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第3章 雪は溶けて、消える
第31話 兆し
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それからしばらくて雪英は『賢妃』の位を剥奪された。
彼女が央賢妃でいた時間は一年となかった。
そして雪英が玄冬殿から追い出される日になっても、凜凜はとうとう雪英を後宮から出す決断ができなかった。
心底わかっていた。
もうこの後宮が雪英にとって安息の地になる可能性は微塵もない。
しかし凜凜が迷っているうちに、雪英の具合はより一層悪くなっていた。
皇帝に選ばれなかった失望、宮女に頭を飛び越えられた嫉妬、それに加えて父親の完全なる失脚。
そのすべてが雪英の精神に大きすぎる傷を負わせた。
玄冬殿から凜凜が与えられた始水殿へと短距離を移動することすら体に障るほど、雪英の心身はボロボロになっていた。
輿に乗せても、揺れる輿に吐き気を催し、青ざめた顔で輿から下り、部屋まで行くのに宦官が抱きかかえなければいけなかった。
そして宦官ひとりで容易に持ち上げられるほど、その体は痩せ細っていた。
こうなってしまってはもう後宮の外に出すという選択肢は断たれた。
後宮にいれば医局がある。医局があるから雪英を医者に見せられる。
央角星が失脚した今、後宮の医者より腕の立つ医者を、後宮の外で雇える可能性は低かった。
凜凜は雪英を始水殿に匿う他なかった。
そして古堂の体調もまた深刻であった。
元々、もう若くはないところに、雪英の立場への心労で彼女は一気に老け込んでしまった。
凜凜は古堂と語る機会があったが、古堂はかつての切れ者としての輝きを失い、どこかぼうっとして過ごす時間が多くなった。
凜凜が始水殿に移ってから、皇帝は凜凜を呼び出すのではなく、始水殿に赴くようになっていた。それも前以上に頻繁に会うようになった。
央賢妃が失脚したところで、皇帝の寵愛は凜凜から揺るがず、他の妃嬪の元に通うこともなかった。凜凜はそれを喜ぶべきなのだろうと思ったが、到底喜べはしなかった。
皇帝の姿が雪英に見えないように、始水殿の者達は最大限の気を遣った。
その結果、今の雪英はほとんど軟禁されているような状況だった。
いっそのこと皇帝が自分のことを忘れてくれればと、凜凜は何度も願わずにはいられなかった。
せめてそうすれば、雪英を始水殿という箱庭の中でなら自由にさせてやれるというのに。
「……雪英様と古堂様のお加減は」
医局から来てくれた医官を前に、凜凜はやつれきった顔で尋ねる。
度重なる心労で、凜凜の食も細っていた。
「……雪英様は相変わらず、起き上がることも難しい状態です。それどころか一日中ほとんど寝ておられます。たまに起きても……おっしゃることはあまり意味のなさないことばかりで……」
凜凜の胸が痛む。いつだろう。いつが適切であっただろう。もっと早くに雪英を後宮から出してやるべきだったのだろうか。
それとも自分がさっさと死んでしまっていればよかったのかもしれない。自害の二文字が頭をよぎったときに決行すべきだったのかもしれない。
しかしもう雪英を守れるのは自分しかいないのだ。その自分の立場すら、皇帝の気分一つで揺らぐような薄氷の上に立つように危ういものだったが。
「古堂様は、寝台に起き上がり、食事がとれるほどには回復されました。お年ですし、一時はどうなることかとも思いましたが……お強くいらっしゃる」
「……よかった」
古堂の復調はせめてもの救いだった。
彼女さえいれば、まだどうにかなるかもしれない。そんな淡い期待を凜凜は古堂に持っていた。
「…………私はやはり、雪英様には会わない方がいいのよね?」
「……はい。いいえ、もう……もう雪英様は……その……目の前にいるのが誰かも……おわかりには……」
医官は心底言いにくそうにそう言った。
「…………っ」
凜凜は泣き出しそうになった。
雪英の姿は未だに見れていないが、漏れ聞こえるだけでももう雪英の精神がほとんど壊れていることは凜凜にもわかっていた。
――私は、どうするのが正解だったのだろう。
雪英も父の失脚だけではこうはならなかっただろう。
央角星の失脚は、凜凜が雪英を弱らせていたところへの最後の一撃だった。
だから、雪英の病状は凜凜のせいなのだろう。凜凜が招いたことなのだろう。
「……ああ、そうだ。私、最近月のものが来ないの。何かいい薬はあるかしら」
凜凜は事のついでのように医官に言った。
「……私が体調を崩している場合ではないのにね」
凜凜はため息をついた。
医官は何か言いたげに凜凜を眺めたが、まだ言い出すときではないと、口をつぐんだ。
