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第3章 雪は溶けて、消える
第32話 雪溶け
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春すらとうに過ぎ、今はもう夏だった。
雪英は寒さで弱るが、暑さにも弱い。
最大限の気を遣うよう、凜凜は始水殿の者達に言い含めた。
それはうだるような暑さの夜だった。
その日、皇帝の訪れはなかった。
凜凜はなかなか寝付けず、外に出た。
天には星が瞬いていた。
降り立った庭には枯れた花があった。
玄冬殿から雪英が好きだと言った花を無理を言って移植したのだが、なかなかその花は始水殿では育ってくれなかった。
凜凜は心を痛めた。
――まるで、雪英様のよう。
無理に側に置いたばかりに、凜凜が枯らしてしまった花。
そう思うと胃がよじれるような感覚が凜凜を激しく襲った。
「うう……」
胃からせり上がったものが苦して、彼女は胸を抑えて思わずそこにしゃがみ込む。
「だいじょうぶ?」
そんな彼女に、懐かしい声が降り注いだ。
凜凜は痛みも忘れて顔を振り仰いだ。
そこには雪英がいた。
「あ……」
凜凜は一瞬で泣きそうになった。
雪英は今までで一番、痩せ細っていた。
もはやその美しさは見る影もなく、体中に死の匂いを纏わせていた。
――もうこの方は長くない。
凜凜にはそれがよくわかった。
その目はここではないどこかを見ていて、その微笑みは今ではないいつかに向けられていたけれど、そこにいるのは確かに雪英だった。
「ああ……あ……」
何も、言えなくなった。謝る言葉さえ口をついては来なかった。
ただひたすら会いたかった主人の面影がほのかに残る顔を凜凜は見つめていた。
「あら、泣いているの、しょうがない子ね」
雪英は、今、どこにいるのだろう?
彼女の中ではここはどこで、自分は誰なのだろう?
雪英は廊下から庭に下りてきた。
足は裸足だった。
「ひ、冷えます」
ようやく凜凜はそう言っていた。
「こう暑いもの、少しくらい平気よ……あら、花が枯れている」
雪英は凜凜の側にある花の残骸に気付いた。
「花が枯れたのが悲しかったの?」
「……は、はい」
凜凜はうなずく以外にできなかった。
「そう。でも花は枯れるものだわ。どのように美しく、可憐で、一生懸命な花でもそう。だから、泣いたりしないの」
そう言って雪英は自分の袖で凜凜の顔を拭った。
「もう、そんなに泣いてしょうがないわね……凜凜ったら」
「…………っ」
自分だと、わかってくれている。
いつの自分かまではわからない
それでも雪英が久方ぶりに凜凜の名前を呼んでくれた。
それだけで凜凜の涙はとめどなく溢れてきた。
「せつえいさま……」
話したいことがいっぱいある気がした。
思い出したいことがたくさんある気がした。
言わなくてはいけない言葉が、伝えなくてはいけない思いが、数え切れないほどあるはずだった。
それを凜凜は微塵も言えなかった。
「凜凜、あなた……」
雪英は少し視線を惑わせた。
「お母さんになるのね」
「え……?」
思いもがけない言葉に凜凜は呆然とした。
「だって太ったわ。元々細っこいからよく目立つわよ」
凜凜は皇帝に呼ばれるようになってから、いいものを食べさせてもらうようになったから、少しふくよかになった。
だから雪英が太ったと思ったのは、もっと昔からの記憶と照らし合わせてのことだろう。
言うほど腹は膨らんでいない。
しかし、凜凜は思い出す。自分に月のものが三ヶ月ほど来ていない事実を思い出す。
一気に目の前が真っ暗になった。
それは喜ぶべき事のはずなのに、凜凜の心は絶望に喘いだ。
――逃げられる可能性が、断たれた。
皇帝の子供の母になるのなら、それが男の子であろうと女の子であろうともはや逃げ場はない。ましてや子のいない皇帝の唯一の子である。
雪英がそんな凜凜の頭を優しく撫でた。
「妊婦が夏とはいえ夜に出歩いちゃいけないわ。体は大事になさいな。凜凜の子供、私にも抱かせてね。大事な大事な私の凜凜」
これは、きっと凜凜が皇帝に呼ばれる前の雪英なのだろう。
もしかしたら後宮に上がる前の雪英なのかもしれない。
本当にそんな未来があったのかもしれない。
どこかの権力など持ちもしない適当な下男と結ばれて、雪英が凜凜の子供を可愛がってくれる。
そんな未来が、後宮に来なければ、あったのかもしれない。
しかし、もうない。そのような未来はない。
皇帝の子供となれば、失権し病気に弱った雪英の手に抱かせるなど許されるはずもないし、そもそも子供が産まれる前にこの人は死ぬだろう。
それが、凜凜にはわかってしまった。
「……はい、雪英様」
それでも凜凜は子供のときのように素直にうなずいた。
雪英は大輪の花のように笑うと、凜凜の手を引いて廊下に戻った。
そこに凜凜と雪英の宮女がそれぞれ慌ててやって来て、まるで雪解けを遂げたようなふたりを呆然と眺めた。
