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1巻
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アデルは絶叫したいのをなんとか堪えたが、毛布を掴む手がわなわなと震える。
どうしてオズワルドがアデルを見舞う必要があるのか、わけがわからない。けれど冷静に考えれば、向こうはこちらがクレアの生まれ変わりであることに気づいていないということだ。気づいていたら、そんな親切を示すわけがない。たまたま居合わせた場でアデルが倒れたので、形式的に見舞ったといったところだろう。
(いや、だけどもしかして、私がクレアだと気づいて、見舞いの品に毒を入れていたり……)
「どうぞ、アデル様」
「あ、ありがとう」
皿に載せて差し出されたリンゴにアデルは不審な眼差しを向ける。食欲などすっかりなくなっていた。
「目の前でアデル様が倒れられたことで、オズワルド陛下はアデル様をいたく心配されておいででした。本当に一時はどうなることかと思いましたけれど、こんな形で陛下のお目に留まるなんて、本当にアデル様は幸運ですわ」
「……本当に幸運なら、目に留まってないはずだけど」
「なにか仰いました?」
「いえ、なんにも」
アデルは笑って独り言をごまかす。オズワルドが余計なことをしてくれたおかげで、今日のノーマはこれ以上ないくらい上機嫌だ。
「これでお膳立ては整いました。あとは、アデル様がお元気になられたら、オズワルド陛下に直接お見舞いのお礼をお伝えするのです。どれほど感激したか、多少大袈裟なくらい訴えたほうがいいでしょう。涙を流せれば完璧です。殿方は女性の涙に弱いものですから」
「そうかしら……」
相手が魔王の場合は別である。地べたに這いつくばらせて泣かせてやりたい、と前世で言われたことを思い出し、アデルは怖気を感じた。
「お見舞いには感謝するけど、お礼を言うためだけに、私がガルディア帝国を訪問するのは大袈裟だと思うの。だって、向こうは多忙な皇帝なわけだし、気を遣わせてしまったらかえって申し訳ないでしょ。だからお礼はお手紙にして……」
「アデル様がガルディア帝国まで行く必要はありません。オズワルド陛下はまだクロイス城に滞在していらっしゃいますもの」
「なんですって――っっ!?」
今度は声に出して絶叫してしまったが、「はしたない」と叱るどころか、ノーマは微笑んでいる。
「まあまあ、アデル様ったら。嬉しいお気持ちはわかりますが、大声を出してはいけませんわ」
ノーマの機嫌が良すぎて怖い。それもすべてオズワルドの謎の気遣いのせいかと思うと、魔王恐るべしである。
「オ、オズワルド陛下がどうしてまだクロイス王国に? お忙しいから翌日には帰国するって仰っていたはずよ!」
「私もそう聞いておりましたが、陛下はアデル様の容態が気がかりで帰国を延ばされたのだそうです」
(皇帝って結構ヒマなの? 私が気がかりってどういう意味……?)
オズワルドの意図がまったくわからない。頭を抱えるアデルをよそに、ノーマは胸の前で手を組むと、夢見る瞳で虚空を見つめる。
「あれほどお若くして大国を治めていらっしゃることもさすがですが、人格もすばらしく、なによりあの見目麗しさ……オズワルド陛下は噂以上の殿方でした」
すっかり心酔しているが、これはオズワルドに対する一般的な感想なのだろう。彼の前世が悪の魔王であることは、アデルしか知らないのだから。
「私、オズワルド陛下はアデル様に一目惚れされたと思いますの。アデル様がガルディア帝国に嫁ぐ日は、きっとそう遠くありません。これは運命ですわ!」
ノーマの弾んだ声が、アデルの気持ちを滅入らせる。
(最悪の運命よ! まさか、私がクレアだって気づかず本当に一目惚れしたの? それとも、気づいていて前世の復讐をしようと企んでいる? どっち? ああ、わからないっ!)
日頃、悩むこととも深く考えることとも無縁のアデルは、頭が爆発しそうな気分に陥り、毛布の上にばったりと突っ伏した。
「アデル様……まあ、感激のあまり泣いていらっしゃいますのね? わかります! 悲願が叶うのですもの! ぞんぶんにお泣きくださいませ!」
ノーマが勝手に勘違いしてくれているおかげで言い訳しなくて済む。
(私……今回の人生もあんまり長くないのかしら……)
別の意味で涙が出そうだった。
もうしばらく仮病を使って時間を稼ごうかとも考えたが、アデルはオズワルドの存在が気になって仕方がない。悩んでいるのも性に合わないので、結局それからすぐにオズワルドと会う約束を取りつけた。
表向きは、見舞いに対する礼を言いたいからという理由である。どうやって探りを入れようかと考えたあげく、前世に関してはすっとぼけることにした。オズワルドに前世の記憶があるとしても、こちらがクレアである証拠などどこにもない。もし何か聞かれても『クレアって、あの伝説の美人勇者のことかしら? 私がクレアの生まれ変わりですって? まー陛下ったら冗談がお上手ですこと、おほほほほっ……』と、しらを切り通せばとりあえずはごまかせるだろう。
当然ながら、最上級の国賓であるオズワルドは、城で一番いい客間を占領していた。ジェイルが見栄を張って用意したこの客間には、続き部屋に応接間も設えてあり、アデルの寝室よりも広く豪華である。
アデルが応接間に入ると、国王の部屋のそれよりも上等な革張りのソファにオズワルドが座っていた。ゆったりと背もたれに体を預けていたが、アデルを見て立ち上がる。
こうして明るい場所で見ても、やはり完璧な貴公子だった。
すらりとした長身に、やせ形だがしっかりとした体つき。纏う衣服は品のいい黒の上下で、その下に着ているシャツの襟をわずかに開き、くだけた雰囲気を出している。
神秘的な黒い瞳と黒い髪。一見冷たそうに感じるが、吸い寄せられるような魅力があった。
(魔王アーロン……)
アデルは頭の中で、若き皇帝と前世の宿敵とを重ねた。アーロンと同じ黒髪と黒い瞳。角や肌の色など魔族の特徴はないが、やはり面影はある気がする。
魔王と対面したのは前世でたった一度きりだ。それなのに、彼らが同じ人物だと一目でわかったのは、アデルにとってそれだけ強烈な記憶だったということなのだろう。
室内にはオズワルドしかいない。アデルは彼の前へ進むと、ドレスの裾をつまみ、膝を折って頭を垂れた。
「オ……オズワルド皇帝陛下、ごきげんよう。クロイス王国第一王女アデル・クロイスです」
柄にもなく緊張して声が上擦る。
オズワルドはなにも言わない。無言のままアデルを食い入るように凝視している。人を取って食いそうなその迫力に、覚悟を決めてきたはずのアデルも怯んだ。
(うわあぁぁっ……すっごいこっち見てる! なにこの目つき、やっぱり復讐する気なの?)