事の仔細までは知らない医官から見ても、今の凜凜にそれを告げるのはあまりにも酷であった。
まだ時間はあると医官はそれを先延ばしにした。
彼女が央賢妃でいた時間は一年となかった。
そして雪英が玄冬殿から追い出される日になっても、凜凜はとうとう雪英を後宮から出す決断ができなかった。
心底わかっていた。
もうこの後宮が雪英にとって安息の地になる可能性は微塵もない。
しかし凜凜が迷っているうちに、雪英の具合はより一層悪くなっていた。
皇帝に選ばれなかった失望、宮女に頭を飛び越えられた嫉妬、それに加えて父親の完全なる失脚。
そのすべてが雪英の精神に大きすぎる傷を負わせた。
玄冬殿から凜凜が与えられた始水殿へと短距離を移動することすら体に障るほど、雪英の心身はボロボロになっていた。
輿に乗せても、揺れる輿に吐き気を催し、青ざめた顔で輿から下り、部屋まで行くのに宦官が抱きかかえなければいけなかった。
そして宦官ひとりで容易に持ち上げられるほど、その体は痩せ細っていた。
こうなってしまってはもう後宮の外に出すという選択肢は断たれた。
後宮にいれば医局がある。医局があるから雪英を医者に見せられる。
央角星が失脚した今、後宮の医者より腕の立つ医者を、後宮の外で雇える可能性は低かった。
凜凜は雪英を始水殿に匿う他なかった。
そして古堂の体調もまた深刻であった。
元々、もう若くはないところに、雪英の立場への心労で彼女は一気に老け込んでしまった。
凜凜は古堂と語る機会があったが、古堂はかつての切れ者としての輝きを失い、どこかぼうっとして過ごす時間が多くなった。
凜凜が始水殿に移ってから、皇帝は凜凜を呼び出すのではなく、始水殿に赴くようになっていた。それも前以上に頻繁に会うようになった。
央賢妃が失脚したところで、皇帝の寵愛は凜凜から揺るがず、他の妃嬪の元に通うこともなかった。凜凜はそれを喜ぶべきなのだろうと思ったが、到底喜べはしなかった。
皇帝の姿が雪英に見えないように、始水殿の者達は最大限の気を遣った。
その結果、今の雪英はほとんど軟禁されているような状況だった。
いっそのこと皇帝が自分のことを忘れてくれればと、凜凜は何度も願わずにはいられなかった。
せめてそうすれば、雪英を始水殿という箱庭の中でなら自由にさせてやれるというのに。
「……雪英様と古堂様のお加減は」
医局から来てくれた医官を前に、凜凜はやつれきった顔で尋ねる。
度重なる心労で、凜凜の食も細っていた。
「……雪英様は相変わらず、起き上がることも難しい状態です。それどころか一日中ほとんど寝ておられます。たまに起きても……おっしゃることはあまり意味のなさないことばかりで……」
凜凜の胸が痛む。いつだろう。いつが適切であっただろう。もっと早くに雪英を後宮から出してやるべきだったのだろうか。
それとも自分がさっさと死んでしまっていればよかったのかもしれない。自害の二文字が頭をよぎったときに決行すべきだったのかもしれない。
しかしもう雪英を守れるのは自分しかいないのだ。その自分の立場すら、皇帝の気分一つで揺らぐような薄氷の上に立つように危ういものだったが。
「古堂様は、寝台に起き上がり、食事がとれるほどには回復されました。お年ですし、一時はどうなることかとも思いましたが……お強くいらっしゃる」
「……よかった」
古堂の復調はせめてもの救いだった。
彼女さえいれば、まだどうにかなるかもしれない。そんな淡い期待を凜凜は古堂に持っていた。
「…………私はやはり、雪英様には会わない方がいいのよね?」
「……はい。いいえ、もう……もう雪英様は……その……目の前にいるのが誰かも……おわかりには……」
医官は心底言いにくそうにそう言った。
「…………っ」
凜凜は泣き出しそうになった。
雪英の姿は未だに見れていないが、漏れ聞こえるだけでももう雪英の精神がほとんど壊れていることは凜凜にもわかっていた。
――私は、どうするのが正解だったのだろう。
雪英も父の失脚だけではこうはならなかっただろう。
央角星の失脚は、凜凜が雪英を弱らせていたところへの最後の一撃だった。
だから、雪英の病状は凜凜のせいなのだろう。凜凜が招いたことなのだろう。
「……ああ、そうだ。私、最近月のものが来ないの。何かいい薬はあるかしら」
凜凜は事のついでのように医官に言った。
「……私が体調を崩している場合ではないのにね」
凜凜はため息をついた。
医官は何か言いたげに凜凜を眺めたが、まだ言い出すときではないと、口をつぐんだ。
事の仔細までは知らない医官から見ても、今の凜凜にそれを告げるのはあまりにも酷であった。
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