアを開け、中へと入る。建物の中は、明るい茶色のフローリングが広がっており、オフホワイトの石造りの壁に囲まれていた。正面の奥にはカウンターがあり、冒険者と思われる屈強な人間達が密集している。右手には、円形の木造テーブルと椅子が並べられており、冒険者達の談笑スペースとなっている様だ。
左手には、張り紙が所狭しと貼り付けられた看板が並んでいる。冒険者は国民や国からの依頼が記された貼り紙の中から、請け負いたい仕事を選び、カウンターで受注する仕組みとなっている。仕事の内容は、荷物の運搬や薬草の採取などといった雑用や、人を襲う魔物の討伐、要人の警護などと多岐に渡り、冒険者のランクによって、できる仕事の幅が広がるのだ。ちなみに、強い魔物を狩ることを専門としている高ランクの冒険者は特に『ハンター』と呼ばれ、ハンター専門の仕事といったものも存在する。
俺達が中に入るまでザワザワと騒がしかったギルドが、水を打った様に静まり返った。街中を歩いている時と同様、俺達ーー特に、俺に視線が集まる。奴隷を連れて仕事する冒険者も少なくはないが、亜人の中でもわざわざオークを選んで配下に置く者は非常に珍しいのだろう。魔物や盗賊などを相手にするために武装した奴隷で編成された討伐隊に、オークが紛れ込んでいるならまだしも、腰蓑と首輪しか身に付けていないオークが一人の人間に連れられて、冒険者ギルドを訪れるという状況自体が不自然なのだ。
個人で一身に注目を浴びることがないため、ひどく居心地が悪い。どうしたものかと主人を見やると、主人はギルド内の不穏な空気を意に介さず、きょろきょろと辺りを見回していた。おそらく、待たせている人とやらを探しているのだろう。すると突然、爆発したかの様な男の怒声が、ギルド中に響き渡った。
「おい、遅えぞ! この俺様が、どんだけ待ってやったと思ってやがる!?」
その声に驚いて辺りを見渡すと、怒りを露わにした人間の男が、左方からズカズカと主人の元へとやってきた。俺より若干背が低い程度で、人間にしては、かなりの大柄である。また、スキンヘッドに人相の悪い顔、そして鍛え抜かれた肉体を惜しげもなく露出しているその風貌は、主人に負けず劣らずの山賊ぶりである。さらに、右肩に描かれている橙色を基調とした紅葉の刺青や、身体中に満遍なく刻まれている大小様々な傷跡が、ワイルド感をより一層引き立てている。それにしても、上半身裸のこの男といい、黒いジャケットを羽織っただけの主人といい、この時期に寒くないのだろうか。
「オルバー、悪い。思いの外、契約に時間が掛かっちまってな」
主人は男の顔を見上げ、右手で後頭部を掻きながら、素直に謝罪した。ギルドの入口付近で会話を続けるわけにもいかないと、比較的、人が少ない左手へと避ける。俺達が端に移動すると、静かだったギルド内は次第に活気を取り戻した。
「はぁ……それで、後ろのヤツが、そうなんだな?」
男にジロリと見られ、俺は思わずビクッと震える。間違いない、この男は主人と同等ーーいや、それ以上の実力を持っている。絶対的な強者が放つオーラに当てられ、俺の身体はすっかり萎縮してしまった。主人に逆らうつもりはないが、この男も敵に回したくないと、本能が悲鳴を上げている。
「あぁ、テッセン・オーグマーだ。どうだ、お前に似て、かなりのイケメンだろ?」
「オークに似てると言われても、全然嬉しくねえっ! 嬉しくねぇが……まぁ。ふむふむ、なるほどなぁ」
男は顎に手を当て、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら、俺の顔や身体をジロジロと見ている。敵視されているわけではないのに、強者に対する畏怖の感情と相まって、ひどく不快である。
ちなみに、俺は『イケメン』の意味を知らないので、主人が俺達のことを褒めているのか貶しているのかは分からない。だが、いずれにせよ、この男が「オークである俺に似ている」と主人に言われたことについては、心の底から不憫だと思った。
「テッセン。こいつはオルバー・ゼア。俺の幼馴染で、今も一緒にパーティーを組んでいる、プラチナランクの冒険者だ。まぁ、今は別行動だがな」
「おいおい、俺のことは俺自身に紹介させろよな。まぁ、こいつの言った通り、俺は味方だからよ。これからよろしくな」
主人に紹介された男ーーオルバーは俺に右手を差し出した。このポーズには見覚えがある。それもつい先ほど、奴隷商館でだ。俺は同じ様に両手を差し出そうとするが、そこへすかさず主人の声が俺達の間に入った。
「テッセン、握手は片手だけでいい。オルバーは右手を出しているから、お前も右手で握り返してやればいいんだ」
主人の指摘に、そういうものかと左手を引っ込める。そして、右手でオルバーの手を握ると、同じ握力で握り返され、軽く上下に振られた。これが本来の握手の形なのだろう。このやり取りに一体何の意味があるのかは分からないが、オルバーに抱いていた恐怖が、手の感触や体温よって、少しだけ溶かされた様な気がする。オルバーの顔を見ると、彼は俺を安心させるかの様に、ニッと笑ってみせた。おそらく、俺の心の内を見透かしていたのだろう。気を遣わせた様で、申し訳ない気持ちになった。
「なぁ、テッセン。お前もしかして、ティクロに両手でーー」
「おいオルバー、それ以上言うな!!」
ニヤニヤと揶揄う様に聞いてくるオルバーの声を遮る様に、主人が顔を真っ赤にしながら怒鳴りつける。それはもう肯定したも同然だろうと思いながらも、奴隷の分際で指摘することはできなかった。オルバーがヒュウと口笛を鳴らすと、主人の顔がさらに赤くなり、わなわなと震え上がる。そんな主人の様子を、オルバーは楽しんでいる様だ。
「それじゃあテッセン、俺達も両手で握手しようじゃねえか。いいだろ、これから一緒に戦う仲間なんだからよ」
「やらなくていい! テッセンに対して友好的なのは、俺にとっても好ましいと思うが、お前のそれはただ俺を揶揄いたいだけだろうが!」
オルバーが俺に差し出そうとした左手を、主人が咄嗟に掴んで振り下ろした。ここまで必死になる必要はないと思うが、やはり奴隷である俺は何も言うことができない。このままでは話が進まないと、主人が強引に話を切り替える。
「そんなことより、例の件についての調査はどうなってやがる。もう終わったのか?」
「あぁ、仕事が早くて正確なオルバー様は、お前からの依頼をしっかりと遂行しましたよ、ってな。この書類にまとめてあるから、確認してくれや」
オルバーは俺から手を離すと、腰に下げた鞄から紙の束を取り出し、主人に手渡した。主人は怒りを静めながら書類を受け取ると、パラパラと捲って中身を確認する。
「一つは、ハイネスカスの郊外にある男爵家。そして、もう一つは、モザルーの金鉱か……」
主人は眉間に皺を寄せ、低く唸る。心なしか、書類を握る手が強まっている様な気がした。
ハイネスカスもモザルーも、アーヴァインの国内にある町だ。首都であるアーヴァインから離れているが、馬車を使えばともに三日で到着する程度である。ハイネスカスは海に面しており、漁業が盛んで、船を利用した外交や観光客も多いため、街の隅々まで清掃作業が行き届いている綺麗な街だという噂を聞いたことがある。対してモザルーは、ハイネスカスよりやや内陸側に位置する鉱山の町であり、作業員と奴隷が大半で、観光客など滅多に来ないため、衛生状態はあまりよろしくない様だ。
「あぁ。目撃情報も複数あるから、確かな情報だ。特徴も分かりやすいしな」
話の内容から察するに、おそらく何かを探しているのだろう。それが冒険者としての仕事なのか、プライベートなのかまでは分からないが。
「それでも、この短期間で、これだけの情報が集まるとはな。流石、オルバーだ」
「だろ? お前と違って人望のある俺様の手にかかれば、ざっとこんなもんよ!」
