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米田雫

米田雫の告解 2

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 来てくれる、だろうか?
 
 僕は逸る気持ちを抑えながら中野駅の改札前で彼女を待っていた。今日は晴天に見舞われ絶好のデート日和である。
 来てくれる――とは思う。彼女は約束を守る人だ。だから本来不安に思う必要なんてない。しかし、一週間前の光景を見て不安がなかなか晴れずにいた。
 あの男の事だ。ライスシャワーに居た先客。その相手との親密そうな空気。それがどうしても気にかかってしまう。

 ――いけない。

 今日はそんな気持ちを持っていては駄目だ。今一度予定を確認する。彼女はほとんど出かけないという。殆どをライスシャワーで過ごし、買い物もネットで購入することが多い。外の清掃と不可避の公的な届け出などで出かける程度で、長時間外に出たりはしないそうだ。彼女はその原因を語ってはくれなかったが、彼女に外に対する恐れを植え付ける何かがあったに違いない。だから、人混みの多いところは避けようと思っていた。しかし彼女がそれを拒否したのだ。「それでは、私の為になりませんから」と。
 彼女の要望なら仕方がない。デート相手の、仮初の――恋人の要望を出来得る限り聞くのが僕の使命だ。そうであれば僕はそれを信じて待つしかない。

「お待たせ――しました」

 思わず息を呑んだ。
 美しい、それ以外の言葉が浮かんでこない。白いワンピースに身を包み、白いつばひろの帽子を被った彼女の姿は太陽の光を受け煌いていた。月並みな言葉だが、映画のワンシーンから飛び出たような、妖精か天使が降り立ったような、そんな印象を僕に与えた。

「し、雫さん」
「――はい」

 おずおずと居心地悪そうにそこに立っている彼女はしかし、そこを通り過ぎる誰よりも目立っていた。オーラ。そう、オーラだ。有名人はいるだけでそこに雰囲気を醸し出すものだ。僕は少しだけ彼女を過小評価していたのだと反省した。彼女はあの場所にいたからこそ逆に『目立たなかった』のだと確信する。ライスシャワーという店がきっと彼女を外界のあらゆるものから保護色のように護っていたのだ。

「い、行きましょう。その荷物持ちましょうか?」

 何時までもここにいたらもっと注目を集めてしまう。早く移動したほうがいい。
 彼女の手にあるバスケットを受け取ろうと手を伸ばす。

「ええ、お願いします。中身は崩れるといけないので……」
「分かりました。揺らさないようにしますね」

 僕は彼女の白い手からそれを受け取る。一瞬その白さにまた見惚れてしまった。しかしその時彼女の手の震えに僕は気が付いた。僕は一度バスケットを下に置き、さりげなくハンカチを取り出すとその手に被せる。彼女の手汗を拭く振りをして彼女の手を握る。そして――。

「大丈夫ですから」
「――はい」

 彼女の手の震えが治まるのを確認してから僕はバスケットを拾いなおした。

「それで――今日は何処へ?」

 彼女の質問に僕は答えた。

「夏ももう終わりですから、海を見ましょうか」

 海を見る――と言ってもこの時期はまだ海岸線は当然人が多い。人混みは駄目だ。あと長時間歩かせるのもNGだと考えた。いつ体調不良になっても引き返しやすく、移動もたやすく、しかし景観は楽しめて、外の空気を堪能できるようなデート。僕が考えたのは『電車デート』である。

 鎌倉駅から江ノ電に揺られ、僕らは今外の風景を楽しみながら談笑している。
 今日の移動手段は全て電車だ。混み辛い時間帯を把握して事前に押さえた電車のコースの風景を楽しみ続ける。外に出たければ、彼女の要望があれば降りればよい。そのままでいいならこのまま風景を楽しみながら会話を続ける。結果としてだが、これは大正解だった。彼女は降りたいとは希望しなかった。しかしその瞳は輝き、海に輝く太陽の光を映し込んでいる。
 会話は一言二言、何か特定の話題を話したりはしていない。事務的なものばかりだ。移動の間、静かな時が過ぎていく。
 彼女のことを僕から聞くのはNGだ。それは仕事上もそうだけど、人が語りたがらないなら敢えて詮索しないのが僕の流儀だ。言いたくなるまで待つ――それが一番良い。    時が過ぎた。何気ない時間。僅かに開けた窓から潮の香り。彼女がその瞳を僕に向ける。

