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(ああ……また、あの夢だ)
浅い眠りの中で、アデル・クロイスは夢を見ていた。
夢の中のアデルは頑強な鎧に身を包み、ずっしりと重い剣を携えている。うら若き女性でありながら戦士のごときいでたちで、濃い霧の向こうを見据えていた。
ごつごつとした岩山の中に、白亜の城が建っている。
いくつもの鋭い尖塔は、まるで天に向けられた剣だ。白い光を放つ石壁は美しく、アデルを誘うように輝いている。
それは、幼い頃から繰り返し見てきた夢だった。
夢と呼ぶにはあまりに鮮烈で、強烈で、忘れたくても忘れられない。
だから、この先の展開もよく知っている。
城の最奥で待っている黒い人影。
ぞくりとするほど冷たい黒い瞳と、闇のような黒い髪。
「おまえを待っていた」
愉悦を含んだ低い声が言う。
それは、アデルが長年追い求めてきた宿敵。
人々から恐れられていた――魔王アーロン――
***
「……う~ん……魔王、アーロン……」
「アデル様、いいかげんに起きてくださいませ」
「……この……あくぎゃくひどうなじんるいのてき……」
「アデル様!」
「私が……おまえを、叩き斬ってやるから……覚悟……むにゃむにゃ…………」
「アデル王女様!!」
「……ん?」
一喝され、乱暴に肩を揺さぶられたアデルはようやく薄目を開けた。
そこは見慣れた自分の部屋で、目の前では侍女のノーマが目をつり上げている。どうやらアデルは長椅子の上でうたた寝をしていたらしい。
「……あ、ノーマ……おはよう」
「『おはよう』ではありません! 今は昼です。居眠りなんてお行儀が悪い。ドレスがしわになってしまうじゃありませんか。髪も崩れているし、おまけに涎まで垂らして……子供ですか!」
ノーマは声を荒らげながら、アデルの口元をハンカチでごしごしとぬぐった。
アデルはされるがまま、ノーマが持ってきた手鏡を覗き込む。うら若き乙女としては人前に出られないしまりのない顔だが、これでもアデルは歴とした一国の王女である。
「あはは、酔っぱらったときのお父様にちょっと似てるわ。やっぱり親子なのね」
「笑い事ではありません! まったく、クロイス王国の姫ともあろう方が嘆かわしい。どうしてそんなふうに豪胆に育ってしまわれたのでしょう。私の育て方が間違っていたのでしょうか」
ノーマは両手を胸の前で組み、大仰に天を仰いだ。
「ノーマったら、大袈裟よ。自分の部屋で寝ているんだから、誰にも迷惑はかけていないじゃない。それに、あなたにはおねしょしたところまで見られているんだから、今更寝顔くらいなによ」
「開き直らないでください! アデル様はもうすぐ二十歳になられるのですよ? いつ縁談がきてもおかしくないご年齢なのです。アデル様のご結婚はクロイス王国の命運をも左右するのですから、もう少し王女としての自覚をお持ちください」
「ノーマ、そんなに怒るとしわが出来るわよ」
「誰のせいだと思っているんですか!」
厚意で忠告したつもりが、かえって怒らせてしまった。ノーマはもともと小言が多いけれど、最近は特に増えている気がする。
赤茶色の髪を上品に結い上げた四つ年上のノーマは、アデルが十歳の頃から身の回りの世話をしてくれていた。王女付き侍女という肩書きだが、下級とはいえ貴族の娘であり、アデルにとっては姉のような存在でもある。
「旦那様となられる方にあんなお姿を見せたら、すぐに離縁されてしまいますよ」
「離縁される前に、結婚相手が見つかるかどうかも怪しいじゃない。クロイスみたいな貧乏王国の姫を娶ったって、なんの得にもならないわ」
「アデル様がそんな弱気でどうしますか! いいですか? あなたの素材は悪くないのです。その上、この私が幼い頃からお仕えし、せっせとその美貌に磨きをかけてさしあげたのですから、外見だけならどこの大国の姫君にも引けは取りません。外見だけなら」
「二度言ったわね」
「クロイス王国のアデル王女といえば、類い希な美姫として近隣の国々にも知られているというのに、実物がこれほど残念だなんて……」
ノーマががっくりと肩を落として落ち込んでしまったので、アデルは少しだけ反省する。
(ノーマに苦労をかけて悪いとは思うけど、私の場合は王女といってもかなり特殊だし……)