「それを言うなら人脈だろうが。お前のそれ、ただの悪口になってんぞ」
「おう、そうだったか。悪い悪ぃ!」
二人は顔を見合わせ、笑い合う。俺はオルバーのことはあまり気に入らないが、流石は幼馴染というべきか、かなり気安い間柄である。これがただのパーティーメンバーであれば、ビジネスライクな付き合いをする冒険者も少なくない。
「ありがとう、助かった。そうだ、ついでにもう一つ頼みたいことがあるんだが、いいか?」
書類を自分の鞄に入れ、オルバーに十枚もの金貨を渡しながら、主人は突然思い付いたかの様に話を切り出した。
「あぁ、頼みって何だ?」
「お前のもう着てない服、もしあったら俺に売ってくれねぇか? できるだけ大きいやつで、とりあえず上下一着ずつ」
「いいけど、何に使うんだ……って、まさかお前!?」
オルバーが心底嫌そうに後ずさると、主人は心外だと言わんばかりに顔を顰めた。
「お前の考えていることは大体予想が付くが、そうじゃねぇ。今日、テッセンに着せる服が無えんだよ。服屋ももう閉まってるだろ?」
主人が苛立たしげにそう言うと、オルバーはほっと胸を撫で下ろした。俺にはオルバーの考えていることがよく分からないが、どうやら二人の間には共通の認識とやらがある様だ。
「なんだ、そういうことか。別に構わねぇが、テッセンは俺より図体がでけぇから、俺が持ってる服では入らねぇと思うぞ」
「そうか、それなら仕方ねぇな。テッセン、すまねぇが、とりあえず今日はその格好で我慢してくれ。服は明日、買ってやるからよ」
主人は俺の顔を見るなり、申し訳なさそうに謝ってきた。主人が奴隷に謝るという異様な光景に、オルバーは何も言わないどころか、特に気にした様子も見せない。主人が妙に腰が低いのは、自分を少しでも良く見せようとパフォーマンスしているわけではなく、どうやら素の様である。
「主人、奴隷である俺に謝る必要はない。それに、俺は今までずっとこの格好で過ごしてきた。服を買ってもらえるだけでも、充分有難い」
俺の言葉に、オルバーは目を丸くし、主人は気まずそうに視線を逸らす。俺は当然のことを言ったまでだが、一体どうしたのだろうのか。
「ティクロ。お前……何だかんだ言っておきながら、結局こいつに『主人』って呼ばせてるのか。お前はそれでいいのか」
「いや、そういえば、テッセンにはまだ伝えてなかったな。そもそも、テッセンが俺を呼んでくれたのって初めてだし」
主人を責める様にジロリと睨むオルバーに対し、慌てて首を横に振りながら弁明する主人。よく分からないが、『主人』と呼ぶのが変だったのだろうか。それならば、もっと別の言い方、例えば『主君』とか『ご主人様』などと呼んだ方が良かったのだろうか。
「まぁ、そこは二人でちゃんと話し合えよ。さて、せっかく北西まで来たんだし、久々に『太陽の雫』にでも行っちゃおうかなぁ」
先ほど主人から渡された大量の金貨に、オルバーは上機嫌でほくほく顔だ。表情がころころと変わる男である。
「あぁ、オルバーお気に入りの姉ちゃんがいる店か。あまり飲み過ぎんじゃねぇぞ。お前、酒癖悪いんだからよ」
「へいへい。そんじゃ、お前らはせいぜい、二人でよろしくやってろよな」
手をひらひらさせ、オルバーは冒険者ギルドから出ていく。その足取りは、巨体に似合わず軽かった。
「よろしくって、まったくアイツは……まぁ、いいや。さて、ここでの用事も終わったことだし、そろそろ飯に行くとすっか。ここの地下にある酒場に行くぞ」
オルバーを見送ったあと、俺は主人に連れられ、冒険者ギルドの右手の奥にある階段へと足を運んだ。当然、奴隷の身分である俺は主人より高い位置にいるわけにはいかないので、主人より先に階段を降りるつもりだったのだが、主人はそんなことを気にもせず先に降りてしまったため、俺は困惑しながらも主人のあとを追った。
「いらっしゃいませ。あっ、ティクロ様!」
栗色のボブヘアに丸い眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな若い女の店員が、俺達を出迎えた。主人の姿を見るなり、ぱあっと満面の笑みを浮かべながら、アメジストの瞳をキラキラと輝かせている。その表情はまるで憧れの人を前にしているかの様だが、それが尊敬なのか恋慕なのか、ただの営業スマイルなのかどうかは、対人スキルのない俺には分からない。
「よぉ、シシクル。席、空いてるか?」
「はい、空いてますよ。もし空いてなかったとしても、他の人をどかしてでも空けますからね!」
「いや、どかさねぇでいい、ここで待つから。それに、お前に『どけ』と言われた男どもが可哀想過ぎるだろ」
「ふふ。それより、あの、こちらの方はもしかして……?」
主人と軽口を言い合っていた店員が、ふと俺の顔を見上げる。女性の天敵として有名であるオークの顔や、裸同然の格好を見ても、彼女は嫌な顔一つしない。物怖じしない性格なのか、プロ根性の為せる業なのか、それとも主人の連れだからなのか。
「あぁ、やっと金が溜まったんでな。さっき奴隷商館に行って、こいつーーテッセンを買ってきたところだ」
「やっぱり、そうなのですね!」
おめでとうございます、と店員は手を合わせる。主人が念願の奴隷を手に入れたことに対して祝福している様だが、肝心の奴隷がオークというのは果たして喜ばしきことなのだろうか。
「テッセンさん、初めまして。冒険者の酒場『アレグシオ』の看板娘、シシクル・カナです」
店員ーーシシクルは俺の顔をしっかりと見ながら、にこりと会釈した。看板娘を自称するだけあって、地味目ながらも愛嬌のある顔立ちをしている。成人しているかしていないかの幼い顔立ちである少女は正直好みではないが、こんな俺にも笑顔を向けてくれる彼女に、不覚にも内心ときめいてしまう。
「テッセン・オーグマーだ。よろしく頼む」
照れを隠す様に、俺は自己紹介を返す。少しぶっきらぼうになってしまったが、シシクルは特に気していない様だ。
「はい、よろしくお願いします! ただ、ティクロ様は『南東の冒険者』ですので、お会いする機会があまりないのが残念ですね」
お世辞ではなく本当に残念そうな顔をするシシクルに、出会ってまだ数分にも関わらず、既に絆されそうだ。「俺は主人の奴隷だ」「俺の好みのタイプは美人で健康的な筋肉のついた女だ」と自分に言い聞かせ、昂った気持ちを落ち着かせた。それにしても、主人と出会ってから、俺に対して友好的な人間とばかり会っている様な気がする。主人の周りには似た様な人間が集まっているのか、それとも友好的な人間のみに会わせてくれているのだろうか。
ちなみに、アーヴァインの首都であるこの街は、ほぼ円形になっている。そして、国の中心部を『中央』と呼び、そこから見た方角で場所を指し示す場合が多い。つまり、主人は『南東の冒険者』であるため、アーヴァインの南東に位置する冒険者ギルドに所属しているということになる。奴隷商館は南東にもあるが、主人はわざわざ北西の奴隷商館まで足を運んだというのか。他の用事のついでで寄っただけかもしれないが、そこでわざわざオークを購入する主人の気持ちは、やはり理解できない。
「近くまで来たら、いつもここに寄ってるんだから、それでいいじゃねぇか。それよりシシクル、席へ案内してくれ」
「はい! それでは二名様、ご案内いたしますね。こちらへどうぞ!」
シシクルはどうやら、オルバーの様に表情がころころと変わるタイプの様だ。残念そうな顔を一転させて太陽の様な笑顔になったシシクルに先導され、俺達はあとを付いていく。周りから白い目で見られたり、陰口を叩かれている様な気がするが、プラチナランクの主人が周りを威圧しているのか、それとも看板娘であるシシクルに嫌われる原因を作りたくないのか、俺達に直接絡んでくる者は誰一人として存在しなかった。