ガルディア皇帝との対面に際して、武器を所持するわけにはいかず、今のアデルは丸腰である。向こうも仮にも一国の皇帝なので、いきなり襲ってきたりはしないはずと踏んでいたのだが。
「ええと、その……先日はたいそうなお見舞いをありがとうございました。その節は、陛下に大変なご迷惑をおかけしてしまい……」
とにかくなにか言わなければと口を開いたアデルは、途中で言葉を呑み込んだ。
オズワルドが近づいてきたと思ったら、いきなり抱きつかれたのである。
「ヒッ……なっ、ななななななにを……っ!」
反射的に振り払おうとしたが、それすらも封じられるほど強い力だった。息もできないアデルの耳元で、オズワルドが囁く。
「会いたかったぞ、勇者クレア」
(この男、やっぱり!)
渾身の力で逃れると、アデルはオズワルドを睨みつけた。
「あなたはやっぱり魔王アーロン! 私がクレアだって気づいていたのね!」
しらを切る作戦のはずが、自分からあっさり暴露してしまった。これでもう言い逃れはできない。
目の前に魔王アーロンがいると思うと、頭に血が上り冷静ではいられなくなる。
夢で見た光景が、細部まで一気に蘇ってくるようだ。魔族との戦いで味わった数々の苦労とともに、報われなかったクレアの人生までもが。
そんなアデルの気持ちを知ってか知らでか、オズワルドは口元に薄い笑みを刻んだ。黒い瞳はアデルをとらえたまま動かない。
「一騎当千と謳われた女勇者が、まさか王女に転生とは……おまえとこうしてふたたびまみえたことは、やはり運命だったのだな」
オズワルドの喉から邪悪な笑いがこぼれる。襲いかかってくることを想定して、アデルは身構えた。
(やっぱり、オズワルドは私に復讐する気なんだ!)
いざとなったら逃げるしかないと隙を窺うが、さすがは元魔王で現皇帝。オズワルドにはまったく隙がない。クレアならともかく、ずるずるとしたドレスを着た王女のアデルでは、逃げることも反撃することもままならない。
「髪の色がクレアよりも明るいが、その澄んだ青色の瞳は変わらない」
アデルを見つめたままオズワルドは目を細めた。
前世で対面したのはたった一度きりなのに、髪や瞳の色まで覚えているとは。アデルにとってそうであったように、オズワルドにとってもあの出会いは忘れられない記憶なのだろう。
(そりゃあ、自分を殺した相手なんだものね)
「そういうあなたは角がないわね。……変な感じ」
「おまえは相変わらず面白い女だな」
それほど面白くはなさそうに言って、オズワルドはソファに腰を下ろす。
「おまえも座れ」
向かい合わせに置かれたソファを目で示されたが、アデルは立ったままでいた。従わないアデルに構わず、オズワルドはゆっくりと足を組む。
「あれから千年も経ったのだな」
「思い出話をしたいわけじゃないでしょう? あなたと話すことなんてないわ」
「そう苛つくな。血の気が多いところも前世と変わらないな」
緊張を漲らせるアデルに対して、オズワルドのほうは冷静に見える。前世が魔王だし、オズワルド自身もともと喜怒哀楽が少なそうな雰囲気だ。
(大丈夫、オズワルドだって今は一国の皇帝だ。こんな場所で襲ってきたりしない……たぶん)
自分にそう言い聞かせ深呼吸する。
アデルと同じように、オズワルドもアーロンの性質を受け継いでいるのだろうか。見たところ武器は所持していないが、もしも魔法を使えたりしたら、とても素手では太刀打ちできない。
(う……緊張しすぎて気分が悪くなってきた。まさか悪阻!? 目が合っただけで妊娠するって噂だし、この前は不覚にも失神したし……これも前世魔王の力なの?)
思考力までおかしくなってきた。
ふらついたアデルを見て、オズワルドが立ち上がる。逃げる暇もなく、アデルはむりやりソファに座らされていた。
「なにするのよ!」
「まだ体調が悪いのではないか? 立ったままでは話もできん。とにかく座れ」
そう言って、自分はふたたび向かいに腰を下ろす。気遣われた気がしたが、気のせいだろうとアデルは思い直した。
「三日も伏せっていたと聞いたが」
「魔王が同じ城にいるというのに、おちおち寝ていられないわ」
つんと澄ましてアデルが答える。オズワルドは不愉快そうに目をすがめた。
「ずいぶんと魔王を目の敵にしているんだな」
「当たり前でしょ! あなたのせいで、私がどれだけ苦労したと思ってんの?」
「しとやかな王女の仮面を被っていても、素は生きのいい勇者のままか」
「そんなことあなたに関係ないでしょ!」
喧嘩腰のアデルとは対照的に、オズワルドはアデルを軽くあしらう。自分ばかりが感情的になっていることに、ますます苛立ってくる。
(ああやっぱり、このイラッとする感じ、アーロンだわ!)