クロイス王国は近隣諸国の中でもっとも国土が狭く、これといった産業もなく、戦力も乏しい弱小国家だ。しいて良いところを挙げるなら、温暖な気候のおかげで農作物が豊富に実ることくらいだろうか。
そんな王国なので、王族とはいえ暮らしは慎ましい。野菜など城内の菜園で自給自足だし、屋根や外壁にはところどころ穴が空いている。アデルがいざ結婚となっても、持参金や嫁入り道具など、どれだけ用意できるのか心許なかった。
だからこそ、裕福な他国と姻戚関係を結び、援助を受けるため、アデルは玉の輿に乗る必要がある。そのことは自分自身わかっているつもりだ。決して呑気に昼寝だけしているわけではない。
ただ、アデルには、人には言えない複雑な事情があった。
姉のように慕っているノーマにも、家族にも話したことがない、奇妙奇天烈な秘密が――
「えーと……ノーマ、ごめんなさい。そんなに落ち込ませるつもりはなかったの。私だって、こう見えても王女としての自覚はあるつもりよ。たとえば結婚に関しても、覚悟は決めているわ。クロイス王国の窮状を救えるなら、相手がうんと年上でも、太っていても、ハゲていても気にしない。だって、女性としての幸せより、日々の生活のほうが大事だもの。住む場所にも食べるものにも困らないっていうのは、本当に幸せなことなのよ!」
「アデル様、ご立派ですわ。王女らしい気高さというよりは、庶民的な逞しさを感じますけれど。ですが、アデル様のお相手が年寄りで太っていてハゲなど、私は認めたくありません。アデル様には、顔も頭も性格も良くてお金持ちの殿方を射止めて、幸せになっていただきたいのです」
「それは理想が高すぎない?」
自分以上に結婚に対して燃えているノーマに、アデルは苦笑した。
一国の王女として、結婚相手を自分で選べないことは、幼い頃から理解している。結婚にアデルの気持ちなど関係ない。クロイス王国に手をさしのべてくれる国があれば、きっとすぐにも嫁ぐことになる。
アデルはこれまで色恋には無縁だったし、面食いでもないので、相手の容姿にはこだわらないつもりだ。けれど、ささやかな希望はある。たとえ政略結婚だとしても、自分の両親のように仲むつまじい夫婦になり、幸せな家庭を築きたい。
(それも相手がいればの話だし、今はまったく実感が湧かないけど)
「ああ、それにしても……眠いわ」
欠伸をしそうになったアデルは、ノーマに睨まれてそれを噛み殺した。
「たった今まで寝ていたじゃありませんか」
「悪夢を見ていたから、寝た気がしないのよ」
「悪夢? そういえば……やけに乱暴な寝言が聞こえていた気がしますが、聞き間違いではなかったんですね。いったい、どんな夢をご覧になったんですか?」
どんな夢と問われ、アデルは夢の中の光景をぼんやり思い出す。
「女勇者になって魔王と戦う夢よ」
「あら、またその夢ですか。アデル様はよほど勇者クレアの伝説がお好きなんですね。そういえば、昔は自分の名前はアデルではなくクレアだと言い張っていたこともありました」
ノーマが口元に手の甲を添えてくすくすと笑う。
(笑い事じゃないんだけど……)
アデルはふて腐れたように頬を膨らませた。
勇者クレアの伝説とは、クロイス王国を含むセレーネ大陸全土で、古くから語り継がれている英雄譚である。
今から千年も昔、まだクロイス王国が建国される以前のこと。
女勇者クレアは悪の魔王アーロンを倒し、大陸全土に平和をもたらしたと伝えられている。そんな話を子供の頃から聞かされて育つため、クロイス王国でもクレアを崇拝する者は多い。
アデルもそのひとりだとノーマは思っているのだろう。けれど、アデルが繰り返し勇者の夢を見る理由は、そんなことではなかった。
「べつに憧れたりなんかしてないわ。実際、勇者なんて仕事は、きつくて危険で汚くて最悪なのよ。おとぎ話のように格好いいものではないわ」
「あら、まるで勇者を知っているような口ぶりですこと」
「よーく知ってるわ」
「アデル様ったら、勇者など今の世には存在しませんよ」
「今の世にはね……」
「え?」
「いいえ、なんでもないわ。冗談に決まってるでしょ」
にっこり笑って答えつつ、アデルは心の中で声を大にして叫ぶ。
(勇者を知ってるか、ですって? 知ってるわよ。私がその『伝説の勇者』なんだから!)
