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1巻
1-2
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大それた夢は捨てて、五十過ぎの公爵の六番目の妃で妥協するしかない。幸せな結婚生活ではなくても、衣食住には困らないだろう。
(人間、それが基本よ。愛でお腹はいっぱいにならない。私は堅実に生きる!)
二十歳を前にして、アデルは既に人生を達観し始めている。
しかし、ジェイルはどうしても娘の幸せを諦めきれないらしかった。
「ナギム公爵がおまえの噂を聞いて妃に欲しがったほどだ。ガルディア皇帝もおまえの名前くらいは耳にしているだろう。クロイス王国には、アデル・クロイスというセレーネ大陸一美しい王女がいる、とな。オズワルド陛下がおまえを見初めれば、妃候補の筆頭だ」
「言いたくはないけれど、それは親の欲目というものよ。王女なんてものは、どこの国もそれなりに小綺麗にしているわ。オズワルド陛下が私を見初める保証がどこにあるの?」
「保証はない。だがアデルよ、これは命がけの戦いなのだ。おまえの人生も、クロイス王国の未来も、おまえの肩にかかっている」
ジェイルの力強い声に、アデルの耳がぴくりと震えた。
(命がけの戦い……)
その言葉に前世勇者の血が騒ぐ。
転生してのんびり生きてきたが、それは戦う必要がなかったというだけで、アデルの本性は負けず嫌いである。戦わなければならない状況に陥れば、なにがなんでも負けたくない。
「王女として生まれたからには、より良い条件で嫁ぐことこそ勝利。どうせ嫁に行くなら、少しでも大きな国を狙うのだ。ガルディア皇帝の妃ともなれば、おまえの人生は安泰だ。一生、悠々自適に暮らせる」
「悠々自適……」
その魅力的な響きに、アデルの心がぐらぐらと揺れる。
(そうだ、ガルディアほどの大国なら、絶対に食べるものにも住む場所にも困らない。三食どころか三時のおやつと昼寝までついた幸せが約束されている!)
借金のカタに若い娘を嫁にねだるような公爵など、はっきり言って人間のクズである。アデルが妃になってしまえば、クロイス王国などさっさと切り捨てるかもしれない。
その点、制圧した国の民にまで支持されているガルディア皇帝のほうが、人として信用に値するのではないか。もしもガルディア帝国が後ろ盾となってくれれば、ナギム公国に媚びる必要はなくなるし、クロイス王国にとってこれほど心強いことはない。
クロイスの未来もアデル自身の幸せも、自分しだいなのだ。
「アデル、おまえは美しいだけでなく、不思議な強さも持っている。子供の頃から剣術の才能も足の速さも弟のカロルを凌ぐほどだったし、勝負事では誰もおまえに敵わなかった。おまえなら、不可能も可能にできると私は信じているのだよ」
ジェイルが手を伸ばし、祈るようにアデルの手を両手で握った。クロイス国王として少しでも有利な縁談を望むのはもちろんだが、そこには心から娘の幸せを願う父親の思いも込められていると感じる。
アデルは父の手をがっちりと握り返すと、その目を覗き込んで頷いた。
「やりましょう、お父様! このアデル・クロイス、クロイス王女の誇りに懸けて、ガルディア皇帝のお心を射止めてみせるわ!」
「おお、よく言ったアデル! それでこそ我が娘だ!」
ジェイルは大喜びで娘を抱きしめる。ガルディア皇妃となることが決まったと言わんばかりのはしゃぎぶりだ。
「それで、決行日はいつ?」
鼻息も荒くアデルは聞いた。既に臨戦態勢である。
「陛下がお立ち寄りになるのは一週間後。ちょうど、おまえの二十歳の誕生日だ。その夜はオズワルド陛下の歓迎会を開く予定だが、おまえのお披露目にもちょうどいい」
王族の誕生日といっても、あまり贅沢できないクロイス王国では特に祝いの席を設けるわけではない。毎年ひっそりと年を取るだけなのだが、アデルの誕生日に皇帝が来訪するというのは、なにやら運命的な巡り合わせを感じる。
「クロイス王国の総力を挙げて盛大な夜会を開くぞ。おまえも張り切って着飾りなさい。オズワルド陛下は結構な美男子だというからな」
「承知しました、お父様!」
(悠々自適の皇妃生活!)
その言葉を胸に、アデルは王女としての誇りを懸けて戦いに臨むのであった。
そして、アデル二十歳の誕生日当日。
その日は城で夜会が開かれるという知らせが、国中に通達された。ガルディア帝国皇帝を歓迎する宴である。
クロイス王国内の貴族だけでなく、今回は外国からの要人も招かれている。ガルディア帝国の皇帝オズワルドは、予定通りその日の朝にクロイス王国を訪れ、今夜は城に泊まるらしい。
前日まではやる気に満ちていたアデルだったが、当日は朝から死にそうな気分になっていた。宴は夜だというのに、早朝から幾人もの侍女に囲まれて、まるで人形みたいに飾り付けられているのである。
(やると言ったのは私だけど、こんなことになるとは!)