「――礼人さん」
「――はい」
「良い日ですね、今日は」

 そう言った彼女の顔は笑っていない。いや、笑おうとしているのかもしれない。でもそれは一つ間違うと泣いているように見え――。
 彼女は顔を伏せ、その表情は帽子の下に隠れてしまう。

「何か――」

 話したいことがあるのではないですか? しかしその言葉は僕の口からは出ない。自分で決めた流儀を崩すわけにはいかない。

「大丈夫、ですか?」
「……わかりません」

 膝に置かれた彼女の手はわずかに震えている。

「でも、楽しい――とは思います。いえ、楽しまなければ、と」
「無理はしなくても良いのですよ? 直ぐに引き返しても僕は何も……」
「……いえ、それでは駄目なのです。私は――貴方と楽しみたい。それは本当の気持ちですから」

 顔を上げた彼女の手の震えは治まっていた。彼女の瞳は真っ直ぐに僕を見つめている。

「お誘い頂きありがとうございます、礼人さん」
「いえ……それならよかったです、雫さん」
 妙に顔が熱いのは気のせいじゃない。彼女の頬も上気して紅く染まっていた。

「降りたいです」

 彼女の言葉で僕らは江ノ島駅で降りた。
 時刻は昼前、ここから暑くなる時間帯だ。

「大丈夫ですか?」

 今はまだ人も多い。雫さんの体調を心配したが、それでも彼女はここで降りると提案したのだ。

「海を眺めながら、お昼にしましょう」

 そう言われてしまっては僕に断る理由がなかった。
 僕らは弁天橋を渡り、江ノ島へと歩を進める。幸いなことに風が涼しい。晩夏とはいえまだ暑いと思っていたが今日は思ったよりも過ごしやすい天候のようだ。
 バイクの音が陸からも、海からも響いている。潮の匂いはあまりしない。そういう水質なのだろう。
すぐ目の前には弁財天仲見世通りが迫ってきている。たこ煎餅の香りや甘いみたらし団子の匂いが嗅覚を擽る。この通りで名物を買って食べるのが一般的だが、今日の僕らはそれをスルーする。僕らは上を目指した。海を一望できる展望デッキがある。そこまで行こう、ということになった。上に見える灯台シーキャンドルまでは歩くと約20分ぐらいかかる。石段も長い。