それは、アデルがアデルとして生まれるよりもはるか昔のこと。
いわゆる前世という非現実的な話なのだが。
アデル・クロイスの前世は、伝説の女勇者クレアだった――それが、アデルの抱える複雑怪奇な秘密である。
今から二十年ほど前、セレーネ大陸の南にある小国クロイス王国に、アデルは第一王女として生を享けた。輝く金の髪と空色の瞳を持つ美しい姫君は、両親や家臣、クロイス国民から愛され、すくすくと成長する。
けれど、当のアデルは『アデル王女様』と呼ばれるたびに、赤ん坊ながら戸惑った。なぜなら、生まれたそのときから、遠い昔に若くして亡くなった勇者クレアの記憶を持っていたのだから。
(え、『王女様』って誰が!? ……っていうか、ここはどこ!?)
別人に転生したのだと理解するまで、だいぶ時間がかかった。
言葉を話し始めた頃はまだ、前世と現世の自分が区別できなくて、自分をクレアだと言い張ったこともある。幸運にも、周囲の大人たちには子供の豊かな想像力と思われただけで、気味悪がられることはなかった。
しかし、勇者の素質はそのままアデルにも受け継がれていたため、現世においても運動能力はやたらと高い。王女のたしなみとして護身術を習い始めると、めきめきと上達してあっという間に師匠を倒してしまった。以来、できるだけ人前では能力を隠すようにしている。
成長するにつれて、アデルは現世の自分が置かれた状況を受け入れていった。
今の自分は女勇者クレアではなく、クロイス王国の王女アデル・クロイスなのだと。十九歳になった現在では、前世の記憶は薄れて、アデルとしての自我が勝っている。
こうなってみると、この時代に生まれ変わったことをアデルは心から感謝した。
前世からは千年も経っている平和な世界。今でも人間同士の戦が多少はあるが、魔族はすっかり滅びたらしく存在していない。
つまり、もう命がけで魔王討伐に赴いたりしなくていいのだ!
勇者は伝説の中で英雄のように持て囃されているが、実際はきつくて危険で汚い、ただの肉体労働である。それなのに女の身で勇者などやっていたのは、単に報酬が高額だったからだ。
クレアには身よりがなく、他に生きる術がなかったというだけで、べつに正義の名の下に悪の魔王を倒そうとか、世界に平和をもたらそうとか、そんな大層な志があったわけではない。
おまけに、クレアが引き連れていた部下の男たちはヘッポコばかりで、役に立たないどころか足を引っ張るわ、クレアを置いて逃げ出すわ――正直いないほうがマシだったので、最終的には全員クビにした。
魔王城に乗り込んだのは女勇者クレアただひとり。それもまた、孤高の英雄として語り継がれている理由なのだろう。
クレアは常人離れした運動能力を持っており、体術、剣術ともにずば抜けていた。男でも敵う者はなく、史上最強の勇者と謳われていたほどである。下級魔族など敵ではなかったが、相手がそのボスともなるとそう簡単にはいかない。
苦労してたどりついた魔王の城の最奥で、クレアは魔王アーロンと一対一で対峙した。
彼に会ったのは、それが最初で最後。けれど、たった一度だけ相まみえたアーロンの姿を、今もはっきりと覚えている。
長い黒髪をなびかせ、切れ長の黒い瞳は鋭く輝いていた。全体的に黒くてずるずるした衣装は重くて動きにくそうだし、陰気で顔色が青白くて、頭の山羊に似た角は重くないのかな、などと余計なことを考えてしまったものである。
「魔族を片っ端からなぎ倒しているという女勇者だな。名はなんという?」