あまりの苦痛に、父に上手く乗せられた一週間前の自分を呪いたくなる。ただでさえ着飾ることは好きではないのに、長時間身動きもとれず立たされているのだ。おまけに、朝からなにも食べていない。
衣装箱や靴などを持った侍女たちが、入れ替わり立ち替わり部屋に入ってくる。彼女たちをまとめているのがノーマだ。
「そこのあなた、装飾品の準備をしてちょうだい。……いいえ、その箱じゃなくて、その隣の箱よ。それから、この口紅は色が濃すぎるわ。もっと控えめな色があったはずよ。……それは頬紅でしょう。……それじゃなくて……だからっ、違うって言ってるでしょう!」
侍女に指示を出す声が殺気立っている。
この宴が、アデルの玉の輿婚にとって重大な役割を担っていると知ってからのノーマは、端から見て恐ろしくなるほど一心不乱に準備をしていた。まるで、アデルではなくノーマのほうが、これで人生が決まるかのような熱の入れようである。
「ノーマ、口紅の色なんてなんでもいいわ。それより、少し休憩させて」
コルセットでぎゅうぎゅうに体を締めつけられたアデルは、息も絶え絶えでノーマに助けを求める。しかし、ノーマは険しい表情をゆるめない。
「動かないでください、アデル様!」
「お願い……せめてお水を……このままでは……し、死んでしまう……」
「なにを腑抜けたことを仰っているのですか。死ぬ気で挑まなければ、ガルディア皇帝の気を引くことなどできません。今日はアデル様にとって、いいえ、このクロイス王国にとっても命がけの大勝負。私もこの命に代えても、アデル様の美しさをさらに完璧なものにしてみせます」
たかが男の気を引くくらいで、そんなに命を懸けていたらたまったものではない。とアデルは思うが、そう言うとノーマの逆鱗に触れそうなのでやめておく。
「ガルディア皇帝オズワルド様といったら、文武に秀でた若き名君として大陸中にその名が知られています。おまけに、神秘的な黒髪と黒い瞳をお持ちの超美男子。溢れ出る色気に当てられて、女性は目が合っただけで失神するとか妊娠するとか」
「ガルディア皇帝が化け物だってことはわかったわ」
「それくらい手強い相手という意味ですわ。ですから、色仕掛けでも泣き落としでも脅迫でも、どんな卑怯な手段を使ってでも、アデル様は皇帝をものにするのです。ナギムのゲス公爵などに嫁がせるわけにはいきません!」
ナギム公国の一件を聞いたとき、ノーマは激怒していた。悔し涙を浮かべて怒っていた彼女を見て、改めてこの夜会の重要性をアデルは感じたのだ。
(そうだ、衣装と責任の重さに負けるわけにはいかない。私はこの勝負に勝たなければ!)
当初の心意気を思い出したアデルは、その後数時間にもわたる着付けと化粧をどうにか乗り切った。
「とてもお綺麗です、アデル様。どんな殿方でも一目で恋に落ちてしまいますわ」
完成した『アデル王女』をノーマがうっとりと見つめる。彼女の手腕と、力を出し尽くした侍女たちのおかげで、アデルはどこから見ても完璧な王女に仕上がった。
今日のために仕立てた濃い青のドレスは、肩を出した大人っぽい型で、もともと細いアデルの腰はコルセットの力で両手で掴めそうなくらいくびれている。光沢のある高級生地を贅沢に使い、大きく膨らみを持たせた腰から下の部分には、透けて見える薄手の生地を花びらのように何層も重ねてあった。
色白で華奢な首もとには、レースを思わせる繊細な銀細工の首飾り。波打つ金の髪にも首飾りと揃いの冠が添えられている。化粧は控えめに見えるが、その実、入念に計算されており、はっきりとしたアデルの目鼻立ちを上品に彩っていた。
アデルの頭のてっぺんから足の先まで、クロイス王国のなけなしの財力をつぎ込んだ結果と言えよう。絶対に無駄にするわけにはいかない。
「ありがとう、ノーマ、みんな。おかげで私も王女っぽくなれた気がするわ」
「『っぽく』ではなく、アデル様は正真正銘の王女であることをお忘れなく!」
ここまできっちりと盛装するのは久々で、姿見に映る自分が自分ではない気がする。こそばゆい気分だが、これならばガルディア皇帝とも互角に戦えるだろう。
「さあ、やるからには勝つわよ! 待っていなさい、ガルディア皇帝!」
「アデル様、そんな心の声を口に出してはいけません! よろしいですか? 人前ではできるだけしゃべらないように。受け答えは簡潔に『はい』や『いいえ』でごまかしてください。少し緊張しているふうを装っておけばなんとかなるでしょう。あくまでも淑女らしく、今夜だけはオズワルド陛下を騙し通すのです。大丈夫、結婚してしまえばこっちのものです」
そういうノーマも心の声がだだ漏れである。
しかし、彼女の助言もあって、なんだかいけそうな気がしてきた。
(悠々自適、三食おやつに昼寝つき!)
鏡の中の自分に言い聞かせ、アデルはぴんと背筋を伸ばした。
日が暮れると、王都の中心に建つ城を目指して馬車が次々にやって来た。
城の外には豪華な馬車が列を成し、着飾った紳士淑女たちが門をくぐっていく。皆、夜会に招かれた客である。
アデルは自室のテラスに立ち、集まってくる人々を遠目に眺めながら、大広間から流れてくる楽団の音色に耳を傾けた。
朝からずっと部屋でめかしこんでいたので、城内にいるはずのガルディア皇帝にはまだ会っていない。皇帝は多忙なため、明日には帰国するそうだ。アデルが彼に気に入られるかどうかは、やはり今夜が勝負ということになる。
「ガルディア帝国皇帝、オズワルド・バルド・ガルディア……なんだか舌を噛みそうな名前ね。間違わないように気をつけないと」
未来の夫(予定)の名前を呪文のように繰り返す。肩書きはもちろん、外見も才能も文句のつけようがないらしいが、性格はどうなのだろう。政略結婚においては二の次とはいえ、本来はそれが一番重要だ。
(まあ、多少問題があってもそれはお互い様ってことで)
こちらもおしとやかな王女として騙し通す気満々なのだから、文句は言えない。
「アデル様、そろそろ大広間のほうへまいりましょう」