冒険者ギルドの地下にある社員食堂ならぬ冒険者用酒場は、一階の冒険者ギルド同様にオフホワイトの壁だが、床は焦茶色のフローリングである。二十人ほど座れるL字型のカウンター席に、五十近くあるテーブル席、そして何かのイベントやショーがあったときに使用するであろうステージも設置されている。テーブル席は人が二人並んでも充分通れるほどの間隔があるため、窮屈さは感じないが、仕事が終わって飲みに来ている冒険者でごった返しているので非常に騒がしく、十人以上の店員が注文をとったり酒や料理を運んだりと忙しなく働いていた。
シシクルに案内されたのは、酒場の入口から遠い壁側にある二人席だった。主人がそのうちの一つの椅子に腰掛け、ふぅっ、と一息吐く。俺が主人の近くで後ろ手を組み、直立していると、主人はそんな俺の様子に苦笑し、もう一つの席を手で指し示した。
「テッセン。そんなところで突っ立ってねぇで、椅子に座りなって。一緒に飯食うだろ?」
主人の誘いに、俺は困惑した。今まで俺に対して優しく接してくれた主人であるが、流石に着席の許可を出すとは思ってもみなかったのだ。
「……いいのか? 普通、奴隷は主人と同じ席で食事をすることはないのだが」
「俺がいいって言ってんだからいいんだよ。なぁ、シシクル。別に座ってもいいよな?」
「えぇ。確かに本来であればテッセンさんの仰る通りなのですが、主人であるティクロ様の許可があれば何も問題はないですし、もちろん食事も提供いたしますよ」
同意を求める主人に、彼女はあらかじめ答えを用意していたかの様にスラスラと答えた。しかし、俺にはまだ別の、物理的な問題がある。
「だ、だが、俺が座っても大丈夫か? 壊れたりしないか?」
木で作られた、いかにも耐久力がなさそうな椅子をチラリと見る。だか、この問いについても、彼女はまたもやサラリと答えた。
「大丈夫ですよ。見た目はただの木材ですが、〈硬化〉と〈耐衝撃〉の『付与魔法』を掛けていますので、ドラゴンが踏んでも壊れません!」
「いや、それは流石に壊れるだろ」
シシクルの力説に、ティクロが突っ込みを入れる。彼女は戯ける様にウィンクし、愛嬌良くペロッと舌を出してみせた。
俺は『付与魔法』が掛けられた椅子を、じっと見つめる。『付与魔法』とは、対象物に対して様々な強化を施す魔法であり、『一時付与』と『永続付与』の二種類に分かれる。一時付与は魔力を上乗せすればするほど効果が上がり、永続付与は魔力を込めた分だけ効果時間が長くなるという性質を持つ。そのため、一時付与は主に冒険者や戦闘奴隷などが一時的に身体能力や武器を強化するときに使用され、永続付与は家具や道具などを長期間強化するために使われることが多い。
ちなみに、一時付与は少し勉強すれば誰でも使用できるが、永続付与は家具や武具などの職人が秘匿しているため、使用できる者は極僅かである。俺も一時付与は使用できるが、永続付与は使用できない。
もちろん、一時付与と永続付与を組み合わせれば、両方の性質を兼ね備えることもできるが、相当な技術力やコストを必要とするため、建築物や国の金庫などといった大規模なものにしか使われない。たかが木の椅子に、そこまでの付与を施すとは到底思えないのだ。
以上の観点から、この椅子に使われているのは、永続付与のみであると推測できる。主人の突っ込みの通り、数十トン、数百トンともなるドラゴンの体重には耐え切れないだろう。だが、俺程度の体重であれば、おそらく問題ない。これで、俺が椅子に座るのを断る理由はなくなった。
「……まぁ、そんなわけだ。お前は気にせず、俺と一緒に堂々と座って、飯を食えばいいのさ」
主人に再度勧められ、俺はおそるおそる席に座った。木で作られた背もたれのない簡素な椅子だが、永続付与の魔法が二つも付けられた高級品である。気にせずと言われても、慎重になるのも無理はない。産まれて初めて座った木の椅子は、じんわりとした温かさを感じた。いざとなったら俺が一時付与で強化しようと思ったが、俺が座っても壊れないどころか、全体重を椅子にかけてもギシギシといった様な嫌な音ひとつさえしない。
俺が椅子に座った瞬間、周囲からの鋭い視線を感じた。だが、主人が俺に対して椅子に座る許可を出しているのを聞いていたのか、周りも特に何かを言うつもりはない様だ。
「それでは、お水をお持ちいたしますね。ご注文は、そのあとでお伺いいたします」
シシクルはお辞儀をしてから、カウンターの奥へと消える。主人はテーブルの上に置いてあるメニューを開いたところで、ふと思い出したかの様に、俺に視線を向けた。
「そういえば、テッセン。食べ物の好き嫌いとか、あとアレルギーはあるか?」
主人に言われ、俺は頭の中で過去に食べたものを振り返ってみる。だが暫くして、考えたところで意味がないことに気付いた。
「好き嫌いは……分からん。産まれてから今まで、干し肉と黒パン、野菜や果物の皮しか食べたことがないからな」
「うわっ……そんな生活、俺だったら耐えらんねぇ。でもまぁ、今日からは俺が美味いもんを腹いっぱい食わせてやるからな!」
握り拳で自らの胸をトンと叩き、不器用ながらもニッと笑う主人の姿は、悪人面であるにも関わらず、慈愛の神様の様に優しかった。今までのひもじい生活を思い出し、目に涙が溜まるのを堪える様に目を伏せる。
「ただ、その様子だと、種族柄食べられないものとか、アレルギーがあるかどうかすら分からねぇってことか。まぁ、今回は俺が適当に注文すっかな……」
主人はそう言いながら、メニューをパラパラと捲る。識字能力がない場合は、店員に直接聞いて注文をとることになるが、主人は問題なく文字が読める様だ。
俺は、先ほどの主人の発言で分からない単語があったたため、思い切って質問してみることにした。奴隷に優しい、この主人であれば、面倒臭がらずに答えてくれるだろう。
「主人、アレルギーとは何だ?」
俺の問いに、主人が再び顔を上げる。予想通り、主人は嫌な顔ひとつせず、説明を始めた。
「ん? あぁ、簡単に説明するとだな、同じ食べ物でも人によっては毒となるものがあるんだ。それを食べてしまうとアナフィラキシーショックってやつを起こして、痙攣して動けなくなったり、最悪死んでしまう場合もあるらしい。それをアレルギー反応っていうんだが、そのアレルギーとなる食べ物は人によって色々あってな。代表的なもので言えば、そうだな……乳製品とか卵、小麦、ピーナッツとかかな」
主人の説明に、俺はポカンとする。言っていることは理解できるが、理解できない。矛盾している様だが、脳の処理が追いつかないのだ。
だが、俺はここで、数年前に奴隷商館で起こった出来事を思い出す。俺と同じ施設にいた奴隷が、レモンの皮を食べた直後に泡を吹いて倒れ、そのまま死亡した事件だ。その時は毒物が混入されていたのではないかと調査が行われたのだが、原因が分からず、結局『食中毒』として処理された。もしかしたら、あの事件は『アレルギー』というものが引き起こしたのかもしれない。
「あと、これはアレルギーとは違うんだが、犬や猫の獣人は玉葱やチョコレートが食べられないとか、ヴァンパイアはニンニクが駄目だとか、種族によって駄目なものもあるらしい。まぁ、食べてみて何かおかしいと思ったら、無理しねぇですぐ吐き出せよ。ある程度は俺が対処してやれるが、マジで命に関わるからな」
そこへ、ちょうど水を持ってきたシシクルに、主人は早速ビールを二つ注文する。他にも兎や猪を使った肉料理や、卵焼き、グリーンサラダなどを次々と注文していく主人に、シシクルは慣れた手つきで注文内容を紙に書いていく。そして、注文が終わると彼女は「それでは暫くお待ちください」とにこやかに会釈し、カウンターの奥へと戻っていった。