剣があったら抜いていたに違いない。しかし、抜けば外交問題に発展することを思うと、持ってこなくて正解だった。
「それを言うなら、俺もおまえにさんざん手こずらされた。最後には城を追われたわけだからな」
オズワルドの反論に、アデルは言い返さずにはいられない。
「あなたが先に人間の領土に攻め込んできたんじゃない。おかげで、私が住んでいた町は焼け野原になったわよ」
「誰が人間の領土と決めた? 魔族を差別して追い立てたのは人間だ」
「魔法なんていうインチキな力を持っていたからでしょう?」
「人間のくせにデタラメな強さを持っていたおまえが、それを言うのか? 下級魔族など虫けらのように蹴散らしていただろう」
「女ひとりに大群で向かってきたのはどっちよ!」
ひとしきり言い合い、アデルは深く息を吐いた。
こんな罵り合いをしに来たのではない。オズワルドがなにを企んでいるのか聞き出すのだ。
アデルはキッとオズワルドを見据え、単刀直入に尋ねる。
「あなたは私を殺しに来たの?」
オズワルドが目を見開いた。
「なぜそう思う」
「私を恨んでいるでしょう? 前世の戦いの続きをしに来たんじゃないの?」
あのときはアデルの勝利で終わったが、力は互角だった。オズワルドが態勢を立て直して再戦していたら、伝説は違っていたかもしれない。
「俺はおまえを殺すつもりはない」
アデルをまっすぐに見つめ、静かな声でオズワルドは言った。
嘘をついているようには見えないが、魔王の本心などわからない。油断させておいて、突然斬りかかってくるかもしれない。
夜闇を思わせるオズワルドの黒い瞳は前世と同じで、まるで感情が読めなかった。腹の探り合いは苦手だ。アデルはじれったくなって重ねて尋ねる。
「それが本心なら、なにを考えているの? 私にお見舞いの品を贈ったり、予定を変更してクロイス王国での滞在を延ばしたり……なんの意味があるのよ」
「見舞いの品が気に入らなかったのか」
「はぐらかさないで!」
オズワルドのほうへ身を乗り出して、アデルは声を荒らげた。そんな抗議にも動じることなく、オズワルドは優雅に膝の上で手を組む。
そして、こう告げた。
「俺がこの国に残ったのは、おまえに結婚を申し込むためだ」
「け……」
アデルはぽかんと口を開け、ぱちぱちと瞬きする。
今、とても信じられない言葉を聞いた気がしたのだが、空耳か。
「クロイス国王には既に話し、許可はもらった。国王も王妃も涙を流して喜んでいたぞ」
「けっ……」
「どうした。間抜けな顔をして、まだ具合が悪いのか?」
「けっっ…………けけけ結婚っっっ!?」
かなりの時間をかけて、ようやくその言葉の意味を理解する。オズワルドが、哀れむような目で見ていた。
「悪いのは頭か。前世でもやたらと力任せに攻撃するとは思っていたが、勇者は脳まで筋肉で出来ているのだな」
「誰の脳が筋肉ですって!? そっちがいきなり変な冗談言うからでしょ! よりによって、けっ……けけけ結婚、とか!」
「冗談を言った覚えはないが」
オズワルドは真顔で答える。あの夜のようにアデルは気を失いそうになった。
(はっ……失神してる場合じゃない! こいつとの結婚なんて、五十過ぎの公爵以上にあり得ないから!)
両頬を叩き、気を確かに持ってオズワルドに向き直る。
「いきなりなにを言い出すかと思えば、どういう魂胆よ?」
「売り込んできたのはおまえの父親、クロイス国王のほうだ。アデルは美しく心やさしい、しとやかな王女だと。外見は確かにガルディア皇妃としても問題ない。中身に関しては詐欺だが」
「ほっといてよ! だったら断ればいいじゃない。ガルディア帝国の皇帝なら、なにもクロイスみたいな小国から妃をもらう必要はないでしょう」
「だから、おまえは喜んで俺と結婚すればいい」
「嫌よ!」
「なぜだ? 大国の君主で、知性と美貌と類い希な統率力を兼ね備えたこの俺の、一体なにが不満だというんだ?」
「自分で言うな!」
オズワルドが眉間にしわを寄せる。こちらが断るとは考えていなかったらしい。
「おまえにとっては、俺ほど条件のいい結婚相手はいないはずだが。はっきり言って、クロイス王国は弱小国だ。経済が潤っているわけでも、軍隊が強いわけでもない。他国に攻め込まれれば簡単に落ちる」
「言われなくてもわかってるわよ」
しかし他国から、しかもセレーネ大陸一の強国ガルディア帝国の皇帝から言われると腹が立つ。
「おまえが俺の妃になれば、ガルディア帝国がクロイス王国の後ろ盾となってやろう」
「ずいぶんと気前がいいのね。なにを企んでいるの?」
「なぜそう思う?」
「なぜ? 私のほうが聞きたいわよ」
お互いに、前世で命を懸けて戦った相手なのだ。生まれ変わっても忘れることなどできなかった。そして、その恨みは、勇者に倒された魔王のほうが根深いはず。
この求婚にどんな裏があるかはともかく、それを断ることはクロイス王国にとって大きな損失だ。王女として自分を犠牲にするべきだとわかっていても、アデルはそこまで思い切れない。
(寝首をかかれるとわかっていて結婚するバカはいないわよ)
アデルを殺すつもりはないとオズワルドは言ったが、前世魔王の言葉など信用できるものか。
「あなたは魔王アーロンで、私は勇者クレアだったのよ。いくら今の私たちが一国の君主や王女で、これが政略結婚だとしても、私には耐えられない。私にとってあなたは、そしてあなたにとって私は、前世の宿敵以外のなにものでもないんだから」
アデルが思いのたけをぶちまけると、表情の乏しいオズワルドの顔が、どことなく沈んだように見えた。それはすぐに不満げなものに変わり、彼がなんと答えるのかとアデルは身構えた。
「そうか、おまえの気持ちはよくわかった」
そう言った声は案外落ち着いていて、納得してくれたのかと一瞬ほっとする。けれど、それはアデルの勘違いだった。
「だが、こちらから申し込んだ結婚を断られるというのは、ガルディア帝国皇帝としての面子が立たない。国王の許しを得ているのだから、おまえがなんと言おうとこの結婚は成立させる」
「どういう理屈よ!」