凜凜は宮女に雪英を託すと彼女と別れた。
その胸に一つの決意を灯して。
雪英は寒さで弱るが、暑さにも弱い。
最大限の気を遣うよう、凜凜は始水殿の者達に言い含めた。
それはうだるような暑さの夜だった。
その日、皇帝の訪れはなかった。
凜凜はなかなか寝付けず、外に出た。
天には星が瞬いていた。
降り立った庭には枯れた花があった。
玄冬殿から雪英が好きだと言った花を無理を言って移植したのだが、なかなかその花は始水殿では育ってくれなかった。
凜凜は心を痛めた。
――まるで、雪英様のよう。
無理に側に置いたばかりに、凜凜が枯らしてしまった花。
そう思うと胃がよじれるような感覚が凜凜を激しく襲った。
「うう……」
胃からせり上がったものが苦して、彼女は胸を抑えて思わずそこにしゃがみ込む。
「だいじょうぶ?」
そんな彼女に、懐かしい声が降り注いだ。
凜凜は痛みも忘れて顔を振り仰いだ。
そこには雪英がいた。
「あ……」
凜凜は一瞬で泣きそうになった。
雪英は今までで一番、痩せ細っていた。
もはやその美しさは見る影もなく、体中に死の匂いを纏わせていた。
――もうこの方は長くない。
凜凜にはそれがよくわかった。
その目はここではないどこかを見ていて、その微笑みは今ではないいつかに向けられていたけれど、そこにいるのは確かに雪英だった。
「ああ……あ……」
何も、言えなくなった。謝る言葉さえ口をついては来なかった。
ただひたすら会いたかった主人の面影がほのかに残る顔を凜凜は見つめていた。
「あら、泣いているの、しょうがない子ね」
雪英は、今、どこにいるのだろう?
彼女の中ではここはどこで、自分は誰なのだろう?
雪英は廊下から庭に下りてきた。
足は裸足だった。
「ひ、冷えます」
ようやく凜凜はそう言っていた。
「こう暑いもの、少しくらい平気よ……あら、花が枯れている」
雪英は凜凜の側にある花の残骸に気付いた。
「花が枯れたのが悲しかったの?」
「……は、はい」
凜凜はうなずく以外にできなかった。
「そう。でも花は枯れるものだわ。どのように美しく、可憐で、一生懸命な花でもそう。だから、泣いたりしないの」
そう言って雪英は自分の袖で凜凜の顔を拭った。
「もう、そんなに泣いてしょうがないわね……凜凜ったら」
「…………っ」
自分だと、わかってくれている。
いつの自分かまではわからない
それでも雪英が久方ぶりに凜凜の名前を呼んでくれた。
それだけで凜凜の涙はとめどなく溢れてきた。
「せつえいさま……」
話したいことがいっぱいある気がした。
思い出したいことがたくさんある気がした。
言わなくてはいけない言葉が、伝えなくてはいけない思いが、数え切れないほどあるはずだった。
それを凜凜は微塵も言えなかった。
「凜凜、あなた……」
雪英は少し視線を惑わせた。
「お母さんになるのね」
「え……?」
思いもがけない言葉に凜凜は呆然とした。
「だって太ったわ。元々細っこいからよく目立つわよ」
凜凜は皇帝に呼ばれるようになってから、いいものを食べさせてもらうようになったから、少しふくよかになった。
だから雪英が太ったと思ったのは、もっと昔からの記憶と照らし合わせてのことだろう。
言うほど腹は膨らんでいない。
しかし、凜凜は思い出す。自分に月のものが三ヶ月ほど来ていない事実を思い出す。
一気に目の前が真っ暗になった。
それは喜ぶべき事のはずなのに、凜凜の心は絶望に喘いだ。
――逃げられる可能性が、断たれた。
皇帝の子供の母になるのなら、それが男の子であろうと女の子であろうともはや逃げ場はない。ましてや子のいない皇帝の唯一の子である。
雪英がそんな凜凜の頭を優しく撫でた。
「妊婦が夏とはいえ夜に出歩いちゃいけないわ。体は大事になさいな。凜凜の子供、私にも抱かせてね。大事な大事な私の凜凜」
これは、きっと凜凜が皇帝に呼ばれる前の雪英なのだろう。
もしかしたら後宮に上がる前の雪英なのかもしれない。
本当にそんな未来があったのかもしれない。
どこかの権力など持ちもしない適当な下男と結ばれて、雪英が凜凜の子供を可愛がってくれる。
そんな未来が、後宮に来なければ、あったのかもしれない。
しかし、もうない。そのような未来はない。
皇帝の子供となれば、失権し病気に弱った雪英の手に抱かせるなど許されるはずもないし、そもそも子供が産まれる前にこの人は死ぬだろう。
それが、凜凜にはわかってしまった。
「……はい、雪英様」
それでも凜凜は子供のときのように素直にうなずいた。
雪英は大輪の花のように笑うと、凜凜の手を引いて廊下に戻った。
そこに凜凜と雪英の宮女がそれぞれ慌ててやって来て、まるで雪解けを遂げたようなふたりを呆然と眺めた。
凜凜は宮女に雪英を託すと彼女と別れた。
その胸に一つの決意を灯して。
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