扉が開いてノーマが呼びに来た。少し遅れて来るようにと、父からは言われている。頃合いを見計らって華々しく登場し、ガルディア皇帝の目に留まらせるためだ。
まず、大広間に集まった客人たちの前で、クロイス王女アデルの紹介をする。主要な客には、後で国王とともに改めて挨拶をして回る予定だ。おそらく、皇帝オズワルドともそのときに初めて言葉を交わすことになるだろう。
これからの段取りは嫌と言うほどノーマから聞かされている。それを頭の中で復習しながら、アデルはノーマとともに部屋を出た。
大広間までは螺旋階段を下りて、中庭を取り囲む回廊を通らなければならない。重いドレスを引きずって歩くには、結構な距離がある。
ドレスはアデルの体をきつく締めつけているし、おまけに今日は朝からなにも食べていない。体力には自信があるアデルもさすがに倒れそうだ。
アデルはぜいぜいと息を切らせて、先を歩くノーマを必死に追いかける。
「ノーマ……ノーマ、ちょっと休憩させて」
「アデル様、お急ぎください。夜会はもう始まっているのですから。今夜は他国からもお客様がお集まりですし、ガルディア皇帝を狙っているのはアデル様だけではありません」
「わかってはいるけど、ドレスも装飾品も鎧みたいに重いのよ。鎧のほうが動きやすいだけまだマシかも」
「ドレスは王女の戦闘服ですわ。そのくらい堪えられなくては、オズワルド陛下を勝ち取ることはできません」
「勝ち取る前に私が死ぬかもしれないわよ……」
当てつけがましくぼやき、アデルはドレスの裾を踏まないようゆっくりと階段を下りていく。フリルやレースは美しいが、普段着ているシンプルなドレスの三倍は重い。いくら前世が勇者でも、いきなりこの苦行はこたえる。
(普通のお姫様も、実はすごい力持ちなんじゃ……)
優雅に見えて、きっとみんな人知れず鍛えているのだ。姫君たちの涙ぐましい努力を想像すると、少しは耐えられる気がした。
煌々と輝く月が、中庭を取り囲む回廊の柱を白く浮かび上がらせる。アデルは幻想的な光に目を吸い寄せられ、足を止めた。
(いつかどこかで、こんな光景を見たような……)
ぼんやりと思い返すと、脳裏に白亜の城が浮かぶ。
夢で何度も見ている、魔王アーロンの城だ。魔王城と呼ぶにはやけに綺麗で神々しい。
しかし、これから大勝負というときに思い出すなど不吉である。なんだか嫌な予感がしてきたアデルの耳に、ノーマの呼びかけが届いた。
「アデル様、お急ぎくださいませ……アデル様」
「待って、ノーマ……今行くわ」
アデルは慌ててドレスの中で小刻みに足を動かす。靴もいつもより踵が高く、歩きにくい。少しでも急ぐと転びそうになる。廊下の壁には等間隔にランプが備えつけてあるが、薄暗くて足下が心許ない。ドレスの裾を踏まないように下を見て歩いていたアデルは、曲がり角から出てきた人影に気づかなかった。
「アデル様、危ない!」
「え? ……きゃっ!」
ノーマの声で顔を上げたときには、アデルは誰かにぶつかっていた。
踵がすべって転びそうになった瞬間、相手が素早くアデルの体を支えてくれる。なんとか転倒を免れたアデルは、知らない誰かの胸につかまったままほっと息を吐く。
「大丈夫か?」
頭上で低い声が聞こえた。
全体重でしがみついていたアデルは、慌てて体を離す。おそらく招待客のひとりに違いない男性に、こんな醜態をさらすとは。あれほど注意していたのに、早々にやらかしてしまった。
「申し訳ありません! 私の不注意でご迷惑をおかけしてしまいました」
「べつに、大したことではない」
若い男性の声だった。素っ気ない物言いだが、アデルに気遣わせないために敢えてそうしているとも思える。力強い腕に支えられた感触を思い出し、少しどきどきした。
男は長身に黒い正装を纏い、胸元になにかの紋章をあしらった鎖つきの金ブローチを留めていた。決して華美ではなく、清潔感と品位が漂う服装である。
アデルは恐る恐る、自分よりずっと背の高い相手を見上げた。ランプの灯りで少し影になっているが、整った顔立ちが窺える。黒い髪に黒い瞳。クロイス王国ではあまり見ない風貌であるせいか、異国的な印象を受けた。きりりとした目元は理知的だが、近寄りがたい雰囲気だ。
(え……?)
自分を見下ろすその美しい顔に、アデルは覚えがある。
「あなたは……」
「おまえは……」
アデルとほぼ同時に、黒髪の男も言葉を発する。
そしてふたりとも押し黙り、瞬きするのも忘れて見つめ合った。
生暖かい風が吹き、回廊の灯りを揺らす。夜風はアデルの胸に不快なざわつきをもたらした。
「アデル様、大丈夫ですか?」
「オズワルド陛下、そちらにおいででしたか」
ノーマの声と、知らない男の声が重なる。
目の前の人物がガルディア帝国皇帝、オズワルド・バルド・ガルディアであることをアデルは察した。
(この人が、オズワルド? いいえ、違う……)
突然、アデルの心臓がドクンと大きく脈打つ。
心臓だけではない。なにかで叩かれたような頭痛に襲われて、鼓膜が破けそうなほどの耳鳴りまでする。体中が熱いのか寒いのかわからず、全身に冷や汗が噴き出た。
荒い呼吸を繰り返しながら、アデルは胸のあたりでぎゅっと手を握る。
(思い出した! そうだ、この顔は……っ!)
「アデル様、どうされたのですか?」
アデルの異変を感じたのか、駆けつけたノーマが不安そうに尋ねた。アデルは立っていることができず、高価なドレスが汚れるのも構わずその場に膝をつく。
「アデル様! お気を確かに! ……誰かっ!」
ノーマが声を張り上げると、近くにいた衛兵が駆け寄ってきた。
アデルはノーマに抱きかかえられながら、すぐ傍に佇む黒い人影を見上げる。
ガルディア帝国の皇帝オズワルドは、息を呑んでこちらを見下ろしていた。
その顔をアデルはよく知っている。姿形も、彼が放つ圧倒的な存在感も、記憶よりも深い魂の奥底に刻みつけられていた。
これまで何度も夢に見た。忘れたくても忘れられない、その姿は――
(前世の宿敵、魔王アーロン!)