魔王も皇帝もプライドの高い生き物であることは理解できるが、なにもこんなことで意地を張る必要はないだろう。アデルとの結婚で彼が得をするとも思えない。ならば、これはアデルに対する嫌がらせに決まっている。
「面子なんて……それなら、あなたの気が変わったことにすればいいわ。私に失望したとか、他に好きな女性が出来たとか、理由なんかどうにでもなるでしょ?」
「不実な男と思われるのは俺の信用に関わる」
「誰もそんなこと思わないわよ! それに、ガルディア帝国の皇帝に異を唱える者なんていないでしょう。お父様だって諦めるわ。所詮、クロイス王国とはレベルが違うんだって」
「おまえは、どうしてもこの結婚が嫌だと言うわけか」
「ええ、死んでも嫌よ」
アデルがしっかりと頷いたとき、オズワルドの瞳にひどく冷酷な光が宿った。魔王を彷彿とさせるその眼差しに、アデルは寒気を覚える。
「では、クロイス王国はガルディア帝国を敵に回すということだな」
「なんですって!?」
あまりに極端な解釈にアデルの声が裏返った。
「なんでそんな話になるのよ! これはあなたと私の問題でしょ!」
「皇帝と王女の婚姻ともなれば国同士の問題だ。おまえが俺に恥をかかせるのなら、クロイス王国が侵略されても文句は言えまい」
「はぁ? なにそれ!」
「ガルディア皇帝として、俺は望むものをすべて手に入れる」
皇帝と言うより、まるでだだをこねる子供である。あまりに身勝手で呆れるが、残念なことに彼にはそれを実行できる力があるのだ。
ガルディア帝国が攻めてきたら、クロイス王国などたった一日、いや一時間くらいで壊滅してしまう。城も土地も人間も、なにもかもがオズワルドの手に落ちる。
裕福ではなくとも、穏やかで平和なこの国で、アデル・クロイスとして得たたくさんの幸せがあるのだ。それを与えてくれた家族や、臣下たち、クロイス王国の人々を絶対に苦しませたくはない。
悪の皇帝から祖国を守ることができるのは、アデルただひとりだ。
(こいつのどこが英明な君主ですって? こんなの、ただの暴君じゃない! この男の本性はやっぱり魔王アーロンなんだわ!)
予想通り、オズワルドからは相当恨まれているのだと思う。アデルを妃にすることは、彼にとって前世の復讐なのだ。殺さないと言った言葉が本当だとしても、手元に置いてじわじわといたぶることはできるだろう。アデルにとっては、死ぬ以上の不幸が待っている。
悔しくてたまらず、俯いて唇を噛んだ。
「私があなたと結婚すれば、クロイス王国には手を出さないと約束するのね?」
「ああ、クロイス王国はガルディア帝国が守ってやろう」
「……わかったわ、あなたと結婚する」
「それでいい」
満足げにオズワルドが答えた。
「アデル、おまえは俺の妃だ」
勝ち誇った声で言われ、アデルはぎりぎりと歯ぎしりする。
(これで勝ったと思うんじゃないわよ! 陰険魔王め、私と結婚したことを後悔させてやる!)
千年前の戦い――勇者と魔王の命を懸けた戦いの幕が、今ふたたび切って落とされた。
***
アデルが部屋を出ていったあと、オズワルドはひとりぼんやりと宙を見つめた。
クロイス城でもっとも豪華な客間の壁には、人物や建物が細やかに描かれた織物が飾られ、家具やベッドの柱には木工彫刻が施されている。それらはクロイス王国らしい素朴で繊細な文化を表していた。芸術性よりも合理性を重んじるガルディア帝国とは、正反対の気風と言える。
そう、まるでオズワルドとアデルの前世のように。本来、交わるはずのなかった運命である。
「オズワルド陛下、ご機嫌がすこぶるお悪いようですが、なにかありましたか?」
オズワルドとアデルをふたりきりにさせようと、気を利かせて席を外していた部下のダレン・レナードが、部屋に戻るなりそう言った。
もともとオズワルドの目つきは悪いが、今は人を殺せそうな眼力を放っている自覚がある。ここまで気持ちがささくれ立っている原因は、アデルに他ならない。
「ダレン、おまえは運命を信じるか?」
「なんですかいきなり」
「いや……なんでもない」
心が乱れているせいで、変なことを聞いてしまった。抜け目ないダレンは取り繕う主の異変を、察したらしい。
「もしや、アデル王女となにかあったんですか?」
「別に……」
「なにもない、わけはないですよね。さっきまではめずらしく上機嫌でいらしたというのに、今はいつにもまして顔が怖いですよ。原因がアデル王女でないのなら、他になにがあるんです?」
アデルとなにかあったと決めつけて、ダレンが尋ねる。事実、そうなのだが。
「やめてくださいよ、結婚前に手を出して破談になるとか。世間に知られたら、ガルディア皇帝ともあろうお方がみっともないですから」
「ダレン、死にたいのか?」
オズワルドの声に凄みが加わったが、ダレンが臆することはない。
常に傍に控えている二歳年下のダレンは、オズワルドの右腕と言ってもいい側近だ。立場的には臣下だが、レナード家はガルディア皇家の傍系であり、ダレンの父親は帝国内で強い影響力を持っている。オズワルドとダレンは、昔から気心の知れた友人でもあった。
髪と瞳はやわらかな茶色で、育ちの良さを思わせる身ごなしと穏やかな笑顔が人に好印象を与える。頭が切れ、剣の腕も確かだ。そしてなにより、オズワルドへ率直に意見できる貴重な存在でもある。
「いくら妃になる方でも、礼儀を欠かないように、もっと慎重に行動なさってください」
口うるさいダレンに、オズワルドは不愉快そうに顔をしかめる。
部下らしからぬあからさまな物言いには腹が立つが、いつも傍にいるだけあってあながち外れてはいない。だから、オズワルドは昔から、ダレンの言葉には耳を傾けてきた。
ただし、それを素直に認めるほど純粋ではないのだが。
「おまえは、俺をなんだと思っている」
「美しい女性に一目惚れして舞い上がっている男、だと思っています」
「…………」
どうしてオズワルドがアデルを見舞う必要があるのか、わけがわからない。けれど冷静に考えれば、向こうはこちらがクレアの生まれ変わりであることに気づいていないということだ。気づいていたら、そんな親切を示すわけがない。たまたま居合わせた場でアデルが倒れたので、形式的に見舞ったといったところだろう。