「乗りますか?」

 僕が示したのは江ノ島エスカーだ。3つの区間に分かれている屋外エレベーターで、登頂を随分楽にしてくれる。

「いえ、ゆっくりで構わないので歩きませんか?」
「わかりました。お伴します」

 彼女の体調が心配だった。既に少し、顔に疲れが見える。だが僕らは一段一段石段を上ることにした。しかし、登り始めてすぐ、彼女が足を滑らせた。

「きゃっ!」

 僕はすぐに彼女の身体を支える。軽く抱きかかえる形になってしまった。 

「――」
「――」

 お互いが見つめ合う。彼女の蒼い瞳に吸い込まれるように――。

「ご、ごめんなさい」
「あ、は、はい!」

 慌てて僕は彼女の腰に回していた手を離した。

「すいません……ちょっと、足が震えて」

 そう言うと彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
 やはり無理をしていたらしい。

「上は、止めましょうか?」
「いえ! その……私のせいで行かないのは……」

 そう言って彼女は階段を見上げる。上には江島神社がある。恋愛成就の神様として人気が高いスポットだ。僕としては参拝したい気持ちもあるが――。

「……いいえ。もう少し人の少ないほうへ行きましょう」

 僕は彼女の左手を恭しく握った。

「……あ」

 彼女はパッと僕の手を離す。そして左手を固く握りしめたまま、険しい顔をした。

「す、すいません」
「い、いえ……いきなりでびっくりして。……どうぞこちらを」

 彼女はおずおずと僕に右手を差し出す。僕はそれをあらためて、優しく握った。

「……嫌ではないのです。ごめんなさい」

 横を向いて恥ずかしそうに彼女はそう言った。

「大丈夫ですから。このデート中は僕が必ず守ります」
「……はい」

 僕は彼女に歩みを合わせながら元来た道を戻る。風は涼しいのに、やたらと握る手が熱く感じる。 

「こっちへ」

 参道の横の小道を抜ける。

「こっちはそれほど人が居ないので」

 僕らは海へ出た。西浦漁港だ。漁港とは言うかその賑わいはなく防波堤で釣り人が楽しむような場所だ。小田原方面が一望でき、天候が良ければ富士山も望める。

「どこかその辺に座りましょう」
「はい」

 レジャーシートを広げ僕らは人もまばらな砂浜に座る。

「落ち着きましたか?」
「……ええ。ですから、もう」

 その言葉で僕はまだ彼女の手を握っていたことを思い出した。

「す、すいません!」
「……いえ、これも礼人さんのお役目なのでしょうから」

 彼女は僕の握っていた左手の中指辺りを右の指でさする。彼女は暫くして持ってきたポットを開ける。嗅ぎなれた珈琲の匂いと潮の香りが混ざり合い漂ってくる。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 紙コップに注がれた珈琲を飲みながら僕らは揃って海を眺める。

 ――幸せだ。

 単純にそう思う。他に何もいらない。このまま時が過ぎ去って僕をこの世から消してくれても後悔はない。永遠にこの瞬間を閉じ込めておきたい。

「どうぞ、サンドイッチを作ったので」

 彼女は持ってきたバスケットを開く。そこには美味しそうなサンドイッチがずらっと並んでいる。ただし、量が想定の二倍以上あり僕は軽く目を剥いた。

「多かったですか?」
「い、いえ」
「……そうでしたか」

 残念そうに俯く彼女。しまった。僕の反応から気付かれてしまった。

「……そう、違うんだった」
「え?」

 彼女のつぶやきは小さすぎて何を言ったのか聞き取れなかった。ただ、すごく残念そうな響きを持っていたような……。

「頂きます!」

 その雰囲気を打破する様に僕は大きめの声を上げてサンドイッチに手を伸ばした。

「……美味しい」

 最初に食べたのは卵サンドだ。ライスシャワーのサイドメニューとして存在はしていたが、店で食べる物よりも美味しい気がする。何が違うんだろうかと考えたが、僕には皆目見当がつかない。料理の最後に愛情を振り掛けます! などという迷信100%の料理番組の演者の台詞を思い出したがすぐに頭から打ち払った。……そんな考えはご都合すぎるだろう。

「よかった」
「大丈夫です。美味しいから幾らでも食べれます」

 そう言って次のサンドイッチを僕は受け取る。

「ふふ……ご無理はなさらずに」

 駅を降りてからずっと辛そうだった彼女の顔に笑みが戻る。
 暫く僕らは無言でサンドイッチを食す。気まずい雰囲気はない。むしろ逆だ。心地よい。いや、良すぎた。お互いが何も詮索せず、ただ時を過ごす。でもそれが幸せだという事実に僕は満足していた。
 もう一個――と僕はバスケットに手を伸ばすと……。

「きゃっ!」「うわっ!?」

 僕と彼女が同時に悲鳴を上げた。その犯人は、もう遥か上空に飛び立っていた。

「トンビか……」

 僕の手の中にあったはずの卵サンドはトンビによって咥えられ奪われてしまった。

「雫さん、怪我はないですか?」
「え、ええ……。でも、びっくりしました」
「怪我が無いなら何よりです。それにしても……手慣れた犯行でしたね」

 彼女はちょっと残念そうな顔をして落ち込んでいるように見えた。僕は何か気の利いた事でも言えないかと頭を巡らせる。

「プロのトンビですね」

 彼女が一瞬呆気にとられたような顔になった後に、くすくすと笑いだした。

「そう、プロ、ですね」
「ええ、一瞬で奪って傷もつけない。プロの犯行です。怪我を負わせていたらあいつは仲間内からきっと叱責されてますよ」

『馬鹿、上手く盗らなきゃ俺ら連帯責任だろうが』

 そんな台詞で怒られ囲まれるトンビの絵面が思い浮かんだ。
 僕らは同じ想像をしたのか、笑い合ったまま時が過ぎていった。
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