頭の中でオズワルドとアーロンの姿がぴったりと重なったとたん、アデルは意識を失った。
2
クレアの剣が魔王の脇腹を貫いたとき、色素の薄い唇から青い血が一筋こぼれた。
魔族の血は青い。冷たい水のような、毒のような青。彼らの顔色が悪いのも頷ける。
荒い呼吸の中で、魔王は言った。
「もしもおまえが俺を倒すなら、それは運命だ。おまえが与える傷も痛みも、俺は死んでも忘れない――」
そして口の端に、にやりと笑みを刻む。
それが、最後に聞いた魔王アーロンの声だった。
***
驚愕の事実に神経が耐えきれなかったのか、その後アデルは三日間も眠り続けた。
アデルが倒れたあとも夜会は行われたが、国王も王妃もそれどころではなく、家臣も城の使用人たちも大慌てだったらしい。目覚めたときにはみんな憔悴しきっていて、アデルは心から申し訳なく思った。
アデルの体のどこにも異常はなく、医師からは疲労と診断された。体型を美しく見せるために、まともな食事も取らずに窮屈なドレスを身につけていたことを注意され、ノーマは自分の責任だと落ち込んでいる。そのせいか、アデルに対していつになくやさしい。
「アデル様、お体の調子はいかがですか? 今はゆっくりと養生なさってくださいませ。なにか欲しいものはありますか?」
しかし、そんなふうに気遣われると、かえって気が咎める。あの夜に倒れた原因は、疲労でもドレスのせいでもないことは、自分が一番よくわかっていた。
「大丈夫よ、今はなにもいらないわ。ありがとう、ノーマ」
ノーマには笑顔で答えるが、本当はまったく大丈夫などではない。アデルの頭の中は、あの夜からパニック状態である。
(間違いなくあれはアーロンだった。ってことは、魔王までこの時代に生まれ変わったってこと? しかも、私が射止めなきゃいけない相手に? そんなことってあるっ!?)
あれからずっと、その件で悶々と悩み続けていた。そのせいかこのところ、前世でアーロンと対峙したときの夢ばかり見る。
魔王の最後のセリフも思い出し、アデルはぞっとした。あれは、命を懸けた最期の呪いに違いない。アーロンは死んだ後も延々と、クレアを恨み続けたのだ。
伝説では、クレアに負わされた傷がもとでアーロンが命を落としたことになっている。それが本当なら、クレアの転生者であるアデルに復讐したいと考えてもおかしくはない。
(運命とか、死んでも忘れないとか言ってたもの! なんて執念深さなの、アーロン……じゃなくてオズワルド? やっぱりアーロン? いえ、名前なんてどっちでもいいわ!)
記憶がごちゃ混ぜになり、しまいには、忘れかけていたクレアとしての感情まで蘇りそうになる。
アーロン――改めオズワルドのほうも、アデルと対面したときの様子が変だった。
もしも、アデルと同じように彼にも前世の記憶があるとしたら、アデルがクレアであることに気づいたのではないだろうか。アデル自身は、今の自分はクレアとあまり似ていないと思っていたが、化粧をすることもなかった前世では、自分の顔を鏡で見る機会などほとんどなかった。もしかすると、他人の目から見れば似ているのかもしれない。
それに、おそらく姿形はあまり関係がないのだ。魔族だったアーロンには角があったし、肌の色も人間とは違っていた。アデルがオズワルドにアーロンの面影を見たのは、容姿が似ていたというよりも、もっと本質的な魂の波動のようなものを感じ取ったからである。
これまで前世の記憶を持つ人間に出会ったことはないが、転生者は意外と多いのだろうか? 口にしないだけで、実はみんな誰かの生まれ変わりなのか。
「ねぇ、ノーマ、つかぬことを聞くけど……生まれ変わりって信じる?」
「どうなさったんです、唐突にそんな話をなさるなんて」
ノーマが心配そうな顔でアデルの額に手を当てる。病み上がりのせいでおかしくなったと思われたようだ。
「お熱はありませんわね」
「……うん、つまり信じないってことね。よくわかった」
現実的なノーマはそう言うだろうと思っていた。というか、おそらく前世の記憶を持つ人間など、そうそういないに違いない。
(だったら、なんでよりによって私とアーロンなわけ?)
この世に神様などというものが存在するとして、これがその采配なのだとしたら、今すぐ神殿に殴り込みに行きたい。ふたり揃って転生したとしても、わざわざ巡り合わなくてもいいではないか。せっかく別々の国に生まれたというのに、意地悪な運命によって引き合わされた気がする。
(でも、私に前世の記憶があることを、向こうは気づいていないかも……)
動揺のあまり気を失いはしたが、彼の前でアーロンの名前を口にしたわけではない。今ならまだしらを切り通せる可能性もある。
(そうしよう! みんなには悪いけど、オズワルドとの結婚はなかったことにしてもらう)
いくらクロイス王国の平和のためでも、前世の宿敵との結婚など考えられない。
いつだって前世の夢を見た朝は、クレアに戻った気分になる。自分はアデル・クロイスだと自覚していても、まだ完全にクレアの意識を切り離せていないのかもしれない。これでオズワルドと結婚などしたら、隣で寝ている夫を殺しかねないし、その逆だってあり得る。
こうなると、まともに挨拶する前にアデルが倒れたのは、むしろ幸いだった。
わざわざ来訪してくれた賓客に対して、こんなに失礼なことはない。ガルディア帝国としては、クロイス王国の王女に失望したはずだし、そんな女を皇妃にと望むわけもなかった。
(そうよねー、これですべて丸く収まるわ。良かった――!)
勝手にそう結論づけて、アデルは肩の力を抜く。
魔王アーロン改め皇帝オズワルドとは、もう二度と会うことはないだろう。
(さようならアーロン、私の知らないところで幸せになって! 宿敵の幸せを願うなんて、私って心が広い)
単純なもので、気が楽になったらとたんに空腹を覚えた。寝室には所狭しと、花や果物入りの籠が置かれている。眠っている間に、誰かが見舞いに持ってきてくれたのだろう。
「ノーマ、お腹がすいたわ。そこの美味しそうな果物をいただいてもいい? 誰かがお見舞いにくださったの?」
「オズワルド陛下です」
「あらそう、ではありがたくいただき…………今、なんて言ったの?」
信じがたい名前を耳にした気がして、アデルはくるりとノーマを振り向く。ノーマは籠からリンゴをひとつ取ると、傍らの椅子に座って皮を剥き始めた。
「オズワルド陛下からのお見舞いの品です、と申し上げました」
「オズ……ワルド……?」
「実は、陛下はアデル様を心配されて、毎日お見舞いの品を届けてくださったのです。果物の他にも、お花やお菓子や、なんと宝石まで……このお部屋にあるお見舞いの品は、ほとんどが陛下からのものです」
「なっ……ななななな……っ」
(なんですって――っっ!?)