(いや、だけどもしかして、私がクレアだと気づいて、見舞いの品に毒を入れていたり……)
「どうぞ、アデル様」
「あ、ありがとう」
皿に載せて差し出されたリンゴにアデルは不審な眼差しを向ける。食欲などすっかりなくなっていた。
「目の前でアデル様が倒れられたことで、オズワルド陛下はアデル様をいたく心配されておいででした。本当に一時はどうなることかと思いましたけれど、こんな形で陛下のお目に留まるなんて、本当にアデル様は幸運ですわ」
「……本当に幸運なら、目に留まってないはずだけど」
「なにか仰いました?」
「いえ、なんにも」
アデルは笑って独り言をごまかす。オズワルドが余計なことをしてくれたおかげで、今日のノーマはこれ以上ないくらい上機嫌だ。
「これでお膳立ては整いました。あとは、アデル様がお元気になられたら、オズワルド陛下に直接お見舞いのお礼をお伝えするのです。どれほど感激したか、多少大袈裟なくらい訴えたほうがいいでしょう。涙を流せれば完璧です。殿方は女性の涙に弱いものですから」
「そうかしら……」
相手が魔王の場合は別である。地べたに這いつくばらせて泣かせてやりたい、と前世で言われたことを思い出し、アデルは怖気を感じた。
「お見舞いには感謝するけど、お礼を言うためだけに、私がガルディア帝国を訪問するのは大袈裟だと思うの。だって、向こうは多忙な皇帝なわけだし、気を遣わせてしまったらかえって申し訳ないでしょ。だからお礼はお手紙にして……」
「アデル様がガルディア帝国まで行く必要はありません。オズワルド陛下はまだクロイス城に滞在していらっしゃいますもの」
「なんですって――っっ!?」
今度は声に出して絶叫してしまったが、「はしたない」と叱るどころか、ノーマは微笑んでいる。
「まあまあ、アデル様ったら。嬉しいお気持ちはわかりますが、大声を出してはいけませんわ」
ノーマの機嫌が良すぎて怖い。それもすべてオズワルドの謎の気遣いのせいかと思うと、魔王恐るべしである。
「オ、オズワルド陛下がどうしてまだクロイス王国に? お忙しいから翌日には帰国するって仰っていたはずよ!」
「私もそう聞いておりましたが、陛下はアデル様の容態が気がかりで帰国を延ばされたのだそうです」
(皇帝って結構ヒマなの? 私が気がかりってどういう意味……?)
オズワルドの意図がまったくわからない。頭を抱えるアデルをよそに、ノーマは胸の前で手を組むと、夢見る瞳で虚空を見つめる。
「あれほどお若くして大国を治めていらっしゃることもさすがですが、人格もすばらしく、なによりあの見目麗しさ……オズワルド陛下は噂以上の殿方でした」
すっかり心酔しているが、これはオズワルドに対する一般的な感想なのだろう。彼の前世が悪の魔王であることは、アデルしか知らないのだから。
「私、オズワルド陛下はアデル様に一目惚れされたと思いますの。アデル様がガルディア帝国に嫁ぐ日は、きっとそう遠くありません。これは運命ですわ!」
ノーマの弾んだ声が、アデルの気持ちを滅入らせる。
(最悪の運命よ! まさか、私がクレアだって気づかず本当に一目惚れしたの? それとも、気づいていて前世の復讐をしようと企んでいる? どっち? ああ、わからないっ!)
日頃、悩むこととも深く考えることとも無縁のアデルは、頭が爆発しそうな気分に陥り、毛布の上にばったりと突っ伏した。
「アデル様……まあ、感激のあまり泣いていらっしゃいますのね? わかります! 悲願が叶うのですもの! ぞんぶんにお泣きくださいませ!」
ノーマが勝手に勘違いしてくれているおかげで言い訳しなくて済む。
(私……今回の人生もあんまり長くないのかしら……)
別の意味で涙が出そうだった。
もうしばらく仮病を使って時間を稼ごうかとも考えたが、アデルはオズワルドの存在が気になって仕方がない。悩んでいるのも性に合わないので、結局それからすぐにオズワルドと会う約束を取りつけた。
表向きは、見舞いに対する礼を言いたいからという理由である。どうやって探りを入れようかと考えたあげく、前世に関してはすっとぼけることにした。オズワルドに前世の記憶があるとしても、こちらがクレアである証拠などどこにもない。もし何か聞かれても『クレアって、あの伝説の美人勇者のことかしら? 私がクレアの生まれ変わりですって? まー陛下ったら冗談がお上手ですこと、おほほほほっ……』と、しらを切り通せばとりあえずはごまかせるだろう。
当然ながら、最上級の国賓であるオズワルドは、城で一番いい客間を占領していた。ジェイルが見栄を張って用意したこの客間には、続き部屋に応接間も設えてあり、アデルの寝室よりも広く豪華である。
アデルが応接間に入ると、国王の部屋のそれよりも上等な革張りのソファにオズワルドが座っていた。ゆったりと背もたれに体を預けていたが、アデルを見て立ち上がる。
こうして明るい場所で見ても、やはり完璧な貴公子だった。
すらりとした長身に、やせ形だがしっかりとした体つき。纏う衣服は品のいい黒の上下で、その下に着ているシャツの襟をわずかに開き、くだけた雰囲気を出している。
神秘的な黒い瞳と黒い髪。一見冷たそうに感じるが、吸い寄せられるような魅力があった。
(魔王アーロン……)
アデルは頭の中で、若き皇帝と前世の宿敵とを重ねた。アーロンと同じ黒髪と黒い瞳。角や肌の色など魔族の特徴はないが、やはり面影はある気がする。
魔王と対面したのは前世でたった一度きりだ。それなのに、彼らが同じ人物だと一目でわかったのは、アデルにとってそれだけ強烈な記憶だったということなのだろう。
室内にはオズワルドしかいない。アデルは彼の前へ進むと、ドレスの裾をつまみ、膝を折って頭を垂れた。
「オ……オズワルド皇帝陛下、ごきげんよう。クロイス王国第一王女アデル・クロイスです」
柄にもなく緊張して声が上擦る。
オズワルドはなにも言わない。無言のままアデルを食い入るように凝視している。人を取って食いそうなその迫力に、覚悟を決めてきたはずのアデルも怯んだ。
(うわあぁぁっ……すっごいこっち見てる! なにこの目つき、やっぱり復讐する気なの?)