広間の奥に設えた石の玉座に、魔王は座っていた。
「教える義理はないけど、倒す相手に名乗るのは礼儀かもね。クレアよ」
「クレア……美しい名だ。おまえにふさわしい」
魔王に世辞を言われるとは思わなかった。しかし、嘲るような笑みのせいか少しも嬉しくない。
「それはどうも。あなたが魔王アーロン? 噂通りの陰険そうな男ね。悪いけど、まったく私の好みじゃないわ」
「気が強い女だ。地べたに這いつくばらせて泣かせてやりたい衝動に駆られる」
「気持ち悪いこと言ってんじゃないわよ、変態魔王!」
人を舐めきった態度には、苛立ちと不快感がこみ上げた。
クレアは剣を抜き、魔王めがけて勢いよく斬りかかる。それまで余裕だった魔王も、素早く立ち上がりクレアの剣を己の剣で受けた。
キンッと甲高い金属音が広間に響いた。魔王城のだだっ広い空間には、クレアとアーロンしかいない。ここでどちらかが倒れるまで戦い続けるのだ。
アーロンが持つ剣は、白く輝く刀身の、魔力を放つ魔剣である。魔剣を操るアーロンは、それまでに戦ったどんな相手よりも強かった。まるで剣にも意思があるかのような動きで、何度も死を覚悟したほどである。
一進一退を繰り返し、幾度も剣を交えた後に、ふいにアーロンが尋ねた。
「おまえは何故、女の身で勇者などしている? 人間の正義を貫くために命を懸けるのか?」
魔王の声には疲労が混じっていた。クレアも息を弾ませて答える。
「いいえ、私が生きるためよ」
「生きるため?」
アーロンが意外そうに聞き返す。
「魔族は確かに人間にとって敵だけど、私にとってはそれ以上に、戦うことが仕事なの。魔族を倒してお金を稼がなきゃ、私がのたれ死ぬのよ。だから、あなたの命をちょうだいするわ」
「たいした自信だな。俺に殺されるとは思わないのか」
「そのときはしょうがないわね。あなただって簡単に死にたくはないでしょうから、お互い様よ」
アーロンの黒い目が見開かれ、やがて彼の顔に笑みが広がった。クツクツとくぐもった笑い声が喉の奥から漏れる。
「フッ……気に入ったぞ、クレア。もしもおまえが俺を倒すなら、それは……」
その直後、クレアの剣がアーロンの脇腹を貫いた。
あの後、アーロンはなんと言ったのだったか。思い出せない。
体力と気力が尽きるまで剣を交えた末、クレアは魔王アーロンを退けた。その場を逃げ去った彼の魔族特有の青い血が、点々と床に落ちていた光景ははっきりと覚えている。
ふたりの戦いの後、魔王アーロンの姿を見た者はいなかった。
クレアが負わせた傷がもとで死んだという噂が流れたが、真相はわからない。首領を失った魔族たちは散り散りになり、やがてセレーネ大陸は人間だけが住む土地となった。千年経った今では、魔族の痕跡はどこにもなく、その存在は伝説の中のみに残っている。
そして、伝説では語られない女勇者クレアのその後だが、彼女もまたそれからそう長くは生きられなかった。あれほど強かったクレアが、流行病であっけなく亡くなったのは二十五歳のとき。転生したアデルの意識は、そこから繋がっている。
自分がどうして転生したのかわからないが、アデルは二度目の人生をそれなりに謳歌していた。
貧乏王国の王女とはいえ、生まれたときから食べるものにも住む場所にも困らないなんて、十分に幸せだ。前世の記憶のおかげで、アデルは王女にしては堅実すぎるほどの価値観で生きている。
(平和って素晴らしい! 魔王のいない世界、最高! 今生の私は楽しく生きる!)