程なくして、小さな樽の様なジョッキになみなみと注がれたビールが運ばれてくる。主人の指導のもと、二人で乾杯したあと、主人はビールを半分ほど勢いよく飲み込んだ。続けて俺も飲んでみるが、シュワシュワと舌の上を弾ける不思議な感覚と、喉を突き刺すアルコールの辛さ、そして麦の苦さが合わさった何ともいえない味に、俺は思わず顔を顰める。そんな俺とは対照的に、主人はぷはぁっと上機嫌に息を吐いた。
「いやぁ、久し振りに飲んだが、ビールも悪くねぇな。いつもはカシスオレンジとかカルーアミルクとかばっかだけどよ、お前との乾杯はビールと決めてたんだ……ってテッセン、お前。もしかして、ビール苦手か」
「あぁ。初めて飲んだが、これは駄目だ」
「マジか……そしたら、ビールは俺が全部飲むから、そこに置いとけ」
俺は主人の前にジョッキを置き、水で口の中を洗浄する。その間に主人はジョッキ一杯目を飲み終わり、俺が残したビールに手を伸ばしていた。
「そういえば、テッセン。さっきの話だけどよ」
二杯目も半分ほど減った頃、突然主人がそう話を切り出す。だが、さっきの話とは一体、どの話だろうか。
「アレルギーの話か? そういえば、誰も知らない様な話を、何処でーー」
「いや、その話じゃねぇよ。お前さっき、一階でオルバーと話してた時、俺のことを『主人』って呼んだよな?」
どうやら、話は酒場に入る前まで遡る様だ。そういえば、先ほどオルバーが「二人で話し合え」と言っていたのを思い出す。
「あ、あぁ。『主人』ではなく、もっと丁寧に『ご主人様』と呼ぶべきだったか?」
「いやいや、逆だ、逆。俺のことは『ティクロ』と呼び捨てにしてくれねぇか。俺相手に『様』とか『さん』とか付ける必要はねぇよ」
主人にあるまじき発言に、俺は一瞬固まってしまう。俺は望んで奴隷になったわけではないが、あまりに奴隷らしくない態度を俺に要望する主人が、心底信じられない。いくら優しい主人といえど、最低限の礼儀というものはあるのだ。
「主人。普通、奴隷は主人の名前を、ましてや呼び捨てなどするものではーー」
俺は僭越ながらも主人を諭そうとするが、それを主人が割り込む様に制した。
「あぁ、そういうのは別にいいから。というか、話す順番がおかしかったな……そうだな、まずは、俺達のこれからの関係について話すべきだったな」
主人は暫く考え込んだあと、頓珍漢なことを言い始めた。俺達は主人と奴隷、それ以上でも以下でもない。これから主人が何を言い始めるのか、さっぱり想像できない。
「確かに、俺とお前は書類上は主人と奴隷の関係だ。『隷属の首輪』の制約もあるし、お前が俺の所有物であることには変わりねぇ。だが、俺はお前を奴隷として扱うつもりは一切ねぇし、主人としてお前にあれこれと命令するつもりもない。お前には奴隷ではなく、俺の『相棒』となってほしいんだ」
理解の範疇を軽々と超えてくる主人の言葉に、頭がクラクラする。特に難しい話をされているわけでもないのに、理解が追いつかない。主人が奴隷を『相棒』として扱うなど、前代未聞だ。
「いや、言っている意味がよく分からないのだが……何故、オークである俺なのだ? それに、お前には既にパーティーのメンバーがいるのだろう? たとえば、さっきのオルバーという男は、お前の相棒ではないのか?」
俺は主人に対し、当然の疑問を投げかけてみる。すると、主人は少し驚いたかの様に目を見開いた。
「……えっ? あっ、あぁ。まぁ、確かに今のところパーティーメンバーは俺とオルバーの二人だけだから、オルバーは俺の相棒と言えなくもないが……どちらかと言うと、オルバーとは『腐れ縁』みてぇなもんだな。子供の頃からの親友だし、大切な仲間だとは思ってはいるが、まぁ……ちょっと、色々あってな。それより俺は、お前のことを相棒にしたいと思っている。理由は、そうだな……まぁ、フィーリングかなぁ。さっき奴隷商人が言っていた通り、お前はオルバーと違って、真面目で素直そうだしな」
非常に曖昧な主人の答えに、俺はどう反応すればいいのか分からない。それなら、わざわざ俺を相棒にせずとも、主人と奴隷の関係のままでいいのではないかと思ったが、それを指摘するほど「奴隷として余生を過ごしたい」という思いがあるわけではないため、敢えて黙っておく。
そんな俺の沈黙をどう捉えたのか、主人は肩を落とし、溜め息を吐いた。即答できない俺に対して呆れているのかと思ったが、主人は殊勝な面持ちで俺を見つめていた。
「……まぁ、突然こんなことを言われたって、困惑するのは当然だわな。お前に信用してもらえる様なことを、まだ何ひとつやってねぇんだし。だからよ、これから少しずつ慣れていけばいい。椅子を使って、俺の前に座る。一緒に食事をする。雑談する。そういったことを少しずつ、少しずつ積み重ねていこうぜ。その上で、俺はお前の相棒になる資格があるかどうか、見極めてほしい。俺とは相性が悪い、嫌いだと感じたら、正直に言ってくれて構わねぇからよ。そしたら、俺がもっとお前に相応しい主人を探してやるからさ」
主人に言われた言葉を、頭の中で反芻する。正直、俺にとってあまりにも都合が良過ぎる提案であるため、何か罠があるのではないかと勘繰ってしまう。
だがこれは、俺がずっと忌み嫌っていた『奴隷』という身分から、精神的な意味だけであれど脱却するチャンスなのではないだろうか。それに、それが主人の望みであれば、それを叶えるのが奴隷としての役目である。この時点で既に矛盾しているが、俺はこの機会を決して逃したくはない。
俺は意を決し、テーブルの上を跨ぐ様に右手を差し出した。俺から握手を求めるのは、これが初めてである。
「分かった。では、よろしく頼むーー『ティクロ』」
「ーー!! あぁ、よろしくな」
俺が名前を呼ぶと、主人ーーいや、ティクロは嬉しそうに、俺の手を握り返す。ずっとビールのジョッキを握っていたせいか、彼の掌は冷たく、僅かに湿っていた。
「な、なぁ、テッセン。できれば両手で握ってほしいんだがーーもちろん、今度は『命令』ではなく、あくまで『お願い』な」
ティクロが照れた様に頬を染めながら、俺に願い求める。後半の台詞は別に言わなくてもいいのではと思ったが、律儀なティクロらしい。俺は嬉々として左手も差し出し、彼の右手を両掌で包み込んだ。
主従契約を全て終えた俺達は、店主に見送られ、奴隷商館をあとにする。辺りはすっかり暗くなっていた。
俺の両掌には、先ほどまでずっと握っていた主人の右手の感触が残っている。相手の手を握ることで、お互いの気持ちが通じ合ったのか、どうやら主人だけでなく俺までもが「名残惜しい」と感じてしまった様だ。ちなみに、主人の手を握っている間、ずっと横にいた店主は特に何も言わなかったが、「もう首輪のチェックは済んだから、続きは帰ってからやってくれ」と顔に書いてある様だった。
俺がずっと暮らしていた奴隷商館は、アーヴァインの北西に位置する商業区の大通りにある。奴隷は国で認められており、特に亜人の奴隷は広く普及しているため、奴隷商館が人通りの多い市場などの大通りに堂々と店を構えていても、問題はない。
また、奴隷は一般家庭でも召使いやペットとして買うこともあるが、それ以上に商人や経営者が労働力として購入することの方が圧倒的に多い。そのため、同じ商業区に奴隷を購入できる場所があると、何かと都合がいいのだ。それに、亜人を扱う奴隷商館は、騒音などでご近所トラブルになりかねないため、住宅区に店を構えるわけにはいかないという事情もある。
「思ったより遅くなってしまったな。まずは宿を取らねぇと」
主人に先導され、奴隷商館の近くにある宿屋へと入る。その立地の都合上、亜人の奴隷も泊まれるが、奴隷のみで一つの部屋を取ることはできない。奴隷は主人と同じ部屋に泊まり、主人はベッド、奴隷は床で寝るのが一般的である。尤も、性奴隷の場合は、主人と一つのベッドで寝る場合もあるが、俺には関係のない話である。