ガルディア皇帝との対面に際して、武器を所持するわけにはいかず、今のアデルは丸腰である。向こうも仮にも一国の皇帝なので、いきなり襲ってきたりはしないはずと踏んでいたのだが。
「ええと、その……先日はたいそうなお見舞いをありがとうございました。その節は、陛下に大変なご迷惑をおかけしてしまい……」
とにかくなにか言わなければと口を開いたアデルは、途中で言葉を呑み込んだ。
オズワルドが近づいてきたと思ったら、いきなり抱きつかれたのである。
「ヒッ……なっ、ななななななにを……っ!」
反射的に振り払おうとしたが、それすらも封じられるほど強い力だった。息もできないアデルの耳元で、オズワルドが囁く。
「会いたかったぞ、勇者クレア」
(この男、やっぱり!)
渾身の力で逃れると、アデルはオズワルドを睨みつけた。
「あなたはやっぱり魔王アーロン! 私がクレアだって気づいていたのね!」
しらを切る作戦のはずが、自分からあっさり暴露してしまった。これでもう言い逃れはできない。
目の前に魔王アーロンがいると思うと、頭に血が上り冷静ではいられなくなる。
夢で見た光景が、細部まで一気に蘇ってくるようだ。魔族との戦いで味わった数々の苦労とともに、報われなかったクレアの人生までもが。
そんなアデルの気持ちを知ってか知らでか、オズワルドは口元に薄い笑みを刻んだ。黒い瞳はアデルをとらえたまま動かない。
「一騎当千と謳われた女勇者が、まさか王女に転生とは……おまえとこうしてふたたびまみえたことは、やはり運命だったのだな」
オズワルドの喉から邪悪な笑いがこぼれる。襲いかかってくることを想定して、アデルは身構えた。
(やっぱり、オズワルドは私に復讐する気なんだ!)
いざとなったら逃げるしかないと隙を窺うが、さすがは元魔王で現皇帝。オズワルドにはまったく隙がない。クレアならともかく、ずるずるとしたドレスを着た王女のアデルでは、逃げることも反撃することもままならない。
「髪の色がクレアよりも明るいが、その澄んだ青色の瞳は変わらない」
アデルを見つめたままオズワルドは目を細めた。
前世で対面したのはたった一度きりなのに、髪や瞳の色まで覚えているとは。アデルにとってそうであったように、オズワルドにとってもあの出会いは忘れられない記憶なのだろう。
(そりゃあ、自分を殺した相手なんだものね)
「そういうあなたは角がないわね。……変な感じ」
「おまえは相変わらず面白い女だな」
それほど面白くはなさそうに言って、オズワルドはソファに腰を下ろす。
「おまえも座れ」
向かい合わせに置かれたソファを目で示されたが、アデルは立ったままでいた。従わないアデルに構わず、オズワルドはゆっくりと足を組む。
「あれから千年も経ったのだな」
「思い出話をしたいわけじゃないでしょう? あなたと話すことなんてないわ」
「そう苛つくな。血の気が多いところも前世と変わらないな」
緊張を漲らせるアデルに対して、オズワルドのほうは冷静に見える。前世が魔王だし、オズワルド自身もともと喜怒哀楽が少なそうな雰囲気だ。
(大丈夫、オズワルドだって今は一国の皇帝だ。こんな場所で襲ってきたりしない……たぶん)
自分にそう言い聞かせ深呼吸する。
アデルと同じように、オズワルドもアーロンの性質を受け継いでいるのだろうか。見たところ武器は所持していないが、もしも魔法を使えたりしたら、とても素手では太刀打ちできない。
(う……緊張しすぎて気分が悪くなってきた。まさか悪阻!? 目が合っただけで妊娠するって噂だし、この前は不覚にも失神したし……これも前世魔王の力なの?)
思考力までおかしくなってきた。
ふらついたアデルを見て、オズワルドが立ち上がる。逃げる暇もなく、アデルはむりやりソファに座らされていた。
「なにするのよ!」
「まだ体調が悪いのではないか? 立ったままでは話もできん。とにかく座れ」
そう言って、自分はふたたび向かいに腰を下ろす。気遣われた気がしたが、気のせいだろうとアデルは思い直した。
「三日も伏せっていたと聞いたが」
「魔王が同じ城にいるというのに、おちおち寝ていられないわ」
つんと澄ましてアデルが答える。オズワルドは不愉快そうに目をすがめた。
「ずいぶんと魔王を目の敵にしているんだな」
「当たり前でしょ! あなたのせいで、私がどれだけ苦労したと思ってんの?」
「しとやかな王女の仮面を被っていても、素は生きのいい勇者のままか」
「そんなことあなたに関係ないでしょ!」
喧嘩腰のアデルとは対照的に、オズワルドはアデルを軽くあしらう。自分ばかりが感情的になっていることに、ますます苛立ってくる。
(ああやっぱり、このイラッとする感じ、アーロンだわ!)