(人間、それが基本よ。愛でお腹はいっぱいにならない。私は堅実に生きる!)
二十歳を前にして、アデルは既に人生を達観し始めている。
しかし、ジェイルはどうしても娘の幸せを諦めきれないらしかった。
「ナギム公爵がおまえの噂を聞いて妃に欲しがったほどだ。ガルディア皇帝もおまえの名前くらいは耳にしているだろう。クロイス王国には、アデル・クロイスというセレーネ大陸一美しい王女がいる、とな。オズワルド陛下がおまえを見初めれば、妃候補の筆頭だ」
「言いたくはないけれど、それは親の欲目というものよ。王女なんてものは、どこの国もそれなりに小綺麗にしているわ。オズワルド陛下が私を見初める保証がどこにあるの?」
「保証はない。だがアデルよ、これは命がけの戦いなのだ。おまえの人生も、クロイス王国の未来も、おまえの肩にかかっている」
ジェイルの力強い声に、アデルの耳がぴくりと震えた。
(命がけの戦い……)
その言葉に前世勇者の血が騒ぐ。
転生してのんびり生きてきたが、それは戦う必要がなかったというだけで、アデルの本性は負けず嫌いである。戦わなければならない状況に陥れば、なにがなんでも負けたくない。
「王女として生まれたからには、より良い条件で嫁ぐことこそ勝利。どうせ嫁に行くなら、少しでも大きな国を狙うのだ。ガルディア皇帝の妃ともなれば、おまえの人生は安泰だ。一生、悠々自適に暮らせる」
「悠々自適……」
その魅力的な響きに、アデルの心がぐらぐらと揺れる。
(そうだ、ガルディアほどの大国なら、絶対に食べるものにも住む場所にも困らない。三食どころか三時のおやつと昼寝までついた幸せが約束されている!)
借金のカタに若い娘を嫁にねだるような公爵など、はっきり言って人間のクズである。アデルが妃になってしまえば、クロイス王国などさっさと切り捨てるかもしれない。
その点、制圧した国の民にまで支持されているガルディア皇帝のほうが、人として信用に値するのではないか。もしもガルディア帝国が後ろ盾となってくれれば、ナギム公国に媚びる必要はなくなるし、クロイス王国にとってこれほど心強いことはない。
クロイスの未来もアデル自身の幸せも、自分しだいなのだ。
「アデル、おまえは美しいだけでなく、不思議な強さも持っている。子供の頃から剣術の才能も足の速さも弟のカロルを凌ぐほどだったし、勝負事では誰もおまえに敵わなかった。おまえなら、不可能も可能にできると私は信じているのだよ」
ジェイルが手を伸ばし、祈るようにアデルの手を両手で握った。クロイス国王として少しでも有利な縁談を望むのはもちろんだが、そこには心から娘の幸せを願う父親の思いも込められていると感じる。
アデルは父の手をがっちりと握り返すと、その目を覗き込んで頷いた。
「やりましょう、お父様! このアデル・クロイス、クロイス王女の誇りに懸けて、ガルディア皇帝のお心を射止めてみせるわ!」
「おお、よく言ったアデル! それでこそ我が娘だ!」
ジェイルは大喜びで娘を抱きしめる。ガルディア皇妃となることが決まったと言わんばかりのはしゃぎぶりだ。
「それで、決行日はいつ?」
鼻息も荒くアデルは聞いた。既に臨戦態勢である。
「陛下がお立ち寄りになるのは一週間後。ちょうど、おまえの二十歳の誕生日だ。その夜はオズワルド陛下の歓迎会を開く予定だが、おまえのお披露目にもちょうどいい」
王族の誕生日といっても、あまり贅沢できないクロイス王国では特に祝いの席を設けるわけではない。毎年ひっそりと年を取るだけなのだが、アデルの誕生日に皇帝が来訪するというのは、なにやら運命的な巡り合わせを感じる。
「クロイス王国の総力を挙げて盛大な夜会を開くぞ。おまえも張り切って着飾りなさい。オズワルド陛下は結構な美男子だというからな」
「承知しました、お父様!」
(悠々自適の皇妃生活!)
その言葉を胸に、アデルは王女としての誇りを懸けて戦いに臨むのであった。
そして、アデル二十歳の誕生日当日。
その日は城で夜会が開かれるという知らせが、国中に通達された。ガルディア帝国皇帝を歓迎する宴である。
クロイス王国内の貴族だけでなく、今回は外国からの要人も招かれている。ガルディア帝国の皇帝オズワルドは、予定通りその日の朝にクロイス王国を訪れ、今夜は城に泊まるらしい。
前日まではやる気に満ちていたアデルだったが、当日は朝から死にそうな気分になっていた。宴は夜だというのに、早朝から幾人もの侍女に囲まれて、まるで人形みたいに飾り付けられているのである。
(やると言ったのは私だけど、こんなことになるとは!)