「ツインもダブルも空いてねぇのか……仕方ねぇ、他の宿を探すのも面倒だし、シングル取るか。あと、毛布を一枚レンタルで。あぁ、いつも通り、風呂とタオルも頼む。いったん外に出るから、帰ってきた時に部屋の鍵を渡してくれ」
主人が受付で手続きをしている間、俺は主人の一歩後ろに立ち、後ろ手を組んで待機する。男は後ろ、女は前で手を組んで立つ様にと、奴隷商館で躾けられているのだ。
ひと通りの手続きが終わり、主人は宿屋を出る。俺は黙って、主人のあとに続いた。
「さて、次は冒険者ギルドだな。人を待たせてるんでな、少し急ぐぞ」
そう言い、主人は足早に、大通りを歩き進める。遅れない様に、俺もそのあとを付いていった。歩いている間、大通りを行き交う人間達の視線を、ひしひしと感じる。道路には街灯が等間隔に設置されているものの、昼間と比べると決して明るいとはいえない。だが、それでも俺の存在は一際目立っている様だ。二メートルほどある身長に、腰蓑一丁のオークが出歩いているのだから、注目されても仕方がないだろう。
アーヴァインは比較的温かい地域であるが、夜になると北方の山岳地帯から冷たい風が運ばれてくる時期がある。今がその時期であり、建物の間を吹き抜ける冷たい風が身体を突き刺し、正直言って肌寒い。目の前を歩く主人に気付かれない程度に奥歯をカタカタと震わせながら、腕を手で擦って少しでも暖をとった。
そして、歩くこと十数分。周りの建物とは桁外れに大きな建物ーー冒険者ギルドが見えてきた。冒険者ギルドはレンタルされた時に、何度か訪れたことがある。等間隔に並べられた窓から溢れる光は、まるで闇の中のオアシスの様だ。
主人は冒険者ギルドの入口である両開きのドアを開け、中へと入る。建物の中は、明るい茶色のフローリングが広がっており、オフホワイトの石造りの壁に囲まれていた。正面の奥にはカウンターがあり、冒険者と思われる屈強な人間達が密集している。右手には、円形の木造テーブルと椅子が並べられており、冒険者達の談笑スペースとなっている様だ。
左手には、張り紙が所狭しと貼り付けられた看板が並んでいる。冒険者は国民や国からの依頼が記された貼り紙の中から、請け負いたい仕事を選び、カウンターで受注する仕組みとなっている。仕事の内容は、荷物の運搬や薬草の採取などといった雑用や、人を襲う魔物の討伐、要人の警護などと多岐に渡り、冒険者のランクによって、できる仕事の幅が広がるのだ。ちなみに、強い魔物を狩ることを専門としている高ランクの冒険者は特に『ハンター』と呼ばれ、ハンター専門の仕事といったものも存在する。
俺達が中に入るまでザワザワと騒がしかったギルドが、水を打った様に静まり返った。街中を歩いている時と同様、俺達ーー特に、俺に視線が集まる。奴隷を連れて仕事する冒険者も少なくはないが、亜人の中でもわざわざオークを選んで配下に置く者は非常に珍しいのだろう。魔物や盗賊などを相手にするために武装した奴隷で編成された討伐隊に、オークが紛れ込んでいるならまだしも、腰蓑と首輪しか身に付けていないオークが一人の人間に連れられて、冒険者ギルドを訪れるという状況自体が不自然なのだ。
個人で一身に注目を浴びることがないため、ひどく居心地が悪い。どうしたものかと主人を見やると、主人はギルド内の不穏な空気を意に介さず、きょろきょろと辺りを見回していた。おそらく、待たせている人とやらを探しているのだろう。すると突然、爆発したかの様な男の怒声が、ギルド中に響き渡った。
「おい、遅えぞ! この俺様が、どんだけ待ってやったと思ってやがる!?」
その声に驚いて辺りを見渡すと、怒りを露わにした人間の男が、左方からズカズカと主人の元へとやってきた。俺より若干背が低い程度で、人間にしては、かなりの大柄である。また、スキンヘッドに人相の悪い顔、そして鍛え抜かれた肉体を惜しげもなく露出しているその風貌は、主人に負けず劣らずの山賊ぶりである。さらに、右肩に描かれている橙色を基調とした紅葉の刺青や、身体中に満遍なく刻まれている大小様々な傷跡が、ワイルド感をより一層引き立てている。それにしても、上半身裸のこの男といい、黒いジャケットを羽織っただけの主人といい、この時期に寒くないのだろうか。
「オルバー、悪い。思いの外、契約に時間が掛かっちまってな」
主人は男の顔を見上げ、右手で後頭部を掻きながら、素直に謝罪した。ギルドの入口付近で会話を続けるわけにもいかないと、比較的、人が少ない左手へと避ける。俺達が端に移動すると、静かだったギルド内は次第に活気を取り戻した。
「はぁ……それで、後ろのヤツが、そうなんだな?」
男にジロリと見られ、俺は思わずビクッと震える。間違いない、この男は主人と同等ーーいや、それ以上の実力を持っている。絶対的な強者が放つオーラに当てられ、俺の身体はすっかり萎縮してしまった。主人に逆らうつもりはないが、この男も敵に回したくないと、本能が悲鳴を上げている。
「あぁ、テッセン・オーグマーだ。どうだ、お前に似て、かなりのイケメンだろ?」
「オークに似てると言われても、全然嬉しくねえっ! 嬉しくねぇが……まぁ。ふむふむ、なるほどなぁ」
男は顎に手を当て、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら、俺の顔や身体をジロジロと見ている。敵視されているわけではないのに、強者に対する畏怖の感情と相まって、ひどく不快である。
ちなみに、俺は『イケメン』の意味を知らないので、主人が俺達のことを褒めているのか貶しているのかは分からない。だが、いずれにせよ、この男が「オークである俺に似ている」と主人に言われたことについては、心の底から不憫だと思った。
「テッセン。こいつはオルバー・ゼア。俺の幼馴染で、今も一緒にパーティーを組んでいる、プラチナランクの冒険者だ。まぁ、今は別行動だがな」
「おいおい、俺のことは俺自身に紹介させろよな。まぁ、こいつの言った通り、俺は味方だからよ。これからよろしくな」
主人に紹介された男ーーオルバーは俺に右手を差し出した。このポーズには見覚えがある。それもつい先ほど、奴隷商館でだ。俺は同じ様に両手を差し出そうとするが、そこへすかさず主人の声が俺達の間に入った。
「テッセン、握手は片手だけでいい。オルバーは右手を出しているから、お前も右手で握り返してやればいいんだ」
主人の指摘に、そういうものかと左手を引っ込める。そして、右手でオルバーの手を握ると、同じ握力で握り返され、軽く上下に振られた。これが本来の握手の形なのだろう。このやり取りに一体何の意味があるのかは分からないが、オルバーに抱いていた恐怖が、手の感触や体温よって、少しだけ溶かされた様な気がする。オルバーの顔を見ると、彼は俺を安心させるかの様に、ニッと笑ってみせた。おそらく、俺の心の内を見透かしていたのだろう。気を遣わせた様で、申し訳ない気持ちになった。
「なぁ、テッセン。お前もしかして、ティクロに両手でーー」
「おいオルバー、それ以上言うな!!」
ニヤニヤと揶揄う様に聞いてくるオルバーの声を遮る様に、主人が顔を真っ赤にしながら怒鳴りつける。それはもう肯定したも同然だろうと思いながらも、奴隷の分際で指摘することはできなかった。オルバーがヒュウと口笛を鳴らすと、主人の顔がさらに赤くなり、わなわなと震え上がる。そんな主人の様子を、オルバーは楽しんでいる様だ。
「それじゃあテッセン、俺達も両手で握手しようじゃねえか。いいだろ、これから一緒に戦う仲間なんだからよ」
「やらなくていい! テッセンに対して友好的なのは、俺にとっても好ましいと思うが、お前のそれはただ俺を揶揄いたいだけだろうが!」
オルバーが俺に差し出そうとした左手を、主人が咄嗟に掴んで振り下ろした。ここまで必死になる必要はないと思うが、やはり奴隷である俺は何も言うことができない。このままでは話が進まないと、主人が強引に話を切り替える。