剣があったら抜いていたに違いない。しかし、抜けば外交問題に発展することを思うと、持ってこなくて正解だった。
「それを言うなら、俺もおまえにさんざん手こずらされた。最後には城を追われたわけだからな」
オズワルドの反論に、アデルは言い返さずにはいられない。
「あなたが先に人間の領土に攻め込んできたんじゃない。おかげで、私が住んでいた町は焼け野原になったわよ」
「誰が人間の領土と決めた? 魔族を差別して追い立てたのは人間だ」
「魔法なんていうインチキな力を持っていたからでしょう?」
「人間のくせにデタラメな強さを持っていたおまえが、それを言うのか? 下級魔族など虫けらのように蹴散らしていただろう」
「女ひとりに大群で向かってきたのはどっちよ!」
ひとしきり言い合い、アデルは深く息を吐いた。
こんな罵り合いをしに来たのではない。オズワルドがなにを企んでいるのか聞き出すのだ。
アデルはキッとオズワルドを見据え、単刀直入に尋ねる。
「あなたは私を殺しに来たの?」
オズワルドが目を見開いた。
「なぜそう思う」
「私を恨んでいるでしょう? 前世の戦いの続きをしに来たんじゃないの?」
あのときはアデルの勝利で終わったが、力は互角だった。オズワルドが態勢を立て直して再戦していたら、伝説は違っていたかもしれない。
「俺はおまえを殺すつもりはない」
アデルをまっすぐに見つめ、静かな声でオズワルドは言った。
嘘をついているようには見えないが、魔王の本心などわからない。油断させておいて、突然斬りかかってくるかもしれない。
夜闇を思わせるオズワルドの黒い瞳は前世と同じで、まるで感情が読めなかった。腹の探り合いは苦手だ。アデルはじれったくなって重ねて尋ねる。
「それが本心なら、なにを考えているの? 私にお見舞いの品を贈ったり、予定を変更してクロイス王国での滞在を延ばしたり……なんの意味があるのよ」
「見舞いの品が気に入らなかったのか」
「はぐらかさないで!」
オズワルドのほうへ身を乗り出して、アデルは声を荒らげた。そんな抗議にも動じることなく、オズワルドは優雅に膝の上で手を組む。
そして、こう告げた。
「俺がこの国に残ったのは、おまえに結婚を申し込むためだ」
「け……」
アデルはぽかんと口を開け、ぱちぱちと瞬きする。
今、とても信じられない言葉を聞いた気がしたのだが、空耳か。
「クロイス国王には既に話し、許可はもらった。国王も王妃も涙を流して喜んでいたぞ」
「けっ……」
「どうした。間抜けな顔をして、まだ具合が悪いのか?」
「けっっ…………けけけ結婚っっっ!?」
かなりの時間をかけて、ようやくその言葉の意味を理解する。オズワルドが、哀れむような目で見ていた。
「悪いのは頭か。前世でもやたらと力任せに攻撃するとは思っていたが、勇者は脳まで筋肉で出来ているのだな」
「誰の脳が筋肉ですって!? そっちがいきなり変な冗談言うからでしょ! よりによって、けっ……けけけ結婚、とか!」
「冗談を言った覚えはないが」
オズワルドは真顔で答える。あの夜のようにアデルは気を失いそうになった。
(はっ……失神してる場合じゃない! こいつとの結婚なんて、五十過ぎの公爵以上にあり得ないから!)
両頬を叩き、気を確かに持ってオズワルドに向き直る。
「いきなりなにを言い出すかと思えば、どういう魂胆よ?」
「売り込んできたのはおまえの父親、クロイス国王のほうだ。アデルは美しく心やさしい、しとやかな王女だと。外見は確かにガルディア皇妃としても問題ない。中身に関しては詐欺だが」
「ほっといてよ! だったら断ればいいじゃない。ガルディア帝国の皇帝なら、なにもクロイスみたいな小国から妃をもらう必要はないでしょう」
「だから、おまえは喜んで俺と結婚すればいい」
「嫌よ!」
「なぜだ? 大国の君主で、知性と美貌と類い希な統率力を兼ね備えたこの俺の、一体なにが不満だというんだ?」
「自分で言うな!」
オズワルドが眉間にしわを寄せる。こちらが断るとは考えていなかったらしい。
「おまえにとっては、俺ほど条件のいい結婚相手はいないはずだが。はっきり言って、クロイス王国は弱小国だ。経済が潤っているわけでも、軍隊が強いわけでもない。他国に攻め込まれれば簡単に落ちる」
「言われなくてもわかってるわよ」
しかし他国から、しかもセレーネ大陸一の強国ガルディア帝国の皇帝から言われると腹が立つ。
「おまえが俺の妃になれば、ガルディア帝国がクロイス王国の後ろ盾となってやろう」
「ずいぶんと気前がいいのね。なにを企んでいるの?」
「なぜそう思う?」
「なぜ? 私のほうが聞きたいわよ」
お互いに、前世で命を懸けて戦った相手なのだ。生まれ変わっても忘れることなどできなかった。そして、その恨みは、勇者に倒された魔王のほうが根深いはず。
この求婚にどんな裏があるかはともかく、それを断ることはクロイス王国にとって大きな損失だ。王女として自分を犠牲にするべきだとわかっていても、アデルはそこまで思い切れない。
(寝首をかかれるとわかっていて結婚するバカはいないわよ)
アデルを殺すつもりはないとオズワルドは言ったが、前世魔王の言葉など信用できるものか。
「あなたは魔王アーロンで、私は勇者クレアだったのよ。いくら今の私たちが一国の君主や王女で、これが政略結婚だとしても、私には耐えられない。私にとってあなたは、そしてあなたにとって私は、前世の宿敵以外のなにものでもないんだから」
アデルが思いのたけをぶちまけると、表情の乏しいオズワルドの顔が、どことなく沈んだように見えた。それはすぐに不満げなものに変わり、彼がなんと答えるのかとアデルは身構えた。
「そうか、おまえの気持ちはよくわかった」
そう言った声は案外落ち着いていて、納得してくれたのかと一瞬ほっとする。けれど、それはアデルの勘違いだった。
「だが、こちらから申し込んだ結婚を断られるというのは、ガルディア帝国皇帝としての面子が立たない。国王の許しを得ているのだから、おまえがなんと言おうとこの結婚は成立させる」