あまりの苦痛に、父に上手く乗せられた一週間前の自分を呪いたくなる。ただでさえ着飾ることは好きではないのに、長時間身動きもとれず立たされているのだ。おまけに、朝からなにも食べていない。
衣装箱や靴などを持った侍女たちが、入れ替わり立ち替わり部屋に入ってくる。彼女たちをまとめているのがノーマだ。
「そこのあなた、装飾品の準備をしてちょうだい。……いいえ、その箱じゃなくて、その隣の箱よ。それから、この口紅は色が濃すぎるわ。もっと控えめな色があったはずよ。……それは頬紅でしょう。……それじゃなくて……だからっ、違うって言ってるでしょう!」
侍女に指示を出す声が殺気立っている。
この宴が、アデルの玉の輿婚にとって重大な役割を担っていると知ってからのノーマは、端から見て恐ろしくなるほど一心不乱に準備をしていた。まるで、アデルではなくノーマのほうが、これで人生が決まるかのような熱の入れようである。
「ノーマ、口紅の色なんてなんでもいいわ。それより、少し休憩させて」
コルセットでぎゅうぎゅうに体を締めつけられたアデルは、息も絶え絶えでノーマに助けを求める。しかし、ノーマは険しい表情をゆるめない。
「動かないでください、アデル様!」
「お願い……せめてお水を……このままでは……し、死んでしまう……」
「なにを腑抜けたことを仰っているのですか。死ぬ気で挑まなければ、ガルディア皇帝の気を引くことなどできません。今日はアデル様にとって、いいえ、このクロイス王国にとっても命がけの大勝負。私もこの命に代えても、アデル様の美しさをさらに完璧なものにしてみせます」
たかが男の気を引くくらいで、そんなに命を懸けていたらたまったものではない。とアデルは思うが、そう言うとノーマの逆鱗に触れそうなのでやめておく。
「ガルディア皇帝オズワルド様といったら、文武に秀でた若き名君として大陸中にその名が知られています。おまけに、神秘的な黒髪と黒い瞳をお持ちの超美男子。溢れ出る色気に当てられて、女性は目が合っただけで失神するとか妊娠するとか」
「ガルディア皇帝が化け物だってことはわかったわ」
「それくらい手強い相手という意味ですわ。ですから、色仕掛けでも泣き落としでも脅迫でも、どんな卑怯な手段を使ってでも、アデル様は皇帝をものにするのです。ナギムのゲス公爵などに嫁がせるわけにはいきません!」
ナギム公国の一件を聞いたとき、ノーマは激怒していた。悔し涙を浮かべて怒っていた彼女を見て、改めてこの夜会の重要性をアデルは感じたのだ。
(そうだ、衣装と責任の重さに負けるわけにはいかない。私はこの勝負に勝たなければ!)
当初の心意気を思い出したアデルは、その後数時間にもわたる着付けと化粧をどうにか乗り切った。
「とてもお綺麗です、アデル様。どんな殿方でも一目で恋に落ちてしまいますわ」
完成した『アデル王女』をノーマがうっとりと見つめる。彼女の手腕と、力を出し尽くした侍女たちのおかげで、アデルはどこから見ても完璧な王女に仕上がった。
今日のために仕立てた濃い青のドレスは、肩を出した大人っぽい型で、もともと細いアデルの腰はコルセットの力で両手で掴めそうなくらいくびれている。光沢のある高級生地を贅沢に使い、大きく膨らみを持たせた腰から下の部分には、透けて見える薄手の生地を花びらのように何層も重ねてあった。
色白で華奢な首もとには、レースを思わせる繊細な銀細工の首飾り。波打つ金の髪にも首飾りと揃いの冠が添えられている。化粧は控えめに見えるが、その実、入念に計算されており、はっきりとしたアデルの目鼻立ちを上品に彩っていた。
アデルの頭のてっぺんから足の先まで、クロイス王国のなけなしの財力をつぎ込んだ結果と言えよう。絶対に無駄にするわけにはいかない。
「ありがとう、ノーマ、みんな。おかげで私も王女っぽくなれた気がするわ」
「『っぽく』ではなく、アデル様は正真正銘の王女であることをお忘れなく!」
ここまできっちりと盛装するのは久々で、姿見に映る自分が自分ではない気がする。こそばゆい気分だが、これならばガルディア皇帝とも互角に戦えるだろう。
「さあ、やるからには勝つわよ! 待っていなさい、ガルディア皇帝!」
「アデル様、そんな心の声を口に出してはいけません! よろしいですか? 人前ではできるだけしゃべらないように。受け答えは簡潔に『はい』や『いいえ』でごまかしてください。少し緊張しているふうを装っておけばなんとかなるでしょう。あくまでも淑女らしく、今夜だけはオズワルド陛下を騙し通すのです。大丈夫、結婚してしまえばこっちのものです」
そういうノーマも心の声がだだ漏れである。
しかし、彼女の助言もあって、なんだかいけそうな気がしてきた。
(悠々自適、三食おやつに昼寝つき!)
鏡の中の自分に言い聞かせ、アデルはぴんと背筋を伸ばした。
日が暮れると、王都の中心に建つ城を目指して馬車が次々にやって来た。
城の外には豪華な馬車が列を成し、着飾った紳士淑女たちが門をくぐっていく。皆、夜会に招かれた客である。
アデルは自室のテラスに立ち、集まってくる人々を遠目に眺めながら、大広間から流れてくる楽団の音色に耳を傾けた。
朝からずっと部屋でめかしこんでいたので、城内にいるはずのガルディア皇帝にはまだ会っていない。皇帝は多忙なため、明日には帰国するそうだ。アデルが彼に気に入られるかどうかは、やはり今夜が勝負ということになる。
「ガルディア帝国皇帝、オズワルド・バルド・ガルディア……なんだか舌を噛みそうな名前ね。間違わないように気をつけないと」
未来の夫(予定)の名前を呪文のように繰り返す。肩書きはもちろん、外見も才能も文句のつけようがないらしいが、性格はどうなのだろう。政略結婚においては二の次とはいえ、本来はそれが一番重要だ。
(まあ、多少問題があってもそれはお互い様ってことで)
こちらもおしとやかな王女として騙し通す気満々なのだから、文句は言えない。
「アデル様、そろそろ大広間のほうへまいりましょう」