お金のための政略結婚だって、魔王討伐に比べたら苦ではない。どこかの妃として生きるのも、考えようによっては安定した生活を保証された仕事のようなものだ。
(まあそれだって、今すぐってこともないだろうし)
結婚などまだまだ先のこと。そう高をくくっていたアデルに厳しい現実が突きつけられたのは、それから間もなくのことである。
二十歳の誕生日まであと一週間というその日、アデルは父親であるクロイス国王ジェイルから、話があると告げられた。
国王の応接間で、ジェイルは神妙な面持ちで娘と向かい合う。尋常ではない空気を感じたアデルも、ソファの上でかしこまった。
「突然だが……おまえに結婚の申し込みが来ている」
「結婚……」
(ああ、ついに来てしまったか……)
ようやく舞い込んだ縁談にほっとするよりも、肩にずっしりと責任がのしかかる。お気楽だった独身生活に未練はあるが、クロイス王女として潔く受け入れなければなるまい。
「お父様、お相手はどこのどなた?」
「隣国ナギム公国を治めるナギム公爵だ」
ナギム公国はクロイス王国の西に隣接する。大きさはさほど変わらないが、商業が発展しており、財政はクロイス王国よりずっと豊からしい。そこを治める公爵については、あまりよく知らなかった。
ジェイルは俯き加減で、重い口を開くように話し始める。
「実は……クロイス王国はナギム公国に借金をしている。我が国はただでさえ貧しいところに、昨年は農作物が不作だったからな。ナギム公国に援助してもらったのはいいが、その金をまだ返せていない上に、当分は返せる見込みもない」
話しながら、ジェイルはだんだんと項垂れていく。
「ナギム公爵は、クロイスに美しい姫がいるというおまえの評判を聞いていたらしい。それで、おまえが妃になれば借金を帳消しにすると、そして今後も援助を続けると言ってくれている。もしかすると快く援助したのも、おまえを妃にするためだったのかもしれん。アデル……私が不甲斐ないばかりに、すまない!」
「お父様、お顔を上げて」
とうとうテーブルに頭がついてしまった父に、アデルは呼びかけた。
借金のカタに嫁ぐというのは少し抵抗があるが、政略結婚など所詮はそんなものだろう。縁談が思っていたよりも早かっただけで、クロイスの王女としていずれ他国に嫁ぐ覚悟はできていた。
「どうせいつかはどこかに嫁ぐことになるのだから、私は構わないわ。クロイスの役に立てるのなら嬉しいもの」
「おお、アデル……」
顔を上げた父の瞳は潤んでいる。国王としてアデルに命じることもできるのに、すまないと口にするやさしい父なのだ。
クロイス王家は国王と王妃、アデルと弟の王太子カロルの四人家族だが、あまり裕福ではないせいか、まるで庶民のように家庭的なところがある。前世で家族らしい家族を持たなかったアデルにとって、初めて得た大切な絆だった。
五十歳近いジェイル国王はまだ見た目も若々しいものの、クロイスという小国を治める苦労は並大抵ではないだろう。それが想像できるから、アデルも本心から父の力になりたいと思っている。
「ところで、ナギム公爵はどんな方なの?」
アデルの質問に、ジェイルが押し黙る。少し間を置いて、父は口を開いた。
「公爵は五十歳を過ぎていて、妃は既に五人いる」
「…………そ、それは……なんというか、予想していなかったわ」
その事実には、さすがのアデルも動揺を隠せない。貧乏王国の借金のカタとしては贅沢を言っていられないが、これは最悪と言っていいレベルの縁談ではなかろうか。
(結婚相手の理想は特になかったとはいえ、三十以上も年上のオッサンの、六番目の妃とか……今度の人生も絶望的だわ)
魔族と命がけの戦いを繰り広げていた前世と、そんなに違わない気がしてきた。
けれど、ここで断ればクロイス王国すべての人々が不幸になる。王女であるアデルに選択権はない。
(まったく気は進まないけど、しょうがない。六番目ならそう表に出ることもないだろうし、せいぜい楽させてもらうわ)
「わかったわ、お父様……」
「ダメだ! やはりこの縁談は断る!」
承諾しようとしたアデルの言葉を、ジェイルが大声で遮った。突然の父の変化に、アデルは目をぱちくりとさせる。
「でも、断ったらクロイス王国の借金が……」
「ナギム公爵の好色ぶりは有名だ。可愛いおまえをそんな男のもとへやるわけにはいかない! ……実はもうひとつ、策がないこともない。おまえがナギム公国より格上の国に嫁ぐことだ。そうなれば公爵もおまえを諦めるしかない上に、嫁ぎ先に援助を求めることができる」
「それはそうかもしれないけれど……」
セレーネ大陸には大小合わせて二十以上の国がある。その中で、クロイス王国は国力で常に最下位争いをしているが、ナギム公国は十本の指に入るほど裕福な国だ。そのナギム公国より格上の国が、崖っぷちのクロイス王国に手をさしのべてくれるだろうか。
「そんな国に当てはあるの?」
期待せず尋ねたアデルに、ジェイルが厳めしい顔をずいっと近づけてきた。その気迫に圧され、アデルは座ったまま後退する。
「ガルディア帝国だ」
「……はぁっ!?」
アデルは思わず調子の外れた声を発した。
(私がガルディア帝国に嫁ぐ? 借金のせいでお父様の頭がおかしくなった!)