「どういう理屈よ!」
魔王も皇帝もプライドの高い生き物であることは理解できるが、なにもこんなことで意地を張る必要はないだろう。アデルとの結婚で彼が得をするとも思えない。ならば、これはアデルに対する嫌がらせに決まっている。
「面子なんて……それなら、あなたの気が変わったことにすればいいわ。私に失望したとか、他に好きな女性が出来たとか、理由なんかどうにでもなるでしょ?」
「不実な男と思われるのは俺の信用に関わる」
「誰もそんなこと思わないわよ! それに、ガルディア帝国の皇帝に異を唱える者なんていないでしょう。お父様だって諦めるわ。所詮、クロイス王国とはレベルが違うんだって」
「おまえは、どうしてもこの結婚が嫌だと言うわけか」
「ええ、死んでも嫌よ」
アデルがしっかりと頷いたとき、オズワルドの瞳にひどく冷酷な光が宿った。魔王を彷彿とさせるその眼差しに、アデルは寒気を覚える。
「では、クロイス王国はガルディア帝国を敵に回すということだな」
「なんですって!?」
あまりに極端な解釈にアデルの声が裏返った。
「なんでそんな話になるのよ! これはあなたと私の問題でしょ!」
「皇帝と王女の婚姻ともなれば国同士の問題だ。おまえが俺に恥をかかせるのなら、クロイス王国が侵略されても文句は言えまい」
「はぁ? なにそれ!」
「ガルディア皇帝として、俺は望むものをすべて手に入れる」
皇帝と言うより、まるでだだをこねる子供である。あまりに身勝手で呆れるが、残念なことに彼にはそれを実行できる力があるのだ。
ガルディア帝国が攻めてきたら、クロイス王国などたった一日、いや一時間くらいで壊滅してしまう。城も土地も人間も、なにもかもがオズワルドの手に落ちる。
裕福ではなくとも、穏やかで平和なこの国で、アデル・クロイスとして得たたくさんの幸せがあるのだ。それを与えてくれた家族や、臣下たち、クロイス王国の人々を絶対に苦しませたくはない。
悪の皇帝から祖国を守ることができるのは、アデルただひとりだ。
(こいつのどこが英明な君主ですって? こんなの、ただの暴君じゃない! この男の本性はやっぱり魔王アーロンなんだわ!)
予想通り、オズワルドからは相当恨まれているのだと思う。アデルを妃にすることは、彼にとって前世の復讐なのだ。殺さないと言った言葉が本当だとしても、手元に置いてじわじわといたぶることはできるだろう。アデルにとっては、死ぬ以上の不幸が待っている。
悔しくてたまらず、俯いて唇を噛んだ。
「私があなたと結婚すれば、クロイス王国には手を出さないと約束するのね?」
「ああ、クロイス王国はガルディア帝国が守ってやろう」
「……わかったわ、あなたと結婚する」
「それでいい」
満足げにオズワルドが答えた。
「アデル、おまえは俺の妃だ」
勝ち誇った声で言われ、アデルはぎりぎりと歯ぎしりする。
(これで勝ったと思うんじゃないわよ! 陰険魔王め、私と結婚したことを後悔させてやる!)
千年前の戦い――勇者と魔王の命を懸けた戦いの幕が、今ふたたび切って落とされた。
***
アデルが部屋を出ていったあと、オズワルドはひとりぼんやりと宙を見つめた。
クロイス城でもっとも豪華な客間の壁には、人物や建物が細やかに描かれた織物が飾られ、家具やベッドの柱には木工彫刻が施されている。それらはクロイス王国らしい素朴で繊細な文化を表していた。芸術性よりも合理性を重んじるガルディア帝国とは、正反対の気風と言える。
そう、まるでオズワルドとアデルの前世のように。本来、交わるはずのなかった運命である。
「オズワルド陛下、ご機嫌がすこぶるお悪いようですが、なにかありましたか?」
オズワルドとアデルをふたりきりにさせようと、気を利かせて席を外していた部下のダレン・レナードが、部屋に戻るなりそう言った。
もともとオズワルドの目つきは悪いが、今は人を殺せそうな眼力を放っている自覚がある。ここまで気持ちがささくれ立っている原因は、アデルに他ならない。
「ダレン、おまえは運命を信じるか?」
「なんですかいきなり」
「いや……なんでもない」
心が乱れているせいで、変なことを聞いてしまった。抜け目ないダレンは取り繕う主の異変を、察したらしい。
「もしや、アデル王女となにかあったんですか?」
「別に……」
「なにもない、わけはないですよね。さっきまではめずらしく上機嫌でいらしたというのに、今はいつにもまして顔が怖いですよ。原因がアデル王女でないのなら、他になにがあるんです?」
アデルとなにかあったと決めつけて、ダレンが尋ねる。事実、そうなのだが。
「やめてくださいよ、結婚前に手を出して破談になるとか。世間に知られたら、ガルディア皇帝ともあろうお方がみっともないですから」
「ダレン、死にたいのか?」
オズワルドの声に凄みが加わったが、ダレンが臆することはない。
常に傍に控えている二歳年下のダレンは、オズワルドの右腕と言ってもいい側近だ。立場的には臣下だが、レナード家はガルディア皇家の傍系であり、ダレンの父親は帝国内で強い影響力を持っている。オズワルドとダレンは、昔から気心の知れた友人でもあった。
髪と瞳はやわらかな茶色で、育ちの良さを思わせる身ごなしと穏やかな笑顔が人に好印象を与える。頭が切れ、剣の腕も確かだ。そしてなにより、オズワルドへ率直に意見できる貴重な存在でもある。
「いくら妃になる方でも、礼儀を欠かないように、もっと慎重に行動なさってください」
口うるさいダレンに、オズワルドは不愉快そうに顔をしかめる。
部下らしからぬあからさまな物言いには腹が立つが、いつも傍にいるだけあってあながち外れてはいない。だから、オズワルドは昔から、ダレンの言葉には耳を傾けてきた。
ただし、それを素直に認めるほど純粋ではないのだが。
「おまえは、俺をなんだと思っている」
「美しい女性に一目惚れして舞い上がっている男、だと思っています」
「…………」
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