扉が開いてノーマが呼びに来た。少し遅れて来るようにと、父からは言われている。頃合いを見計らって華々しく登場し、ガルディア皇帝の目に留まらせるためだ。
まず、大広間に集まった客人たちの前で、クロイス王女アデルの紹介をする。主要な客には、後で国王とともに改めて挨拶をして回る予定だ。おそらく、皇帝オズワルドともそのときに初めて言葉を交わすことになるだろう。
これからの段取りは嫌と言うほどノーマから聞かされている。それを頭の中で復習しながら、アデルはノーマとともに部屋を出た。
大広間までは螺旋階段を下りて、中庭を取り囲む回廊を通らなければならない。重いドレスを引きずって歩くには、結構な距離がある。
ドレスはアデルの体をきつく締めつけているし、おまけに今日は朝からなにも食べていない。体力には自信があるアデルもさすがに倒れそうだ。
アデルはぜいぜいと息を切らせて、先を歩くノーマを必死に追いかける。
「ノーマ……ノーマ、ちょっと休憩させて」
「アデル様、お急ぎください。夜会はもう始まっているのですから。今夜は他国からもお客様がお集まりですし、ガルディア皇帝を狙っているのはアデル様だけではありません」
「わかってはいるけど、ドレスも装飾品も鎧みたいに重いのよ。鎧のほうが動きやすいだけまだマシかも」
「ドレスは王女の戦闘服ですわ。そのくらい堪えられなくては、オズワルド陛下を勝ち取ることはできません」
「勝ち取る前に私が死ぬかもしれないわよ……」
当てつけがましくぼやき、アデルはドレスの裾を踏まないようゆっくりと階段を下りていく。フリルやレースは美しいが、普段着ているシンプルなドレスの三倍は重い。いくら前世が勇者でも、いきなりこの苦行はこたえる。
(普通のお姫様も、実はすごい力持ちなんじゃ……)
優雅に見えて、きっとみんな人知れず鍛えているのだ。姫君たちの涙ぐましい努力を想像すると、少しは耐えられる気がした。
煌々と輝く月が、中庭を取り囲む回廊の柱を白く浮かび上がらせる。アデルは幻想的な光に目を吸い寄せられ、足を止めた。
(いつかどこかで、こんな光景を見たような……)
ぼんやりと思い返すと、脳裏に白亜の城が浮かぶ。
夢で何度も見ている、魔王アーロンの城だ。魔王城と呼ぶにはやけに綺麗で神々しい。
しかし、これから大勝負というときに思い出すなど不吉である。なんだか嫌な予感がしてきたアデルの耳に、ノーマの呼びかけが届いた。
「アデル様、お急ぎくださいませ……アデル様」
「待って、ノーマ……今行くわ」
アデルは慌ててドレスの中で小刻みに足を動かす。靴もいつもより踵が高く、歩きにくい。少しでも急ぐと転びそうになる。廊下の壁には等間隔にランプが備えつけてあるが、薄暗くて足下が心許ない。ドレスの裾を踏まないように下を見て歩いていたアデルは、曲がり角から出てきた人影に気づかなかった。
「アデル様、危ない!」
「え? ……きゃっ!」
ノーマの声で顔を上げたときには、アデルは誰かにぶつかっていた。
踵がすべって転びそうになった瞬間、相手が素早くアデルの体を支えてくれる。なんとか転倒を免れたアデルは、知らない誰かの胸につかまったままほっと息を吐く。
「大丈夫か?」
頭上で低い声が聞こえた。
全体重でしがみついていたアデルは、慌てて体を離す。おそらく招待客のひとりに違いない男性に、こんな醜態をさらすとは。あれほど注意していたのに、早々にやらかしてしまった。
「申し訳ありません! 私の不注意でご迷惑をおかけしてしまいました」
「べつに、大したことではない」
若い男性の声だった。素っ気ない物言いだが、アデルに気遣わせないために敢えてそうしているとも思える。力強い腕に支えられた感触を思い出し、少しどきどきした。
男は長身に黒い正装を纏い、胸元になにかの紋章をあしらった鎖つきの金ブローチを留めていた。決して華美ではなく、清潔感と品位が漂う服装である。
アデルは恐る恐る、自分よりずっと背の高い相手を見上げた。ランプの灯りで少し影になっているが、整った顔立ちが窺える。黒い髪に黒い瞳。クロイス王国ではあまり見ない風貌であるせいか、異国的な印象を受けた。きりりとした目元は理知的だが、近寄りがたい雰囲気だ。
(え……?)
自分を見下ろすその美しい顔に、アデルは覚えがある。
「あなたは……」
「おまえは……」
アデルとほぼ同時に、黒髪の男も言葉を発する。
そしてふたりとも押し黙り、瞬きするのも忘れて見つめ合った。
生暖かい風が吹き、回廊の灯りを揺らす。夜風はアデルの胸に不快なざわつきをもたらした。
「アデル様、大丈夫ですか?」
「オズワルド陛下、そちらにおいででしたか」
ノーマの声と、知らない男の声が重なる。
目の前の人物がガルディア帝国皇帝、オズワルド・バルド・ガルディアであることをアデルは察した。
(この人が、オズワルド? いいえ、違う……)
突然、アデルの心臓がドクンと大きく脈打つ。
心臓だけではない。なにかで叩かれたような頭痛に襲われて、鼓膜が破けそうなほどの耳鳴りまでする。体中が熱いのか寒いのかわからず、全身に冷や汗が噴き出た。
荒い呼吸を繰り返しながら、アデルは胸のあたりでぎゅっと手を握る。
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「アデル様、どうされたのですか?」
アデルの異変を感じたのか、駆けつけたノーマが不安そうに尋ねた。アデルは立っていることができず、高価なドレスが汚れるのも構わずその場に膝をつく。
「アデル様! お気を確かに! ……誰かっ!」
ノーマが声を張り上げると、近くにいた衛兵が駆け寄ってきた。
アデルはノーマに抱きかかえられながら、すぐ傍に佇む黒い人影を見上げる。
ガルディア帝国の皇帝オズワルドは、息を呑んでこちらを見下ろしていた。
その顔をアデルはよく知っている。姿形も、彼が放つ圧倒的な存在感も、記憶よりも深い魂の奥底に刻みつけられていた。
これまで何度も夢に見た。忘れたくても忘れられない、その姿は――
(前世の宿敵、魔王アーロン!)