「そんなことより、例の件についての調査はどうなってやがる。もう終わったのか?」
「あぁ、仕事が早くて正確なオルバー様は、お前からの依頼をしっかりと遂行しましたよ、ってな。この書類にまとめてあるから、確認してくれや」
オルバーは俺から手を離すと、腰に下げた鞄から紙の束を取り出し、主人に手渡した。主人は怒りを静めながら書類を受け取ると、パラパラと捲って中身を確認する。
「一つは、ハイネスカスの郊外にある男爵家。そして、もう一つは、モザルーの金鉱か……」
主人は眉間に皺を寄せ、低く唸る。心なしか、書類を握る手が強まっている様な気がした。
ハイネスカスもモザルーも、アーヴァインの国内にある町だ。首都であるアーヴァインから離れているが、馬車を使えばともに三日で到着する程度である。ハイネスカスは海に面しており、漁業が盛んで、船を利用した外交や観光客も多いため、街の隅々まで清掃作業が行き届いている綺麗な街だという噂を聞いたことがある。対してモザルーは、ハイネスカスよりやや内陸側に位置する鉱山の町であり、作業員と奴隷が大半で、観光客など滅多に来ないため、衛生状態はあまりよろしくない様だ。
「あぁ。目撃情報も複数あるから、確かな情報だ。特徴も分かりやすいしな」
話の内容から察するに、おそらく何かを探しているのだろう。それが冒険者としての仕事なのか、プライベートなのかまでは分からないが。
「それでも、この短期間で、これだけの情報が集まるとはな。流石、オルバーだ」
「だろ? お前と違って人望のある俺様の手にかかれば、ざっとこんなもんよ!」
「それを言うなら人脈だろうが。お前のそれ、ただの悪口になってんぞ」
「おう、そうだったか。悪い悪ぃ!」
二人は顔を見合わせ、笑い合う。俺はオルバーのことはあまり気に入らないが、流石は幼馴染というべきか、かなり気安い間柄である。これがただのパーティーメンバーであれば、ビジネスライクな付き合いをする冒険者も少なくない。
「ありがとう、助かった。そうだ、ついでにもう一つ頼みたいことがあるんだが、いいか?」
書類を自分の鞄に入れ、オルバーに十枚もの金貨を渡しながら、主人は突然思い付いたかの様に話を切り出した。
「あぁ、頼みって何だ?」
「お前のもう着てない服、もしあったら俺に売ってくれねぇか? できるだけ大きいやつで、とりあえず上下一着ずつ」
「いいけど、何に使うんだ……って、まさかお前!?」
オルバーが心底嫌そうに後ずさると、主人は心外だと言わんばかりに顔を顰めた。
「お前の考えていることは大体予想が付くが、そうじゃねぇ。今日、テッセンに着せる服が無えんだよ。服屋ももう閉まってるだろ?」
主人が苛立たしげにそう言うと、オルバーはほっと胸を撫で下ろした。俺にはオルバーの考えていることがよく分からないが、どうやら二人の間には共通の認識とやらがある様だ。
「なんだ、そういうことか。別に構わねぇが、テッセンは俺より図体がでけぇから、俺が持ってる服では入らねぇと思うぞ」
「そうか、それなら仕方ねぇな。テッセン、すまねぇが、とりあえず今日はその格好で我慢してくれ。服は明日、買ってやるからよ」
主人は俺の顔を見るなり、申し訳なさそうに謝ってきた。主人が奴隷に謝るという異様な光景に、オルバーは何も言わないどころか、特に気にした様子も見せない。主人が妙に腰が低いのは、自分を少しでも良く見せようとパフォーマンスしているわけではなく、どうやら素の様である。
「主人、奴隷である俺に謝る必要はない。それに、俺は今までずっとこの格好で過ごしてきた。服を買ってもらえるだけでも、充分有難い」
俺の言葉に、オルバーは目を丸くし、主人は気まずそうに視線を逸らす。俺は当然のことを言ったまでだが、一体どうしたのだろうのか。
「ティクロ。お前……何だかんだ言っておきながら、結局こいつに『主人』って呼ばせてるのか。お前はそれでいいのか」
「いや、そういえば、テッセンにはまだ伝えてなかったな。そもそも、テッセンが俺を呼んでくれたのって初めてだし」
主人を責める様にジロリと睨むオルバーに対し、慌てて首を横に振りながら弁明する主人。よく分からないが、『主人』と呼ぶのが変だったのだろうか。それならば、もっと別の言い方、例えば『主君』とか『ご主人様』などと呼んだ方が良かったのだろうか。
「まぁ、そこは二人でちゃんと話し合えよ。さて、せっかく北西まで来たんだし、久々に『太陽の雫』にでも行っちゃおうかなぁ」
先ほど主人から渡された大量の金貨に、オルバーは上機嫌でほくほく顔だ。表情がころころと変わる男である。
「あぁ、オルバーお気に入りの姉ちゃんがいる店か。あまり飲み過ぎんじゃねぇぞ。お前、酒癖悪いんだからよ」
「へいへい。そんじゃ、お前らはせいぜい、二人でよろしくやってろよな」
手をひらひらさせ、オルバーは冒険者ギルドから出ていく。その足取りは、巨体に似合わず軽かった。
「よろしくって、まったくアイツは……まぁ、いいや。さて、ここでの用事も終わったことだし、そろそろ飯に行くとすっか。ここの地下にある酒場に行くぞ」
オルバーを見送ったあと、俺は主人に連れられ、冒険者ギルドの右手の奥にある階段へと足を運んだ。当然、奴隷の身分である俺は主人より高い位置にいるわけにはいかないので、主人より先に階段を降りるつもりだったのだが、主人はそんなことを気にもせず先に降りてしまったため、俺は困惑しながらも主人のあとを追った。
「いらっしゃいませ。あっ、ティクロ様!」
栗色のボブヘアに丸い眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな若い女の店員が、俺達を出迎えた。主人の姿を見るなり、ぱあっと満面の笑みを浮かべながら、アメジストの瞳をキラキラと輝かせている。その表情はまるで憧れの人を前にしているかの様だが、それが尊敬なのか恋慕なのか、ただの営業スマイルなのかどうかは、対人スキルのない俺には分からない。
「よぉ、シシクル。席、空いてるか?」
「はい、空いてますよ。もし空いてなかったとしても、他の人をどかしてでも空けますからね!」
「いや、どかさねぇでいい、ここで待つから。それに、お前に『どけ』と言われた男どもが可哀想過ぎるだろ」
「ふふ。それより、あの、こちらの方はもしかして……?」
主人と軽口を言い合っていた店員が、ふと俺の顔を見上げる。女性の天敵として有名であるオークの顔や、裸同然の格好を見ても、彼女は嫌な顔一つしない。物怖じしない性格なのか、プロ根性の為せる業なのか、それとも主人の連れだからなのか。
「あぁ、やっと金が溜まったんでな。さっき奴隷商館に行って、こいつーーテッセンを買ってきたところだ」
「やっぱり、そうなのですね!」
おめでとうございます、と店員は手を合わせる。主人が念願の奴隷を手に入れたことに対して祝福している様だが、肝心の奴隷がオークというのは果たして喜ばしきことなのだろうか。
「テッセンさん、初めまして。冒険者の酒場『アレグシオ』の看板娘、シシクル・カナです」
店員ーーシシクルは俺の顔をしっかりと見ながら、にこりと会釈した。看板娘を自称するだけあって、地味目ながらも愛嬌のある顔立ちをしている。成人しているかしていないかの幼い顔立ちである少女は正直好みではないが、こんな俺にも笑顔を向けてくれる彼女に、不覚にも内心ときめいてしまう。
「テッセン・オーグマーだ。よろしく頼む」
照れを隠す様に、俺は自己紹介を返す。少しぶっきらぼうになってしまったが、シシクルは特に気していない様だ。
「はい、よろしくお願いします! ただ、ティクロ様は『南東の冒険者』ですので、お会いする機会があまりないのが残念ですね」