アデルでさえそう疑ってしまうほど、それはあり得ない話なのである。
ガルディア帝国は、クロイス王国の北方に位置する超大国だ。領土の広さも財力もセレーネ大陸一で、とりわけ軍事力に優れている。隣接するクロイス王国とは友好関係にあるとはいえ、国力の差は歴然。ガルディアが大人ならクロイスは子供、それどころか人間と虫けらくらい違うと言っても過言ではない。
「お父様、大丈夫? それは夢物語どころか、危険な妄想よ。ちゃんと現実を見て!」
「私はいたってまともだ」
「まともなクロイス国王は、娘をガルディア帝国の妃にしようなんて考えないわよ。だいたい、どうやって売り込むの? つてがあるわけでもないし、使者を送ったところで相手にもされないわ」
アデルは父を諫めるが、ジェイルはまったく動じない。いつもはどこか気弱にも見える表情が、妙に自信に溢れていた。
「それが、一週間後に一世一代の好機が訪れるのだよ。ガルディア帝国の現皇帝……オズワルド・バルド・ガルディア陛下が、ガルディア領土を見回るついでにクロイス王国に立ち寄ってくださるというのだ」
「オズワルド陛下?」
アデルもその名前くらいは耳にしたことがある。昨年崩御した前ガルディア皇帝の子息で、即位してまだ一年くらいのはずだ。ガルディア帝国は昔から軍事に強く、その力で領土を拡大してきたという歴史がある。そんな国を統治する皇帝は、きっと強面で恐ろしいに違いない。
「陛下は近隣諸国との関係をより強固なものにしたいと考えておいでのようだ。先帝も名君と言われていたが、オズワルド陛下も先帝に劣らぬ……いや、それ以上に優れた皇帝だと、帝国内では絶大な人気を誇っているらしい。即位される以前は自ら軍の先頭に立って指揮を執られていたそうだ。まだ二十歳かそこらでトーラン王国を制圧し、その後の統治も見事だったと聞く。トーラン国王は民に圧政を敷いていたので、国民は陛下に感謝しているのだとか」
「それは、すごい方なのね」
ガルディア帝国には、武力で他国を制圧する残虐なイメージしかなかったが、そんなふうに受け入れられることもあるのかとアデルは感心する。父の話が事実なら、オズワルドは人としても尊敬できる人物なのだろう。
「陛下は今年二十五歳になられた。そろそろ結婚を考えてもいいお年頃ということで、側近たちが妃選びを始めているという話だ。おまえなら皇帝陛下とは年回りもちょうどいい」
「それだけで私が妃になるなんて、どう考えても無理があるでしょう。ガルディア帝国ほどの国なら、お妃なんてよりどりみどり。我が国では、大国に見合うだけの持参金も用意できない。クロイス王国とガルディア帝国の間にどれほどの差があるか、お父様はわかっているの?」
「国土の広さで言うなら、クロイスはガルディアの三分の一、いや四分の一くらいか?」
「十分の一くらいよ、お父様」
アデルがぴしゃりと言い放つと、父はいじけたような顔になった。
「国の価値は国土の広さだけでは……」
「広さだけではなく、軍事力も経済力も、すべてにおいて次元が違うの。クロイス王国がこれまで平和だったのは、わざわざ手を出す価値もないと思われていたからよ。ガルディア帝国が本気を出せば、クロイス王国なんてあっという間に制圧できるわ。私たちにできることといったら、せいぜい皇帝陛下に失礼がないように精一杯おもてなしすることだけよ」
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