頭の中でオズワルドとアーロンの姿がぴったりと重なったとたん、アデルは意識を失った。
2
クレアの剣が魔王の脇腹を貫いたとき、色素の薄い唇から青い血が一筋こぼれた。
魔族の血は青い。冷たい水のような、毒のような青。彼らの顔色が悪いのも頷ける。
荒い呼吸の中で、魔王は言った。
「もしもおまえが俺を倒すなら、それは運命だ。おまえが与える傷も痛みも、俺は死んでも忘れない――」
そして口の端に、にやりと笑みを刻む。
それが、最後に聞いた魔王アーロンの声だった。
***
驚愕の事実に神経が耐えきれなかったのか、その後アデルは三日間も眠り続けた。
アデルが倒れたあとも夜会は行われたが、国王も王妃もそれどころではなく、家臣も城の使用人たちも大慌てだったらしい。目覚めたときにはみんな憔悴しきっていて、アデルは心から申し訳なく思った。
アデルの体のどこにも異常はなく、医師からは疲労と診断された。体型を美しく見せるために、まともな食事も取らずに窮屈なドレスを身につけていたことを注意され、ノーマは自分の責任だと落ち込んでいる。そのせいか、アデルに対していつになくやさしい。
「アデル様、お体の調子はいかがですか? 今はゆっくりと養生なさってくださいませ。なにか欲しいものはありますか?」
しかし、そんなふうに気遣われると、かえって気が咎める。あの夜に倒れた原因は、疲労でもドレスのせいでもないことは、自分が一番よくわかっていた。
「大丈夫よ、今はなにもいらないわ。ありがとう、ノーマ」
ノーマには笑顔で答えるが、本当はまったく大丈夫などではない。アデルの頭の中は、あの夜からパニック状態である。
(間違いなくあれはアーロンだった。ってことは、魔王までこの時代に生まれ変わったってこと? しかも、私が射止めなきゃいけない相手に? そんなことってあるっ!?)
あれからずっと、その件で悶々と悩み続けていた。そのせいかこのところ、前世でアーロンと対峙したときの夢ばかり見る。
魔王の最後のセリフも思い出し、アデルはぞっとした。あれは、命を懸けた最期の呪いに違いない。アーロンは死んだ後も延々と、クレアを恨み続けたのだ。
伝説では、クレアに負わされた傷がもとでアーロンが命を落としたことになっている。それが本当なら、クレアの転生者であるアデルに復讐したいと考えてもおかしくはない。
(運命とか、死んでも忘れないとか言ってたもの! なんて執念深さなの、アーロン……じゃなくてオズワルド? やっぱりアーロン? いえ、名前なんてどっちでもいいわ!)
記憶がごちゃ混ぜになり、しまいには、忘れかけていたクレアとしての感情まで蘇りそうになる。
アーロン――改めオズワルドのほうも、アデルと対面したときの様子が変だった。
もしも、アデルと同じように彼にも前世の記憶があるとしたら、アデルがクレアであることに気づいたのではないだろうか。アデル自身は、今の自分はクレアとあまり似ていないと思っていたが、化粧をすることもなかった前世では、自分の顔を鏡で見る機会などほとんどなかった。もしかすると、他人の目から見れば似ているのかもしれない。
それに、おそらく姿形はあまり関係がないのだ。魔族だったアーロンには角があったし、肌の色も人間とは違っていた。アデルがオズワルドにアーロンの面影を見たのは、容姿が似ていたというよりも、もっと本質的な魂の波動のようなものを感じ取ったからである。
これまで前世の記憶を持つ人間に出会ったことはないが、転生者は意外と多いのだろうか? 口にしないだけで、実はみんな誰かの生まれ変わりなのか。
「ねぇ、ノーマ、つかぬことを聞くけど……生まれ変わりって信じる?」
「どうなさったんです、唐突にそんな話をなさるなんて」
ノーマが心配そうな顔でアデルの額に手を当てる。病み上がりのせいでおかしくなったと思われたようだ。
「お熱はありませんわね」
「……うん、つまり信じないってことね。よくわかった」
現実的なノーマはそう言うだろうと思っていた。というか、おそらく前世の記憶を持つ人間など、そうそういないに違いない。
(だったら、なんでよりによって私とアーロンなわけ?)
この世に神様などというものが存在するとして、これがその采配なのだとしたら、今すぐ神殿に殴り込みに行きたい。ふたり揃って転生したとしても、わざわざ巡り合わなくてもいいではないか。せっかく別々の国に生まれたというのに、意地悪な運命によって引き合わされた気がする。
(でも、私に前世の記憶があることを、向こうは気づいていないかも……)
動揺のあまり気を失いはしたが、彼の前でアーロンの名前を口にしたわけではない。今ならまだしらを切り通せる可能性もある。
(そうしよう! みんなには悪いけど、オズワルドとの結婚はなかったことにしてもらう)
いくらクロイス王国の平和のためでも、前世の宿敵との結婚など考えられない。
いつだって前世の夢を見た朝は、クレアに戻った気分になる。自分はアデル・クロイスだと自覚していても、まだ完全にクレアの意識を切り離せていないのかもしれない。これでオズワルドと結婚などしたら、隣で寝ている夫を殺しかねないし、その逆だってあり得る。
こうなると、まともに挨拶する前にアデルが倒れたのは、むしろ幸いだった。
わざわざ来訪してくれた賓客に対して、こんなに失礼なことはない。ガルディア帝国としては、クロイス王国の王女に失望したはずだし、そんな女を皇妃にと望むわけもなかった。
(そうよねー、これですべて丸く収まるわ。良かった――!)
勝手にそう結論づけて、アデルは肩の力を抜く。
魔王アーロン改め皇帝オズワルドとは、もう二度と会うことはないだろう。
(さようならアーロン、私の知らないところで幸せになって! 宿敵の幸せを願うなんて、私って心が広い)
単純なもので、気が楽になったらとたんに空腹を覚えた。寝室には所狭しと、花や果物入りの籠が置かれている。眠っている間に、誰かが見舞いに持ってきてくれたのだろう。
「ノーマ、お腹がすいたわ。そこの美味しそうな果物をいただいてもいい? 誰かがお見舞いにくださったの?」
「オズワルド陛下です」
「あらそう、ではありがたくいただき…………今、なんて言ったの?」
信じがたい名前を耳にした気がして、アデルはくるりとノーマを振り向く。ノーマは籠からリンゴをひとつ取ると、傍らの椅子に座って皮を剥き始めた。
「オズワルド陛下からのお見舞いの品です、と申し上げました」
「オズ……ワルド……?」
「実は、陛下はアデル様を心配されて、毎日お見舞いの品を届けてくださったのです。果物の他にも、お花やお菓子や、なんと宝石まで……このお部屋にあるお見舞いの品は、ほとんどが陛下からのものです」
「なっ……ななななな……っ」
(なんですって――っっ!?)
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