お世辞ではなく本当に残念そうな顔をするシシクルに、出会ってまだ数分にも関わらず、既に絆されそうだ。「俺は主人の奴隷だ」「俺の好みのタイプは美人で健康的な筋肉のついた女だ」と自分に言い聞かせ、昂った気持ちを落ち着かせた。それにしても、主人と出会ってから、俺に対して友好的な人間とばかり会っている様な気がする。主人の周りには似た様な人間が集まっているのか、それとも友好的な人間のみに会わせてくれているのだろうか。
ちなみに、アーヴァインの首都であるこの街は、ほぼ円形になっている。そして、国の中心部を『中央』と呼び、そこから見た方角で場所を指し示す場合が多い。つまり、主人は『南東の冒険者』であるため、アーヴァインの南東に位置する冒険者ギルドに所属しているということになる。奴隷商館は南東にもあるが、主人はわざわざ北西の奴隷商館まで足を運んだというのか。他の用事のついでで寄っただけかもしれないが、そこでわざわざオークを購入する主人の気持ちは、やはり理解できない。
「近くまで来たら、いつもここに寄ってるんだから、それでいいじゃねぇか。それよりシシクル、席へ案内してくれ」
「はい! それでは二名様、ご案内いたしますね。こちらへどうぞ!」
シシクルはどうやら、オルバーの様に表情がころころと変わるタイプの様だ。残念そうな顔を一転させて太陽の様な笑顔になったシシクルに先導され、俺達はあとを付いていく。周りから白い目で見られたり、陰口を叩かれている様な気がするが、プラチナランクの主人が周りを威圧しているのか、それとも看板娘であるシシクルに嫌われる原因を作りたくないのか、俺達に直接絡んでくる者は誰一人として存在しなかった。
冒険者ギルドの地下にある社員食堂ならぬ冒険者用酒場は、一階の冒険者ギルド同様にオフホワイトの壁だが、床は焦茶色のフローリングである。二十人ほど座れるL字型のカウンター席に、五十近くあるテーブル席、そして何かのイベントやショーがあったときに使用するであろうステージも設置されている。テーブル席は人が二人並んでも充分通れるほどの間隔があるため、窮屈さは感じないが、仕事が終わって飲みに来ている冒険者でごった返しているので非常に騒がしく、十人以上の店員が注文をとったり酒や料理を運んだりと忙しなく働いていた。
シシクルに案内されたのは、酒場の入口から遠い壁側にある二人席だった。主人がそのうちの一つの椅子に腰掛け、ふぅっ、と一息吐く。俺が主人の近くで後ろ手を組み、直立していると、主人はそんな俺の様子に苦笑し、もう一つの席を手で指し示した。
「テッセン。そんなところで突っ立ってねぇで、椅子に座りなって。一緒に飯食うだろ?」
主人の誘いに、俺は困惑した。今まで俺に対して優しく接してくれた主人であるが、流石に着席の許可を出すとは思ってもみなかったのだ。
「……いいのか? 普通、奴隷は主人と同じ席で食事をすることはないのだが」
「俺がいいって言ってんだからいいんだよ。なぁ、シシクル。別に座ってもいいよな?」
「えぇ。確かに本来であればテッセンさんの仰る通りなのですが、主人であるティクロ様の許可があれば何も問題はないですし、もちろん食事も提供いたしますよ」
同意を求める主人に、彼女はあらかじめ答えを用意していたかの様にスラスラと答えた。しかし、俺にはまだ別の、物理的な問題がある。
「だ、だが、俺が座っても大丈夫か? 壊れたりしないか?」
木で作られた、いかにも耐久力がなさそうな椅子をチラリと見る。だか、この問いについても、彼女はまたもやサラリと答えた。
「大丈夫ですよ。見た目はただの木材ですが、〈硬化〉と〈耐衝撃〉の『付与魔法』を掛けていますので、ドラゴンが踏んでも壊れません!」
「いや、それは流石に壊れるだろ」
シシクルの力説に、ティクロが突っ込みを入れる。彼女は戯ける様にウィンクし、愛嬌良くペロッと舌を出してみせた。
俺は『付与魔法』が掛けられた椅子を、じっと見つめる。『付与魔法』とは、対象物に対して様々な強化を施す魔法であり、『一時付与』と『永続付与』の二種類に分かれる。一時付与は魔力を上乗せすればするほど効果が上がり、永続付与は魔力を込めた分だけ効果時間が長くなるという性質を持つ。そのため、一時付与は主に冒険者や戦闘奴隷などが一時的に身体能力や武器を強化するときに使用され、永続付与は家具や道具などを長期間強化するために使われることが多い。
ちなみに、一時付与は少し勉強すれば誰でも使用できるが、永続付与は家具や武具などの職人が秘匿しているため、使用できる者は極僅かである。俺も一時付与は使用できるが、永続付与は使用できない。
もちろん、一時付与と永続付与を組み合わせれば、両方の性質を兼ね備えることもできるが、相当な技術力やコストを必要とするため、建築物や国の金庫などといった大規模なものにしか使われない。たかが木の椅子に、そこまでの付与を施すとは到底思えないのだ。
以上の観点から、この椅子に使われているのは、永続付与のみであると推測できる。主人の突っ込みの通り、数十トン、数百トンともなるドラゴンの体重には耐え切れないだろう。だが、俺程度の体重であれば、おそらく問題ない。これで、俺が椅子に座るのを断る理由はなくなった。
「……まぁ、そんなわけだ。お前は気にせず、俺と一緒に堂々と座って、飯を食えばいいのさ」
主人に再度勧められ、俺はおそるおそる席に座った。木で作られた背もたれのない簡素な椅子だが、永続付与の魔法が二つも付けられた高級品である。気にせずと言われても、慎重になるのも無理はない。産まれて初めて座った木の椅子は、じんわりとした温かさを感じた。いざとなったら俺が一時付与で強化しようと思ったが、俺が座っても壊れないどころか、全体重を椅子にかけてもギシギシといった様な嫌な音ひとつさえしない。
俺が椅子に座った瞬間、周囲からの鋭い視線を感じた。だが、主人が俺に対して椅子に座る許可を出しているのを聞いていたのか、周りも特に何かを言うつもりはない様だ。
「それでは、お水をお持ちいたしますね。ご注文は、そのあとでお伺いいたします」
シシクルはお辞儀をしてから、カウンターの奥へと消える。主人はテーブルの上に置いてあるメニューを開いたところで、ふと思い出したかの様に、俺に視線を向けた。
「そういえば、テッセン。食べ物の好き嫌いとか、あとアレルギーはあるか?」
主人に言われ、俺は頭の中で過去に食べたものを振り返ってみる。だが暫くして、考えたところで意味がないことに気付いた。
「好き嫌いは……分からん。産まれてから今まで、干し肉と黒パン、野菜や果物の皮しか食べたことがないからな」
「うわっ……そんな生活、俺だったら耐えらんねぇ。でもまぁ、今日からは俺が美味いもんを腹いっぱい食わせてやるからな!」
握り拳で自らの胸をトンと叩き、不器用ながらもニッと笑う主人の姿は、悪人面であるにも関わらず、慈愛の神様の様に優しかった。今までのひもじい生活を思い出し、目に涙が溜まるのを堪える様に目を伏せる。
「ただ、その様子だと、種族柄食べられないものとか、アレルギーがあるかどうかすら分からねぇってことか。まぁ、今回は俺が適当に注文すっかな……」
主人はそう言いながら、メニューをパラパラと捲る。識字能力がない場合は、店員に直接聞いて注文をとることになるが、主人は問題なく文字が読める様だ。
俺は、先ほどの主人の発言で分からない単語があったたため、思い切って質問してみることにした。奴隷に優しい、この主人であれば、面倒臭がらずに答えてくれるだろう。
「主人、アレルギーとは何だ?」
俺の問いに、主人が再び顔を上げる。予想通り、主人は嫌な顔ひとつせず、説明を始めた。
「ん? あぁ、簡単に説明するとだな、同じ食べ物でも人によっては毒となるものがあるんだ。それを食べてしまうとアナフィラキシーショックってやつを起こして、痙攣して動けなくなったり、最悪死んでしまう場合もあるらしい。それをアレルギー反応っていうんだが、そのアレルギーとなる食べ物は人によって色々あってな。代表的なもので言えば、そうだな……乳製品とか卵、小麦、ピーナッツとかかな」
主人の説明に、俺はポカンとする。言っていることは理解できるが、理解できない。矛盾している様だが、脳の処理が追いつかないのだ。
だが、俺はここで、数年前に奴隷商館で起こった出来事を思い出す。俺と同じ施設にいた奴隷が、レモンの皮を食べた直後に泡を吹いて倒れ、そのまま死亡した事件だ。その時は毒物が混入されていたのではないかと調査が行われたのだが、原因が分からず、結局『食中毒』として処理された。もしかしたら、あの事件は『アレルギー』というものが引き起こしたのかもしれない。
「あと、これはアレルギーとは違うんだが、犬や猫の獣人は玉葱やチョコレートが食べられないとか、ヴァンパイアはニンニクが駄目だとか、種族によって駄目なものもあるらしい。まぁ、食べてみて何かおかしいと思ったら、無理しねぇですぐ吐き出せよ。ある程度は俺が対処してやれるが、マジで命に関わるからな」
そこへ、ちょうど水を持ってきたシシクルに、主人は早速ビールを二つ注文する。他にも兎や猪を使った肉料理や、卵焼き、グリーンサラダなどを次々と注文していく主人に、シシクルは慣れた手つきで注文内容を紙に書いていく。そして、注文が終わると彼女は「それでは暫くお待ちください」とにこやかに会釈し、カウンターの奥へと戻っていった。
程なくして、小さな樽の様なジョッキになみなみと注がれたビールが運ばれてくる。主人の指導のもと、二人で乾杯したあと、主人はビールを半分ほど勢いよく飲み込んだ。続けて俺も飲んでみるが、シュワシュワと舌の上を弾ける不思議な感覚と、喉を突き刺すアルコールの辛さ、そして麦の苦さが合わさった何ともいえない味に、俺は思わず顔を顰める。そんな俺とは対照的に、主人はぷはぁっと上機嫌に息を吐いた。
「いやぁ、久し振りに飲んだが、ビールも悪くねぇな。いつもはカシスオレンジとかカルーアミルクとかばっかだけどよ、お前との乾杯はビールと決めてたんだ……ってテッセン、お前。もしかして、ビール苦手か」
「あぁ。初めて飲んだが、これは駄目だ」
「マジか……そしたら、ビールは俺が全部飲むから、そこに置いとけ」
俺は主人の前にジョッキを置き、水で口の中を洗浄する。その間に主人はジョッキ一杯目を飲み終わり、俺が残したビールに手を伸ばしていた。
「そういえば、テッセン。さっきの話だけどよ」
二杯目も半分ほど減った頃、突然主人がそう話を切り出す。だが、さっきの話とは一体、どの話だろうか。
「アレルギーの話か? そういえば、誰も知らない様な話を、何処でーー」
「いや、その話じゃねぇよ。お前さっき、一階でオルバーと話してた時、俺のことを『主人』って呼んだよな?」
どうやら、話は酒場に入る前まで遡る様だ。そういえば、先ほどオルバーが「二人で話し合え」と言っていたのを思い出す。
「あ、あぁ。『主人』ではなく、もっと丁寧に『ご主人様』と呼ぶべきだったか?」
「いやいや、逆だ、逆。俺のことは『ティクロ』と呼び捨てにしてくれねぇか。俺相手に『様』とか『さん』とか付ける必要はねぇよ」
主人にあるまじき発言に、俺は一瞬固まってしまう。俺は望んで奴隷になったわけではないが、あまりに奴隷らしくない態度を俺に要望する主人が、心底信じられない。いくら優しい主人といえど、最低限の礼儀というものはあるのだ。
「主人。普通、奴隷は主人の名前を、ましてや呼び捨てなどするものではーー」
俺は僭越ながらも主人を諭そうとするが、それを主人が割り込む様に制した。
「あぁ、そういうのは別にいいから。というか、話す順番がおかしかったな……そうだな、まずは、俺達のこれからの関係について話すべきだったな」
主人は暫く考え込んだあと、頓珍漢なことを言い始めた。俺達は主人と奴隷、それ以上でも以下でもない。これから主人が何を言い始めるのか、さっぱり想像できない。
「確かに、俺とお前は書類上は主人と奴隷の関係だ。『隷属の首輪』の制約もあるし、お前が俺の所有物であることには変わりねぇ。だが、俺はお前を奴隷として扱うつもりは一切ねぇし、主人としてお前にあれこれと命令するつもりもない。お前には奴隷ではなく、俺の『相棒』となってほしいんだ」
理解の範疇を軽々と超えてくる主人の言葉に、頭がクラクラする。特に難しい話をされているわけでもないのに、理解が追いつかない。主人が奴隷を『相棒』として扱うなど、前代未聞だ。
「いや、言っている意味がよく分からないのだが……何故、オークである俺なのだ? それに、お前には既にパーティーのメンバーがいるのだろう? たとえば、さっきのオルバーという男は、お前の相棒ではないのか?」
俺は主人に対し、当然の疑問を投げかけてみる。すると、主人は少し驚いたかの様に目を見開いた。
「……えっ? あっ、あぁ。まぁ、確かに今のところパーティーメンバーは俺とオルバーの二人だけだから、オルバーは俺の相棒と言えなくもないが……どちらかと言うと、オルバーとは『腐れ縁』みてぇなもんだな。子供の頃からの親友だし、大切な仲間だとは思ってはいるが、まぁ……ちょっと、色々あってな。それより俺は、お前のことを相棒にしたいと思っている。理由は、そうだな……まぁ、フィーリングかなぁ。さっき奴隷商人が言っていた通り、お前はオルバーと違って、真面目で素直そうだしな」
非常に曖昧な主人の答えに、俺はどう反応すればいいのか分からない。それなら、わざわざ俺を相棒にせずとも、主人と奴隷の関係のままでいいのではないかと思ったが、それを指摘するほど「奴隷として余生を過ごしたい」という思いがあるわけではないため、敢えて黙っておく。
そんな俺の沈黙をどう捉えたのか、主人は肩を落とし、溜め息を吐いた。即答できない俺に対して呆れているのかと思ったが、主人は殊勝な面持ちで俺を見つめていた。
「……まぁ、突然こんなことを言われたって、困惑するのは当然だわな。お前に信用してもらえる様なことを、まだ何ひとつやってねぇんだし。だからよ、これから少しずつ慣れていけばいい。椅子を使って、俺の前に座る。一緒に食事をする。雑談する。そういったことを少しずつ、少しずつ積み重ねていこうぜ。その上で、俺はお前の相棒になる資格があるかどうか、見極めてほしい。俺とは相性が悪い、嫌いだと感じたら、正直に言ってくれて構わねぇからよ。そしたら、俺がもっとお前に相応しい主人を探してやるからさ」
主人に言われた言葉を、頭の中で反芻する。正直、俺にとってあまりにも都合が良過ぎる提案であるため、何か罠があるのではないかと勘繰ってしまう。
だがこれは、俺がずっと忌み嫌っていた『奴隷』という身分から、精神的な意味だけであれど脱却するチャンスなのではないだろうか。それに、それが主人の望みであれば、それを叶えるのが奴隷としての役目である。この時点で既に矛盾しているが、俺はこの機会を決して逃したくはない。
俺は意を決し、テーブルの上を跨ぐ様に右手を差し出した。俺から握手を求めるのは、これが初めてである。
「分かった。では、よろしく頼むーー『ティクロ』」
「ーー!! あぁ、よろしくな」
俺が名前を呼ぶと、主人ーーいや、ティクロは嬉しそうに、俺の手を握り返す。ずっとビールのジョッキを握っていたせいか、彼の掌は冷たく、僅かに湿っていた。
「な、なぁ、テッセン。できれば両手で握ってほしいんだがーーもちろん、今度は『命令』ではなく、あくまで『お願い』な」
ティクロが照れた様に頬を染めながら、俺に願い求める。後半の台詞は別に言わなくてもいいのではと思ったが、律儀なティクロらしい。俺は嬉々として左手も差し出し、彼の右手を両掌で包み込んだ。
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